第56話:なぜ平林君がここに?

 9月下旬の夜ともなれば、暑くもなく少し涼しい風が吹く。駅前広場のベンチに座っているとそんな風が、酔って火照った頬を冷ましてくれて心地いい。

 そして二の腕に感じる所長の頭の重みと温かみも、また心地いい。


 そんなことを思いながら、俺の腕に頭を預けて眠る神宮寺所長の美しい寝顔を眺めていた。


 うーむ……ホントにモデルのように整った、美しい人だなぁ。



 ──どれくらい時間が経っただろうか。


 長い時間、所長の寝顔を眺めていたような気もするが、もしかしたらほんの短い時間だったのかもしれない。


 突然所長は上半身をガバっと起こして、俺から離れた。

 そして周りをきょろきょろと見回して、何がなんだかわからないといった表情を浮かべている。


 いつもはやや吊り目なのに、今は情けなく目尻が下がっている。そして普段はきりっとした唇が、ぽかんと開いたまま。


 こういうちょっと情けない顔の所長も、いつもの凛とした美しい姿とのギャップで……案外可愛い。


「えっ……あれ? 平林君?」

「はい、平林です」

「ここ、どこ……?」

「所長の家の最寄り駅の駅前ですよ」

「えっ……? えっ……? えっ……? あ、ホントだ。なぜ平林君がここに?」


 所長は目を丸くして驚いている。どうやらここまでの記憶が飛んでいるようだ。もちろんまだ酔ってはいるが、さっきよりもだいぶんマシになったように見える。


「所長がふらふらして危なかったから、ここまで送ってきました」

「あ……そう言えば……なんとなく……」

「はい」

「あっ……もしかして……私、平林君のこと呼び捨てにしたり、凛太っちとか……呼んでた?」

「はい」


 所長が思い出してくれたようなので、俺はニコリと笑顔を返した。


「うっわ、最悪……恥ずかし……」


 所長は両手のひらを頬に当てて、顔を両側からぎゅっと押さえた。

 唇がぷるぷると震えている。

 目がウルウルして、今にも泣き出しそうだ。

 あまりに恥ずかしがっているようで、こりゃヤバいぞ。


「あの……所長……」


 所長は慌ててベンチからぴょんと跳ねるように立ち上がって、顔の前で大きな動作で手を合わせた。そしてそのまま腰を折って、さらに大きな動作でガバッと頭を下げる。


「平林君っ! ごっ、ごめーーーん!! 呼び捨てにしたのも、ここまで送らせたのも、全部ぜんぶ、ごめんなさいぃぃっっ!!」


 所長は激しく謝罪をした後も、申し訳なさそうな声で、ずっと頭を下げたまま俺に謝っている。


「あんなに飲むんじゃなかった……楽しいお酒でついつい……ごめんね」


 俺も立ち上がって、否定するために両手を前で横に振った。


「いえいえ。気にしないでください。楽しいお酒と言っていただいて、俺も嬉しいですし」


 俺の言葉を聞いて、所長はパッと頭を上げた。


「あっ……」


 所長は酔ってるのにそんなに勢いよくお辞儀をして、そして頭を上げたものだから、ふらついて前のめりになる。


 ──あっ、倒れそうだ。


「だっ、大丈夫ですかっ!?」

「きゃっ!」


 俺に向かって倒れてくる所長に向かって両手を伸ばしたけれども、その腕をすり抜けるように所長が……


 ──どんっ。


 俺の胸に飛び込んできた。

 倒れそうになって慌てた所長は、そのまま俺の背中に両腕を回してギュッとしがみついた。


 所長は顔を俺の胸に押し付けるようにしていて、温かい。そして黒髪からは甘い香りが漂ってきた。それだけじゃなくて、酒の匂いもするけれど……


 ──いやいや、それでも、女性に抱きつかれた経験が皆無の俺には刺激が強すぎる。


 しかもこんな美女だぞ。

 もしかしたら俺の一生で、二度とない体験かもしれない。

 頭がくらくらして、なにがなんだかわからなくなりそうだ。

 いや、気をしっかり持て、俺っ!


「ごごご、ごめん、平林くんっ!」


 所長はぱっと両手を離して、俺の身体から離れた。

 俺の胸にはまだ所長の体温の感覚が残っていて、なんとなくすーすーする感じがする。


「え、いえ。俺は大丈夫です。所長の方こそ大丈夫ですか? ケガはありませんか?」

「あ、うん。大丈夫。ありがとう」

「所長……なんなら……家まで送っていきましょうか?」

「えっ……?」


 所長は目を見開いて俺を見つめたまま、動きが固まってしまった。

 もしかしたら、俺がやましいことを考えているとか誤解されたのか?

 俺はただ純粋に、所長がちゃんと家まで帰り着くか心配しているだけだ。


 所長は真面目な人だ。それに今日話を聞いてわかったように、男性に対する不信感もある。

 ちゃんと説明しないと、俺が手癖の悪いヤツだと誤解されたままになる。


「あ……そ、そうね……」


 所長はこくんとうなずいた。

 わざわざ説明するまでもなく、俺に悪意がないとわかってくれたんだ。

 良かった……ホッとした。


 俺が、わかりましたと返事をしようと口を開けた瞬間、所長は慌てて顔を横に振った。


「あ、ダメよ平林君! 私は君の上司なんだから、家まで送ってもらうとか誘うなんてことはできないの。そんなことは許されないのよ。だからダメっ!」

「え?」


 どういうこと?

 わが社には、上司は部下に家まで送ってもらったらダメ、という社内規則でもあるのか?


 そんなの聞いたことないけど……


「いえ、あの……上司が部下に家まで送らせるなんて、ひと昔前のパワハラ上司のやることだからさ……でしょ?」

「いえ所長。俺は別に上司に強制されて、嫌々送らされているわけじゃないから、別に遠慮しなくていいですよ。所長がちゃんと家まで帰り着くか心配だし」

「いえ、ホントに平林君! 私はもう大丈夫だから! ここまで送ってきてもらうのも、ホントはダメだと思うんだけど、記憶がなかったからゴメンね。それにここからは2、3分くらいだから、ホントに大丈夫よ」


 所長はまた両手を合わせて、頭を下げながらそう言った。


 そっか。所長は部下に家まで送らせることに抵抗感があって、俺に気を遣っているんだ。


 ホントに良い人だな。

 だいぶんしっかり話しているし、さっきまでみたいにふらつくのも、今は収まっている。


 もう大丈夫そうだ。

 じゃあ素直にその気持ちに応えて、今日はここで帰るとするか。


「わかりました所長。じゃあ俺は、ここで失礼します」

「うん、ごめんね。いえ……ありがとう平林君。また君に助けられちゃったね……平林君、このお詫びはかならずするからね」

「なに言ってるんすか所長。お互い様だし、俺たちチームだし。気にしないでください」

「でもチームリーダーである私がこんな失態を犯したらダメよね。上司として恥ずかしいことをしちゃった」


 責任感に溢れる所長らしい言葉だな。


 それに所長はホントに恥ずかしそうに肩をすくめている。まるでいたずらが見つかった子供みたいで、ちょっと可愛い。


「ほのちゃんやルカちゃんが知ったら、呆れられるわ……」

「あ、所長。安心してください。このことはほのかとルカには内緒にして、俺たち二人だけの秘密にしておきましょう」

「二人だけの……秘密?」

「はい。二人だけの秘密です」


 俺は所長を気遣って、そう答えた。

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