第23話 「Blue Moon」

 北森明日夢から、また呼びだされた、また呼びだされた、また呼びだされた。

 一体何回目だ。これまでもマージャンの代走だの、ぎっくり腰のヘルプだの、ろくでもないことで呼びだされてばかりだ。

 お願い、段ボール箱持ってきて――という変わった注文があって、それも明日夢の部屋にとかじゃなくって、バイパス沿いのファミレスの少し先……なんて云う。何だそりゃ。

 今回もまた切実そうに声が震えていたが、半々の確率で演技だと、ボクはふんだ。ふんだが、渋々呼びだされてやることにする。何というお人よしだ、自分。

 手ごろな段ボールがあったので、自転車のかごに突っ込んで依頼された場所に向かう。

 学祭が終わると、もう一気に年末だった。バイトのない夜で、もう真夜中に近い。凍えてしまうほどの寒さだった。深夜のバイパスは、普段よりもスピードを出して走る車のせいで、風がひどい。首筋をすくめ、ボクはペダルをこいだ。

 聞いた場所に、彼女はいた。

 車道と歩道の境界のツツジの低い灌木のかたわらに、明日夢はしゃがみこんでいた。そばには彼女の自転車が横倒しになっている……何やってんだ?

 バイパス沿いで街灯やファミレスの灯りがあるとはいえ、そこは薄暗がりだ。走り去る車のライトが、瞬間的に彼女を浮かび上がらせる。

「あ……さんきゅ」

 ボクの顔を見て、明日夢がほっとした表情を浮かべた。片手はスマホを耳にあてて、もう片方の手は灌木の中に突っ込んでいる。ますます何をやっているのかわからない。

「助かったぁ……秀虎君、段ボール持ってきてくれた?」

 台詞が震えているのは、本当に寒さのせいだろう。歯の根があっていない。長身の明日夢が、なぜか今夜は妙に頼りなげに見える。

「何やってる?」

「あぁ……この子……」

 困ったような明日夢の視線の先は、灌木の中に突っ込んだ片手にあった。マフラーで何かを押さえつけている。そのマフラーが、もごもごと動いた。そして鋭く威嚇する声。

 ようやくわかった。真っ黒な子猫を、明日夢がマフラーで押さえこんでいた。

「段ボールちょうだい、部屋に連れて帰る」

 どういう事態か訊ねようとしたが、寒さで明日夢ががたがた震えている。

 とりあえず箱に猫を入れようと思ったが、これがとんでもなくむずかしい作業だった。両掌にもあまるぐらいの小ささのくせ、とにかく興奮していて、抱えあげようとしても牙をむいて威嚇の声をあげながら、ものすごい力で抵抗してひっかき、かみつく。明日夢がマフラーで押さえこんでいたのも無理はない。

 ようやく箱に押しこめ、逃げることができないようにふたをした時には、ボクと明日夢の手や指は、血まみれになっていた。


 バイト帰りの明日夢の眼の前で、バイパスを横切ろうとした黒猫を車がひっかけられたらしい。

「いつもなら、手なんか出さないんだけど、眼の前でおきると思わず……」とは明日夢の云い分だ。

 あわてて自転車から降りてのぞきこむと、全速力で走っていた勢いのまま、かろうじて灌木の中に飛びこむことはできたようだが、それ以上は動けないようだ。恐怖でだろう、完全に興奮して手におえない状態になっており、隙をみてようやくマフラーで押さえこんだとのことだ。その時点で、明日夢の手の甲には何条ものひっかき傷ができていた。

 そしてボクに連絡をして待つこと三十分。暴れる猫に手をゆるめることもできず、真横を車が轟音をたてて走る中、寒さで氷柱になる一歩手前だったらしい。

 とにかく寒い寒いと騒ぎたてるので、明日夢の部屋に向かい、暖かい部屋でこたつに潜りこむと、もう出ようとしない明日夢から聞いたのがこの顛末だ。

 自転車のかごの中で、猫はずっと怒りの声をあげていた。ものすごい怨念を感じさせる。

 さて、次はどうするかだ。

 段ボールの隙間を広げてそっと中をのぞくと、怒り狂った猫の金色の眼とあってしまった。段ボールをひっかきながら、大暴れする。

 その時気がついた。

 後肢がまったく動いていない。前肢だけで爪をたてて箱の中をぐるぐるとはいずりまわっている。

「北森、こいつ、後肢折れてるんじゃないのか?」

 こたつから這いでて、明日夢ものぞきこむ。

「……本当だ」

 明日夢が呆然とつぶやく。ボクらは思わず顔を見合わせた。

「明日、犬猫病院、連れていこうか……なおるよね、肢」

「……多分」

 自信はなかったが、ボクは答えた。でも人間だって骨が折れても、またつながる。猫がつながらない道理はない。大丈夫だろう。

「ところで、北森……お金は?」

「……少し貸してください、秀虎君」

 こんな時だけ調子のいい。

「で、どうする? 治ったらどうするのか、飼うのかって意味で」

「あたしんちアパートだから飼えっこないよ。ひかれたあたりで放そうかな、子猫だから親もいるかも……あ、何か食べるもの」

 明日夢が思いついたので、ふたりでコンビニで猫缶を買いにいくことにする。味の違う何種類かの猫缶を買い物かごに入れると、これ食べられなかったらチュール買っといた方がいいかも、念のためトイレの砂も買っておかなくっちゃ、なんて云ってるうちに、真夜中なのに結構な大荷物になっていた。

 猫缶を開けて小皿に入れても、チュールを差し出しても、その猫は食べようとしない。牙をむきだして、激しく威嚇する。車にひかれかけたことが、よほど恐ろしかったのか。

 浅い段ボールに砂を入れてトイレにしてやったが、抱えてやることもできない。

「落ち着くまで、そっとしとくしかないかなぁ」

 困ったように明日夢がつぶやいた。


 翌日、講義が終わり、時間がとれた夕方、ボクと明日夢は子猫を病院につれていくことにした。ボクはサチさんに連絡して、バイト、遅番にしてもらう。

 子猫は段ボールの中で黒い宿便を排泄していて、明日夢の話だとほんの少しチュールをなめたとのことだった。この調子なら何とか助かるだろうと、ボクはちょっと安心した。

 大学の裏手に診療所がある。建物は築百年はするだろうと思われる洋風建築で、しゃれた庇の下の玄関は磨りガラスだ。「細川家畜診療所」と、分厚い木の看板が立派な門柱にかかっている。

 今どき家畜診療所だ。うちの大学は、昔の財閥なんかの別荘地に建てられている。戦前は別荘で使っている馬車や乗合馬車の馬を診るための診療所が、代替わりしてまだ残っている。もちろん今は犬や猫も小鳥も診るらしい。

 何でこんな動物病院を、明日夢が探してきたのかはわからない。

 診療所の中はボクが想像していた犬猫病院というより、映画なんかに出てきそうな本当に田舎の診療所って感じだ。床は古い校舎のような板張りで、黒光りしている。周囲の棚もよく使いこまれており、犬や猫に寄生する虫の解説図や、予防注射をうながす端が茶色く変色しているチラシなどが貼っている。天井は高く、今日は動いていないが年季の入ったシーリングファンが下がっている。

 診療所の主は四十歳ぐらいの大柄の先生だった。やはり犬猫というより、牛や馬の診療をしている方が似合っていそうで、年齢のわりにこの診療所にぴったりあう印象だった。

 段ボール箱に入れて連れてきた子猫の様子を診ていた細川先生は、何度もうなずく。

「猫は犬なんかより厄介なんだよ。大変だっただろう?」

 ボクと明日夢の手の傷を見て、先生は笑った。

「レントゲン撮ってみようか」

 細川先生は体重計にもなっている診療台で重さを量り、麻酔薬を準備すると大きなタオルケットで段ボール箱ごと子猫の上半身を押さえつけて、腰に針を刺す。ほんの一分ほどで、抵抗していた子猫の身体から力が抜けていく。さすがの手際のよさだ。その身体をネットに入れると、隣のレントゲン室に入っていった。

 やがて出てきて診療机に座った先生は、レントゲン写真を見ると、また何度かうなずく。

「これはどうやら、脊椎やられてるみたいだね」

 ボクと明日夢は丸いすに座り、先生の説明を聞く。

「脊椎?」

「逆に肢なんてまるで無傷だよ。当たり所だろうね、時々あるんだよこんな怪我」

「……動けるようになるんですか?」

 明日夢の質問に、先生はじぃっと凝視していたが、やがて首をふった。

「無理だろうね」

「無理ってつまり……」

「このまま死ぬことはない。でも一生、半身不随だよ。残酷なようだけど、これは治らない」

 ボクたちは思わず顔を見合わせた。明日夢の顔から血の気が引いていた。

「君たち、どうしようって思ってた?」

「とりあえず怪我をなおして……それしか考えていませんでした」

「うん」先生はうなずきながら、太く息を吐いた。「だけど、この子は治らない。動くことはできない。自分でトイレに行くこともできない。誰かがずっとそばにいて面倒みてげなくちゃならない。意味はわかるね?」

 さすがにボクらも、先生が云おうとしていることは察せられる。

「君たち学生さんだよね、アパート? 実家?」

「ふたりともアパートです」

「……なら、君たちは飼えないよね」

 そう云うと、細川先生は脚を組みかえた。

「ちょっとシビアな話をするよ、いい? 君たちが飼えないのなら、飼うことができる人、探さなきゃいけないよ。君たち、自分が飼えない半身不随の猫を、他人が飼ってくれると思う?」

 明日夢の顔が紅潮した。

「あてはある? ご実家や知り合いで、飼うことができる環境の人はいる? 捨てられたり、事故にあったりした犬や猫の譲渡会ってのはあるよ。でも現実的に半身不随の猫の飼い主が見つかる可能性はほぼない」

 ボクはどきっとした。実家になら連れていけないだろうかと思っていたんだ。田舎の農家だから広い。頼めば半身不随の猫ぐらい飼ってもらえるだろうが、自分の甘さを指摘された気分だ。うちの親だって一日中畑だ。負担はないなんていっても、そういうわけにいかないだろう。生き物の面倒をみるということは、そんなに生半可なものじゃない。

 譲渡会のようなものの存在はボクも知っている。犬猫病院に来たら、そのあたりのつてでもあるかもと、ぼんやり見込んでいたのも事実だ。先生には見透かされていたのかもしれない。

「ごめんさい、正直……そこまで考えていませんでした」

 うつむき、明日夢が答える。

「選択肢はふたつ。ひとつはこの状態のこの子の面倒をみる。もうひとつは割り切って楽にしてやるか。ただし私からどうすべきかとは云えない、君たちに決めてもらわないと」

 先生がひそかに言外にふくませていることを、ボクはようやく気がついた。

「……それって、処分ってことですか?」

 隣でうつむいている明日夢が、びくりと反応した。細川先生が優しく笑った。

「君たちが猫を救おうとしてるのは偉いと思う。お金や時間を費やして、ふたりとも傷だらけになって」

 ボクは手の甲の傷を見られないように、思わず後ろに隠してしまった。

「生き物の命は大切だ。だけど、獣医として、あまり積極的に云うわけにはいかないけど……人間が手を出せる範囲には限界がある。人間の都合で、判断しなければならない時があるのも事実だよ」

 穏やかだったが、きっぱりとした言葉だった。きっとボクらには、想像もできないほどたくさんの生き死にを見てきたんだろうなと思った。冷たいようなことも聞かされたが、この先生は何となく信用できる様な気がした。

 明日夢の手が硬く握りしめられて、小刻みに震えている。唇を噛みしめ、ネットに入れられて麻酔のために弱々しくもがく子猫を凝視していた。その表情が苦しそうに歪んだ。

 視線に気がついた明日夢が、今度はボクにすがるような眼を向けた。その眼の光に、胸がつかえて、脚が震えた。ボクは意を決した。

「……先生、楽にしてあげてください」

 ボクが云うと、明日夢が服のすそをつかんできた。懇願するような眼だった。でもボクは撤回しなかった。

「先生、オレら……責任とることできません。せめて、楽にしてやってください」

 安楽死――なんて、言葉は穏やかだ。でも実態は違う。意思を以ってひとつの命を奪うやりかたは、やはりどんな言葉でも飾りようもごまかしようもない。

 ボクたちは自分たちの都合のために、あの小さな命を断ち切るのだ。

 先生は麻酔薬の量を再び算出する。今度はもう起きることのないひとつの生き物の息の根を止める作業にしては、あまりに簡素で無造作な手順に感じられた。

 ネットの中のその猫の尻尾の付け根に、注射針が指しこまれる。すでにぐったりしていた黒猫は、異様な声をあげた。それが自分の心臓を止める液体だなんて知る由もないくせに、それは今までとは違う異様な声だった。

 数分で効果があらわれた。あれほど荒々しく動いていた肩や背中の動きが弱まっていき、全身がぐったりとした。懸命に虚勢をはっているみたいだった眼の光が弱まっていく。背中をなでてても、もう威嚇の声もあげない。

 そしてその生の光は、あまりにあっけなく、本当に眠るようにこの猫の身体から消失をしていった。

「後の処置はしておくから」

 先生は云った。処置っていうのがどういうものか気になったが、ボクらはうなずくしかない。たとえ遺骸を引き取っても、ボクらはどこに埋めることもできない。

「ありがとうございます」

 明日夢が深々と頭を下げた。ボクもそれにならう。

 

 夕暮れをすぎて、もう昏くなりはじめていた。ボクと明日夢は自転車を押しながら、迫る夜に追い立てられるようにのろのろ歩いていた。やがて夜に追いつかれるだろう。

 ボクらは何も話せなかった。往きはボクらふたりと猫一匹、今はふたりだ。その不等式が、ボクらの口を重くしていた。

 近道しようとした公園で、とうとう夜に追いつかれた。宵が深まりはじめていた。

 明日夢が脚を止めた。街灯が何度か点滅して点き、長身の彼女の影を濃いものにしていた。

 明日夢はかたわらのベンチに腰をかける。その前でボクも動けなかった。座った彼女の頭部はいつもと違って、ボクよりずっと低い場所にあった。膝の上で手を組み、長い脚を投げ出し、彼女の視線は自分とボクのつま先の中間を凝視していた。

「ごめん……」

 長い沈黙の後、ようやく口を開いた。

「秀虎君に、あれ、云わせちゃった。本当はあたしが云わなきゃならなかったのに……殺した……まだ生きてるのに」

「お前、決心できなかっただろう?」

「あたしんち街中だったから、生き物飼ったことなかったんだ。ペットってさ、寿命がきたり病気とかで、いつか自然に死んでいくもんとばっかり思ってた。あんな風に、人間が強制的に殺しちゃうことがあるなんて、頭ではわかってたけど、実感なかった」

 ぼそぼそと話す調子は、いつもの明日夢とはまったく違って乾いていた。ボクはそれが気に入らない。こいつにこんな表情をしてもらいたくない。

「判断しなければならない時があるって、先生云ってたろう?オレもそう思う」

「助けたつもりになって、助けることできると思ったのに、でも手におえないから、やっぱり殺してくれって……痛い時間を長引かせただけ。とんだ偽善だった」

「それは偽善とは云わないと……オレは思う」

「……ありがと」

 明日夢の眼から、つぅっと涙が流れた。それをきっかけに、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちだした。まっすぐ前を向いたまま、明日夢は静かに涙を流しつづけていた。

 明日夢のいつもとくらべて低い場所にある頭部の、ずっと上に月があった。丸く、そして鎮魂を象徴するような不思議な青色だった。こんな色、見たことない。

 特に理由はないが、ボクは明日夢に泣かれるのが苦手だ。何となくだが、泣いてもらいたくない。

 だから泣いているのを止めてやりたかった。でもそんなうまい方法、ボクは思いつかない。だからよりによって、とてもへたくそな方法で、ボクはそれをしようとしてしまった。

 こんなこと、絶対ありえないはずなのに。

 ベンチに座る明日夢の頭の位置は、いつもよりすいぶん低かった。だからボクは、その高さにあわせて、少しだけ腰をかがめなくちゃならなかった。

 驚いたように、涙でいっぱいだった明日夢の眼は大きく見開いていた。

 月が青かった。

 ありえない。

 だからきっと、こんなありえないことがおきたんだ、きっとそうだ。

 全部、あの青い月のせいだ。


(了)

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