第5話 子犬、育てる

「いいよう、健斗くん! かくしたよう!」

 土手向こうの階段に座っていた健斗とハナに、河原から小春ちゃんが声をかける。

 河川敷でいつものようにハナのトレーニングをするところ。今日は小春ちゃんもいっしょだ。訓練のレベルを上げたいと、学校で健斗がポロリと口にしたのを聞いた小春ちゃんが、手伝いを申し出てくれたのだ。

 いつもだとどうしても、かくした本人の健斗がその場所をわかっているので、それが態度にちらりと出てしまう。健斗は、かくしごとが苦手なのだ。なんとか平静を装おうといつもがんばっているのだが、ハナがまっすぐかくしたところに向かった時と、ちがうところに向かった時では、びみょうに視線の動きが変わってくる。そわそわした感じももれてしまって、観察力が高いハナにとって、完全にノーヒントという形にはなっていない。

 なので、かくす人とハンドラーを別にしたい。小春ちゃんにそういう話をしたら、それではと手を挙げてくれた。小春ちゃんがかくす係。これなら健斗にはかくした場所はわからない。小春ちゃんには逆に、ハナが探している時には後ろを向いていてもらえば、全くヒントがない状態で探す練習ができるというわけだ。

「これは気合を入れていかなきゃいけないね」

 ハナも、いつにも増して集中しようとしている。

「それじゃ」

 ハナは小春ちゃんの手足のにおいをかいで確認、追跡スタート。

 何の工夫もなければ、小春ちゃんの足取りを追うのは、ハナにとっては造作もないことだ。それは小春ちゃんもわかっているので、いろいろとトラップをしかけている。右へ行ったり左へ行ったり、自分の足あとをふむように一度進んだ道をもどってみたり、大きくジャンプしてにおいをとぎれさせたり。

「なかなかやるね、小春ちゃん」

 ハナもその努力を称賛する。訓練の出だしはとても順調だ。小春ちゃんにたのんだかいがあった。

 ところが。

 急にハナの足取りがピタリと止まった。鼻先を宙に向けてじっと何かを探っている様子。

 健斗は一瞬、ハナが小春ちゃんの足取りを見失ったのかと思ったが、それとはちがう。そうだったら、足あとを探してその辺りをうろうろとかぎまわるはずだ。今の姿勢は、何か遠くを探っているときのものだ。

「ハナ、どうしたの?」

「しっ、何か聞こえる」

 かけ寄ってきた健斗を制して、ハナがさらに聞き耳を立てる。

 同じように辺りの様子に耳をそばだててみた健斗にも、それは聞こえた。

 小さなか細い、子犬の鳴き声だ。一匹ではない。複数。

 しかもその内容が。

「お母さん、お母さん」

 しくしく泣きながら母を求める声。

 これは何か尋常ではない事態。

「どうしたの、健斗くん」

 背を向けていた小春ちゃんも、背後の捜索する気配がとぎれたのに気づいて、ふり返って呼びかけてきた。

「子犬の鳴き声がするんだよ。それも何匹も」

「えっ」

 三人はその声がする方に歩いていく。川べりに生いしげるアシのやぶにたどり着く。ここまでくると、子犬の声は小春ちゃんにも聞こえていた。本当に、か細い悲しげな鳴き声だ。

 ただ、このやぶは、このあいだ健斗が足をすべらせて川にはまったやぶ。向こうが見えないので危ないのだ。

「ちょっと、二人はここで待ってて。あたしが様子を見てくるよ」

「ここは足元が見えなくて危ないから、ハナが見てくるって」

 ハナの言葉がわからない小春ちゃんにも健斗が告げて、二人でやぶの前でハナを見送る。ハナはがさごそと密集するアシをかき分けて、もぐりこんでいった。

「まったくここは歩きづらいねえ」

「自転車が捨ててあるよ。まっすぐ進めなくていやになっちゃう」

「ひどいね、テレビまで捨ててある。だれだろうね、ほんとに」

 ハナがぶつくさ言っている声が聞こえる。健斗は気になって声をかけた。

「ハナー、だいじょうぶ―?」

「だいじょうぶだよ、もうすぐ着く……着いた」

「だれ? おばさん、だれ?」

 子犬たちの声もハナの到着を知らせている。見知らぬ大型犬がやぶの中からぬっと現れたので、おびえている様子。

「……っと、これは、だいじょうぶじゃなかった。健斗、ちょっと来てくれるかい?」

 ハナの声は小春ちゃんにとってはふつうの犬のほえ声だ。ただ、ちょっと調子が変わったのに気づいたようで、つぶやいた。

「着いたのかな?」

「みたい……だけど、ちょっと様子がおかしいので、見てくるね」

「健斗くん、私も行く」

「ここ、足元見えないしどろだらけだし、よごれるよ?」

「うん、平気」

 か弱い声で鳴く子犬のことを、小春ちゃんもだいぶ気にしているらしい。それならと健斗は、自分の後ろにしっかりついてくるように告げて、やぶの中にこぎ出した。

「あれ、小春ちゃんも来たのかい。でも、その方がよかったかもしれないね。二人とも気をつけて。ここが川の岸辺なんだよ」

 ハナが向こうから声をかけてくる。その間にも子犬たちの心細げな鳴き声は続いている。

「こわいよう、おうち、帰りたいよう」

「お母さあん」

 ハナが小春ちゃんも来てくれた方がいいと言っていたのは何だろうと思いながら、健斗はえっちらおっちらやぶをこぎ。

「小春ちゃん、そろそろ川岸だから気をつけてね」

 ハナの元へと、たどり着いた。まずふさふさの尻尾が見える。そしてやぶをもう一こぎすると、ハナの背中。そしてその向こうには川面が開けて。

 やぶのへりに、段ボール箱が引っかかっていた。

 どうやら上流から流されてきて、ここにかろうじて引っかかった様子。中にはだいぶ水がしみこんでいて、そこにずぶぬれの子犬が四匹。身を寄せ合ってぶるぶるとふるえ、心細げに、きゅーん、きゅーんと鳴いている。

「だれ? だれなの?」

 さらに見知らぬ人間が二人来て、子犬たちはおびえてにげようとする。そこでぐらりと箱が動いた。引っかかっている川岸のアシの根元から外れそうだ。そうすると、また川に流されてしまう。

「ああよかった、間に合った。健斗、見てのとおりなんだよ。助けてあげたいんだけど、あたしだと一匹ずつ口でくわえるしかなくて。そうするとはずみで向こうにおし出して、また流されちまいそうなんだよ。箱ごと引っ張り上げておくれ」

「なるほど。そうだね、一回箱ごと岸に上げた方がいいね。足元ぬれちゃうけど、水に入った方がいいかな」

「ただ、ここは下がどろですべりやすいからね。持ったまま岸に上がろうとすると転びそうだから、小春ちゃんに手わたすといいよ」

「うん、そうしよう」

 なるほどそれが、小春ちゃんがいた方がいいと言った理由。健斗は小春ちゃんに手はずを告げて、水の中にばしゃりと足をつっこむ。箱が引っかかっているところは少しくぼみになっていて、靴だけではなくひざ下まで沈んでしまった。

 おおいかぶさる人の影に子犬たちがおびえてもぞもぞ動いているもんだから、引っかかっているやぶから箱が外れてしまいそう。健斗は急いで箱を持ち上げる。

 段ボール箱の底はテープで止めてあったけれど、少し隙間ができていて、そこから水が入りこんで、たまっていた。持ち上げると逆に、その隙間からぽたぽたと水がもれる。

「あれ、だめだこれ、服がぬれちゃう。小春ちゃん、いいよ、おれがこのまま持って上がる……」

「ぬれるぐらい平気だよ。健斗くん、はい」

 とまどうことなく小春ちゃんが手を差しのべる。それならばと健斗は箱を手わたした。

「もうだいじょうぶだよー、こわくないよー」

 くんくんと鳴く子犬たちをのぞきこんで、小春ちゃんは安心感をあたえるように、にっこりと笑う。そのまま箱をかかえて、元来た道をもどる。ハナが先頭で道案内、健斗がやぶこぎ。すると小春ちゃんが箱を持って運び続けることになる。

 持ち上げると子犬たちの重みで箱がゆがみ、隙間が大きくなって水もれもひどくなる。小春ちゃんは服とスカートの前がびしょびしょになってしまった。やぶの中は湿っていて、足元もどろだったので靴も靴下もドロドロだ。

「ごめんね、小春ちゃん。ずいぶんよごれちゃったね」

「ううん、健斗くんだって、川に入ってぬれちゃってるじゃん。平気だよー」

 小春ちゃんは本当に気にしていない様子で、ハンカチを取り出してぬれた子犬をふいている。真っ白だったハンカチが、よごれて色づいてしまったが、それも全然意に介さない。

 その優しい手つきに、子犬たちも安心したのだろう。心細そうに鳴いていたのが止まった。さらにハナも、子犬たちをぺろぺろとなめて、身づくろいしてあげている。

 おびえていた子犬たちも、こうして熱心にお世話してもらえて、悪い人たちじゃないとひと安心した様子。優しくふいてくれている小春ちゃんの手を、ペロペロとなめてお礼をしている。ハナのこともクンクンとかいで、興味深々だ。

「かわいいね」

「うん」

 生まれたばかりのコロコロとした子犬たち。さっきまでは、よごれた水でぬれていたので、みすぼらしい様子だったが、ぬれた毛がかわいてフカフカしてくると、だいぶ様子がちがって見える。

 とりあえず助けることができたし、けがしたり弱ったりしている様子はないので、ほっと一息つく。

 けれど大きな問題が残っている。

「捨て犬だよね……」

「うん……」

 健斗の確認に、答える小春ちゃんの声もしずんでいる。

 段ボール箱に入れられたまま、川に流されていた子犬たち。どう考えても、だれかが捨てたとしか思えない。

 川に流すなんて、本当にひどいことをする。近所に捨てたら帰ってきてしまうかもしれないので、手軽に遠くにやってしまおうということだったのだろうか。ダンボールの目張りは、そんなにしっかりとしていなかった。多分もともと、はってあったやつだ。水が入っておぼれて死んでしまうならちょうどよい、ということだったのだろうか。

 健斗は犬の言葉がわかる。何を感じて、何を考えているのか、しっかりとわかる。人も犬も、健斗にとっては同じだ。なので犬に対してそんなひどいことができる人間がいるなんて、信じられなかった。

 それに。

 元気になってきた子犬たちが、ハナに話しかけている。

「ねえ、おばさん。お母さんはどこへ行ったの?」

「そうだね。それよりも、あんたたちがどこから来たのかの方が問題だね。多分お母さんは、もといた家にいるんだろうけれど」

「お母さんのところに帰りたいよ」

「それは難しいね。どこから来たのかがわからないからね」

 子犬たちは口々に、母犬に会いたいと言っている。産まれたてのこんな小さな子犬を、母犬から引きはなすなんてひどい。

「探すの、無理だよね」

「川に流されてきたから、においもたどれないからね。それにもどしたところで、この子たちが流された事情が解決していない。こんなひどいことをする人間がいるところだよ。もどしてもダメだろう」

「そうだよね」

 健斗とハナは、生まれたばかりのこの子たちに降り注いだ厳しい運命に、ため息をついた。

「まあ、でも川でおぼれて死ななくてよかった。こうして助かったんだから良しとしなきゃ」

 ハナはその思いをふりはらうように言った。難しい話をされてもさっぱりわかってない子犬たちは、きょとんと首をかしげている。その無垢な表情が、さらにこの運命の理不尽さを強調するようだった。

「健斗くん、この子たちどうするの?」

 小春ちゃんも心配そうにのぞきこんでくる。

 健斗とハナの会話は小春ちゃんにはわからないけれど、この子犬たちが捨て犬なこと、こんなひどいことをする元の飼い主のところにはもどせないということは、すぐにわかる。

「まず、おれんちに連れて行こう」

 二人は両腕に子犬たちを二匹ずつかかえて、健斗の家へと向かった。

「あれ子犬? どこで拾ってきたの?」

 家には仕事中のお父さんだけだった。玄関先ですぐに健斗は事情を説明する。お父さんも、段ボール箱で川に流されてたというくだりで顔をしかめる。

「いやー、それはひどいな。でも助けられてよかった。見た感じ、まだかなり小さいよね」

「うん。生まれてそんなに経ってないと思う」

「とりあえず、上がりなさい。君らもドロドロだから着替えないと」

「あ、そしたら私、一回着替えに帰ります。ねえ健斗くん、もう一度遊びに来ていい? 私もこの子たちのこと気になるから」

「うん、いいよー」

 小春ちゃんは大急ぎで家にかけていった。健斗とハナと子犬たちは、お風呂でちゃんとどろを落とす。子犬たちは初お風呂なのか、おびえてすみっこでふるえていた。いきなりばしゃーっとシャワーをかけたら、本当にひっくり返ってしまいそうなので、お湯でぬらしたタオルで、よごれをきれいにふき取ってあげた。

 小春ちゃんも家できれいにしてもどってきた。同じ学区内でまあまあ近いとはいえ、その急ぎっぷりに小春ちゃんの子犬たちへの関心が表れている。本当に気にしているようだ。

「ねえねえ、健斗くん、見て。かわいい」

 暖かな応接間のカーペットの上でうとうとしていた子犬の一匹が、小春ちゃんの指をくわえて吸っている。

「お母さんのおっぱい欲しいのかな?」

「おなかすいてるかも。ご飯食べられるかな? このぐらいだと、まだミルクの方がいいかな?」

「ミルクじゃないかな。まだ歯も生えてないみたいだし」

「じゃあ、ちょっと買ってくるよ」

 健斗は財布をつかんで、いつもお世話になっている近所のペットショップへと向かった。からんからんとベルの鳴る扉を開けると、店長の笹原さんが、大きな背中を小さく丸めて、ケージの中の子犬の世話をしていた。その背中に早口気味に健斗は声をかける。

「犬用のミルクください。いつものやつじゃなくて子犬用のやつ!」

「あれ、健斗くん、どうしたんだい、そんなあわてて。もしかしてハナがまた赤ちゃん産んだのかい」

「ちがうよ、子犬を拾ったの。まだ小さいんだよ」

「捨て犬かね。健斗くんちで飼うの?」

「うーん、おれはそれでもいいけど……。でも四匹もいるんだよ。多分ダメって言われると思う」

 笹原さんは健斗の話を聞きながら、棚から子犬用の粉ミルクと、それから哺乳瓶も用意してくれた。

「犬好きで多頭飼いする人もいるけど、ハナを入れていきなり五匹になっちゃうのか。それはちょっと無理かもね。そしたら写真をとってきなよ。飼い主募集のはり紙を作って、店に出しといてあげるよ」

「ありがとう」

 ミルクと哺乳瓶を入れた袋を自転車のかごに放りこんで、健斗は今来た道を急いで帰る。

「見て見て、健斗くん。かわいいんだよ」

 家にもどると、小春ちゃんが手招きをする。横になったハナのお腹のところに、子犬たちが丸まってくっついている。

「かわいいねえ。うちの子が子犬だったころを思い出すよ」

 ハナもちょっとうっとりとした顔で、その様子をながめている。

「健斗もこうして飲んでたんだよ」

 そんなこと言われると、ちょっとはずかしい。子犬たちは、ハナのおっぱいをもぞもぞとまさぐっている。

「ごめんね、おっぱい出ないんだよ」

 ハナは申し訳なさそうにつぶやく。やっぱり、子犬たちはおなかをすかせていた。急いで帰ってきたかいがあった。

「じゃじゃーん。そこでこれの出番だよ」

 健斗は今、ペットショップで買ってきた物を取り出す。

「とりあえず哺乳瓶は二つ買ってきたから、同時にあげられるよ」

「わー、私もあげてみたい」

 昔ハナの子供の世話をした経験のあるお父さんに作り方を聞いて、急いでミルクの準備をする。小春ちゃんも手伝ってくれる。哺乳瓶にちょっと冷ましたお湯を先に入れる。そこに粉ミルク。しっかりふってよく溶かしたら、また冷ます。自分の肌にちょっと垂らして、熱すぎないか確認。体温ぐらいがちょうどいいのだ。

「私がおっぱいあげられてたら、そんな物は必要ないのにね」

 健斗と小春ちゃんがミルクをあげているわきで、ハナはちょっとどこか不満顔。立派に子供たちを育ててきた実績があるのに、自分が役に立たないというのがいやなのだ。

 しかし、おっぱいが出なくても、やっぱり子犬たちは母犬が恋しいようで、飲んだ後にはハナのそばで丸くなって寝ていた。そんな子犬たちを、ハナは優しいまなざしで見守る。

 このように健斗の家に新しく子犬が四匹増えた。

 ただ、仕事から帰ってきたお母さんも交えて相談したのだが、やはりこのまま全部家で飼うのは無理だということになった。とりあえずの面倒は見るけれど、里親を探さなくてはいけない。

 最初の何日かは、夜になるとお母さんを恋しがって泣いていた子犬たちも、愛情たっぷりお世話してくれるハナに、いつしかすっかりなついていた。

「ねえ、どうしてお母さんは、ぼくたちを捨てちゃったの?」

「お母さんは捨てたりしてないよ。捨てたのは悪い人間の大人だよ」

「人間て悪い人なの?」

「そんなことないよ。いい人だってたくさんいるよ。この家の人はみんなに優しいだろ」

「うん、そうだね。みんな優しい」

「遊びに来る小春ちゃんも優しいよ」

「でもお母さんがいないのは、やっぱりさみしいな……」

「だいじょうぶだよ。代わりに私がみんなのお母さんになってあげるよ」

「ハナがお母さんなの?」

「そうだよ、新しいお母さん。みんな大きくなったら、また新しいおうちに行くけれど、そこにもきっと、新しい優しいお母さんが待っているからね」

「そうか、ハナが新しいお母さんなのかあ」

「それでまた、新しいお母さんのところに行くのかあ」

「そう。だからみんな早く大きくなりなさい」

 子犬たちへ優しくそう語りかけるハナの声が、毎晩のように聞こえていた。

 そうなのだ。健斗の使命はそれだ。新しい優しいお母さんのもとへ、ちゃんとこの子たちを届けてあげなくてはいけない。


 子犬の成長はとても早い。

 ミルクを用意しようとしていた健斗が、ふと手元に目をやった時。

「あれ、哺乳瓶の吸い口に穴が開いてる」

「ああ、そろそろ歯が生えてきたからね。ミルクをやめて、離乳食をあげていくころかね」

「すごいなー、まだうちに来てそんなに経ってないのに。子犬ってどんどん大きくなるね」

 予備の吸い口に代えて子犬たちにミルクをやりながら、健斗は改めて支えている手ごたえを計ってみる。小さくか弱げだった子犬たちは、ずいぶんずっしりとしてきていた。

「逆に健斗がなかなか大きくならないから、私はすごく心配だったよ。犬なら二、三ヶ月もすればもうふつうに一人で何でもできるのに、健斗はいつまでたっても赤ちゃんだったからね」

「犬といっしょにしないでよ、もう」

 それにしても、子犬がこんなすぐに大きくなるのだったら、急いでしつけも始めないといけない。なにしろ里親にもらってもらわないといけないのだ。それに関してペットショップの店長、笹原さんに言われた言葉が、健斗はとても気になっていた。

「うーん、これ何の種類の犬かね」

 健斗がとった写真を見た笹原さんはうなった。

「昔は雑種の犬なんてぞろぞろいたんだけれど、最近は野良犬も見かけなくなったし。みんなふつうにペットショップやブリーダーから犬を買うからね。混血の犬をミックスとか言ってたりもするけれど、何の種類だかまったくわからない雑種だと、なかなかもらい手がつかないかもしれないね……」

 まあ、かわいければ種類なんか気にせず引き取ってくれると思うけれど。健斗の顔がくもったのを見て、笹原さんはあわてて付け足したけれど、その気づかいがかえって健斗の不安をあおる。

 ちゃんとしつけて、人にも慣れさせて、かわいくていい子だからと、引き取ってもらえるようにしとかないと。

 犬のしつけで最初のうちにしなければいけない重要なこと。それは犬の社会化と呼ばれる、人や他の犬に慣らすことなのである。すぐにおびえて、きゃんきゃんとほえる犬では困るからだ。

 ということで、健斗はハナといっしょに、おなじみの訓練所に四匹の子犬たちを連れて行くことにした。

 子犬たちはたくさんの他の犬たちに囲まれて、ちょっとおっかなびっくり、あいさつをしている。こうやって慣らしていって、他の犬に対してむだぼえをしないようにしていくのだ。

 さらにここに連れてきたのは、人にも慣らせたいからだ。

 ここにいる人たちなら、みんな犬好きで、しかも犬のあつかいに慣れているプロフェッショナルだ。犬をこわがらせたり、人ぎらいにしたりするようなことはしない。

「わー、かわいい」

「健斗くんちで飼うの?」

「ううん、四匹は無理だって」

「多頭飼いもいいのに。犬は群れで暮らす動物だから、その方が自然なんだよ」

 所長の後藤さんがケラケラと笑ってそう言う。もちろん、いきなりそんなに飼えないのはわかっていての冗談だ。ただ所長さんは健斗の訓練士としての資質を高く買っているので、将来こちらの道に進ませるため、健斗をさらに犬好きの沼にはめようと、ちょくちょくこういうふりをする。

「でも、そうすると里親を探すんだね。それじゃあ、うちでもポスターはっといてあげるよ。知り合いで欲しがっている人がいないか、お客さんにも聞いといてあげる」

「ありがとう!」

「ついでにうちにもどんどん連れてきなよ。見習いの子にはいい練習にもなるし、しつけも手伝ってあげるよ」

 こうして四匹のしつけは着々と進む。

 けれど一つ、うちでしかできないことがあった。トイレのしつけである。

 もともと犬は狼が祖先。野生の時にはトイレなど使っていなかった。おしっこは野しょん、うんちは野ぐそである。だから、トイレの使い方は人が教えてあげなければいけない。

 そして人間の子供がなかなかおねしょが治らないように、子犬もなかなか決まったところではトイレができないのだ。これが、健斗の想像以上に大変だった。

 健斗がずっといっしょに暮らしていたのはハナ。健斗よりも年上で、健斗が物心ついたときにはもう立派な大人だった。ハナの子供、健斗の乳兄弟たちも小さい頃にいっしょだったが、その時しつけは当然両親がやっていて、幼い健斗はノータッチ。いっしょにコロコロ遊んでいただけだ。

 犬のしつけ教室で、訓練士さんよりもうまく犬に言うことを聞かせることができるところを見せていたけれど、それは表での行動訓練のこと。

 つまり健斗が小さな子犬のトイレをしつけなきゃいけないのは、初めてなのだった。

「だれ! おれのベッドでオシッコしたの!」

 学校から帰ってきてその惨状に気づいた健斗は、四匹を問いつめた。

「えっと、ぼく……」

 そのうちの一匹が白状する。

「もう! どこでやったらいいのかって、ちゃんと教えたじゃん! 覚えてないの!」

「それは覚えてるけど……」

「ちゃんとしないと、おうちから出すよ!」

「ぼくたち、また捨てられちゃうの?」

 おこられた一匹が、ふるふると悲しそうな顔で健斗を見上げた。その悲しみとおそれは、あっという間に子犬たちの間に広まる。みんなが健斗の顔を見上げる。

「捨てるの?」

「捨てられちゃうの?」

 しまった、これは言い過ぎだった。健斗はあわてて訂正する。

「わあ、ごめん、捨てないよ!」

 そして、ふうと一息ついて心を落ち着けてから、もう一度子犬たちにさとす。

「でも、おれのベッドでおしっこしないでね」

「だってここ、ふかふかで、気持ちいいから、ふわーってなっちゃうんだもん」

「ダメ!」

 こんな苦労を積み重ねたけれど、そのかいあって、子犬たちはみんな立派にすくすくと育っていった。

 そして、里親も見つかった。ちゃんとしつけて、かわいいいい子だとアピールしようという、健斗のがんばりが実ったのだ。ペットショップと訓練所のつてで来た人たちが、子犬たちを気に行ってくれた。一匹、二匹と引き取られていく。

「こんにちは。新しいお母さんですよー」

 子犬を引き取ってくれた家の人が、そう言って子犬を優しくだきしめているのを見て、健斗はほっとした。

 子犬たちに、ちゃんと新しいお母さんを与えることができた。引き取ってくれた人たちは、みんな犬好きで優しそうな人たちだった。雑種でもいい、高い価値のある血統書付き純血種でなくていいという人たちだから、むしろ純粋な犬好きだ。

 ああいう人たちといっしょに暮らすのであれば、きっとあの子たちも幸せになるにちがいない。一匹、一匹と見送るたび、健斗はそう感じて、肩の荷を下ろすのだった。

 ただ一つだけ、問題が残った。


 あと一匹、引き取り手が決まらないのである。


 最後に残ったのが、ちょっと体の弱そうな、見た目の悪い子。他の兄弟たちとちがって白地に背中にぽつんと大きな茶色いぶちがある。きゃしゃな体に何かそれだけがやたら目立って、見た目のバランスが悪い。しかも兄弟の中では気弱で、ちょっとものおじするタイプなので、引き取りたいと興味を持ってきてくれた人たちの前で、うまくアピールできなかったのだ。

 訓練所のつてで三匹目の引き取り手が決まり、それをみんなで見送った後、小春ちゃんが悲しそうにつぶやいた。

「オコゲが残っちゃったね……」

 子犬たちにはとりあえず仮の名前をつけていたのだが、そんな変な名前をつけているくらいだから、悪目立ちっぷりがわかろうというものだ。今日見送った三匹までで、訓練所、ペットショップともに引き合いはとだえている。オコゲの行き先だけ、まったく当てがないのである。

「ぼくにだけ、新しいお母さんが来てくれないんだ……」

 本人もそれがわかる年頃になっているので、すっかりしょげている。訓練所の庭のすみで、ぽつんと一人肩を落とすようにお座りしている様子は、健斗のように犬の言葉がわからない人たちにも、十分気持ちが伝わる姿だった。

 かわいがってくれていた訓練士さんたちも、心配そうに集まってきた。オコゲを中心にかがみこんで、井戸端会議が開かれる。

「確かに体がちっちゃいし、他の子たちみたいにアピールできなかったけど、物覚えは悪くないし、いい子のなのにね」

 吉沢さんがオコゲの頭をなでながら、うーんとうなった。吉沢さんは「見習いは健斗くんちの子犬のしつけを手伝って練習しなさい」という所長の言いつけで、ずっとオコゲと触れ合っていたので、思い入れもひとしおの様子。他の訓練士さんも多かれ少なかれ構ってくれていたので、やはりオコゲの人気がないのは悲しい話題だった。

「生後三ヶ月過ぎちゃうと、人気が下がるって言うよね」

「うわー、いやなこと言わないで」

「それはペットショップで買うときじゃないの?」

「でも、それくらいが一番かわいいアピールできる時だから、やっぱり早く行き先決めてあげたいよね」

 最後の言葉に、一同うんうんとうなずいて同意するのだが、最悪の予想はどうしても頭をはなれない。

「ダメだったときは、健斗くんちで飼うの?」

「うん、そうなるかもしれない」

「私が飼いたいくらいなんだけど、住みこみの見習いだからダメなんだよう。ごめんね」

 吉沢さんがオコゲをかかえてほおずりしている。

「うん、私も飼いたいなあ。飼えたらよかったのにな」

 これは小春ちゃん。井戸端会議の輪に加わって、周りの言葉を不安そうに聞いていたが、ぽつりとそうつぶやいた。

 子犬たちを拾う場面に居合わせた小春ちゃんは、ずっと子犬たちを気にかけていた。健斗のうちにも毎日のように顔を出していたし、訓練所に来るときにもいっしょで、訓練士さんたちともなかよくなっていた。

 特にオコゲは、他の子犬より体が小さく気弱なところが自分に重なるのか、一番かわいがっていたのだ。

「小春ちゃんの家は賃貸だっけ。ペットだめなんだ」

「ううん、だいじょうぶみたい。猫を飼っている家とか、犬を飼っている家もあるよ。でもうち、昼間だれもいなくなっちゃうから」

「あれ、小春ちゃんちは飼えるの? そしたら飼いなよ。オコゲも小春ちゃんになついているし。大きくなって一人でお留守番できるようになるまで、昼間はウチに預けてたらいいよ」

 小春ちゃんの返事を聞いて、ベテラン訓練士の佐藤さんが提案する。佐藤さんはしっかり者のたよれる女将さんという感じの、訓練士さんたちのリーダー格。その佐藤さんの提案に、小春ちゃんの顔がぱっと明るくなった。

「本当? いいの?」

「いいですよね」

 佐藤さんがふり返って確認する。井戸端会議の輪の外で話を聞いていた所長も、うなずいた。

「小春ちゃんが、うちのお客さんになってくれて、しつけ教室に通ってくれるならいいよ」

「うわー、所長、ビジネスライクー」

「そのかわり、お代は小春ちゃんのおこづかいではらえるぐらいまでまけとくよ」

「おう、それは出血大サービス。凄い値引きじゃない」

 犬のしつけ教室は、一回当たりでも何千円かする。コースのお値段はとても小学生にはらえるものではない。そこで「小春ちゃんのおこづかいではらえるぐらい」という所長の提示した金額は、もうほとんどただ同然だった。

「いいんですか?」

「いいよ、いいよ。先行投資だからな。将来のお客さんにはサービスしないと」

 ニコニコと笑っている所長さん。悪ぶっているけれども本心は明らかだった。

「お母さんに今晩聞いてみるね!」

 小春ちゃんは本当にうれしそうに、目をかがやかせていた。

 小春ちゃんのお母さんも、その話を聞いて喜んでいた。自分の娘が学校から帰ってきても、一人でさびしく留守番をしなければいけないことを、気にしていたのだ。ペットを飼ってそれが解消されて、しかもさらに安心できる出かける先ができるなら、言うことはない。

 次の日、小春ちゃんは本当に満面の笑みで健斗の家にやってきた。

「オコゲ、今日から私の家に行くんだよ。今日から私が、オコゲの新しいお母さんだよ」

 そう言って、そっと持ち上げてだきしめる。

「うわっ、小春ちゃんがぼくの新しいお母さんになってくれるの? うれしい!」

 一人自分だけが人気がなくて、新しいお母さんが来てくれないことに悲しんでいたオコゲだったけれど、この場合「残りものには福が来る」とでもいうのだろうか。

 残っていたオコゲに来た新しいお母さんは、他の兄弟たちもうらやむような、お世話好きの優しい女の子。みんなが大好きだった小春ちゃんだった。

 小春ちゃんが優しく、オコゲを膝の上に寝かせてなでている様子を見たハナは、満足げにうなずいた。

「うんうん、あの子はお母さんに向いてるよ。やっぱり健斗のお嫁さんはあの子だよ」

「ハナってば!」

 健斗の抗議もどこ吹く風、ハナはぱさぱさと尻尾をふっている。

 どこまでもハナは小春ちゃん推しなのだった。

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