第55話:所長、もう帰りますよ

「所長! 所長! 起きてください」


 テーブルに突っ伏してしまった所長の肩を揺するけど、所長は微動だにしない。こりゃマズい。


 焼き肉屋のテーブルなんて、飛び散った油だらけだ。所長の白いブラウスが汚れてしまう。


 そう心配して何度も肩を揺らすものの、所長はまったく動かない。横から顔を見ると、気持ち良さそうにすうすうと息をしている。


 ──うーん、どうしたものか。


 今日はもう、これ以上所長に飲ませない方がいいな。テーブルを見渡すと食べ物もひと通り食べ終えたし、これでお開きにするか。


 そう考えて、俺はレジに行って先に会計を済ませた。


 所長の奢りのはずだったけど、まあいっか。

 所長にはお世話になってるし、これからも色々と世話になる分、今日は俺が出しておこう。


 席に戻って、まだ突っ伏して寝ている所長の背後から両肩に手を添えて、今度はさっきよりも強めに揺らしてみる。


「所長! 起きてください! もう帰りますよ!」

「ふぇっ……?」


 所長がモデルのような美しさに似合わない、間抜けな声を出して上半身を起こした。ちょっとホッとする。


「さあ、行きましょう」

「う、うん……」


 所長はまだ酔っ払ってるようで、ふらふらしながらも席を立つ。


 俺が隣の椅子から所長のビジネスバッグとスーツの上着を取って渡すと、所長は手間取りながらもなんとか上着を着て、バッグのショルダー紐を肩にかけた。


「こっちですよ、所長」

「あ、うん……」


 俺が店の出入り口を指差すと、所長はふらふらと、なんとか歩き始めた。でも目がうつろだ。ヤバいな。

 

 店を出て、駅まではすぐだ。

 それくらいの距離なら、所長も大丈夫……だよな?


 俺の歓迎会の時に、ほのかが所長のことを『記憶がなくなってもいつもちゃんと家に帰ってる』と言っていたし。


 確か所長の家って、ここからひと駅電車に乗って、駅からすぐ近くだって言ってたよな。

 ちょっと心配だから、駅まで送っていくか。


 俺の住まいは駅とは逆方向だけど、そう考えて、駅まで神宮寺所長と一緒に歩いた。


 相変わらず所長は右に左にふらふらしながら歩いて、見ていて危なっかしい。ハイヒールだから、ぐにっと捻って足をくじいてしまうんじゃないかとヒヤヒヤする。


 だから俺は仕方なく、斜め後ろから両手で所長の両肩を支えて歩いた。

 特に所長は何も言わずに、されるがままに任せて、おぼつかない足取りで歩いている。


 ──って言うか酔い過ぎて、俺に肩を支えられていることに気づいていないんじゃないか?


 それにしても……手に力を入れると壊れそうっていうか、女の人の身体って、こんなに細いんだって驚く。

 所長は俺より10センチくらい低いから165センチくらいで、女性としては背が高い方だ。それでも肩幅は狭くて華奢なんだな。


「大丈夫ですか?」

「なにが?」

「なにがって……まっすぐ歩けますか?」

「なぁにを言っとるのかね、君は? 私はまっすぐ歩いてるでひょ」


 所長は横の俺を見上げて、うつろな目を向けてきた。


 ──うわ、ダメだ。完全に酔っ払いだよ。

 ろれつも回ってないし。


 駅について改札の前まで来て、所長の肩から俺が手を離すと、途端に所長の身体がぐらついた。

 危うくコケそうになる所長の肩を、再び両手で支える。所長は態勢を立て直して、なんとか転ばずに済んで、ホッとした。


「大丈夫ですか?」

「なにが?」

「なにがって……まっすぐ歩けますか?」

「なぁにを言っとるのかね、君は? 私はまっすぐ歩いてるでひょ」


 ──あ、デジャブ。

 さっきとまったく同じ会話をしているぞ、俺たち。

 コントかよ。


 ──って言うか、所長はマジでまっすぐ歩いているつもりなのか?

 こんなにふらついているのに。

 こりゃ、まじヤバだな。


 所長はバッグからごそごそと定期入れを取り出した。

 酔っぱらってふらついていても、こういうところはちゃんとわかってるんだと、妙に感心する。


 今度こそ大丈夫かと恐る恐る手を離すと、また所長の身体はぐらりと横に傾いて、なまめかしい声を上げた。


「あんっ……」


 ヤベっ! 所長が転倒してしまう!

 俺は慌てて、また両手で所長の肩を支えた。


 このまま一人で電車に乗せるなんて、危険すぎる。

 万が一神宮寺所長がホームから転落なんてことになったら、俺は一生後悔するぞ。

 仕方ない。せめて所長の最寄り駅まで、送っていくか。


 俺はそう考えて、素早く片手だけを所長の肩から離し、スーツの内ポケットから財布を取り出した。

 財布には現金チャージ済みの交通系ICカードが入っているから、このまま改札を通過することができる。


 こうして俺は所長と一緒に改札を抜け、電車に乗った。





 ひと駅先で電車を降り、千鳥足で歩く所長の両肩を支えながら、駅の改札を通って駅舎から外に出た。

 所長の家は駅からすぐ近くだと聞いている。所長の家まで送っていくべきだろうか。


 しかし──と俺は迷う。


 いくら上司と部下とは言え、酔った一人暮らし女性の家まで行ってしまっていいものだろうか。

 でもこのまま一人で帰すのも心配だし……


 駅舎を出たすぐのところで一旦立ち止まり、俺は所長の顔を覗き込んで尋ねた。


「所長、大丈夫ですか? 家まで送りますよ……?」


 それまでうつむいていた所長は顔を上げて、横に立つ俺にスローな動きで顔を向けた。

 顔は相変わらず真っ赤だ。それに息も少し荒くて、なんだかつらそうな顔をしている。


 ほのかやルカは、所長は今までどんなに酔っててもちゃんと一人で家に帰ってると言ってたから、大丈夫なんだろうと思ってたけど……

 この感じだと、やっぱりちょっと心配だよなぁ。


 もしも所長の口から『家まで送って欲しい』という言葉が出たなら……

 やはり家まで送って行こう。


 所長が俺を見つめる目は潤んでいる。

 酔って辛そうだけど、やっぱり所長って美人だな。


 所長はゆっくりと口を開いた──


「うぅぅ……気分悪い……歩けにゃい……」


 ──へっ……?


 ろれつが回らない所長の口調があまりにも可愛すぎるのだけれども、気分が悪いって言われたら、そんなことにほのぼのとはしていられない。


「えっ? は、吐きそうですか!?」

「わからない……あ、あそこで休む……」


 所長が指差す先に視線を向けた。駅前ロータリーの横に植栽に囲まれた小さな広場があり、そこにベンチがある。


「わ、わかりました。取りあえず休みましょう」


 俺は所長の肩を支えて、ベンチのところまで移動した。

 そしてゆっくりと所長を座らせ、俺はその横に座る。


「大丈夫ですか?」

「ちょっとゆっくりしたら、治ると思う……」


 所長はそう言った切り、目を閉じて、頭を下げてじっとしている。

 気分が悪いのを堪えているのだろう。

 俺は横で、そんな所長の姿を見守っていた。


 するとしばらくして、所長はうとうとしたのか、頭が船を漕ぐようにゆっくりと前後に揺れ始めた。


 そして──


 所長の身体がぐらりと俺の方に傾いた。そして俺の左腕に頭をこてんと当てて、すうすうと寝息を立て始めた。


 うわっ……どうしよう……


 ──と言ってもどうしようもない。

 しばらくここで、休んでもらうことにするか。


 俺は夜更けの駅前広場で、二の腕に所長の頭の重みと温かみを感じながら、所長の寝顔をしばらく眺めていた。

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