第12話 「Butterfly and Moon」
「悪い、行かれなくなった」
と達川。秀虎の高校時代からの友じ……知人である。
「……おい」
憮然と抗議しかけた秀虎を悠々とさえぎって、
「ちょっと別件が入ってな、すまんがひとりで行ってくれ」
と、達川はあくまで軽い。
昼飯時の騒々しい学食の長テーブルをはさんで、達川はいつもの日替わり、秀虎は一番安いかけそばの相手をしながらの会話で、おまけに時折応援団やら運動部の連中が、学食の隅から隅まで響きわたるような蛮声で“アイサツ”をしているから、ふたりともやや声を張りあげないと、互いに届かない。
「元々お前だろうが、あれを見たいって云ったのは」
「あ~そりゃそうだけど、こっちもちょいとはずせなくってな……」
さすがにちょっと申し訳なさそうな達川だが、その殊勝さなんぞどこまで信用できるかはわからない。
「オレにひとりで行けってのか」
いじいじと煮えきらない秀虎のそんな様子に、達川は箸を止めた。非難するような眼だ。
「お前なぁ、まだ、ふっきれてないのか?」
「……そんなわけあるか」
居心地悪そうに箸でそばをつつく秀虎を見て、達川はしみじみ思った。
(女々しいやつ……)
「来年には取り壊されるんだろ? 行ってみたらどうなんだよ。いじけてたってはじまらないだろうが」
「アホか、そんなんじゃねぇって」
「だったら行けよ。いい機会だろ? ひとりじゃさみしいってんなら、誰かいっしょに来てもらえよ。オレだってお前とつるんでるせいでホモ疑惑があるんだから、迷惑なんだよ。この機会に友達つくれよ」
「オレだって、無理にお前についてきてもらいたいわけじゃない」
「オレはな、社交性のないお前が心配なんだ」
「いらんお世話だ。もういい、ひとりで行く――」
「どこに?」
「どこって、そりゃお前……幣は、ら……! 北森お前、どこからわいて出た!」
「お隣よろしいかしらぁ」
「もちろんどうぞ」
「達川に訊くな、オレに訊け」
秀虎の抗議を無視して、隣の席を占める北森明日夢。並んで座ると、明日夢の方が頭半分高い。明日夢は弁当箱を広げ、両手をあわせる。
「んで、どこに行こうっての?」
「北森には関係ないことだ」
「あぁ、男同士で行く場所だからな、北森についてこられちゃ、ちょっと困るんだよなぁ……」
ふくむところがいっぱいありそうな表情で達川はそう云った。明日夢の箸がぴたりと止まった。
「どーゆーこと?」
「お前、誤解をまねくようなこと、云うなよ」
「どーゆーこと?」
明日夢は箸の先を秀虎の頬にぐりぐりとねじりこみながら、険悪な雰囲気でもう一度訊ねる。
「痛い、痛い、痛い」
「行儀の悪いやっちゃなぁ」
あきれる達川をひとにらみで黙らせると、
「ちょっと、やらしいお店に行こうって考えてんじゃないでしょうね?」
「だとしても、お前にとやかく云われる筋合いは……痛い、痛い、痛いって!」
「心配ならついていけばいいだろう?」
達川がとんでもないことを云いだした。
「おい!」
「行くっ」
「まあまあ」人の悪そうな笑みをうかべて達川。「別にやましいとこがあるわけじゃないんだろ。つれていってやったらどうだ?」
「この野郎……」
歯ぎしりをしつつ、にらみつける。
「どこ行くの?」
「……」
「どこ行くのかって訊いてるよ」
にやにやしながら達川。明日夢が隣からにらみつけてくる。
「絵だよ」不承々々応える。「絵を見に行くんだ」
三日後の土曜日の午後――
待ち合わせ時間を少し遅れてやってきた秀虎にも、明日夢は別に文句も云わず「よぅっ」と笑いかけた。
今でも、あそこへ明日夢をつれていくのは抵抗がある。本当は待ちぼうけをくわせて置いていこうかとか、いろいろ考えてはみたのだが、ちょっと不安そうだった彼女の表情が自分をみとめた瞬間、安堵に輝いたのを見た時、やはりそんな真似はしなくてよかったと思った。
待ち合わせの場所に立つ明日夢は、とんでもなく長い脚にぴったりのデニムに、しっかりとスニーカー。
まさか妙な勘違いなどするとは思えないけど、とりあえず動きやすくて、汚れてもいい格好で来いと伝えていた。
電車にゆられてわずか十五分。考えてみれば、こんな形でふたりで歩くのは初めてだ。
「わぁい、初めてのデートだ」
「お前、やっぱり何か勘違いしてるだろ」
集合場所は降りた駅前の広場だった。二十人ぐらいが集まっている。性別も年齢もばらばらだが、どちらかというと年配が多い。次が中年の女性で、明日夢たちぐらいの若い者も若干いる。
この集まりが何なのか、明日夢にはよくわからなかった。秀虎は説明らしい説明をまったくしていない。
「来ましたね、熊谷君。大学生になったんだって?」
集団の中心にいた縁なしの眼鏡をかけた白髪の男性が、秀虎を呼びとめた。小柄で、眼鏡の奥の眼がおだやかに笑っている印象だ。傍らには髪をアップにしたジーンズ姿の小柄な女性がいる。
「はい。花興大です」
「え、花大……?」その男性は意外そうに眼を見開いた。「そうか、それじゃあ……」
口の中でひとりで納得するかのようにつぶやくと、話題を変えた。
「こちらの方は、お友だちですか?」
明日夢がであった中で、一番丁寧な口調の大人で、向かい合っていると何となく背筋が伸びるような話し方をする人だ。
「はい、熊谷君と同じ大学の北森と云います」
「こちらこそ初めまして。
名乗ったところで、夫婦と思われる年配の一組が黛に声をかけてきた。また後でと秀虎はその場を離れた。
「誰、誰、今の?」
彼らから充分離れたところで、明日夢は耳元でささやいた。
「緑ヶ丘美大の黛先生」
ぶっきらぼうに秀虎が応える。
「美大――え? 何で秀虎君知ってんの、君、県外じゃん?」
「……」
「ちょっと、隠し事? 態度悪いよ」
問い詰めかけたとき、あの先生の傍らにいた女性が一同に声をかけ、束になった資料を配りはじめた。黛が簡単な挨拶をはじめる。
「何がはじまんの?」
「黙ってろよ」
無愛想に秀虎が応える。
「本日の鑑賞会にお集まりのみなさんは、もうすでに何度も見にこられた方もいると思います。幣原蓑之助も根強いファンをお持ちのようですね」
すごく丁寧でやわらかい言葉で話す黛に、周囲の年配たちから笑い声がもれる。
「さて、初めての方もいらっしゃるようですので、ここで少し幣原蓑之助についてお話をしてみたいと思います……」
明日夢は配られてきた手元の資料に眼をおとした。
幣原蓑之助――
生まれたのは大正十一(1922)年。幼少時より画家を目指していたが、徴兵されて南方戦線に送られ、かろうじて生きのびて終戦を迎えた。戦後は九州の画壇を中心に、鮮やかな色彩を特徴とした画風で活躍をした。特に南方での風情と戦争の想いを幻想的に表現した一連のシリ-ズ作は、戦地での若き日の幣原の苦悩を余すところなくさらけ出し、七十歳で没する直前まで精力的に描きつづけられた――と黛はその人物のことを説明した。
ちらりと隣の秀虎の表情をぬすみ見ると、複雑な顔をしている。
ひととおり、幣原という画家について説明を受けると、一同は駅前のアーケード街をぞろぞろとかたまって歩き出した。行きかう通行人が、何事かと振りかえる。
秀虎は絵を見ると云っていたが、こんなアーケード街の一体どこにそんなものがあるのだろうか? 明日夢は首をひねる。
やがてシャッターの降りた一棟の前に到着した。何の建物だったんだろうか、他の店舗にくらべてかなり広い間口で、ビルひとつが丸ごと封鎖されていた。ビルの前には相当年配の男性がふたり待っている。
「お忙しいところ申し訳ありません。今年もお世話になります」
「いや、何が忙しいものか。毎年のこれが、もう私のたったひとつの自慢ですからねぇ」
「それにもう今年で最期ですかぁ」
黛と親しく挨拶を交わす。
「こちらは西光映画館ビルのオーナーの長尾さんと、隣接するビルのオーナーの小栗さんです。もうお馴染みの方もいらっしゃいますね……さて……」
と黛はいずまいを正し、再び説明をはじめる。さすが大学の先生らしく手馴れたものだ。
「本日みなさんにご覧になっていただく『蝶と月』は、幣原の傑作のひとつと云われています。第五回日本国際美術展で最優秀賞を受賞した『蝶と月』を、幣原自身が指揮して、昭和三十六年にこの西光映画館ビルにモザイク壁画として制作したものです。なぜこのビルに作られたのかは、残念ながら先代の映画館のオーナーが亡くなられていますので、はっきりしたことはわかりませんが、おそらく幣原との間に何らかの交流があったと考えられます」
なるほど、云われてみればこのビルが他のとくらべてやや広い間口を持っていることも説明がつく。しかしこの規模では、それほど収容人数も多くなかったろう。
「この壁画は高さおよそ13.8m、幅10.2mの巨大な壁画で、三十cm四方のタイル、千五百枚余りが使われています。長い間街の名物となり多くの人々に親しまれ、また芸術的にも非常に価値のあるもので、多くの美術専門誌や写真集にも掲載されています。しかしやがて、映画館の閉鎖や市街地の再開発などにともなう周辺ビルの建造によって、表通りからは見えなくなってしまいました。現在ではこのビルの壁にそのような壁画があったことを知っている人は、ほとんどいないでしょう。幸いビルの所有者の長尾さんは幣原の壁画の芸術性を惜しんで取り壊さなかったため、現在でも鑑賞することができますが、構造上見ることができるのは隣のビルからだけです」
黛の言葉に、長尾はてれくさそうにぺこりと小さく頭を下げた。一同もばらばらに礼を返す。
明日夢はシャッターで閉鎖されたビルを見上げた。壁がくすみシャッターもさびが浮き、ところどころ落書きがされている。人の出入りがなくなった建物がかもし出す廃頽の雰囲気は、見るのがはばかられる寒々しさだ。
この――これらの廃墟にも似た一角の奥に、そのようなものが人知れず存在しているなんて、明日夢にはちょっと信じられない。
「この鑑賞会は十年前からつづいていますが、小栗さんのご好意で、毎年隣のビルに立ち入らせていただきます」
小栗がポケットから鍵を出し、シャッター横の扉を開ける。すぐにコンクリの登りの階段があった。一同、かばんやザックから懐中電灯を取り出した。見ると秀虎もちゃんと準備している。
「脚下も気をつけてください。もう使わなくなって何年もたつので、もちろん電気はきていませんから」
小栗がそう云い、先頭に立つ。つづいて黛と長尾、そして参加者たちがその後にぞろぞろとつづく。秀虎と明日夢は列の最後尾を歩く。
階段は確かに薄暗かったが、どこからともなく光が入ってきているようだ。それに参加者たちの懐中電灯の光が飛び交い、思ったほどは危なくなかった。
「秀虎君、怖いよぉ……」
「うそつけ。服をつかむな、くっつくな、文句あるならのこってろ」
「あ、冷たい。変なとこさわんないでよ」
小声で怒鳴りあいながら、前を歩くふたりの老婦人に合わせてゆっくりと登っていく。
かびくさいし、何やら薬品のようなインクのような、以前どこかで嗅いだ記憶があるような匂いもする。繁華街の一角にあるので、おそらくは店舗や事務所が入っていたのだろうが、今はもうすべてがなくなっており、ただただわびしさがただよう廃墟のようなものだ。
階段を登ると今度はせまい廊下をぐるっとめぐり、また階段。前方の参加者たちは常連もいるからだろうか、別に気後れする風もなく、小声でだが気安くしゃべりあいながら進んでいく。曲がったり登ったりするうちに、明日夢は自分がどこにいるのか、すっかりわからなくなった。背も高いから、このような天井が低く薄暗い建物の中は、圧迫されるような気分がして苦手なのだ。
いつの間にか秀虎のシャツのすそをしっかりと握っていた。秀虎ももう何も云わない。
しばらく進むと、今度は降りはじめていた。何度か降ると周囲はほのかに明るくなり、やがて長方形に区切られた光の扉を抜け、ようやく外へ出た。そこは非常階段の出口だが、眼前には別の建物の壁があり、小栗が所有しているビルとの間は二メートルもない。
「あなた、こちらみたいですよ」
前を歩いていた老婦人が、見上げてぼんやりしている明日夢に言葉をかけた。一同は壁にそって左手の方へ進んでいく。
どういうわけか、全体がうっすらとした光の中だった。明日夢たちはその光の中を歩く。建物の角を曲がると、そこにはちょうど一棟分の空き地があった。ぼんやりとした明るさは、屋根が半過光のアーケードになっており、それを通して光が降りそそいでいたのだ。
そしてその正面に、見上げるようなその壁画があった。
――それは……壁一面にはばたく無数の蝶たちだった。
藍々とした夜空、壁画面の右上に描かれたまばゆい黄金の満月にむかって、左下から大きく弧を描いて飛翔する無数の蝶――あるいは瑠璃色の、あるいは黒紫の、あるいは淡黄色のきらめく翅を持つ彼らには、陽炎のようなしなやかな腕があり脚があり、そして造作も何もないのっぺらぼうのような頭部があった。
満月が桃源郷の入り口であるかのように、無数の蝶たちは導かれるように先を争ってはばたき、あるものは舞踏するように身をよじらせ、あるものは抱きあい交歓しているようにも見えた。
月を目指してはばたく、人とも蝶の化身とも云いがたい彼らの飛翔は、すべてを振り切ったような純真さと無我の気高さがあった。
美しい絵であった。
幻想と幽玄に引きこまれる、そのような美しさが蝶の群れにはあった。
眼にする者すべての心をとらえる美しさである。
まるで恍惚の態とでも云うべき陶酔がそこにはある――黛はさきほどそのように解説をした。
しかし……
――しかし明日夢は想う。それは本当に陶酔なのだろうか?
満月が発する夜光は南方の夜を藍色に染めあげ、鮮やかな色彩の蝶たちが全面にきらめいていても、無機質に月を目指す彼らは無表情で、ただ幽冥のごとくにはかなげで、何かを喪失したかのような無常さがある。
蝶たちはどこへ行くのだろうか? どこへ行ってしまうのだろうか?
もちろん明日夢は絵心なんてない。幣原蓑之助の名前なんて、今日初めて聞いた。彼が何を想って生きてきたか、何を絵に託したか、そんなことなんてまるで知らない。
黛は陶酔と表現した。だけど……
……だけど、その壁画を眼にしているうちに、奥底から名状しがたい哀しみがにじみ出てきた。
哀しかった。
とても哀しい絵だと思った。
それが……明日夢の感じた『蝶と月』だった……
蝶のはばたきがにじんだ。
あぁ……自分は涙を流しているんだなぁと、ぼんやり考えた。でも自分の中に湧き出ているこの哀しみに、心をゆだねている方が大切で、ぬぐおうという気はおきなかった。
いつまでも、明日夢は『蝶と月』を見上げていた。
その上方のアーケードを透して降りそそぐ光は、やわらかにみんなを包みこんでいる。
南方の夜を描いた幣原箕之助の幻想は、何十万人もの人々が住み暮らす都市の真ん中のこの箱庭のような空間で、真昼の陽光の下にあってもその静けさを失わない。
夢の中にいるみたいだった。
誰かが手を握っていてくれた。秀虎だ――ということはわかった。そして、視界の端に秀虎がいた。でもどういうわけか、ひどく傷ついたような顔をしていた。
あれからどれぐらい、そうしていたかわからない。夢をみていた心地の明日夢は、参加者の群れとともに再びビルに入りアーケード街を歩き、そして集合場所にもどった。その間、ひとことも口をきいていない。しゃべれば、何かがこぼれ出てしまいそうだったからだ。
秀虎はむっつりと、何か怒ったような不機嫌な様子だったが、その時の明日夢は気にもとまらなかった。
集合場所で、また黛が何かを説明して解散となった。参加者たちはすぐに帰らずに、黛や中尾たちをかこんでさかんに言葉を交わしている。
だが秀虎は挨拶をする風でもなく、明日夢の手をとって群れから離れた。いつもの彼とはどこか違う。そのまま駅へ向かう秀虎の様子に、明日夢もようやく妙だと気がついた。
「秀虎君? 先生に……何か話があるんじゃ?」
「いや、いいんだ別に……」
秀虎の背中が答えた。
「待って、熊谷君――」
駅の構内で声をかけられ振り返ると、黛といっしょにいた女性だった。走ってきたのか息が荒い。歳のころは三十前後だろうか。のどを鳴らしている時の猫みたいに細い眼が愛らしいけれど、すごく頭のよさそうな人だ。黛の助手か何かだろうと明日夢は思った。
「黛先生がよかったら連絡をくださいって」
そう云うと名刺を差し出した。秀虎の顔に、一瞬だけ険しいものが走ったが、少し迷っておずおずと手を出した。
「先生のケータイ番号も書いてるから。まぁ先生、あまりケータイに出る方じゃないから、研究室に直接かけた方が確実よ、あたしもそうしてるから」
「……はぁ?」
「あ、あたしは遠山と云います。先生のとこの卒業生。今は厳峰社って美術誌専門の小さい出版社にいます。今年から九州営業所に転属になってね、元々先生の推薦で入ったようなものだから、それからは黛先生担当みたいな形なの。だから今回のような先生の企画でもお手伝いってわけ」
笑うとますます猫みたいだった。遠山は明日夢を見上げつつ、しみじみとつづけた。
「ひょっとして彼女?」
「違います」
「熊谷君の友達がくるはずだったんですが、これなくなったので代理です」
「あらそうごめんね~。お姉さん、すぐ勘ぐっちゃうから、あははは」
そんな歳でもないくせに、遠山はおかしそうに笑う。
「でもひょっとしたら『蝶と月』の件では、熊谷君にもお世話になるかもしれないから、よろしくね」
「……え?」
秀虎が驚いたように声をあげた。
「あら、先生の話、ちゃんと聞いてなかったね?」遠山はそう云うと腰に手をやり胸をはる。「あの『蝶と月』ね、ビルの取り壊しにともなって移転されることになってるのよ。先生も移転のための有識者会議の一員でね、熱心にされてたんだけど、今度ようやく引き受けてくれるところがあったの」
秀虎は戸惑いながらうなずいた。遠山はそんな秀虎の様子に、いたずらっぽくにんまりと笑った。
「場所はね――花興大の本部棟。そう、熊谷君の大学よ。まだオフレコでお願いしたいんだけど、来年の春の改修にあわせて移設される予定だからね」
帰りの電車の中でも、明日夢の余韻は消えていなかった。視界がほんのりと潤んでいた。まだ涙腺はあの絵を忘れていないらしい。眼が真っ赤になっている。時折小さく鼻をすすった。
幣原蓑之助の描いた無数の蝶と月。それは明日夢にこれまでにない感覚を呼び覚ました。
自分が何に感じたのか、自分ですらわからなかったが、生まれてはじめて絵で心が揺さぶられた。
人はひょっとしたら、人生で何度かそんな瞬間に直面するのかもしれない。
隣に座る秀虎の様子は、さっきから変わらなかった。何も話そうとせず、困惑しているようであった。
電車から降りて改札口を抜けた。もう夕方に近い。
「秀虎君、何か食べていこ。お酒呑まない?」
明日夢はようやくいつもの調子がもどってきた。秀虎の前で涙を見せてしまったことが、今さら恥ずかしく感じた。ごまかすために誘ってみた。
「いや……」戸惑いながらも、はっきりと秀虎は断った。「今日は帰る、じゃあな……」
「え~?」
唇をとがらせた明日夢をそのままにして、秀虎は背を向けた。歩き出そうとして、振り返った。
「あ、今日はつきあってくれて、ありがとな」
そっけなくそれだけ云うと、さっさと離れていく。いつもなら強引にくっついていく明日夢だったが、秀虎のどこかきっぱりとした拒絶の雰囲気に動けなかった。それに今日のできごとは彼女にしても経験のないことであり、どこか調子が狂ってもいた。
だが遠ざかっていく背中を見つめながら、あの絵を見てから秀虎が一度も自分の顔をまともに見ていなかったことに、ふと気がついた。
(了)
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