妾 腹(めかけばら)

 ほんの少し扉が開いたその部屋は、南向きで明るい光が扉の隙間から溢れんばかりに廊下に降り注いでいた。

 少しの好奇心がその扉の中へと私を招き入れる。


 ベッドは整えられており、木製のポールハンガーには制服と帽子が掛けられ、足元にはバットとグローブが無造作に置かれていた。

 机の上には参考書とノートが置かれ、たった今までその部屋の主がそこに座っていたかのようだった。

 壁面の棚には蘭子より年上の少年がまばゆい笑顔で写った大きな写真が飾られ、その両サイドに色鮮やかな花がこんもりと飾られている。

 ベランダ側に置かれたテーブルにはチェス盤が置かれ、駒が並べられていた。


 初めて見る美しい形の駒に手を伸ばしたその時、私の手首は乱暴に掴み上げられ、頬に鋭い衝撃が走った。

 気付けば、私は床に倒れ込んでいた。

 仁王立ちになって私を見下ろしていたのは、私の母になることを拒んだこの屋敷の女主人である。


「勝手に入って…こそ泥みたいに…汚い手で…」

 彼女の目は血走り、唇はぶるぶると怒りに震えている。

「出てけ! ここから出てけ! 二度と私の前に現れるな!」

 いつの間にか傍らに控えていたたまきが乱暴に私を立たせると、引きずるように部屋から連れ出した。


「泥棒猫が! 妾のくせに! 汚い女! 汚い娘が! 消えろ! 消えてしまえ!」

 彼女の叫び声がだんだんと小さくなり、私の部屋に着いた頃には何も聞こえなくなっていた。

 多分、私も大きな声で泣いていたのだろう、環は強引に私をベッドに押し込むと頭から布団を掛けた。

 ヒリヒリと痛む頬を抑え、ひっくひっくと喉が勝手にしゃくり上げるのを止めることもできず、私の心は再び何も考えられない空虚に満たされ、そのまま深い眠りについた。



 サチに起こされた時、私はすでにパジャマを着せられ腫れあがった頬には大きなシップが貼られていた。

「お口が痛いかも知れないけど、食べられるものを食べましょう」

 サチはベッドテーブルに、夕食以外にプリンやアイスクリーム、チョコレートケーキ等のお菓子を並べた。

「暖炉のお部屋、行かないの?」

 サチは小さく息を吐いて眉間に皺を寄せた。

「今は行かないほうがいいわ。さ、食べましょう」

「自分で食べる」

 私が手を差し出すと、サチはにっこり笑って手にしたスプーンを私に持たせた。


 真っ先にアイスクリームに手を伸ばすと、サチがおどけたように私を見る。

「溶けちゃうもん…」

「何も言ってませんよ。蘭子様が食べたいもの食べていいの」

 スプーンで一口すくい取り、サチの視線に目を合わせてジッと見つめながら口に運ぶ。

「美味しい?」

 瞬きもせずサチを凝視したまま大きくうなずく。

「じゃあ、好きなものを自由にゆっくり食べてね。私が居たんじゃ気になって仕方ないようだから出て行きますね」

 サチは微笑みを残して出て行った。


 アイスを半分ほど食べ、プリンも一口、ケーキも一口かじったところで、ふとサチの言葉がよぎる。

「今は行かないほうがいいわ」

 私はベッドから降りると、暖炉のある部屋へと向かった。

 広い廊下は相変わらず静寂に包まれ、パジャマを着ているからか肌寒く感じた。

 向かう部屋のほうから話し声が聞こえる。見ると薄く扉が開いていた。

 私は耳を澄ませて隙間から中を覗いたが暖炉が少し見えるだけだった。


「あんな小さな子供のしたことを…」

 父の怒りに満ちた重い声が聞こえた。

「だって勝手に隆太郎りゅうたろうの部屋に入って隆太郎の物を勝手に触ってたのよ。許せないわ」

「そんなことで叩くなんて…どうかしている」

「どうかしているのは晋太郎しんたろうさん、あなたのほうよ! 隆太郎が死んだからって妾の子供をこの家に入れるなんて。私は承諾した覚えはないわ!」

 父の声とは対照的に女主人の声は甲高く悲鳴に近い耳障りな声だった。

「君の甥っ子なら納得するのか」

庸一郎よういちろうは赤ちゃんの時から隆太郎と仲が良かった。私もあの子なら愛情を持って育てられるのに…」

「隆太郎の代わりにされたら庸一郎君だって気の毒だ」


「虫が良い男! 散々、私を裏切った上にその汚い子供を育てさせようなんて…そんなこと納得できる女なんていないわ! あんながいるなら、あなたが隆太郎を愛せないのも当然よね!」

「何を言ってるんだ! いつ僕が隆太郎を愛さなかったと言うんだ!」

「隆太郎が死んで、私は何も喉を通らず眠れないほど辛かったのにあなたは! 息子が死んでも平気で仕事をしてた!」

「いい加減にしないか!」

「ここは隆太郎と私の家よ! あんな妾の娘に汚されてたまるもんですかぁ!」

 女主人の叫ぶような悲痛な泣き声が響き渡る。


 当時の私は二人のやり取りの全てを理解しているわけではなかった。ただ、私が女主人にとって酷く不快な存在であることはわかった。

 ふと、背後に気配を感じて振り返るとサチが立っていた。

 口が開きかけた私に人差し指を唇にあてニッコリ笑う。私の背中にガウンを掛けるとひょいと私を抱き上げ部屋へと戻って行った。

 部屋の扉を閉め、サチは大きく息を吐くと私の顔を見て呆れたような笑顔を見せる。


「ご飯も食べないで、こっそり抜け出すなんてオテンバさんね」

「食べた…」

「お菓子ばっかりね。噛まなくていいようにトロトロに煮込んだビーフシチューは食べてないでしょ。蘭子様のために作ったんだから料理人もがっかりするわ」

 サチが私をベッドに座らせ、ビーフシチューの皿を指さした。


 私はスプーンでシチューをすくうとご飯にかけた。

 傍らでサチがクスクスと愉快に笑う。

「旦那様もそうやって食べるの。亡くなった坊ちゃまも。奥様が犬飯だと言って嫌うからお二人とも奥様の前ではやらないけどね」

「ぼっちゃ…」

 サチの顔から笑顔が薄らぐ。

「亡くなった隆太郎坊ちゃま…お母様は違うけれど、蘭子様のお兄様よ」

「おにいたま…」

 それは初めて聞く響きだった。

「るーたろ…おにいたま」

 口に出してみると不思議と胸がほこほこと温まり、私の唇も自然にほころんだ。


「きっとお会いできていたら仲良くなれたと思うわ」

 サチが寂し気な笑みを浮かべるが、すぐに真顔になり宙を見やる。

「奥様はご自分の姉の息子の庸一郎さんを養子にしたいと考えていたの。坊ちゃまとは同じ歳だしお二人は仲良かったから…だけど旦那様には赤の他人ですものね」

 独り言のように語っていたサチが、チラッと私を見た。

「わかんないわよね。蘭子様、まだわからなくていいから、さあご飯食べちゃいましょ」

 サチの顔に再び優しい笑みが浮かんだ。

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