6月17日(水曜日)部長
時計の針が午前十一時を過ぎた頃、俺は会社の倉庫で機材のチェックをしていた。
するといつものように音水が、俺のところへトコトコと小走りでやってくる。
別に急がなくてもいいのに、少しでも早く行動しようとするのは音水の真面目な性格ゆえだろう。
その姿は子猫が甘えたくて近づいて来る姿を連想させる。
「七夕キャンペーンのプレゼン資料ですが、主任からオーケーがでました」
「そうか。今回の企画は音水のアイデアも取り入れているから、プレゼンが楽しみだな」
「はい! あっ。私も機材チェックを手伝います」
「助かる」
土曜日にアウトレットモールに行って以来、音水はすこぶる調子がいい。
今まで以上に仕事に集中している様子が手に取るようにわかる。
今俺達は、もうすぐ行われるプレゼンに向けて準備を進めていた。
内容はスマホの七夕キャンペーンなのだが、東京以外の主要都市でも開催するため、受注できれば得られる利益は大きい。
そうなれば音水の評価も上がり、無事に教育期間を終えることができるだろう。
しかしそれは、音水が別のチームに配属されることを意味していた。
この会社ではなれ合いを防ぐため、教育係と新人は別チームに配属するという風習がある。
やっと彼女のことが分かり始めてきたので寂しい気持ちはあるが、仕方がない。
ジッと見つめてしまったせいか、音水はキョトンとした顔で訊ねてきた。
「どうしたんですか?」
「ん? ……いや。ぼーっとしていただけだ」
「笹宮さんでも、そんな時があるんですね。ふふふ」
ほがらかに笑う音水から逃げるように、俺は視線を逸らして、機材チェックを再開する。
本心がバレないように適当に答えたが、うまく誤魔化せただろうか。
音水も鋭いところがあるので油断ができないんだよな。
もっとも音水は誰かさんと違って、俺の弱みを握ってもからかったりはしないだろうが……。
「音水君! これはなんだね!」
突然、倉庫のドアを開いて大きな声を上げたのは年配の男性社員だった。
でっぷりとした腹を揺らしながら歩く、カエル顔の人物。
俺達が所属している部署の部長だ。
もっとも仕事はほとんどせず、部長という肩書はお飾り。
社長の息子という立場を利用して、我が物顔でやりたい放題の問題児だった。
こうして朝に出勤することすら、とてつもなくめずらしい。
「キャンペーンスタッフに配布するマニュアルがわかりにくい! こんなものを配ったら現場が混乱するだろ!」
部長は怒鳴りつけると同時に、持っていた資料を床に叩きつけた。
ビクリと呼吸を止めた音水は小さく震える。
「す、すみません……」
「謝れば済むと思っているのか!」
部長が持ってきたのは、主任の承認を受けたはずの資料だった。
だがキャンペーンスタッフへのマニュアル部分はテンプレ化されており、毎回おなじ文面。今さら怒る理由がない。
この部長は単純に音水を怒鳴りつけたいだけなのだ。
そして音水は怒られると委縮してしまい、それが原因でミスが多くなる。
部長の存在がなにかにつけて音水の成長を阻害していた。
だが、今の音水の教育係は俺だ。
可愛い後輩が嫌がらせされるのは我慢ならない。
たとえそれが部長であってもだ。
俺は無愛想な雰囲気を限界まで引き上げて口を挟む。
「部長。よろしいでしょうか?」
「なんだ、笹宮君! 今は音水君と話しているんだ!」
「この資料を仕上げたのは俺です」
「は?」
部長はカエル顔がさらにマヌケになるように、口を大きく開けた。
「だ……だが、作成者は音水君となっているだろ!」
「音水が作ったのは今回の企画原案の一部で、マニュアル部分などを仕上げたのは俺なんですよ。いきなり新人に資料作成を丸投げするわけがないじゃないですか」
「だったら……、だったら! 音水君が考えた部分に問題があるんだ!」
おいおい、わかりにくいからって怒ってたんだろ。
何が何でも音水を失敗させようとする部長に苛立ちを覚え、キッパリと言い放った。
「問題点は全て修正しています。それでおかしいというなら責任は俺にあります。もう一度見直して、夕方までに再提出するのでそれで勘弁してください」
わざと大げさに頭を下げてみせる。遠回しの皮肉だ。
部長はグッと喉を鳴らした。
この人が怒りたいのは音水であって俺ではない。
むしろ問題のない資料をやり直しさせて部下の時間を無駄にすれば、部長の責任が問われる。
さすがにそのくらいのことはわかっているだろう。
「もういい! 後は笹宮君に任せる!」
吐き捨てるようにそう言い残した部長は舌打ちをして、倉庫を出て行った。
朝の一番からお元気なことで。
音水は周りに人がいなくなったことを確認し、おずおずと俺に近づく。
「笹宮さん……。よかったんですか?」
「なにがだ?」
「だって。あんなことを言ったら笹宮さんが部長に嫌われるんじゃ……」
「ああ、大丈夫だ。あの人、俺のことを避けてるし」
床に落ちている資料を拾った俺は、音水に向き直った。
「それに音水。お前はいい仕事をしてる。こんなことで自信を失うなよ」
「……笹宮さん。……私、怖かったんです。でも笹宮さんがいてくれて、本当に……よかった……。ぅぅ……」
よほど怖かったのか、音水は涙ぐんだまま俺の腕に掴まってきた。
まあ、部長の怒鳴り方は男でもビビるからな。
倉庫には他に社員もいないし、少しだけこうしておいてやろう。
しかし、子猫みたいにしがみついている音水を見ていると頭を撫でたくなる。
今なら撫でても怒られないのでは……って、ダメに決まってんだろ。
■――あとがき――■
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次回、結衣花がやきもち!?
よろしくお願いします。(*'ワ'*)
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