第5話 ウミガメの話
身体が冷たい、息が白い。ここ数日何も食べていないこともあり自分が衰弱しきっていることが理解できる。
どれだけ待ち続けただろうか。依然として救助はなく、自分はここで終わるのだろうなとぼんやり考えていた。
――駄目だ、視界も霞んできた。考えるのも疲れてきた……。
しかし鼻腔を刺激する香りに頭が覚醒する。気が付けば目の前に男が一人、皿を持ってやってきていた。
「おいあんた、食料が手に入った。食いな」
一杯のスープが差し出される。どうして、どうやって。疑問はあったが考えることはしなかった。温かな一杯のスープ、それを貪ることしか考えが及ばなかった。
「……すごく美味しいです。ところで肉が入ってますが、この肉は何の肉なんですか?」
男は何かを迷うような顔をして答える。
「…………それはな、――――ウミガメの肉だよ」
付き合っていた恋人と別れた。曰く「あなたの思想が理解できない」だそうだ。
今までの子たちも全員似たようなことを言っていた、「気持ち悪い」だの「怖い」だの。
誰一人として僕のことを理解してくれる人なんていなかった。あの時の感動をもう一度与えてくれる人なんていやしなかった。
一人になった家のキッチンで鍋をかき混ぜる、今日も肉入りのスープだ。何の肉だったかは覚えていない、ラクダだかカンガルーだったか。
肉の油が溶けたスープを一口食べる。
「……これも全然違うな」
ああ、理想の味はまだ遠い。
春先とはいえ朝はまだ少し肌寒い。朝食に昨日の残りのスープを飲んで温まったとはいえ、出社は少し憂鬱であった。
しかも天気があまり良くない、天気予報でも言っていたがこの感じだと昼過ぎには降って来るであろう。おまけに風も少し強めに吹いている。
「……何となくあの日の事を思い出すな」
正直あの時の思い出というのは複雑な気持ちだった。死の淵へと立たされた忌まわしい日でもあり、生きる上での目標を得ることができた日でもあったのだから。
あの日も朝はこんな天気だった、それこそ今から船旅に行けば同じ目に遭えるだろうか。死ぬのは嫌だが、もう一度あの味に出会えるのであれば僕は――
「いや、何を言ってるんだ僕は……」
社内ビルに入りながら独り言つ。あまりにも発想が突飛すぎた。僕はあの味にもう一度出会いたいだけで死にたいわけではない。
気持ちを切り替えながら、エレベーターのボタンを押した。
「……まさかクビとは、僕の何がおかしいというのだ」
不満を垂れ流しながら帰り路を歩く。予報通りに雨も降りだし気分は最悪だ。
昨日別れた彼女が社内の人間で、尚且つ社長の親戚の娘であったらしい。それにより社内は僕に対する悪評で持ち切り。「そんな恐ろしい人間はわが社には置けない」と言われ、晴れて無職の身となった。
「……旅行、行けるようになっちゃったなあ」
職を失ったことで、予想以上のショックを受けていた。そこまで思い入れがある職場でもなかったが思った以上に尾を引いている。
今からチケットが取れるか、そもそもこんな日に船が出ているのかもわからないが本当に今から船旅に――
そう考えていた矢先背後から声を掛けられる。
「海道さん、ちょっと待ってください!」
振り向けばそこにはスーツ姿の女性がいた。面識はある、確か同じ課の二つほど下の子で名前は――
「どうかしたの綾崎さん、何か用かい」
「わ、私さっき海道さんの話聞いてそれで――」
この子も僕のことを否定するんだろうか、気持ち悪いだの怖いだのと。その為だけにこの雨の中ずぶ濡れになって走ってきたのであればご苦労なことだ。
しかし帰ってきた答えは思いもよらぬものであった
「わ、私の手料理を食べてもらえませんか!?」
「は……?」
「♪~~♪」
「………………」
綾崎さんの鼻歌とスープを煮込む音が静かな部屋に響く。未だに何が起こっているのかがわからなかった。
先ほどまでこの部屋で行われていたことも含めてまだ夢の中ではないのかと疑っている。
けれどもあの雨の中で、彼女が僕に対して言ったことは紛れもない事実であろう。僕たちは紛れもなく「最高のパートナーになれる」
「はーい海道さん、出来ましたよ?」
気が付けば綾崎さんは器によそった一杯のスープを俺の前へと運んでくる。器用にも片手で器とスプーンを持っていた。
「……ありがとう、いただくよ」
スープをそっと受け取る。それにしても腕を切り落としたのはついさっきの事なのに既に慣れ切った動きだ。
それにしても本当に幸せだ。自分のことを理解してくれる人に出会えただけでなく、念願の味へと辿り着かせてくれたのだから。
「それじゃあ、いただきます」
「ええ。私の手料理、しっかり味わってくださいね?」
その肉は紛れもなくあの日食べたウミガメの肉であった。
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