第17話 「Je n’avais rien dit」(後編)

 しまったと思ったがもう手遅れだ。後で考えると、なぜあのことを口にしたのか信じられない。あのことは、もう誰にも話すつもりなんてなかったからだ。特に明日夢のやつには、絶対。

 ベッドの上の明日夢が、頭の中の引き出しをのぞきこんでその名を探しているのが表情でわかった。いぶかしげな色が広がる。

「あ……あの、壁画の人……?」

 口にした瞬間に生じた後悔だったが、硬く鍵をかけていたはずの扉の、ほんのちょっとの隙間から流れ出るように、どうしても言葉は止まらなかった。

「……幣原蓑之助は――オレの曾祖母ちゃんの弟だ」

 え……と明日夢が目をむいた。

「ひいばあちゃんの……てことは、大叔父さんじゃなくって、もっと古くて、何て云うのかな……? えっと、とにかく秀虎君の親戚?」

「って云ったって、オレが産まれたころに死んじまってるから、記憶なんてない」

 ボクはベッドのそばにぺたりと腰をおろした。明日夢とほぼ同じ視線になった。

「曾祖母ちゃんとは二十近く歳が離れてたらしくって、幣原が売れてなくて極貧だったころ、かなり生活の援助をしてたらしい。そのお礼にということで、そのころのスケッチブックや六号程度の小品が、かなり家には置いてあった」

「秀虎君の家って、実はいいとこ?」

「うちはただの百姓だ。オレも大学出たら跡をつぐの」

「何作ってんの?」

「メロンとか西瓜とか野菜。米だけじゃ喰ってけないからな」

「遊び行っていい!?」

「あほ」

「じゃ嫁にして!」

「腰の悪い子は駄目です。役にたたない」

「むぅ……」ふくれた明日夢だったが、突然声をあげた。「あ、ひょっとして、あの美大の先生って……?」

「黛先生は研究のために、何度も家に来てた」

「はん、納得……で?」

 まだつじつまがあわない表情で、先をうながす明日夢。

 その邪気のない表情に、あの日、閉ざされた世界のようなあの場所で壁画を見て涙を流した明日夢に感じた、云いようのない感情――重たい屈辱が身体の内側を焦がした。

 明日夢の顔を見ることができなかった。うつむいたまま、それでも何かに操られるように、口だけは動いていた。

「オレも、絵、やりたかったんだ……」

 言葉にすると、ひどく陳腐で味気なかった。もっと自分にも明日夢にも説得力がある言葉があるような気がしたけど、うまく口にはできなかった。何か痛いと思ったら、無意識のうちに片方の指がもう片方の手の甲に爪をたてていた。

 明日夢は横になったまま、驚いたように大きく眼を見開いていた。

「子どものころ、絵、得意だった。その方面に進もうと思ってて、美大に……行きたかった」

「そっか……やっぱ、そうだったんだ。この間の人相描きだって――」

 納得したように明日夢がうなずいた。

「うるせぇなぁ……」

「照れることないって。すっごく上手かったよ」

「そのことは忘れて。とにかく行くつもりだった」

「美大って、中学の時の先輩が芸大の付属に行ったけど、簡単に入れないって聞いたよ?二浪三浪も当たり前って話だった」

「ああ、むずかしい」

「落ちたの?」

「ああ、はいはい、落ちました、落ちましたよ、落ちましたとも! そりゃもう、見事に無様に落ちました!」

「キレんなって。浪人、しなかったの?」

「曾祖母ちゃんは、オレが小学生のころまで生きてたんだ。若いころは、兄弟の中で幣原を一番かわいがってたらしい。オレが将来絵の勉強をしたいって云ったら、えらく喜んでくれた。ひょっとしたら幣原とオレとを、重ね合わせてたのかなって思う。子どもの得意だってんだから、たかがしれてるのにさ……とにかく曾祖母ちゃん、自分の貯金を取り崩したり、幣原の絵を何枚か売ったりして、オレが美術の勉強ができるようにって、すごく気をつかってくれてたんだ」

 美大受験専門の予備校にも通っていたし、使う画材も結構高価なものだ。予備校仲間には東京の著名な画家に師事するために、月イチで通っていたやつもいた。真剣にやろうと思ったら、金銭面の負担は大きい。家はそんなに裕福じゃないから、苦しかったんじゃないかなと思う。そのころはもう曾祖母ちゃんはいなかったけど、その負担を曾祖母ちゃんの遺してくれたものは、ずいぶんと助けてくれたらしい。

(秀虎が絵で立派に身を立てていけようになるといいねぇ……)

 小学生のころ耳にした、曾祖母ちゃんの声がよみがえる。声といっしょに、笑った顔と、いつも作業着姿の腰の曲がった皺くちゃの曾祖母ちゃんの姿も思い浮かぶ。

 そんなに簡単にはいかないよ――なんて生意気に答えていたけど、そのころの自分は挫折することがあるなんて、思ってもみなかった。そんな他愛もない夢が、全部かなうと思っていた。なにしろ小学生だ。

 それから中学、高校と進んで、いつのころからか幣原のように“絵”で生きていくことがどれほどむずかしいことか、漠然と理解しはじめるけれど、それでも自分は、結局、その方面に身を置くことになるだろうって、特に疑ったことはなかった。

 普通高校に行ったのは、一応親の意向だ。でもたとえ普通校に行っていても、予備校での講師の評価も悪くなかった。小さいころから、何度も賞を取ってきた。自信があった。

「曾祖母ちゃんにそうまでしてもらって、どの面さげてまた来年がんばりますって云える? もう死んでたけどさ」

「一度落ちたくらいで、あきらめたの?」

 とがめるように明日夢。彼女は一浪している。そんな彼女からすると、ボクはふがいないって感じるのかもしれない。顔をあげると、横になったまま、けわしい表情でボクをにらみつけていた。でも非難しようとはしなかった。そんな彼女の視線が後ろめたかった。

「わかってる。そんなことはわかっている」うまく説明できない。そんな風にあいまいにしか言葉にできなかった。「でも……だめなんだ……何ていうか、その……もうオレ、だめなんだ……」

 絶対に手に届かない場所にあるような気はしない。多分、がんばればとか、浪人して試験慣れしたら受かるかもしれないとか、そんな漠然とした見通しみたいなものはある。

 だけど……落ちた――と知った瞬間、本当に血の気が引く音を聞いた。

 今でも身体が記憶している。それは血だけじゃなくって、自信とか情熱とか、とにかくそういった積み重ねてきたものが、なすすべもなく無惨に身体の外へ流れ出てしまうような、ずっと長い間大事にしていたものが、掌からこぼれ落ちてしまうようなそんな音だった。何もかも干からびて台なしにしてしまう、無慈悲な音だった。

 あの残酷な音を聞いてしまったら、もうだめだ。

 心の中のどこか大事な場所が乾いてしまったのを感じた。それは乾いてはいけない、すごく大切な場所だったのに、でもどうしようもなかった。

 ……それがボクの十代の、みっともなくうぬぼれた、かっこ悪く身の程知らずな顛末だ。

 でも、それだけならば、つい先日達川に指摘されたように、ボクは敗け犬気分にひたっていればよいだけだ。挫折の苦い記憶も、よくあることと、いつか薄らいでいくはずだ。

 実際この一年で、ボクは少しずつ忘れていっている。まるであの日々が、ずっと昔子どものころにみただけの、幼稚な夢だったかのように。

 高校からのつきあいで、全部事情を知っている達川はそんなボクを、鼻の先で笑いながら見ていたんだろう。

 そして、明日夢と幣原の壁画を見たあの日――

「北森……お前は幣原の絵を見て泣いたよな?」

 ボクが訊ねると、明日夢はきょとんとした。彼女にしてみたら、突然の話の転換だったろう。すぐに、真っ赤になった。

「ちょっと、恥ずいこと憶えてんじゃないわよ!」

「そうじゃないって、オレが云いたいのは……」

「……?」

「通ってた予備校の先生に彫刻の専門家がいてさ、どうしても一目見たくって美大生時代にローマ行って、サン・ピエトロ大聖堂でミケランジェロのピエタ像を見た時、涙が止まらなくなって、彫刻家の道をあきらめたって話、してくれたことがあったんだ」

 いぶかしげな明日夢の表情。

「どうしてこんなものが作れるんだ、どんなにがんばっても、自分には絶対に創造することはできないって絶望したんだって。その瞬間、自分は何もかも失ってしまったって云っていた」

「……」

「あの壁画を見て、絵なんかにまったく縁がなかったお前は同じように泣いた。でも……幣原の絵を見て、オレは涙なんて流したことはない」

 明日夢の表情が少しずつこわばっていくのがわかったけど、かまわずにつづけた。

「絵が他人よりほんの少し上手いとか下手とか、そんなことは大事じゃない。大事なのは、本当に大事なのは、きっと言葉にできない、もっともっと別の“何か”……だ。自分にはその“何か”が、大事なものが欠けているんじゃないかって……その時思った」

 明日夢の涙を見た日から、何度も何度も自分に問いただしていた。

「ちょ、ちょっと待った!」反論しようと起き上がりかけて、痛てててとうめいて、またベッドに沈んだ。「あれはそんなじゃなくって、絶望するとかじゃなくって、何かすごくいい絵だなって思った……それ、あたしのせい!?」

「違う! お前のせいなんかじゃない、わかってる――!」

 胸の奥をふさいでいたどす黒い塊りのようなものが、急に喉元までこみ上げてきた。嘔吐の作用のように、機械的に言葉がつづく。

「わかってる……けど、一度そう感じてしまうともうだめだ。最初からオレは、資格なんてなかったんだって考えてしまう……なのにお前は……」 

 ……なのに明日夢……

 明日夢、お前は……

 幣原の絵に涙を流した。

 幣原の絵に何かを感じた。

 幣原の絵に共鳴をした。

 隣にいたボクは何も感じなかった。

 幣原の絵にボクは何も感じなかった。

 ――今まで何度も見たことがあったのに、一度もそんな経験がない。

 共鳴も感銘もなかった。ただ、上手な壁画を見上げていただけだった。

 その時、初めて本当に理解した。

 自分は、素養なんてなかった、空っぽだったんだと。

 受からなくて当然だった。技術と知識と小理屈を身につけた、ただほんのちょっと器用なだけの、うぬぼれたガキだったんだと。

 だから……

 ……ボクは幣原の絵に心を打たれた明日夢に、彼女の涙に、嫉妬した……ねたましかった。

 そして……そのことを自分に理解させた明日夢のことをボクは……

「……だから、幣原の絵に泣いた北森のこと……オレ……ねたんで……赦せなかった」

 まるで眼に見えないどす黒い塊りが、胸の奥から言葉と一緒に吐き出されて、それは床に落ちて汚らしい飛沫を四散させたようだった。

 ボクは自分の表情を見られたくなくって、うつむいていた。明日夢がどんな表情で自分を見ているかと思うと、恥ずかしくって、みっともなくって、顔を上げることができなくて涙が出そうだった。

「……あんたねぇ……」

 ずいぶんたって、そんな声がした。おそるおそる顔を上げると、横になったままの明日夢が、喉笛に喰いつきそうなものすごい眼つきでボクを見ていた。

「そんな、くっだらないやつあたりで、あたしにあんな態度とってたわけ? うわぁ……信じらんね」

 くっ、のあたりを釘抜きか何かでブン殴るように強調しながら、云いはなった。

「やつあたりじゃない」

「やつあたりでしょうがっ!」

「……」

「憶えときなさい、腰がなおったら、千回ぐらい蹴り入れてやる、いや今、ブン殴らせろ!」

「……」

「はぁぁ……」これみよがしに大げさにため息をつく。「君ね、それであたしにあんだけ偉そうなこと云ったわけ? 秀虎君を相手にしたあたしがバカだった」

「別に偉そうなこと云ってない」

「……敗け犬」

「お互い様だろが」

「あたしは別に失敗してない、一応結果出した。いっしょにすんな。秀虎君よりはずっとましだと思うけど」

「……」

「……」

 ボクたちは何となく気づまりのまま、黙ってお互いにらみあっていたけど、やがて明日夢がぶっきらぼうに口を開いた。

「秀虎君が美大に行くってことにもう挑戦できないんだったら、終わりだよ、もう終わったんだ、あきらめなよ……」

「……」

「甘ったれんな、ばか……」

 怒ったような、困ったような、ふてくされたような明日夢の表情。それはその、何ていうか……すごく、すごく……えっとその……うまく表現できないけど、とにかくそんな表情だった。

 めまい似た感覚におそわれた。

 あの場所、とっくに廃墟になってしまったあの映画館も取り壊される。

 だけど幣原の壁画もあの場所から移る。変わっていく。

 甘ったれんな、ばか……明日夢の言葉が突き刺さった。でも痛みはない。むしろ刺さった場所から、亀裂が入っていき、ボクのどす暗いみっともない感情が粉々になり消え去っていくような感覚だった。

 オレ、いつまでこうしてるんだよ――唐突にそんな風に思った。

 明日夢の云うとおりだ。

 ……もういいかげんにあきらめろ。きちんとあきらめて本当に終わりにしよう。それがけじめだ。このままじゃ、あんまりかっこ悪すぎる。

 ぎこちない沈黙の中、ボクはそんなことを考えていた。

「見せてよ」

 ぶっきらぼうな口調のまま明日夢がそう云った。ボクは不意をつかれて、その顔を見返した。

「……え?」

「今度、秀虎君の絵、あたしに見せて。こないだみたいなあんなキモイ奴の似顔絵なんかじゃなくってさ」

「好きで描いたわけじゃない」

「……そうだ、あたし、あたしを描いて、かわいく描いて!」

 何のスイッチが入ったのかは知らないが、明日夢のテンションが急に上がった。ボクは横になったままの彼女を見つめた。

 明日夢を描く? あぁ、それも悪くないなとぼんやり考え、うっすらとクリーム色がかったスケッチブックに、けれんみのない線がすっと引かれる一瞬を感じて、背中がぞくっとした。

「……無理だ」

「どうして!」

「かわいくは描けない。モデルに問題がある」

「……腰なおったら、ブッ殺す」

「さっきまで、べそかいてたくせに」

「ちょっ! 忘れなさい!」

 真っ赤になって、明日夢が枕を投げつけてきた。そして痛みにのたうち回った。

「……ばかたれ」


(了)

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