第16話 「Je n’avais rien dit」(前編)

「……ひで、虎・・・君?」

 スマホの向こうから聞こえてきたのは、まぎれもなく昨夜ボクの背中に飛蹴りを喰らわせてくれやがりました、あの女――そう北森明日夢だ。

 大学に行くにもまだかなり余裕のあるこの時間。枕元に置いてたスマホの着信音に、半分寝ぼけて反射的に電話をとったことを後悔しつつ、ボクは問答無用で切ろうとした。昨日の今日で、背中はまだ痛いのだ、あの野郎。

「切らないで」

 声のせっぱつまった感じに、タオルケットにくるまったまま、動きが止まった。

「お願い、話を聞いて……」

「ふざけるな、お前と話すことなんてない。もう切る」

「聞いて」明日夢の声は弱々しく、そして苦しそうだった。「お願い、もう二度と云うこときいてくれなくってもいいから。お願い、今日だけは……助けて、お願い……」

 そう云われて、これまで何度かひどい目にあっている。あいにくとその手はもう通用しないって。

 ボクはよっこらせと身体をおこし、せんべい布団の上であぐらをかいた。窓の外では、鉄柵の上に横一列にならんだ雀がさえずっている、漫画のようなのほほんとした光景。バカにしやがって。

「どうせまた麻雀だろうが、朝っぱらから何やってんだ」

「違う、本当に……助けて、ほしいの……」

 これまで聞いたことがない明日夢の声に、ボクは迷った。迷っている間の彼女の沈黙が、すごくせっぱ詰まった何かを、ちりちりと発しているようだった。それはひどく居心地の悪い、不安にさせる何かで、結局その沈黙に敗けた。

「……これで最期だからな」

 騙されるのも、振りまわされるのも今回でおしまいって意味で、自分の甘さに心の中で悪態をつきつつ、そう云った。

「ありがと――」安堵の声がケータイの向こうからもれた。「あの、お願い……頼むから、本当に、本当に、本当に急いで来て……」


 郵便受けの裏側に貼りつけてあるスペアの鍵で入ってきてと、妙な頼みごとだった。女のくせに、こんなあからさまな場所に無用心だ。室内は静かだったが、妙にどんよりした空気だった。

 北森――と呼びかけると、奥の部屋から弱々しげに応える声。

 またからかおうとしてるな。靴を脱いで上がりこむと、百八十二cmのでかい明日夢の身体が、部屋の床に突っ伏していた。死体のまねか? ショートパンツからのびる脚が、べらぼうに長い。

「……何やってんだ、お前」

「……こ、こ……し……」

 顔も上げないに明日夢の声はよく聞きとれない。

「ここし?」

「動けない……腰……やっちゃった……」

 つまんねぇ冗談を――と云いかけてよく見ると、顔が正真正銘、土気色で、脂汗でいっぱいだ。

「……冗談?」

 明日夢のやつ、腰を痛めたことがあったって以前話していたのを憶い出した。

「本当……」眼を伏せつつ応えた土気色の顔が、不意に真っ赤になった。「お願い、その……立てないの……あ、お、おし……ト、トイレ、連れてって……」

「トイレ……」

「い、い、い……急いで、も、も、も、もれ……も、もう限界……」

「限界って……」

「一生のお願い……」

「本当に立てないのか?」

 明日夢の頭が、震えながらこくっと動いた。涙目になっている。どうやら本当らしい。

 頭の中を、いろんな文句が乱雑に走り回った。走り回ったが、その奥の方から、呆れはてたようなため息が聞こえた。仕方ない……

 でも、どんな風に手を出したらいいのかわからない。とりあえず、ぐにゃりとしている明日夢の脇の下に、背中から腕を差しこんで、上半身を起こしてみることにする。

「ん……」

 声を押し殺して、つらそうにうめく。力が入っていないからやたら重く感じる。後ろから持ち上げるようにして上半身が浮いたところで、明日夢がじわじわと脚をまわして、膝を立てた形になった。

「これからどうすりゃいい?」

「……前……来て」

 たったそれだけで疲労したみたいだ。うつむき、息を荒げながら明日夢が云った。

 ボクは身体を入れ替えて、真正面から抱き合うような形になると、顔をあわせないようにして、そのまま力を入れて、明日夢とくっついたままじんわりと立ち上がった。ボクの背中にまわした手が、ものすごい力でしがみついている。重い。

 揺らしちゃダメ……と耳元でしぼり出すような声でささやく。起きたままなのだろう。Tシャツの下には何もつけていないのが、手触りでわかる。身体から、強烈に汗がにおった。

「……あ、ありがと、手、かしてもらえば、後は何とか歩ける……」

 自分よりも背の高い明日夢に肩をかすと、上半身を揺らさないように注意しながら、ガラスの橋を渡るようにそろそろと慎重に歩き出した。それでも喰いしばった歯から、時折うめき声がもれる。額には脂汗がうき、涙目になっている。本当はもっと急ぎたいのだろうが、ほんの数メートルの距離を、ボクらはまるで亀の二人三脚のように進んだ。

 トイレのドアを開け、ようやく便座に座らせることができた。もどかしげにショートパンツに手をかけて、明日夢ははっと上目遣いでボクを見た。真っ赤だが、ばつの悪そうな、そしてあせった顔だった。

「も、もう大丈夫……ひとりでできるから」

 あわてて個室から出ると、中ではごそごそと衣ずれの音、そしてすぐに水が流れる音がした。

「秀虎君、そばにいて」

 水音にまじって中から声がしたけど、落ち着かない。オンナノコのそういう音を聞くのは、マナー違反のような気がする。結局、少し離れた床に座る。どうせすぐにまた、部屋に連れていかなければいけないだろうと思ったけど、水音が静まっても、なかなか出てこなかった。

「勘違いしないでよ、もう終わったんだから」

 中からまた明日夢の声。個室で反響して、いつもとちょっと違う、くぐもった感じだ。

「じゃ、何で出ないんだよ」

「いや、その……座ってる方が楽で、それに……何か出にくってさぁ」

「アホ」

 すっかりいつもの調子だ。何か朝からどっと疲れた。そして明日夢のやつとは冷戦中だったことを思い出した。少し甘やかしすぎたか?

「秀虎君?」

「何だ」

 そのまま黙っているから、もう一度何だよとうながすと、ちょっとためらうような気配がして、明日夢がつづけた。

「高校の時に腰、やっちゃったってこと知ってるよね?」

「ああ……」

「ずっとバレーやっててさ、全国にも行った。ベスト八までいったんだよ。で、ちょっと無理しすぎちゃってこの有様ってわけ、あははは」

「……」

「でも元々、遺伝っぽい感じもあるみたいでね。秀虎君、信じられる? 背骨のさ、間と間がほんの一ミリずれてるだけで、人間って何かの拍子でこんな満足に歩けなくなるんだよ」

 その言葉につづいた明日夢の沈黙は、今度は少し長かったが、ボクはそのまま待った。

「で、さ……」

 ようやくドアの向こうから声がとどいたが、その感じが微妙に違っているような気がした。

「う~ん、何て云えばいいのかな? つまりその……ずっと考えるんだよ。まったく、何であたしがこんな理不尽なメにあってんだろうかって」

「何でって……?」

 トイレの中で、明日夢が頬杖してる様子がうかんだ。どんな顔しながらしゃべってるんだろう? ボクはふとそう思った。

「高校入学の時、特待蹴って別の学校行ったって話、したことあるよね? それがごたごたってか軋轢ってか、問題になっちゃって……そういうのって、あたしだけの問題じゃなくって、同世代から前後何代かに全部かかってくるの」

「スポーツの世界もめんどうだな」

「そう。そこは県内では全国の常連校だったんだけど、前からコーチの指導に問題があってさ、あたしらの代にちょうどそういうのがいろいろと表に出ちゃってね、あたしらの代の子が、結構よそへ流れてっちゃったの。蹴ったこと事態はこれっぽっちも悪かったなんて思ってもないけどね――で、結果的にあたしたちの学校が全国に行ったわけで、なおさらねぇ……結構生々しい話で悪いけどさ、高校で全国レベルの競技っていったら、もうその先の大学や企業なんかがからんでくるの。全国に行った行かないで、選手としてのキャリアは天と地ほどに違ってくる」

「……」

「それともうひとつ。うん、と……これ、秀虎君に話してよいものかどうか、その……三年になったころさ、何だ、えっと……不肖わたくしめにも、彼氏のようなものが一応、おりまして……」

「あんだって――?」

 彼氏と聞いて、妙に心が騒いだ。いや、変な意味じゃなくって、あぁ、こいつも生身のオンナなんだなぁと、すごく複雑な気分だった。制服を着たそのころの明日夢や、誰か知らないオトコと並んで立っている光景なんて想像もできなかったけど、そのくせ、そのどこの誰とも知らないオトコに見せたはずの無防備な姿を、一瞬生々しくも荒々しく感じてしまった。不覚。

「男バレーの部長だったんだけどね」妙なテンションでつづける明日夢。「うわ、やばい……恥ずかしくなった。死にそう」

 あ、こいつ絶対照れてるだろと思った。

「まぁそのころは、お互い部活第一って感じで、隣りあったコートで毎日顔を合わせてるわけだから、何か付き合ってるっていうか、その……仲間っていうか同士っていうか、そんな感覚の延長で、お互いもうこいつしかいないって、自然にそういう流れになっちゃってさ……」

「……」

「でも男バレーは結局県予選で敗けて、彼はそれで引退したわけ。ところがさ――秀虎君、聞いてる?」

「聞いてる」

「ところがね、そいつ自分が引退した途端、急に彼氏面しはじめてさぁ。自分が現役の時は部活優先みたいな感じだったくせに、ひまになったら急にかまってちゃんだよ。自分の都合を押しつけんな、おとなしく受験勉強せぇちゅうの!」

 明日夢はトイレの中で興奮してきたようだ。

「こっちはそりゃもう、全部のエネルギーをそそぎこんで、朝起きてから寝る瞬間まで、もう頭の中、バレー、バレー、バレー! わかる? 大穴もいいとこだったうちが全国に行くわけだから、もうオトコかまってるひまなんかないわけ、それどころじゃないっつーの、あの軟弱者が!」

「そんな奴とつきあってたんだ……」

 あきれて、思わずつぶやいてしまった。個室の中で、明日夢があうっとか妙な声を出した。ばか。

「……ってわけでさ、もう急にうっとうしくなって、大げんかして、はいそれでおしまい」

 あうってのは、どうやらなかったことにして、無理やり終わらせた。

「だから、北森の昔のオトコの話がどうしたんだよ」

 ボクの質問に、明日夢のやつは答えようとしなかった。その沈黙は、何となく今までとは違った気配だったが、やがて、扉の向こう側から、ぼそぼそと聞こえてきた。

「あたしは自分がやったこと、後悔なんかしてない。周りに迷惑かけて進学したことも、全国行ったこと、つきあってたオトコふっちゃったことも……その時のあたしは必死だったし、そんな風にやってくしかできなかった。その他のやりかたなんて、あたしはわかんなかった。全国でも、結局上に行けなかったってことだって、自分たちの実力がそこまでだったって思ってる。もうあれ以上は無理だった」

 淡々とつづく独り言のような明日夢の言葉。ボクは聞いてるしかなかった。

「でもさ――でもどこかで、心のどこかで、納得のいっていない自分がいるの……最期の試合で敗けたのも、あたしが決められなかったせいだった。振りぬいた瞬間のあの時の感触は忘れない。決められたはずなのに。外すはずなんてありえなかったのに。外れたなんて……今でも信じられない……何であたしは外してしまったんだろうって……まるで悪い魔法をかけられたみたいだった」

 小さく弱々しく、すごく遠くから聞こえくるような言葉だった。

「あたしたちは勝ちたかった。強くなりたかった。それだけだったのに――全部つぎこんで、全部つぎこんで、全部つぎこんで、何もかも犠牲にしたのに、どうして見返りがないの、何も手元にのこってないのって思ってしまう。それどころか、腰にこんな爆弾かかえこんでしまって……納得がいかない……」

 不意に、乾いていた明日夢の言葉が途切れた。そして、ためらうような気配の後、かすかに、ささやくようにひびわれた一言が聞こえてきた。

「ひどいよ、こんなの」

 その後は、いつまで待ってもつづかなかった。声をかけるのをためらわせる沈黙が、扉の向こうから伝わってきた。

 便座に座って、自分の手をじっと見つめる明日夢の姿がうかんだ。想像の中の彼女は、うつろな眼をしていた。あいつがそんな眼をしているなんて考えると、すごく嫌な気分だった。

 明日夢のやつは間違っている。いや、間違っているというより、そんな風に落ちこんでもらいたくなかった。あいつがうちこんできたことは、きっと大切なことだったと思う。それを失ってしまった悔しさもわかる……つもりだ。

 でもそんな風に、いつまでもひきずってほしくない。自分を棚にあげてだけどさ、そんなのあの北森明日夢には似合わない。勝手だけど、それが偽りのない自分の本音だった。

 でもそのことをうまく伝える言葉がなかった。いや、そんな風にうじうじしてやがる明日夢にも、何かこう……腹がたった。

「ばーか」

「はぁ?」

 トイレの中から、聞きなおす声がした。

「そんなことしおらしく考えるぐらいなら、昨夜オレに蹴りいれたことを反省しろ! 今さらそんな辛気くせぇこと、云ってんじゃねぇよ。やっちまったもんはしょうがないだろうが。進学がどーの、オトコがどーの、すんだこと! みんなちゃら! それでもう納得しちゃえ」

「あ、アンタねぇ……もうちょっと思いやりのあること、云えないの?」

「うるせぇ、無理に決まってんだろ、そんなの期待してたのか?」

「……してないけどさぁ」

「だったら愚痴って満足しろ、とりあえず聞いてやった。やりたいことやった、北森は後悔してない、ふられた奴がたいしたことなかったんだし、北森が敗けたのも、相手の方が強かったからだ。お前が努力した以上に、相手もしてきたんだ。そんだけだ! お前の腰が痛いのだって、あきらめろ!」

 一気に云ってしまってから、ちょっとまずかったかなと思った。いくら何でもあきらめろはないだろ、あきらめろは。頭、悪すぎるだろ。

 案の定、トイレの中の明日夢はうんともすんとも云わない。今度のは、今までで一番長い沈黙だった。

「……秀虎君なんかに話したあたしがバカでした」ようやくあきれはてたような声がした。「アホすぎる。信じられないぐらいアホすぎる。そんなんで、あたしが納得できると思った?社会に出た時、プレゼン力ないと将来ないよ」

「文句あんのか?」

「いや。ないけど、何か急にバカバカしくなっちゃった。いやぁ……ある意味、すごいわ君、あっぱれ」

 そりゃどうも。

「……開けて」

「……鍵」

「かかってないよ、痛くって動けなかったんだから」

 こいつは……

 おそるおそるトイレのドアを開けてみると、口をとがらせて何とも云えない表情で頬杖をついてる明日夢が、たちの悪い冗談みたいに、便座に腰かけている。もちろんちゃんと着衣ずみだ。にらむような眼をしているけど、眼も鼻もほんのりと潤んで赤い。いつもの、ほんのちょっとたれ目なのが、さらに情けなさそうな顔になっている。

「へへへ、みっともない話をお聞かせしました」

「あほ」

「あ、それと……昨夜はごめん、蹴ったりして」

「あのな、まずそれが原因じゃないかって思えよ。腰、絶対それが原因だからな、罰あたったんだ」

「……まぁ、それはそれ、これはこれということで」

「もうちょっと反省しろ」

 もう一度肩をかしてやると、今度は少し落ち着いた感じで、それでもゆっくりと部屋にもどった。そろそろとベッドの端に座らせると、顔をゆがめながら、ゆっくりとうつぶせになった。スプリングがぎしりと音をたてた。脂汗がういた顔は、げっそりとしていた。

「ありがと、ふみちゃんたちじゃ抱えてもらうのは無理だから、頼めるの秀虎君しかいなかった……お願いついでに、もうひとつ。そこの中に、湿布あるから、貼ってくれない」

 目線で教えられた枕もとのチェストの引き出しをのぞきこむと、目薬とか鎮痛剤とかいっしょに湿布の箱が入っていた。

 だらりとうつぶせになった明日夢の腰のあたりを指で押す。想像してたよりも、ずっと弾力のある感触だった。

「このあたりか?」

「もう、ちょっ……下」

 枕に顔をうめている明日夢の声は聞きづらい。おそるおそる、手探りでその位置へ到達した。シャツのすそを上げると、クリーム色の背中の半分ほどが剥き出しになった。産毛がうっすらと光っている。

 なるべく見ないように、明日夢の背中の下のほう、脂肪の隆起がはじまる、えっと、つまりその……お尻のふくらみはじめのそのあたりに貼ってやると、うひゃっと声をあげて、明日夢の脚がぴょこんとはねた。

「病院、行かんでいいのか」

「いい。行っても、レントゲン撮られて、湿布くれるだけだもん。お金の無駄。どのみち動けないから、明日よくなってたら一応行くかもしんない」

「お前なぁ……」

「おなかすいた、朝ごはん作って。ご飯、タイマーしかけてたのに、動けないの。このままじゃ食べれないからパン焼いて、パン」

 ワガママ放題だが、場合が場合だ。仕方ない。焼いたトーストを皿にのせて顔の前に置く。何か犬にエサをやってる気分だ。明日夢は行儀悪くうつぶせになったまま、もそもそと食べる。犬っていうより蛇みたいだった。

 お湯をわかして、インスタントのコーヒーを淹れてもどってくると、明日夢のやつ、寝息をたてていた。いーのかお前、そんなことで?

 明日夢の寝顔を見たのは、これが二度目だっけ? 左の目じりに、小さな泣きボクロがあるのに、初めて気がついた。こいつに似合わないつつましさだ。さてどうしようかと、ぼんやり考える。起きたら、またトイレとか云うのか? そう考えたら、出ていったらまずいような気がする。

 立ったままコーヒーに口をつけた。部屋の中を見渡した。テーブルの上に、開いたままの参考書が置いている。中は書きこみでいっぱいだった。そういや、教員試験受けるって前に云っていた。まだ二年になったばかりなのに、こいつ一応努力してんだなぁと、ちょっと驚いた。

 窓の外から車の音が聞こえる。それと雀の声。自分の家にいたのと、同じやつかなと、そんなはずもないのに、ふと考えてしまった。

 ひとコマ目の時間はとっくにすぎてしまっている。座りこんで、とりあえずカップを空にすることにした。


 明日夢は昼過ぎまで眼をさまさなかった。その間ボクは部屋にある本を読んだり、自分もうたた寝なんぞしつつ、時間をつぶしたっていうか、何となく過ぎてく時間を眺めてた。

 もっかいトイレと云う明日夢に、また肩を貸した。うめきながらだったが、それでも今度は朝にくらべて、かなり脚に力が入っている。時間をかけて往復し、もう一度ベッドに横たえさせた。

「さんきゅ、ずいぶんよくなった」

 今度は膝をかかえこむように横向きになって明日夢は、珍しくしおらしい態度でそう云った。

「あ~あ、お腹すいた~、腰痛い。秀虎君ご飯作って。それから今夜は泊まってって、トイレ行く時、困るから」

 照れ隠しのように笑いながら、いつもみたいな軽口。だけどやっぱり、眼に力がない。

「調子にのんな」

 いつものようにそう応えたボクの中で、不意にさっき明日夢がもらしたひとことがよみがえった。

(ひどいよ、そんなの)

 初めて聞いた、彼女のひびわれた弱々しい声。ひどく落ち着かない気分にさせられる声だった。きっとそのひとことが、ボクの中の何かを狂わせたんだろう。きっとそうだ、そうに決まっている。

 まったく信じられないことだった。気がつかないうちに、ほんのちょっぴりも悩裏になかったその人物の名前が、自分の口からもれていた。

「幣原蓑之助は――」


(つづく)

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