第13話 「Mixd Green Oil and Vinegar」

 あの日――秀虎が明日夢と幣原蓑之助の壁画を見に行ったあの日――の妙にぎこちなかった別れのことを、明日夢は考える。

 いつもと違う秀虎の態度だった。

  あれは一体何だったのだろう? 不可解だった。心の片隅に小さなとげが刺さったような、落ち着かない気分だった。

 その週末があけた。

  大学で秀虎を見かけた明日夢が話しかけた。

 まるで何もなかったかのように接してくる。いつもどおりの会話、いつもどおりの態度。あの日、明日夢が漠然と感じた不安なんて、まるで杞憂だった――そうなると思っていた明日夢は、秀虎の眼の硬さに、とまどいをおぼえた。

 秀虎があの日のことを話題にすることはなかった。訊ねることもできなかった。それはそうさせない硬さだった。

 だから結局、いつものように当たり障りのない会話が、ふたりの間に交わされただけだった。

 何気ない会話の端に、一瞬、それを感じた。自分の言葉が、す――と間合いを外され、はじかれたような感触。

 それは……とうてい変化と呼べるようなしろものではなかったかもしれない。だけど明日夢は、秀虎との間に薄い膜一枚分ほどの距離を確かに感じた。

 明日夢はその距離にとまどい、身震いするような冷ややかさに襲われた。

 秀虎が示した硬さ、その距離は、手をのばすことをためらわせるものをはらんでいる。

 そう――

 みとめたくなかったけれど。

 明日夢は感じた。

 あの眼の硬さ、秀虎がまとった薄皮一枚分のそれは、きっと“拒絶”と云う名だ。


 別に待ち伏せしていたわけじゃないけれど、目指す達川が持田と何やら話ながら階段を下りてきたので、一瞬ためらったが、声をかけてみることにした。心当たりは彼しかいない。

「ちょっといい?」

 達川は段上から、明日夢をじっとみつめる。

「……持田、警察に連絡してくれ、大学に熊が出没してますって」

「……喰い殺してやろうか?」

「実績から云うと、猟友会の方が確実ね」

 横から持田が自信をもって薦める。

「まじめな話――ちょっと訊きたいことあるの」

「はいはい、何でしょう?」

 にやにやと笑いつつ、達川は両手を挙げた。そのまま歩きだしたので、持田と明日夢も並ぶ。講義棟を出て、学食へ向かう人の流れにのる。

「達川君、秀虎君と同じ高校だったよね、仲よかったの?」

「あいつ、友達いない根暗なやつだったから、ま、悪くはないって程度だけどな」

 ちゃかすような達川の態度に、明日夢はどんな風に切り出したらよいかちょっと悩む。その挙句、いくつか準備してきた中から、よりによって一番何が何だかわからない質問を口にした。

「秀虎君、絵とか美術とか……どうだったの?」

 並んで歩く明日夢の顔を、達川が妙な表情でちらりと横目で見た。

「どうって、どういうこと?」

「いやその……」

「何かあったのか?」

 やりとりするふたりに、持田が自然に距離をとった。

「……うん」

 歩きながら明日夢は、先日のことを釈然としない様子で話し出した。歩調が落ちる。達川はその話を気のない様子で聞いていたが、明日夢の話が終わると、複雑な表情でつぶやくように云った。

「あ~なるほどね、そんなことあったんだ。あの壁画ねぇ……どうりでここ何日か様子がおかしかったんだな、お前たち」

「気がついてたの?」

「……そりゃわかるって」

 ちらりと後ろについて歩く持田に視線をやり、つぶやくようにそう云うと不意に脚を止め、不機嫌そうな顔でそのまま黙りこんでしまった。明日夢はそんな達川を落ち着かなげに見ている。長いこと押し黙っていた達川が、やがて言葉を選ぶように口を開いた。

「あのな、北森……その件に関しちゃ、悪いがオレは何も云えない。熊谷のやつに直接訊いてくれ」

 口調も歯切れが悪く、表情も珍しくどこか煮えきらない。

「でも、話してくれる雰囲気じゃない」

「オレからは何も云えない」同じ言葉を繰りかえした。「第一、あいつが何であんな態度とるのか、オレにだってわけがわからん」

「……わかった、ありがと」

 しばらくにらむように見つめていたが、やがて明日夢は唇をとがらせ、ぽつりとつぶやくと、達川から離れていった。

「ばっかだなぁ……」

 明日夢の背中に向かって、持田はあきれたように小さくつぶやいた。

「あのふたり、何だかねぇ……」

「持田」

 憮然とした表情で達川。

「あい?」

「この件についちゃ、内緒にしといてくれないか?」

「あいあい、いいよ、この前のモンタージュの件とあわせて、貸しふたつだからね、にひひひ」

「勘弁してくれよ……」

 達川はげんなりと天を仰いだ。


 秀虎が入ってきても、達川はパソコンの画面を閉じることはなかった。ちらりと見やっただけで、涼しい顔をして画面へ視線をもどす。

 達川の趣味はAV観賞、エロ動画集め。知的な優等生ヅラの裏には、他の追随をゆるさないマニアの一面が隠れている。

 表裏に関係なく常時百人を越える女優の活動をチェックし、高校時代、あらゆるジャンル、嗜好に精通し、推薦にハズレはないと半ば畏怖をこめて周囲から云わしめた。

 玉石混交のエロ界の、苛烈にして茫洋な海原を渡る先導者として“性戦士”、“導師”、“鑑定士”、“神の眼を持つ男”、“原石ハンター”、“孤高のデジタルライブラリ”など数々の異名を持ち、男子生徒の間でその存在はまさに神であったことを知るのは、ここでは秀虎のみである。

「少しは隠せよ」

「お前が勝手にきたんだろうが。観るか?」

「結構」

 達川を無視して座りこみ、いつものように部屋に散らばる漫画を適当にぱらぱらと流し読む。部屋の中に沈黙が流れる。騒々しくゆれ動く画面の明度にあわせて、部屋の隅の暗がりが不規則にゆれる。

 別に特別なこともなく、いつもと変わりのないその夜。そのいいかげんな沈黙を破って、不意に達川の背中が話しかけてきた。

「……お前、北森といっしょに壁画、やっぱり見に行ったんだろ?」

「……ああ」

「何かあったのか?」

「別に……」

 漫画を読むふりをして、ぶっきらぼうに答える。達川はパソコンの画面を凝視したままだが、外されたヘッドホンから、かすかに声がもれる。とがめるような達川に、秀虎はふてくされたように逆に訊ねる。

「北森のやつ、何か云ったのか?」

「いや。でもお前たちの態度見てりゃわかるって」

「……」

「何か、もめてんじゃないのか?」

「……」

「幣原蓑之助の壁画のこととか……北森に説明してないんだろ?」

「……」

 背後の秀虎が強情な沈黙を護るので、達川はうんざりとため息をつき、言葉をつづけた。

「なぁ、北森のやつにはそういったこと、ちょっとぐらい話しといてもいいんじゃねぇか?」

「あいつに教えてやる義理なんてねぇよ。お前こそ何かかんちがいしてないか?」

 不機嫌そうに応える秀虎。

「はぁ……まぁな、確かにそんな義理はないわな」達川は面倒くさそうに、なげやりに答える。「でもな、正直云ってうっとうしいんだよね、そんな態度」

「だから何でもないって云ってんだろ」

「お前がまだ割り切れてないってのはわかるけどさ……」ちらと初めて秀虎へ視線を向けた。「自分のこと、敗け犬とか思ってない?いつまでそんな雰囲気に、気分よくひたってるつもり?」

「うるせえ、そんなことないって。大体お前には関係ないだろ」

 漫画を閉じて、秀虎は座りなおした。達川もくるりと椅子を回すと、正面から向き合う形となった。達川の背中越しのパソコンの画面の中では、男と女が後背位でせっせといたしている最中である。ふてくされたような秀虎と、冷ややかな達川。

 どちらかが何かを口にしたら、修復不能な亀裂がはいってしまいそうな、そんな危うげな対峙を終わらせたのは達川だった。

「ところで、オレ思うんだけどな……」

「あ?」

「AV――DVDになってから二時間とか四時間とか、ヘタすりゃ八時間なんてもんあるけどさ、長けりゃいいってもんじゃないよな。特に単体モノはどんなに努力したって間延びしちまうから、一本で飽きさせずにきっちりと観させるには、やはり六十分から九十分ぐらいがちょうどいい長さだ」

「……」

「どう思う?」

「……やかましい。誰のせいで、あいつを連れてくはめになったと思ってんだよ!」


 偶然だった――と云うほど広い敷地ではない。だがお互いがひとりの時に研究棟の裏手の、普段から通る者の少ない階段の上と下とでこんな風にはちあわせるなんて、めったにないことだろう。

 上から秀虎、下から明日夢。

 研究棟の角を曲がった明日夢も彼女の姿をみとめた秀虎も、一瞬だけためらったが、そのまま歩をすすめた。丘陵に沿って建てられた敷地である。裏の雑木林からのびた枝がおおって、木立のトンネルのようになっているので、昼でもやや薄暗い。

 下りていく秀虎と上っていく明日夢。何段かを間にはさんで、明日夢の脚が止まった。秀虎が眼をそらす。そのまま行きすぎようとした。

「――あのさ!」

 反射的に明日夢の声が出ていた。秀虎の顔がこわばったが、無視してつづける。

「ここんとこずっと変だよ、どうしたっての?」

「悪い、急いでんだ」

 突き放すような答えに、明日夢の頭にかっと血がのぼった。秀虎の前に立ちふさがる。こうなると、今日は秀虎の方が明日夢を見下ろすかたちになった。明日夢は腰に手をやり、怒りを押しこめた眼で秀虎をにらみ上げる。秀虎の眼にも緊張がはしったが、うろたえはしなかった。

「はっきり云ってくれませんか?何かあたしに、気に入らないことでもあるんですかぁ?」

 明日夢の声が低く、やけにバカ丁寧になった。怒った時の特徴だ。

「別に、北森の気のせいだろ」

 答える秀虎の声はよそよそしい。明日夢がいらだたしげに眉をひそめた。

「そんなわけないでしょ……あの壁画を見に行った日から……だよね?」

 秀虎は苦い顔をして、明日夢から視線をそらした。

「何なのよ!」

 声を荒げたすきに、秀虎はするっと明日夢の脇をすりぬけてしまった。あっと思う間もなかった。そのまま脚を早めるでもなく、階段を下りていく。

「ちょっと!」

 すれちがった背中に叫ぶ。階段を下りきって秀虎が振り返った。あの日別れた時のように、どこかいらだたしげで傷ついた気配をただよわせていた。見上げる秀虎の眼に、拒絶の硬さがあった。

 明日夢が言葉を失った数瞬の後、秀虎がのろのろと口を開いた。

 ずっと後から考えるとそれは、どうしようもなく手におえないほどに、ごちゃまぜで、未熟で、苦い追従と晦渋で味つけされた……

「北森……オレ……お前のこと、嫌いになった」

 言葉が身体にしみこんでくるまで、ずいぶん時間がかかった。その間、明日夢は金縛りにあったように、動くことができなかった。

 我にかえった時、秀虎の姿はなかった。明日夢が来たのと同じように、すぐそこの角を曲がっていったのだ。

「……って!ちょっと待てよ、おい! 嫌いになったって……はぁ……?」

 呆然と立ちつくしていた明日夢だったが、やがてむらむらと怒りがわいてきた。何なんだ、あの態度! 嫌いになった! 嫌いになっただってぇ!

 思わず叫んでいた。

「秀虎の――バカ!」

 ざわ、と木立が笑った。


(了)

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