第2話 「Tell me there's a heaven」
「回診のお時間でぇ~す!」
夢とうつつのちょうど真ん中ぐらいにいたボクは、その声に無理やりこっち側に引きずり戻された。鉛の板でも貼りついてるんじゃないかと、疑いたくなるほど重たいまぶたを、やっとこさ少しだけ開いた。
ボクのボロアパートの玄関で、北森明日夢が屹立していた……今回はナースの格好してた、 してやがった、してやがりました。
純白のワンピースのナースウェア。襟元はスタンドじゃなくって、きちんと襟になってるのが落ちついた感じで、胸元のダブルボタンがアクセントになっている。丈は……まぁ常識的な長さで、自慢の長い脚は、白いストッキングにつつまれている。ご丁寧に、今は珍しいナース帽まで頭にのっかっている。
ボクはと云えば、そんな明日夢をもうろうと眺めて、何で玄関のカギをかけていなかったんだ自分、とぼんやりと後悔してたんだ。だからじっくりと、ながめてたわけじゃないんだよ。
明日夢は百八十二cmの長身から寝たままのボクを見下ろしている。自分がちょっとぐらい背ぇ高いからって、威張るなよ。ボクだって一六九cmあるんだし、これから伸びる予定なんだから。
すっごく悪い予感がする。
「……何、じにきた?」
自分の声が、やたらかすれて聞こえる。こめかみのあたりから出ているような感じだ。
「今日のアタシは、優しくて、かぁいらしいナースなのだ」
「……だから?」
「診察だよー」
「がえれー!!」
「看護のココロに目覚めたあたしを、止められる者はいないのだ」
そう云うと明日夢は、手にしたでっかいビニール袋を、がさがさいわせながら、勝手に靴を脱ぎ上がりこんだ。
枕元の時計を見ると、今日一日、ずっと布団にくるまっていたことがわかる。
昨夜のバイトの時から、おかしいと思ってたんだ。雲の上を歩いてるような頼りない感じで、顔は火照るのに、背筋はぞくぞくする。
店長のサチさんが「とっとと帰りやがれ」と云ったので、後は他の子にまかせて、その日は帰ることにした。やたらと布団が恋しかった。
帰りの自転車で、空気がとんでもなく冷たく感じて、帰り着いたらもう何もできずに、さすがにこれは本物だと思った。
朝起きたら、案の定、動けなくなってた。久しぶりの大波だ。達川がやってきたけど「とっとと帰れ」と云って追い返した。それぐらいきつかったのだ。あ、そーか、達川が帰った後、カギもかけなかったんだ。明日夢が上がりこんだのは、あのバカのせいか?
「お医者さんには行ったの?」
「行っでない。金、ないもん」
「そーだと思った。熱は?」
「体温計なんか、ない」
「そーだと思った」
明日夢はにぃっと笑うと、布団にくるまったままのボクのそばに、ひざをついた。白いストッキングにつつまれたヒザ小僧がアップになる。
「じゃー、まずお熱測りましょうねー」そう云うと、ビニール袋の中からごそごそと、新品の体温計を取り出した。「はい、お口あけて」
「やだ」
「熱、測れなきゃ、看病できないでしょう?」
「いい、いらん! 帰れ! 俺は眠りだいんだ。お前の看病なんかいらねー!」
「あ、ヒドイ……秀虎君のこと心配して、わざわざ来てあげたのに。格好だって、気合入ってるのに」
「だったらフツーに来い、フツーに! ……じゃなくって、来るな! 着るな!」
「先生~! イジワルな患者さんがイヂメるんです~」
「泣きまねするな!」
「あーもうッ!」叫ぶと明日夢は、寝てるボクの首をわしづかみにすると「ワガママなことばっかり云ってたら、眼に突き刺すからね、眼に!」
……口に入れてください 。
「三八度九分か……いいねぇ、なかなかだよ、やるね君」
明日夢が嬉しそうだ。
「オデコとオデコという、伝説の熱の測り方は、まだちょっと早いかな」
ぼそりとつぶやいたの、聞き逃さなかったぞ。まだ早いって何だ、まだって。
「これは看病のしがいがありますなぁ。くっくっくっく……」
あー、やっぱりこれで帰るつもりはないのね。でも多分ナースって、今の君みたいにリングに上がる前のボクサーのような顔してないと思うよ。何か、猛然と風邪をなおさなきゃって気になってきたよ、自力で。ありがとう、看護婦さん……
僕の熱を測って、とりあえず満足したのか、明日夢は今度は台所で何やらやりはじめた。とっとと帰ってくれ、なんて考えているうちに、熱のせいかだんだん眠くなってきた。
どれぐらい眠ってただろうか?眼が覚めると、部屋が暗くなっていた。 明日夢が隣でこたつに横になって、スタンドの灯りだけで文庫本読んでた。ナース帽は、まだご丁寧に頭にのっかってる。片肘をついてあごにのっけて、瞳が活字を追っている。どんなの読んでるのかなと思って、表紙に眼をやったら、澁澤龍彦訳の『O嬢の物語』? 何読んでやがんだ、こいつ。
「お? おきた?」明日夢はボクにすぐ気がついた。「もう真夜中だよ」
台所からいい匂いがしている。とたんに空腹を感じた。そう云えば、昨夜から何も食べていない。
ぱたぱたと明日夢が台所を往復する。ふとんから起きあがって半纏をはおり、こたつに脚をつっこんでぼーっと待っていると、おかゆに梅干と海苔の佃煮を添えて、豆腐の味噌汁と並べた。お前、味噌汁好きだね。
こいつのことだから、また力技の料理かと思ったが、意外に簡単な病人食っぽいんでちょっと驚いた。こーゆー、いかにも風邪ひきでございますって食事を並べられると、しみじみと風邪をひいてる気がしてきたよ。ちょっと嬉しい。舞台装置の効果って、やはりバカにできないね。
「これ何?」
「ショウガ湯だよ。ショウガをすりおろして、ハチミツで甘くしたんだよ。のどにいいんだって。婆ちゃんに教わったの」
へぇ、初めてだ。いよいよ風邪っぽい。
「では本日のメインイベント」
何をやるつもりですか?
明日夢はおかゆをスプーンにすくい、自分の口元に持ってくると、唇をすぼめて二、三度そっと息を吹きかけた。
「はい、あ~んして」
「……」
「はい、あ~んして」
「……あのう、できたら、自分で食べたいんですが……」
「却下。風邪ひいた時は、これでしょ、問答無用で」
ボクは毅然と断った。そりゃあもう、毅然と。
「絶対ヤダ。食べない方がマシだ!」
とたんにアタマ、ブン殴られた。
「食べないなんて、ふざけないでよね! 食べないとよくなんないでしょ! 秀虎君、結構単位ヤバイんじゃないの? あさっての特講、代返きかないんだよ。アレ、出席日数足らないと試験受けられなかったでしょ!?また、来年苦労して受けるつもりなの!?」
眼、吊り上げて怒るなよ、暴力ナース。
「ちゃんと学校、来れるように、早くよくなんなきゃ」
それを云われると弱いのだ……
「だから、食べないわけじゃなくって……」
だから自分で食べたいだけで、決して食べないというわけではなくって…… あぁ、アタマがボンヤリして、うまいこと反論できない。何かゴマかされてるような気がする。
「ねぇ、自分で口開けるのと、ムリヤリねじこまれるのと、どっちがいい?」
絶対、何か間違ってる。絶対、何か間違ってる。絶対、何か間違ってる。
…… 僕は心を無にして、口を開けた。
もう一度熱を測る。変わんない。
「ん~? やっぱり寝て、ご飯食べてるだけじゃダメかなぁ?」
「いい、寝てなおす」
「はいはい、じゃ寝る前に汗ふくから、身体おこして」
そう云うと明日夢は、風呂場でタオルをぬらしてくると、ふとんの中に手をつっこんで、脇に両手をさしこみ、ボクの上半身をおこした。ボクの上半身……
……ん?
「じょ、じょっと待て」
慌ててふとんの中にもぐりこむ。
「どうしたん?」
「いい、寝とく!」
ボクは寝る時、下はパンツなわけだから……
「何云ってんの? 汗ふかないと気持ち悪いでしょ?」再びぐいぐいと腕をふとんの中に入れて、無理やりおこそうとする。「別に裸ってわけでもないんだから、かまわないでしょ?」
一部、それに近い状況なんですが。
コイツ、ボクより身体でっかいから、力が強い。おまけにこっちは熱でフラフラで、まるで力が入らない。そんな格好して上にのってくるな!
「やめろ、汗……汗かいてるから、きっと汗臭いって……! 自分でやるからいいってば!
「秀虎君、あたしなんか興奮してきた!」
助けて……
「ちょっとマズイ……そんなにひっつくな、引っぱるな、脱がすな!」
「……下半身は勘弁しといてやる。武士の情けじゃ」
……わざとかい。
気がつかなかったけれど、ずいぶん汗をかいていたらしい。熱いタオルで身体をふいて、新しいTシャツを着たら、それだけでずいぶん気分が違う。
ショウガ湯を飲んで、身体が暖かくなったし、腹もふくれた。身体が楽になったような気がすると、ふとんに沈みこんでしまうように、また他愛もなく意識が薄れていった。
……人工でない明るさだ。明日夢が隣のこたつに肩までもぐりこんで、こっちむいて静かな寝息をたてていた。読んでた文庫本が伏せたままだ。ナース帽は役目を終えたみたいに、頭から転がり落ちて、ぺしゃりとなってる。
「よだれ女……」
小さくつぶやいたはずなのに、パッと明日夢が眼を覚ました。まるでスイッチが入ったみたいだ。
「……今、何か云わなかった?」
「……別に」
むくりとおきた明日夢が顔を覆う。
「しまった、どうしよう?」
「何?」
「初めての朝帰りだ」
お前なぁ……
明日夢はもう一度熱を測った。三七度台に下がってる。うんうん、よくぞがんばったぞ、ボクの身体!。
「あたしの看病のおかげだね?」
「……」
「あたしの看病のおかげだね?」
……憶えてやがれ。
明日夢は、昨夜のおかゆと味噌汁を温めなおす。
「ふみちゃんに車で迎えにきてもらうように、頼んだから。五分で来るって」
……あいつ、来るのか?
「ユイともっちんも来るって」
……あいつら、来るのか?
「……ちょっと待てよ、おい!この状況、どう説明すんだよ、あいつらに!」
「あなたは気にしなくていいの、一夜の過ちと思って、去っていきますから」
「だーかーらー」
「あたし、尼寺に行きます」
「何もしてないだろーが!」
明日夢のポケットでスマホが、ちろりろりんと音をたてた。
「おむかえでゴンス」明日夢は立ち上がると、スカートのすそをちょっと気にしつつ、玄関で靴をはく。「今日も一日、ゆっくり寝ときなさい。おかゆはもう一回分ぐらいはあるけど、炊飯器にお米仕込んでるから、なるべくごはん食べるんだよ。塩サバ焼いて、冷蔵庫入れてるから。それからあんまり悪いようだったら、病院行きなさいよ。またあたし呼んでもいいから」
「絶対、呼ばねぇ」
「あ、そうだ」明日夢はとんでもなく大事なコトを思い出したように、声をひそめて「……男の子って、オトナになって高熱出したら、ごにょごにょのおたまじゃくしのアレがアブナイって……本当?」
「……帰れ」
「あはははー!子孫繁栄は大事だぞー!」
笑いながら出ていきやがった。二度と来るな!
* * *
大学に出てくるのは、三日ぶりぐらいだった。バイトもずっと休んでいた。明日からは行かなくっちゃ。
寝込む前は芯まで冷たかったような冬の空気が、今日はわずかにゆるんでいるような気がする。そう云えば、ニュースで梅のつぼみがふくらんでいるって云ってた。もう春は近いのかもしれない。講義も何とか出席できた。後はテストが問題だが、あれ?でも明日夢のやつ、いなかったよな?
「あ~種ナシブドウがいたー!」
出たな……明日夢といつもつるんでる三人。取り扱いに要注意だ。
「……誰のこと?」
「明日夢君、今日は休んでるよ」
「何で?」
「気になるの?何しろ秀虎君たら、明日夢君にメイドの格好させて、ご飯作らせるようなヒトだからねぇ」
「だからねぇ」
「だからねぇ」
ものすごい、事実誤認があります。
「風邪だって。アパートで寝こんでるよ」
顔を見合わせて、くすくす笑う。
「秀虎君から風邪うつされるような看病、したんだねぇ」「したんだねぇ」「したんだねぇ」
コイツら……
明日夢が風邪? あいつも人並みに風邪、ひくんだ。ちょっと想像できないけど……
明日夢の看病のコトを憶いかえす。
……
……
……
……
うん、ざまみろ。
(了)
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