第15話 「Kick and Run」

「うわっ、コレすごく美味しいです!」

「でしょ?」

 はしゃぐ明日夢に、サチさんは嬉しそうに答える。

 カウンターに席をしめた明日夢の前に置かれている染付け風の角皿には、開いて酢じめにした鰯をまるまる一匹、酢飯の上に乗っけて棒状ににぎりこんだ姿寿司。生の鮮やかさはないが、酢の加減で練れた色合いだ。

 明日夢はもうひときれつまむと、手馴れたカンジで醤油をちょんと、そしてひとくちでほおばる。本当に旨そうな食べ方だ。

「酢の加減がちょうどいいです」

「漬けすぎてしまうと、ちょっとくたびれた味になっちゃうから、漬かりすぎないようなカンジでね。塩をしっかり振ったほうが、できがいいみたい」

「アタシ、海のそばだったんですけど、鰯みたいに足の速い魚、こっち来てなかなか喰べられなかったんです。うん、シメた美味しさ、初めてわかった!」

「はは、そりゃうれしいね、お酒にする?」

「お鮨の時はビールがいいです。酢飯にあうと思います」

「あはっ、いいねぇ、立派な酒呑みだ。おい熊谷、ビール開けたげて。アタシのおごりだ!」

「……」

「瓶でねぇ」

 はむはむとしつつ、明日夢が云いそえる。

「……」

「熊谷!」

 サチさんの鋭い叱責。

「……はい」

 秀虎は口元を引きつらせつつ答える。

「店長さん、この店員さん、態度悪いんですけど」

「お待たせしました!」

 栓をぬいたエビスの中瓶を、紛争になる寸前の乱暴さで、どんとカウンターに置いた。サチさんがにやりとする。

「コップも新しいのがいいなぁ」

 人間の感情が沸騰する速度で業務用の大型冷蔵庫からグラスを持ち出し、明らかに一線を越えた乱暴さでどんと置く。もし他にお客がいた場合、ヘタをすれば因縁モノだってレベルだ。サチさんはなぜかまたにやりとするが、板場の大島がぐぇっと小声で悲鳴をあげて、奥の厨房に引っこんでいった。

 秀虎がバイトしている居酒屋『稲垣』の店内。今日はどういうわけか不思議なほどにヒマで、カウンターには、この身長百八十二cmの彼女だけだ。

 カウンターの上で、グラスはたちまち霜つく。

「ご注文は以上でしょうか、お客様」

 明日夢の頭蓋骨にきざみこむように、秀虎は云った。

「ん、ありがと」

 明日夢はにこやかに応える。秀虎は腰をかがめて明日夢の耳元に口を近づけた。

「てめぇ、何のつもりだ」

「あたし、今日はお客様よ、秀虎君」

「うるせぇ、つまらんいやがらせするな、とっとと帰れ!」

「お客さんに帰れなんて云っていいの? 業務上背任だよ」

 小声でののしる秀虎だったが、明日夢はまるで気にしない。不敵に笑い、こっこっと手酌でグラスを満たす。

「店員さん、隣に座ってついでくれないの?」

「それは風営法違反です」

「こりゃ失礼」グラスをひといきに呑みほす。「やだぁ、そばに陰険な顔した店員さんがいたら、お酒が美味しくな~い」

「お前な……」

 秀虎が怒りに顔を引きつらせた。

「明日夢ちゃん、これよかったら食べてみてくれない?」

 サチさんが白磁の皿をとんと置く。

「わぁ、いいんですか?」

 明日夢が嬉々と箸をのばした。秀虎は憮然とそばを離れた。

「あ、コレ、味噌の匂い?」

 眼を細めつつ嬉しそうな明日夢に、サチさんはこちらも満足げに笑う。

「お酒でといた味噌に、牛肉を二日ばかり漬けておいて焼いてみたの。和風味噌ステーキ」

「へぇ、おいしそう……」

「まだ試作品の段階でね、気になるとこがあったら、遠慮なく云って」

「あ、味噌合わせてますよね? う~ん、あたしにはちょっと甘いかなぁ……」

 美味しそうにひとくちほおばりながらも首をかしげた明日夢に、サチさんは別に気を悪くする風もなく、やっぱりかぁなんてつぶやいている。

「もう少し渋めの味噌使ったらどうです?」

「八町味噌をもう少し増やしてみるか、それに漬ける時間ももうちょっと考えてみないとねぇ、献立に入れるにはもうちょっと先か――それより明日夢ちゃん、結構料理のことわかるね、やるじゃん」

「あたしのバイト先も料理屋なんです」

「何だ商売敵か」

 明日夢はあわてて手を振って否定する。

「どこのお店?」

「『井筒』ってお店です」

「あら、井筒さんところ?」

「知ってるんですか?」

「直接はね、ないけど。せまい業界だから名前だけは。でもそりゃウチよりだいぶ格が上だわ」

 感心したように云うサチさんに、今度は明日夢の方が驚く。

「そんなんじゃないです。ウチはもっと小さいですし」

「いやいや、きちんと職人置いて、よい店らしいよ。独立採算なんて云ったってウチはチェーン店だから、やれることはどうしても限界があるからねぇ」

「あ、じゃあさっきの料理も?」

「そう、定番メニューとは別に、店舗ごとのオリジナル料理も出せるの。できがよかったら、他の支店でも出すかもしれない」

 ひまなのもあるけれど、今夜のサチさんはやたらと明日夢と話がはずむ。初めて『稲垣』ののれんをくぐった彼女と意気があったらしい。

 秀虎はあえて近よらないように、黙々と眼の前の仕事をこなして時間をつぶしていくが、厨房に入ってきたサチさんとはちあわせをしてしまった。サチさん、意味深な笑いをうかべる。

「あーゆー娘を惚れさせるなんて、お前やるじゃん、見直したよ」

「違いますよ」むすっとした顔のまま、秀虎が答える。「勘違いしないでください。あいつ、いやがらせに来ただけですって」

「絶対にお前が悪いだろ?」

「サチさん、あいつに騙されてんですよ」

 秀虎の歯切れは悪い。

「ほほぅ、冷戦中ってことね? いいねぇ、よりが戻った夜は、めちゃくちゃ燃えるんだよ」

 想像もできないサチさんのアダルトな発言に、秀虎は酸欠の魚のように口をあわあわさせて、言葉も出ない。

「あ~あ~ガキが」サチさんはおかしそうに云った。「あの娘の価値がわかんないから、お前はまだガキなんだって」


 明日夢は結局、閉店間際までカウンターに居すわっていた。片付けをはじめた秀虎に、サチさんが声をかけた。

「熊谷、お前もういいから今日はあがりな。でもって、明日夢ちゃんを送ってくように」

「――ちょっと待ってください、何でオレが――」

 秀虎は慌てて抗議した。サチさんはあきれたように云う。

「こんなに遅くに、オンナノコをひとりで帰すわけにはいかないだろ? 常識で考えろ」

「いや、こいつなら大丈夫です、はい、絶対大丈夫」

「お前が云うな、男の役目だ」

「サチさん、絶対何か勘違いしてるでしょ?」

「それとも明日夢ちゃんの代金、君の給料から天引きしとこうか?」

「……」

 サチさんを見る。それから明日夢を見る。彼女は座ったまま、年代物の薩摩切子を鑑定するかのような真剣さで、グラスを凝視している。

 もう一度サチさんを見る。笑っていた。サチさんが笑うと、何で包丁もキラッとすんだろ……と秀虎は思った。そして天井を見上げた。もちろん答えはそんなところに書かれてはいなかった。


 両手を広げ、鼻歌まじりで縁石の上を歩く。曲は『ボレロ』だ。上機嫌この上ない。

 秀虎は不機嫌そうに自転車を押しながら、その明日夢の後ろを、のこのことついていく。『稲垣』を出てから、むくれたまま、ひとことも口をきいていない。話しかけたら敗けだと思っているかのようだった。明日夢の方も気にする様子もなく、こちらも無言。

 街頭や家の灯りがかすかに照らす夜の街を、時折車や単車のハイビームが横切る。ふたりの影は、夜の中をさらに行く影法師のようだ。

 不意に、明日夢の背の高い影がふわりと跳んだ。本体も跳んだ。歩道を離れて公園に入っていく。

 秀虎は一瞬ぎくりとした。憶えている。以前、相澤を追って対峙をした。それがこの公園だ。忘れるはずもない。

 もちろん明日夢はそんなこと、知るはずない。公園に脚を踏み入れたのも、ただ近道だからだろう。

 明日夢は後ろ手に鼻歌で、ふわりふわりと歩いていく。秀虎の自転車がかすかにきしむ音だけがつづく。

 ふたつの影法師のような歩みが、公園の中ほどで止まった。くるりと明日夢が振りかえる。

「今日はごちそうさま」

「何のつもりだ」

 むすっとした表情で、秀虎が訊ねる。心地よく酔った明日夢のやわらかさが、彼のとげとげしさをいなした。

「へへへ、いやがらせ」

「こら」

「こないだから、何ムカついた態度とってんのよって、とことん問いつめてやろうかって思ってたけどさ――」おかしそうに笑う。「お酒呑んだら、もう何かどうでもよくなっちゃった、店長のサチさん素敵だねぇ、あたしもあんな大人になりたい」

「……」

 よりが戻った夜はめちゃくちゃ燃えるんだよ――なんて云う人だけどね、と思ったが、答えなかった。

「話してくれるつもりは、ないわけだ?あたし、秀虎君から嫌いってまで云われたんですけど」

「……」

 腰に手をやり問い詰める明日夢に、秀虎は無言だった。秀虎のふてくされたような態度は、あきらかに明日夢を拒絶していた。

「おっけ、おっけ、わかった」

 あきらめたように、掌を上にあげた明日夢。月がその中にすっぽりと収まった。

「向こう向いてて」

 むくれた表情で明日夢が云う。秀虎は渋々とだが、云われるままに彼女に背を向けた。居心地の悪さと後ろめたさが、秀虎の影を濃くしていた。

 深夜の公園。しんとした、密やかな何かを巧妙に隠したような夜。隠しきれない夜風。ぞくりとする。

 明日夢はその夜にほれぼれと深呼吸をする。何歩か後退をして、そして駆けだした。靴底の下の山砂がきしむ。秀虎の背中が迫り、衝動がはかった間合いのまま跳躍をした。

 ――2秒後、秀虎はのたうち回りながら、背中をおさえてうめいていた。

「……北、も、りっ!てめっ!」

「あははははっ!」

 あまりの楽しさに、明日夢は腹をかかえて笑う。会心の一撃だった。彼女の膝は、もののみごとに秀虎の背中のど真ん中を撃ちぬいていた。ほれぼれする一撃。映像にのこして、おりにふれて上映したくなるほどに、ほれぼれする一撃だった。

「思い知ったか、ホーケー!」

 ……若い婦女子がそんなコトを口にするのはよくない。

「北森っ!」

「ばいば~い」

 舌を出しつつ、後ろ向きにステップを踏み影を引き連れながら、満面の笑顔で明日夢は飛びすさっていく。後には地面にはいつくばった秀虎だけがのこされた。


(了)

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