第5話 「Black Knight」(前編)

 話はさっきから、ずっと堂々巡りだった。

 苛立ち、焦り、そして怯え――男の指にはさまれて小ぎざみに震える煙草が、何より雄弁に彼を語っていると、明日夢は思った。

「納得いかねぇぞ、オレは」かすれた声で彼。「別れたい? ふざけんなよ」

 明日夢は無表情のまま、男の言葉を意識のごく浅い場所までしか受け止めなかった。

「理由を云えよ、理由。何かオレに不満でもあんのかよ。あったら云ってみろよ」

「不満なんてないよ」

「じゃあ何で」

 そう云いながら、せわしなく煙草を口許に持っていく。

「他にオトコできたんじゃねぇのか? 誰だよそいつ」

「違うよ」震える声で反論する。「オトコなんて、そんな……」

 彼は舌打ちをすると、コーヒーを乱暴に一口飲む。

 男がいて、女がいて、そして彼らの間にはやっかいな沈黙が図々しく居座っている。騒々しいファミリーレストランで、その一角だけが重苦しい緊張感につつまれているようだった。

 彼は煙草の灰を落とすと、茶色に染めた頭に手をやり、うんざりともう一度訊ねる。

「それつまり、オレのこと、嫌になったわけ?」

 眼に怒りがある。話し合いを次第に放棄しはじめていた。彼がそんな眼をした時、いつだって最悪のことがおきた。女に手を上げることに、彼は少しも躊躇しなかった。

「どうなんだ?」

「それは……」

 明日夢はテーブルの下で、手を固く握りしめた。

「オレのこと、嫌になったのか?」

「いや、その……別に相澤君のこと、嫌いとかじゃなくって……」

「じゃあ何でだよ。別れたいって云ったの、お前だろ?」

 相澤の言葉に嘲りがまじる。どうせ本気で別れるなんてできやしない、ちょっと脅せば考えが変わると思っているのだ。それがわかるから、彼女は悔しくって唇を噛む。このままじゃだめだってわかっているのに、どうしても強く云えない。膝の上の手は固く握り締められ、小さく震えている。我慢しようとしたができなかった。涙がにじんできた。

「何とか云えよ」

 優位を自覚した相澤は、余裕をもって煙草の灰を落とした。このまま追いこんでいけば、オンナの側から折れてくる。そう確信している余裕だった。

 我慢の限界だった。明日夢は――大きく息を吸うと、意を決して口を開いた。

「一言いいかな?」

「……関係ないやつは黙ってろ」

 テーブルについた最初から無視するふりをしていたが、初めて口を開いた明日夢に向かって、相澤は吐き捨てるようにそう云った。 怒りをはらんだその声に、明日夢の隣の麻紀が身体をこわばらせる。明日夢はちょっと肩をすくめる。

「麻紀はあんたと別れたいって云ってる。それでも別れずに付き合いつづけるって云うの? もう気持ちないんだから、これ以上付き合ったって意味ないんじゃないですかね?」

「そんなことねぇだろが」

 相澤はまた新しい煙草に火をつけた。

「だったらこんな話には、なってないんじゃないですか?」

 明日夢はわざとバカ丁寧な調子。

「こいつはいっつもそんなこと云ってんの」せせら笑うように「ちょっともめて自分の都合が悪くなると、すぐ別れるのなんのって云って脅しかけてくるの。お前もこいつから何聞いたのか知らんけど、同情ひこうってだけだ。しゃしゃり出てくんな」

「へぇ、同情? とてもそんな風じゃなかったけどね」

「うるせぇ、ブス! てめぇには、関係ないって何度云や――」

「……ごめん、やっぱりもう……相澤君とは……付き合えそうにない」

 オトコの言葉をさえぎるように、麻紀が小さく途切れ途切れに、でもはっきりと云った。

「おい、何でだよ」

「今日、明日夢君には無理云ってついてきてくれたの……だけどそんな明日夢君にブスだとかひどいこと云ってもらいたくないの……」

「ちょっと待てよ……」

「それに……」麻紀は顔を上げる。「相澤君が別の子とも付き合ってるの、あたし知ってるから」

 明日夢は麻紀の言葉に、眼を丸くした。相澤がふてくされたようにそっぽを向いた。

「さっき、嫌いじゃないって云ったけど、うそ。やっぱりもう相澤君のこと、好きじゃない。だからお願い、別れてください」

 相澤の視線から、さっきまでのどこか機嫌をとるような、冗談ですませようとしていた軽薄さが消えていた。

「そんなオンナまでつれてきて、こんなちゃんと話もできない場所でなんて……随分なめた真似してくれたな」

「二人っきりだと、麻紀ちゃん、何されるかわかんないでしょ」

 気の弱い麻紀は、いつもだったらそんな風に見られたら、中途半端に話をうやむやにしてきたけど、今日ばかりは彼から眼をそらすことなく、その視線に耐えていた。

 ずいぶん長いこと、二人はにらみあっていたが、やがて相澤はいまいましげに舌打ちをして、短くなった煙草を灰皿に押しつけた。

「そいつにそそのかされたのか?」

 今度は明日夢をにらみつつ、そう云った。

「違うよ。あたしの意思」

「うそつけよ、お前がそんなこと云いだすわけないだろうが。お前――北森って云ったな。他人の事情に首つっこんできて、何様のつもりだ?」

 相澤は粘っこい視線を明日夢にからみつかせた。

「もう終わってんだから、あきらめたら?見苦しいだけだよ」

 明日夢は冷たくそう云いかえした。

「あぁそうか、わかったよ」ひらきなおったように「別れたいってんなら結構だ。別にオレが困るわけじゃないからな。後悔すんなよ」

「しないよ……ありがと」

 はっきりと麻紀は彼を拒絶したが、別にこんなオトコに礼を云う筋合いなんかないんじゃないかなと、明日夢は思った。

 相澤が店を出てしまうと、麻紀は上半身をテーブルに突っ伏した。

「ふにぃぃぃぃ……」

「大丈夫?」

「うえ~ん、怖かったよぉ!」

 麻紀はホントに泣きべそをかいている。

「あぁ、よしよし。よくがんばったね。ちゃんと云えたじゃない」

「ごめんね、明日夢君。つき合わせちゃって。部屋の中で二人っきりだったら、絶対うまくいかなかったよ。相澤君、キレたら何するかわかんないとこあって……」

「そんなやつ、別れて正解だって」明日夢がもうすっかりぬるくなったコーヒーに口をつける。「オンナに手を上げるオトコなんて最低だ。云っていいかわかんないけど、嫌なやつ。何で麻紀ちゃんみたいないい娘が、あんなやつと付き合ってたのか、そっちの方が不思議だよ」

「う~面目ない。若気のいたりと云うやつでして……」麻紀が涙をぬぐう。「ま、とにかく、これですっきりした。お世話になりましたぁ。約束どおり『ムーラン』のランチおごるから」

「わぁい、中華だぁ!」


* * *


「今から、来れる?」

 バイトが休みのその夜、突然の明日夢からの電話だった。

「今、達川が来てんだよ」

 ボクがことわっても、お願いと云う。達川がいるのなら、ちょうどいいからいっしょに来てくれとも云う。何でだよと訊ねても「説明しにくい」ときたもんだ。珍しく歯切れが悪い。 読んでたマンガから顔を上げて、達川が眼鏡ごしに諒解とうなずいている。ボクは達川のやつをにらみつけると、十五分で行くからと告げた。

 明日夢の部屋で、ボクらは異様なものを眼にした。テーブルの上には、いや上だけじゃない、下にも数え切れないぐらいのピザの箱が積み重なっている。いくつあるんだ、これ?

「……何これ?」

 達川が呆れてつぶやくように訊ねた。

「……ピザ」

「お前が一人で食べるわけじゃ……ないよな?いくら何でも」

「パルティエ、パルティエ! イタリィ人はパルティエが大好きでえっす! 今日はピッツァパルティエをしたいと思いまあっす!」

「何だその気色の悪い発音は。お前はパンツェッタ・ジローラモか」

「うるせぇ、ふんっだっ、バカ!」

 百八十二cmの見上げるような長身の明日夢が、むくれてそっぽを向く。なぜそこで腹を立てる。

「どうしたんだよ、これ?」

「……配達してきた」

「誰が?」

「ピザ屋さん」

「当たり前だ。何で、こんなに買ったんだよ」

「買ってないって」

「どういうことだよ?」

「あたしは注文してないの。さっきいきなり配達してきたんだよ」

「注文してないって、間違い?」

 明日夢は首を振る。

「誰かがあたしの名前で注文したんだって」

「お前、イタズラだろそれ」達川が呆れて「知らんって云って、持って帰らせればよかっただろうが」

「う~ん」明日夢は顔をしかめる。「あたしもそう思ったんだけど、数が多いから女の子二人で配達に来てねぇ、イタズラだってわかったら泣きそうになって…… 弁償させられるって云われたら、気の毒かなぁって思って、つい……」

 とんだお人好しだ。

「二万は痛かった」

「ピザ注文とる時、電話番号訊くだろ? それはどうだったんだ?」

 達川が訊ねる。

「それが……」ちょっと云いよどむ。「あたしのケータイ番号だった」

「は?」

「自分で注文しといて、忘れてるとか?」

 明日夢がボクをにらむ。

「そりゃ変だな?」達川が首をひねる。「もしイタズラだとしたら、やったやつは北森の番号知ってるやつってことだろ?」

「う~ん、大学で知ってる子って云ったら十人ぐらいかなぁ? 後は高校時代の友だちとか、全部勘定にいれても、そんなに多くはないと思うけど、はっきりとわかんないよ」

「だとしたら絞られてくるけど、北森お前、心当たりないのか?」

 ボクの質問に、明日夢は首を振る。

「あたしの美貌に嫉妬した子がやったって考えるしか……」

「冗談云えるぐらい元気なら、もう帰るぞ」

「あぁん! 待って、待って。食べてってよこれ!」

「三人で喰えるか」

「大丈夫、まだ呼んでるから」

 ちょうどタイミングよく、部屋のドアが開いて例の三人組が騒々しく入ってきた。

「うわっ! 電話で聞いたけど、何これ? すっごいねぇ、いち、にぃ、さん……十個?」

「さすがの明日夢君も一人じゃムリだね、あ、ビール買ってきたから」

「何? 秀虎君と達川もいんの?」

「あ~うるせぇ」達川がうんざりとつぶやく。「何だ持田。俺がいちゃまずいのかよ」

「いるんならいいけど、全部食べるんだよ」

「へいへい」

 三人は特にびっくりするでもなく、勝手に台所からコップを持ってきて、すぐにビールを注ぎ分ける。明日夢も当たり前のような顔をして、ふたつみっつの箱を開ける。

「あ~あたし、チリソースだめ、辛いの苦手。タバスコもかけないで」

「ゆいちゃん、好き嫌いはよくないよ~」

「じゃああたしが食べるからさ、ピーマン代わりに食べてよ」

「だからもっちん、好き嫌いはだめだって」

「お母さんか、君は」

「二人とも何やってんの? 冷めちゃうよ」

 彼女たちの騒々しさに呆れたが、しょうがないからボクらも座る。掌の中のコップの中があっと云う間に泡ではじけて、たちまち酒盛りになった。

「……んで?」

 ひととおりビールがまわったところで、久川――ふみが訊ねる。

「どーするつもり?」

「ピザ屋には、もしこれからあたしから注文があった時は、折り返し電話して確認するようにお願いしたから」

「でも問題はのこるよね。」と持田。「ピザ屋じゃなくって、別の店にイタズラされたらどうする?」

 ボクも同感。

「たとえば蕎麦屋とか、ラーメン屋とかはまだいいけどさ、鮨屋とかは困るよ。いきなり特上十人前なんて持ってこられたら、どうしようもないよね」

「あぁ、お鮨食べたいなぁ」

 と明日夢。

「十人前?」

 久川がつっこむ。

「あたし山葵抜きで」

「ゆいちゃん、本当辛いのだめだねぇ、お子ちゃまだ」

「明日夢に云われたくないぞ」

「わかってると思うけど、北森」ボクが一応釘をさしておく。「これから何持ってこられても断るんだぞ。ちゃんと説明して、代金絶対はらうなよ」

「わかってるって」

 明日夢は今度は照り焼きに手をのばしつつ答える。

「もうお金なんてないよ」

「それにしても」やたらとマヨネーズ味にばかり手を出しつつ柿本――唯衣が「本当、誰がやったんだろ。心当たりはないの?」

「う~ん、わかんないなぁ」

「明日夢君がそんな気なくっても、いつの間にか恨みかったりとかしてない?」

「そうなってくると見当もつかない。でも今のところ、被害って云ったって、これぐらいだからなぁ」

 そう云うと、盛大な音をたててもう一本缶を開けた。

 首をひねる明日夢だが、ボクはビールを呑みながらぼんやりと考えた。 明日夢自身、お金を使わされて腹が立ったようだけど、あまり深刻に考えてないみたいだ。でもこんな恐竜みたいなのでも、一応は女だからなぁ。気をつけておいた方がいいだろう。

 一番の問題は、こんなこと、これからもつづくんだろうかってことだ。 つけ回されてるとか、部屋にこっそり侵入されるとか、今のところそんなストーカーみたいなことはされてないようだけど ――もしそんなことがあったら、むしろ相手の方の身を案じてしまいそうだが―― こんなことがつづくようだったら、たとえ実害はなくても、一応警察に届けるとか、しといた方がいいんじゃないかなと思う。姿かたちの見えない愉快犯みたいなやつを捕まえることなんて、ボクらには絶対不可能だ。

 その時、誰かのスマホが鳴った。

「あ、あたし」

 明日夢がポケットからスマホを取りだして耳元にあてる。

「もしも~し、もしもし?」

 しばしの沈黙。久川が目ざとく僕のわき腹をひじでつついた。

「……誰?」

 明日夢の声が低く、怒りをはらんでいた。全員がはっと、明日夢に視線を向けた。

「誰よあんた。何とか云いなさいよ。こんなことしたの、アンタでしょ? ちょっと……」

 素早く手をのばして、彼女からスマホを奪った。

「誰だ、お前?」

 スマホの向こうから、かすかに人の気配がするが、無言だ。いやな気配だ。不快感が広がる。

「こんなことするんなら、覚悟決めてるんだろうな?」

 せいぜいドスがきいているようにしゃべったつもりだけど、伝わったかどうかはわからない。わずかに嘲るような気配がして、そのまま切れた。

「番号は――?」

 と達川。

「だめだ。非通知」

「くそ!おい北森、非通知は拒否れ」

 明日夢は小さくうなずいた。怒ってはいるが、怯えてはいない。

「秀虎君、相手は男?女?」

 と持田。

「わからん」

 声の主が突然明日夢から男に代わって、はっとした気配が、はたして男のものだったのか、女のものだったのか、記憶と感覚を動員するがどちらともつかない。 ただ、電話ごしにすごくいやな悪意は伝わってきた。

 でもこれではっきりしたような気がする。こいつはきっとまたやってくる。


(つづく)

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