第9話 「Go ahead, make my day!」(前編)
明日の朝一番の講義で使う教材を買っとかないといけなかったってことを憶いだしたのは、居酒屋の長テーブルに座って、何杯めかの生のジョッキを手にしていた時だった。
思わずしまったと叫んだボクに、周りに座っていた達川や北森、それに久川、持田、柿本の視線が集中する。何でこのメンツで呑んでんだかって疑問は、この場合割愛。
「どしたの?」
北森が訊ねる。
その講義は教官が自著を使ってするので、購入してないと、端っから単位はもらえない。せこい教官だよ。それも何冊かある自著のうち――あんなオッサンの本を出版しようって奇特な会社があるのが、そもそも不思議に思う――その年によってどれを使うかわからないって念の入れようだから、先輩から譲ってもらうってわけにはいかないし、仮に持っている先輩がいたって、競争率はべらぼうに高く、要領の悪いボクなんかじゃ、とてもじゃないが手に入る見こみはない。高校時代みたいに隣のクラスから借りることもできない。
つまりは購入せざるをえないってことだ。ボクのように留年が許されない身分だと、単位はなるべく落としたくない。
「……んじゃ、買えばいいじゃん?」
首をかしげる北森。
「……お金がない」
「今、お前いくら持ってんだ?」
と達川。
「ええっと……千二百円ぐらいかなぁ?」
「それだけしか持ってないのに、酒呑みに来たのかお前は!」
「初めっからたかる気だったんだ!」
「ちょっと、アタシの分もはらわせようと思ってたのにぃ」
達川たちが次々に非難の声をあげるが、仕方ない。だってないものはないんだから。大体、誘う方が悪い、ってか北森、お前今どさくさにまぎれて何て云った?
「明日の朝一、銀行に行っておろしてくりゃいいだろ」
達川は冷たく簡単に云ってくれるが、それじゃ講義に間に合わない。
「知らねえよ、お前が悪いんじゃねぇか。オレは貸さねぇからな」
こいつとは高校からの付き合いだから、他の連中より察するのが早い。達川のガードはすでに万全だ。仕方ないので矛先を変更。
「北森、愛してる」
「嬉しい、あたしも」
「だからお金貸してくれ」
「やなこった」
明日夢がべぇっと舌を出す。隣で柿本が、きゃっきゃと腹をかかえて笑い出した。ちくしょう……脚をばたばたさせてるから、短いスカートからパンツ見えそうだ。
「柿本、今ボクは本当の自分の気持ちに気がついた。何で気がつかなかったんだろう、こんな美女がボクのすぐそばにいたなんて。これは運命だ。柿本、愛してから、無利息の催促なしで金かしてらるる……痛い、痛い、痛い」
隣から明日夢が万力のような力で、ボクの頬をつねりあげる。
「そんなこと云うの、この口?」
「どうしよう明日夢君」柿本が両掌を胸の前で組み合わせて「アタシこんな情熱的な告白されたの初めて。よろめいてしまいそうです」
「だから何よ、あたしには関係ない。勝手にすれば」
むくれてそっぽをむく明日夢。
「秀虎君、あたしに期待しないでね」
おごそかに右手を上げつつ持田。
「右に同じ」
と久川。
「コンビニでおろせ、熊谷君」達川が冷たく云いはなつ。「この店の払いは貸しておくから、きっちり利息を上乗せして返すように」
薄情者たちめ。
結局、コンビニのATMで下ろすしかないってことになった。手数料を考えただけで腹が立つので、なるべくなら利用したくなかったのだが、仕方ない。明日夢が今さら貸すって云うけれど、こいつに借りを作ったら、どんなめに合うかわからんので却下。
連中とは店の前で別々となったが、明日夢はのこのことついてくる。
「さっさと帰れ」
「あたしん家こっち」
「だったら離れて歩け」
「やだ」
くそぉ……女のくせに非常識にも百八十二cmもありやがる明日夢は、ボクよりええと……約十二cm高い。並んで歩かれると屈辱だ、切腹ものだ。
小高い丘の中腹にある大学は、正面の通りが南にむかってゆるやかに傾斜している。このあたり一帯は戦前は財閥の別荘地だったために、いまだにうっそうとした木立を塀内に繁らせている古い屋敷が、あちらこちらにのこっていて、脇道に入ると、学周辺の騒々しさとはちょっと雰囲気が変わる。情報誌の常連の古い洋館を利用したリストランテなんてのもあるらしいが、貧乏学生には無縁のしろもの。
新学期になったってのに、もうすでに汗ばむぐらいの陽気だけど、さすがに夜は肌寒い。
ボクは近道をして帰り道途中のコンビニに寄ろうと考えていた。人通りの少ない閑散とした通りに、場違いな灯りが遠くからでもはっきりとわかる。
いつも思うのだが、いくら学生街とは云え、こんな人気のないところに店出して、ちゃんとやっていけるんだろうか? 経営戦略、ミスってるとしか思えない。現に駐車場は案の定一台の車も止まっていない。スクーターが一台、不用心にエンジンをかけっぱなしのまま、低くアイドリングをつづけているだけだ。
ジーンズの尻ポケットから財布を出して開き、カードを確認する。
「お前、もう帰れよ」
「……あ」
明日夢が何を云おうとしたのかわからない。その表情にボクの方が驚いたが、その視線が肩越しに背後を見ていた理由がわからなかった。ボクが振りかえるのと、ポスターがやたら貼られた入り口のドアが大きな音をたてて、乱暴に開け放たのが同時だった。
中から転がるように飛び出してきた人影が、ものすごい勢いでぶつかってきて、突き飛ばされたボクは、相手もろともに倒れこんでしまい、手にしていた財布やら肩にかけていたバッグやらを、駐車場にぶちまけてしまった。
飛び出してきた――男がかぶっていたフルフェイスのメットが、音を立てて駐車場に転がる。ロックをしていなかったんだろうか、本来なら簡単に外れるはずもないのに、もののはずみだろう。
「痛ってぇ……」突き飛ばされたときに、思い切り肘をすりむいてしまった。「何だってぇんだ……」
相手も顔をしかめながら立ち上がり、「くそが、返せよ!」とぶつかったはずみで落としてしまったバッグやメットを大慌てで拾い集めると、ボクを憎々しげににらみつけ、エンジンがかけっぱなしで置かれていたスクーターに飛び乗り、前輪を浮かせるぐらいの慌てっぷりでたちまち走り去ってしまった。
「ちょっと……何あれ?」
明日夢が憤慨する。ボクは尻もちをついたまま、ちょっと唖然となっていたけど、落としていたバッグを拾いあげようとして、どこにも見あたらないのに気がついた。さっきのやつが間違って持っていきやがったんだ。おまけに財布までない。血の気が引いた。
店内から店の制服を着た、小太りの店員がよろけるように出てきた。
「――逃げた? ねぇ今のやつ、逃げたの?」
丸眼鏡の奥の眼が血走っている。
「ちょっと……何で逃がしちゃうの!」
「は……あの?」ボクは店員を見上げつつ「ひょっとして今の……」
「強盗!」短い手脚をばたつかせながら叫ぶ。「コンビニ強盗だってばさ! お金……お金盗られたって、警察、警察呼んで! 何してんの、急いでちょっと!」
その人は谷さんって云って、コンビニの店長だった。三十代前半ぐらいだろうか、気の弱そうな人で、警察が来るまでいてくれって頼まれたから、仕方なく居残る羽目になってしまった。
谷さんは店の前で落ち着かなげにうろうろしながら、その時の状況をボクらに話しかけてくる。
「急にね、メットかぶったやつが入ってきて、いきなりナイフ突きつけて『金出せ!』だよ。もうね、びっくり。僕だって普段だったらそんなふざけたこと聞く人じゃないけどさ、まぁほら、店もやってるからね、あんまり無茶なことできないから、とりあえずお金渡してさ、後ろから取り押さえようと思ったわけ。そしたらさ、君たちが店の外にいるのが見えたから、巻きこむわけにはいかないでしょ? しかたなく諦めたんだよね」
「……あたしたちがいたから、捕まえられなかったって云うんですか?」
明日夢がむっとして訊きただす。
「いやまぁ、そんなわけじゃないけどさ、そりゃもう仕方ないよ。ごめん、ごめん、誰が悪いってわけじゃないから、気にしないで、いやいや本当」
明るい店の中から外が見えるわけない。このオッサンがナイフ突きつけられて腰抜かしてた方に、一週間分の夕飯を賭けたっていい。うんざりしてるボクらにも気がつかず、完全な躁状態でつづける。
「あ、『金出せ』しか云わなかったけどさ、どうも日本人じゃないんじゃないかなぁ? イントネーションがおかしかったもん。ほら僕さ、耳はちょっと自慢できるぐらいいい人だから、そのあたりすぐわかるんだよね。あれひょっとして最近流行の外国人コンビニ強盗じゃないかな? 君たち知ってる? 日本の外国人犯罪、中国人が一番多いんだよ。それでね、日本人の犯罪って云われているうち、実はほとんどが在日なんだって……」
「警察、遅いですねぇ。あたしたち早く帰りたいんですけど」
冷ややかな明日夢。その口調にさすがに気がついたのか、急にトーンダウンする。
「あ、あぁ……ごめんね、君たちまで巻きこんじゃって。でも犯人の顔見たの君たちだけだから……」
「はぁ……まぁ構いませんけど……一体いくらぐらい盗られたんですか」
ずっと黙っているのも気づまりなので、適当に相槌をうつけど、ボクとしては金は下ろせないは、財布まで持っていかれたはで踏んだりけったりだ。話を合わせたボクに、明日夢がこの八方美人が、とでも云いたげな表情をする。
「レジに入っていた五万円ぐらいかなぁ……それ以上はこまめに金庫に入れるんだよ。あぁ、何でこんなめにあわなきゃなんないんだよ。大損だ……」
今度は一気に底辺にまで不時着した。
「コンビニって、強盗に入られた時のための保険に加入してるって聞いたことありますけど?」
話を適当に合わせようと、伝え聞いた噂話を口にする。
「お金の問題じゃないんですよねぇ。強盗に入られたってことは本部の査定にも響くし、夜間の勤務状況とか警備体制とかいろいろ調査されて、痛くもない腹探られるし、第一強盗に入られたような店に来ようって思います?」
ボクと明日夢は顔を見合わせた。
「まぁ確かに、それはちょっと……」
「うちは三代つづく酒屋だったんですよ。でもね、これからはそれじゃやっていけないから、親父の反対を押し切って僕がコンビニにしたんですよね。君、コンビニなんてどこにでもあるから、誰にでもできるって考えてません? 大変なんですよ。出店は激しいから競争は過密だし、フランチャイズだからノルマは厳しいし、二十四時間営業だから休みなんてまるでないんですよ。啖呵きって店変えちゃったけど、こんなことなら細々と酒の配達でもしときゃよかった。強盗に入られましたって、、どの面下げて親父に云やいいんだよ……あぁ、警察、いつまでかかんだよ……」
谷さんは制服姿のまま、店の前の駐車場の車止めに腰を下ろして、そんな感じでいつまでも延々と愚痴ってた。
躁でも鬱でも、うっとうしいことこの上ない。ボクと明日夢は、こっそりため息をついた。
てっきりひとりかふたりの制服姿の警官が来るのかと思ったら、四、五人の制服と、私服刑事って云うのか、とにかくどこにでもいそうなオッサンがふたり、赤色灯を回転させたパトカー二台から降りてきたのにはびっくりした。
たちまちあたりが騒々しくなった。パトカーはサイレンの音こそさせていないが、赤色灯は猛烈な勢いで付近にここで変事があったってことをさかんに喧伝している。今にどこからともなく野次馬が集まってくるだろう。ボクの肘がわずかににじんだだけで、流血沙汰もおきていないのは、彼らにとっては遺憾なことであろうが、それでもスマホのカメラ機能の性能を競う絶好の機会であるのは間違いないだろう。
谷さんと云えば、さっきまでの勇ましい武勇伝も愚痴もどこかへ行ってしまったのか、私服刑事の質問にしどろもどろに答えている。制服警官たちは、スクーターの停車してあったあたりで何事か相談している。ボクと明日夢は急に手持ち無沙汰になり、店の前に突っ立っているしか能がない。赤色灯に規則正しく照らされるボクらは、どうにも落ち着かない。
「何か、大事になってない?」
と明日夢が訊ねる。ボクも何となくそう感じていたから、うなずいてみせた。
しばらくすると、私服刑事らしきふたりがボクらに近寄ってきた。こんな真夜中に出動するはめになったってのに、どちらもにこにこと笑っているが、明日夢の身長が見上げるほどのものだと認識した時、無意識に口が半開きになっていた。
「やや、どうもどうも、花興署の捜査一課の蝦名と云います。コチラは鯖江」
それでもめげずに気をとりなおして年長の方、むしろ定年に近いんじゃないかってぐらいの年かさの私服刑事が、手帳を見せつつ挨拶をする。もう一方はまだ三十代ぐらいで、コチラもペコリと頭を下げる。エビにサバに……海産物コンビだ。横柄なところもなく、むしろ腰が低いぐらいで、ドラマなんかで観るような切れ者って感じじゃなくって、むしろ会社員とか公務員って印象……あ、警察官も公務員だった。
「大変だったねぇ君たち」実に愛想よく蝦名刑事が「で――店から飛び出してきた男の顔、見たって?」
「は、はぁ……」
「本当に? ヘルメットかぶっていたって訊いたよ」
「ちょうど店の前でぶつかって、それで向こうのメットがぬげてしまったんですよ」
云ってから、何かちょっと信じてもらえってないような雰囲気に少し腹がたったので、云わずもがななことを付け加えてしまった。
「うそじゃありません」
「いやいや、うそだなんて思っちゃいないよ。しかし、やつもへまこいたねぇ」
心当たりがあるような口調で、蝦名刑事がペンのお尻で頭をかく。
「鯖江、坂本さんに来てもらうように手配して」
「わかりました」
「……?」
「あぁ、似顔絵のプロがいるんだ。悪いけど、君たちもう少し付き合ってもらうよ」
「えぇ?」
ボクと明日夢は思わず不満をもらしてしまった。もうとっくに真夜中はすぎてしまっている。どっと疲れてしまっていて、とっとと帰って布団にもぐりこみたい気分だ。谷さんにお願いされて居残ってしまったことを、ボクは後悔していた。
「いや、悪いんだけどね、やつの顔見た目撃者は君たちだけだから……」
「蝦名さん!」鯖江刑事が遠くから叫ぶ。「だめです! 坂本さん、例のひき逃げの方に行ったらしいです! もう一、二時間はかかりますよ、ありゃ」
「あちゃ~」と天を仰いだ蝦名だったが、どうにもいまいち真剣味が感じられない。「どうしてあっち行っちゃうかなぁ? ……お~い鯖江、お前絵は得意だったっけ?」
「だめっす。まったくダメ」
鯖江刑事は、パトカーからスケッチブックだけ持ってきつつ、大げさに手を振る。
「誰かいないか? さらさらっと描けるやつ」
「無茶云わんでくださいよ」
「このあたり、美術の先生でも住んでないかな?」
「たたき起こして、似顔絵描いてもらうんですか? オレやりませんよ、そんなこと」
……漫才かよ。
「あ~君たち、朝までいてもらうってわけにはいけないよねぇ……」
「嫌です」
「いけません」
ボクと明日夢は同時に拒否する。
「まぁそうだよね……でもよく考えてみたらいいかなぁって気にならない?」
「嫌です」
「なりません!」
「何もここじゃなくてもね、署まで来てくれれば仮眠室もあるし、そうだ天丼ぐらいおごるよ」
「何で天丼なんですか? 普通はカツ丼じゃないんですか?」
ボクは呆れたが、明日夢は律儀につっこむ。
「いや、いつも出前とる店、天丼の方が美味いんだよ。カツ丼はすすめないねぇ、揚げすぎでコロモばりばりなんだよ」
「あ~君たちさ、これは重要な捜査の一環なんだよ、あんまりわがまま云わないで、協力してくれないかなぁ」
「あ、オレがもっと穏便に説得しようと思ってたのに、お前、そういう威圧的な態度はよくないだろが、公僕だよオレら」
これじゃらちがあかないと思ったのか、鯖江刑事が口をはさむと、当の蝦名刑事はまたわけのわからないことを云う。この人たち、実はひまなんじゃないのか?
ボクは鯖江刑事が手にしているスケッチブックを見た。明日夢を見ると、こいつも帰りたいって顔している。あたりを見渡せば、深夜だってのに、だんだんと野次馬が増えている。そして何より、ボク自身が一刻も早くこの場を立ち去りたくってたまらなかった。
ボクは何となくはめられたような、すごく理不尽な気持ちになった。
「貸してください」
鯖江刑事の手からスケッチブックと鉛筆を奪う。真新しいスケッチブックと握った鉛筆の感触に、一瞬後悔に似た感情が走りぬけたが、こんな騒動さっさと終わらせて帰りたいって欲求の方が勝った。
深呼吸をひとつすると、さっきぶつかってきた男の顔を、できるかぎり記憶の中から引っ張り出した。ひとりの男の顔がはっきりと脳裏に浮かぶ。その特徴も。その記憶をなぞるようにして、ためらいながらも指が動きはじめていた。
(つづく)
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