第6話 あの子、泣いてる

「ハナ、今日は公園に行こうか。このあいだの増水で、河川敷はまた水びたしだし」

「そうだね」

 リードをつけて、健斗とハナは家を出た。健斗が言った公園は、家から歩いて十分ぐらいのところにある。このあいだの植物公園のような大きな施設ではなく、周りを並木で囲まれて、ちょっとした遊具がある、住宅街の中のふつうの公園だ。近所の子供たちの遊び場になっている。

「あっ、ハナだ」

「ハナが来たー!」

 子供たちが、かけ寄ってきた。

「よー、健斗」

 クラスメイトの太田、通称おーちゃんもいる。名前と、ちょっと見た目がおっちゃんくさいからついたあだ名だ。公園に集う顔ぶれを見て、健斗はハナのリードを取り外した。ベンチの方でおしゃべりしているお母さんもみんな顔見知りで、ハナがかしこくてリードがなくても安心だということを知っている。

 ハナはみんなにごあいさつして回る。

「やー、ハナがおしりかぐー」

 きゃっきゃとみんな楽しそうだ。何度も表彰されて新聞にのったこともあり、ハナはみんなの人気者なのだった。

 二年生の亜紀ちゃんが健斗のそでをひっぱった。

「ねーねー、またハナの訓練するの?」

「うん、そうだよ」

「わたしたちもしていい?」

「いいよー。みんなでやろうか?」

「やったー! じゃあ、ハナ、後ろ向いててね!」

 においをたよりに物を探す訓練をみんなが手伝ってくれるという。これは健斗とハナにとっても、訓練のバリエーションが出て、ありがたい申し出だ。

 みんな公園のあちこちに、思い思いの物をかくしはじめた。ハナに見つけられないようにと、みんないろいろ知恵をしぼっている様子。その間ハナは背中を向けて、お座りで待機。みんなのにおいもかげないように、健斗が鼻をおさえていた。

「もういいよー!」

 ハナの前に子供たちがもどってきた。まずは亜紀ちゃん。前回同じようにここで訓練した時には、一発で探り当てられていて、リベンジする気満々だ。利発そうな瞳は自信に満ちていた。

 ハナはくんくんと亜紀ちゃんのにおいをかぐ。そして地面に鼻を近づけて、広場へ向かって歩き出した。ときおりちょっとわきにそれ、ちょっと考えたあともどってくる。この公園でみんな遊んでいたから、足あとがあちこち交差しているのだ。

 亜紀ちゃんの様子を見ていると、ハナが道をそれるとうれしそうな顔になり、元にもどるとはらはらした顔になる。むしろこっちを見ていた方が場所がわかりそうだ。

 やがてハナはサツキのしげみにつくと、ちょっと左右にうろついて、ある一点を差すようにふせの姿勢をとった。尻尾がぱさぱさゆれている。

「ワン!」

 健斗がしげみの下をのぞくと、亜紀ちゃんのハンカチがおしこまれていた。

「ああーん、花のにおいでわからないと思ったのにー!」

 亜紀ちゃんはくやしそう。足をじたばたとふみ鳴らしている。

 この調子でハナは、次々とみんなのかくし場所を当てていった。木の上にかくしていても、ちゃんとその木の下で、かくしてある場所の方を見上げて、一声。

 ベンチでおしゃべりしているお母さんたちのところ、ベビーカーの赤ちゃんの下にかくして、赤ちゃんのにおいにまぎれさせてごまかす作戦の子もいたが、それもすんなり見破った。赤ちゃんをおどろかせないように、見つけたことをほえずに、お手で知らせる気配り付きだ。

「ハナ、すごーい!」

 子供たちは大喜びだった。

「まあ、ここは河川敷に比べたらせまいから、楽だけどね」

 ハナは当然と言わんばかりのすまし顔。

 そこにおーちゃんがやってきた。

「ふふふー。おれのは探せないぜ」

 何かたくらんでいる悪い顔をしている。いたずらっ子のおーちゃんが、ああいう顔をしている時は要注意。これは健斗のクラスの全員が共有している常識だ。

 ただ今回は、何をたくらんでいるのかは、においですぐわかった。しかめ面でおよび腰のハナ。健斗も気づく。

「ほら」

 おーちゃんは手をハナの鼻先に差し出した。

「ひゃん!」

 ハナは飛んでにげた。おーちゃんは手にべったりと、薬用軟膏をぬっていた。多分向こうのお母さんたちのところでもらってきたのだろう。つーんと薬のにおいがする。

「はははー! 逆ににおいがきつければ、かげまい!」

 おーちゃんはしてやったりとじまんげに胸をはる。そんなおーちゃんを、ハナはなんてものかがせるんだという顔で、うらめしげにじとーっとにらみつけた。そしてそのまま公園を横切っていくと、ゴミ箱のかげから、かくされていた空き缶を一発で見つける。

「えー! 何でー!」

「おーちゃん、一番ダメじゃん!」

 他の子たちがおーちゃんをはやし立てる。健斗は苦笑いしながら指摘してやった。

「おーちゃん、かくす前に手にぬったろ。それじゃ向こうにもにおいがついてるから、すぐわかるよ」

「しまったー!」

 おーちゃんは天をあおぐ。ちょっとぬけているのだ。

「だいたいぬりすぎ。おれでもわかったもん」

「そんなに? くそ、こうなったら鼻に直接ぬってやる」

 くやしまぎれに健斗に手をのばすおーちゃん。そんなことされたら大ピンチだ。健斗とハナはにげだした。

「待てー!」

「わーい、鬼ごっこだー!」

 他の子たちも喜んでにげる。訓練はいつの間にか鬼ごっことかくれんぼになっていた。

 さんざん走り回って息が切れてきたころ、健斗は、その様子を公園の外から遠巻きに見ている子供に気がついた。

 幼稚園ぐらいの男の子だ。身体は細くて、顔つきも気の弱そうな感じ。おどおどとした様子で、何か公園の中を探しているように、きょろきょろと見わたしている。

 その子を見て亜紀ちゃんがつぶやく。

「あ、またあの子来てる」

「知ってる子? 呼んできたら?」

 きょろきょろしているのは友達を探しているのかなと思って、健斗はそう言ったのだが、亜紀ちゃんは首をふる。

「やだ。だってあの子気持ち悪いんだもん」

「こら、そんなふうに言ったらだめだろー」

 健斗がたしなめると、亜紀ちゃんはぷうっと不満顔になった。

「だってほんとだよー。最近毎日いてさ、ちゃんとさそったこともあるんだよ。でも何も言わないでにげてっちゃうの。なのにいつも一人でぼーっと立ってるし。夜の公園に一人でいたりとか、人んちの庭にいたりとかするんだよ。なんかお化けみたいだよ」

「えっ? 夜にも? 一人で?」

「うん、お姉ちゃんが塾の帰りに見たって言ってた」

 亜紀ちゃんのお姉ちゃんは歳がけっこうはなれていて、もう中学三年生。塾の帰りはずっとおそいはず。

 そんなおそい時間に、小さな子供が一人出歩いているなんて、おかしな話だ。

 それに。


「ねえ、ハナ。あの子、泣いてるよね」

「ああ、そうだね」


 においがただよってきた。

 なみだこそ流していないけれど、あの子は泣いている。

 泣いて助けを求めている。

 健斗とハナは、それをひしひしと感じていた。


「この悲しみ方は、ただ事じゃないよね」

「ほっとけないね」

 みんなと遊びたいけど遊べない、そんな程度の悲しみのにおいではない。これは、もっともっと重大だ。

 あんな小さな子が、こんなに深い悲しみをかかえているものなのかと、身ぶるいしてしまうようなにおいだった。

「ちょっと話しかけてみようか」

 健斗とハナは公園の外へ出て、男の子に近寄っていった。

「ねえ、君……」

 声をかけられた男の子はふりむいた。

 とたんに顔をゆがませた。

 ぱっと身をひるがえすと、すごい勢いで走ってにげていく。

「あれ……? ちょっと……?」

 角を曲がって、姿が見えなくなってしまった。

 二人はあぜんとして顔を見合わせた。

「……おれら、なんかした?」

「いや。でも、すごいこわがってたね。ぱあっと恐怖のにおいがしたよ。あれは命の危険を感じてるレベルだけど、どうしたんだろう」

 健斗は人なつっこくて子犬みたいと言われる顔立ちだし、ハナがみんなとなかよくしていたのは見てたはずだし、何でそんなにこわかったんだろう。

 首をひねっていると、亜紀ちゃんがそばにやってきた。

「ほらね、ああやってにげてっちゃうんだよ。なんか今日はいつもより速かったけど。でも話しかけてもじりじり下がって、向こうに行っちゃうの。なのに毎日来て、こっちをじっと見てるんだよ。気持ち悪いよ」

「うーん」

 なぞはますます深まるばかりだ。

「お母さんたちは、あの子のことを知ってるのかね? 毎日来てるなら、気がついてるはずだけど」

「そっか。聞いてみよう」

 この公園は周りにきれいな花のさく木がたくさん植わっていて日当たりもよく、さらに近所のスーパーからの帰り道にもなっているので、お母さんたちの井戸端会議場になっていた。子供を遊ばせながら、おしゃべりしているお母さんがいつもいるのだ。きっと見ている人がいるはず。

 中でも木村のおばさんは、上の子の裕ちゃんが同い年のおさななじみなので、健斗とも仲がよかった。ちょうど来ていたので聞いてみる。

「ねえねえ、おばさん。今、公園を外からじっとのぞいてる子がいたけどさ。毎日来てるって亜紀ちゃんが言ってたけど、知ってる?」

 おばさんたちは顔を見合わせ、微妙な表情をしていた。知っているけれども……。そんな感じだ。

「なんかちょっと気になるんだけど……」

 においの話はできないので、遠回しな表現になる。やっぱりおばさんたちは言いづらそうにしぶっている。とうとう木村のおばさんが口を開いた。

「健斗くん、あんまりあの子に関わらない方がいいよ?」

「えっ、何で?」

「いいから。おばさんの言うことを聞いときなさい。悪いことは言わないから」

 亜紀ちゃんみたいな小さい子が感情のままにきらいとか言うのは、子供だから仕方ないと思った。けれど、木村のおばさんまでそんなことを言うなんて、びっくりした。健斗とハナにもいつもよくしてくれる、優しい人なのに。ちょっとショックだ。

 他のお母さんたちも口ごもっていて、これ以上何かを教えてくれそうな雰囲気ではなかったので、健斗とハナはその場をはなれた。その様子にますますなぞは深まるし、それに何かやばい事情があるのかなと、不安にもなった。

 しかし、関わるなと言われて、はいそうですかと放っておけるわけもない。それほど強烈な悲しみのにおいだったのだ。やばい事情がありそうなら、なおさらだ。

 ハナは警察犬、健斗はそのハナに育てられた子供。その二人の正義感に火がついた。

「こうなると、やっぱりあの子に直接どうしたのか聞くしかないなあ。にげちゃったけど……」

「どうする? 明日にするかい?」

「うーん、でも気になるよね」

「じゃ、今から追ってみようか」

 ハナはまた公園の外に出て、あの子の立っていた場所でにおいをかぎ始める。まさに本職。これは訓練ではなくて本番だ。

「けっこうな勢いで走っていったからねえ」

 ふんふんと鼻を鳴らしながら、足あとをたどる。公園を出たところの角を左に曲がり、次の角を右に曲がり。しばらく追跡してきたけれど、なかなか追いつかない。

 それに。

「変だね、この子。どこ行くつもりなんだろ?」

 ふらふらとしていて、あっちに行ったり、こっちに行ったりしている様子が、ハナのあとをついていく健斗にもわかった。いつものハナなら、もっと足取りはしっかりしている。

 ちょっと不安になって、健斗は声をかけた。

「ハナ、もしかしてまちがってるんじゃない? ここ、さっきも通ったよ?」

「あたしが一度かいだ足あとを逆にたどってるんじゃないかって? そんなへまはするもんか。さっきの足あとはそっちだよ」

 ハナは道の向うを示す。思い返してみたら、確かにさっきはあっち側を歩いていた。

「この子、ほんとにただうろうろしている感じだね。うちに帰るとか、友達のところに行くとかしないんだろうか?」

 ハナがまちがっておらず、正確に足あとをたどっているとすれば、あの男の子が本当に行ったり来たり、あてどもなく歩いているということだ。そう言えば人の家の庭にいたとか亜紀ちゃんが言っていたっけ。

 ぴろりーぴろりろー。

 そんなことを考えていたら、健斗の持っている携帯電話が鳴った。お母さんからだ。

「いつまで訓練してるの? もうご飯だから帰ってらっしゃい」

「はーい」

 晩ご飯のしたくができるみたいだ。お父さんが家で仕事をしているから、夕食の時間はいつも正確。健斗の食いしん坊はお父さんゆずりでもあるので、ご飯がおくれるのはお父さんがいやがる。

「今日はここまでだね。……ハナ?」

「そろそろ追いつくんじゃないかと思うんだけど……家に帰る様子じゃないんだよねえ。あの子はこんな時間なのに、帰らなくていいのかね」

 ハナが顔をしかめて心配そうに言った。辺りはもう暗くなっている。

「亜紀ちゃんのお姉ちゃんが塾の帰りに見たって言ってたけど、まさか、毎日?」

「なんか事情がありそうだね。心配だねえ」

 子供がおそくまで遊んでいたら、親は多少なりとも心配するのがふつうだ。現に健斗のお母さんは電話をしてきた。

 あの子の親は心配してないんだろうか。

 次の日もまた、健斗とハナは公園に出かけた。もちろん男の子と話すためだ。

 公園で二人の姿を見た瞬間、男の子はやっぱりにげだした。

「くそう、追跡だ!」

「あいよ!」

 健斗とハナは今日もあとを追うが、前の日に続いて時間切れとなった。そして次の日も。

 こんなことを何日か続けていると、当然公園に来ている人たちも気がつく。

「ねえ、あの子なんか悪いことしたの? 犯人なの?」

 子供たちに聞かれる。

「いや、そういうわけじゃないけど……」

「ねえ、健斗くん。この間も言ったけど、あんまり関わらない方が……」

 お母さんたちにも言われる。

「う、うん、そうなんだけど、ちょっと事情が……」

 不審な目で見られるようになってしまった。

「やばいよ、何か雲行きあやしいよ。ひそひそされてるよ」

「そうだね。ここは一つ考え方を変えないと。にげだしてから追うから間に合わないんだ。上手く追いこもう」

「……なんか追跡じゃなくて、狩りになってきたよ?」

 二人で作戦を練ることにした。

 翌日、男の子が公園に姿を見せた時には、健斗とハナの姿は公園にはなかった。連日にげていた男の子は、二人がいないのでほっとした様子だ。それでも中に入るわけではなく、もじもじと外から公園の様子をうかがっている。

「よし、来た」

 それを確認した健斗。見つからないように、公園に設置されている災害時用物資の物置と、植えこみの間にかくれていたのだ。そっとそこからぬけだすと、公園の外へと出て、物音をたてないように静かに近づく。

 男の子は公園の中を注目していて、健斗が近づいてきたのに気がつかない。十分そばに寄ってから、声をかけた。

「こんにちは。ちょっと話があるんだけど、いいかな?」

 男の子は、おどろいて、本当に飛び上がった。ふりむいて健斗の顔を見て、いつもの人だと気がつくと、走ってにげだした。しかし健斗はあわてて追うことはしない。今回はそれを計算済みなのだ。

 男の子が走っていく方向の道の角から、ハナが顔を出した。はさみうちにする作戦だ。

 男の子はひっと一声あげて、ますますおびえて、手前の角を曲がった。しかし、まさにそこが二人の計算の結果。

 その路地は行き止まりなのだ。

 奥にも家が建っていて、通りぬけができない。男の子は曲がって初めてそれに気がついた様子。どこかにげられないかと、辺りをきょろきょろ見回していた。

「さあ、もうにげられないよ」

 健斗とハナも路地へ入った。追いつめられた男の子。そこへにじり寄る二人。

 おびえた顔がますますゆがみ、とうとう大きな声で泣き出した。

「いやあー! 大きな犬こわいー! こないでー!」

「えっ」

 健斗はびっくりした。

 ハナがこわくてにげてたの?

 あんな全力で?

 ハナは確かに大きな犬だけれど、ほえたりかみついたりしないどころか、とても優しい犬だ。いつも子供たちに大人気なので、そこまでこわがられるなんて、その可能性はすっぽり頭からぬけていた。

 その大きな泣き声に、向かいの家の人が窓から顔を出した。がんこそうなおばあさん。健斗たちをにらみつけて、きっぱりと言った。

「ちょっと何してるの? 小さい子いじめてるの? おまわりさん呼ぶよ!」

 まずい、誤解されてる?

「ちがうんです、おれたち……」

 健斗はあわてて説明しようとした。でも、すぐ言葉につまってしまう。においで悲しみをかぎ分けたなんて、説明したって納得してもらえない。そしてこの場を切りぬける、うまい言い訳も思いつかない。

 男の子はますます大きな声で泣き、他の家の人も顔を出しはじめた。みんないぶかしげに健斗たちを見つめている。

「むう……このままではほんとに通報されてしまうかも……出直すよ!」

 ハナが健斗のすそをくわえて引く。二人はその場からにげだした。

「おまわりさんにつかまりそうだからにげるって、なんか悪者みたいだね、おれたち」

「まったく、冗談じゃないよ」

 警察犬がまるで犯人のようににげなければいけないなんて、想定外だった二人だった。


「おれたちを見たとたんににげだしてたのは、犬がこわかったからなのかあ」

 現場からだいぶはなれたところまで走ってきて、二人は速度を落として歩き始めた。

「こわいなんて泣くことないのに。あたしが小さい子になんか悪さするとでも思ってるのかね。するわけないじゃないか。むしろ子供は好きなのに」

「まあ、ハナぐらいの大型犬になると、あれぐらいの年の子より大きいもんね。四つんばいだから高さはないけど、子供より重いし」

 ハナの体重は三十キロ近くある。健斗がハナより重くなったのはつい最近だ。

「だからって……」

 ハナはぶつぶつと不満げな様子。本当に子供が好きで優しいから、泣かれたのはかなりショックだったようだ。

 さて、しかしこうなると困った。どうやらあの子は大の犬ぎらいで、ハナみたいに大人しくて優しい犬でも、そばに寄ってほしくないようだ。しかも、亜紀ちゃんの言うように、人見知りもしていて、健斗が寄っていってもにげていく。

 さらに今回こわい思いをさせたから、ますますきらわれてしまっただろう。話を聞きたいと思っているのだが、かなり難しいことになってしまった。

 かといって木村のおばさんの言う通りに放っておくには、あの悲しみのにおいは強烈すぎる。

 どうしようかと二人が考えこみながら歩いていると。

「やあ、お母さん、健斗。難しい顔してどうしたんだい?」

 道の向うからやってきたのはとなり町に住むジョニー。ハナの息子で健斗といっしょにおっぱいを吸っていた、乳兄弟のラブラドール・レトリーバー。飼い主さんと散歩中。

「あれ、健斗くんとハナも散歩? それとも訓練中? 雅美さんに聞いたよー、審査会に二人で出るつもりなんだって?」

 飼い主さんは綾香さん。お母さんが働きに行ってたケーキ屋さんに通いつめてた、当時小学生で今は大学生。あまい物が大好きなのに太らないお得な体質。お母さんとなかよくなって、ジョニーを引き取ってからは家にもよく遊びに来ているので、小さいころからの健斗のお姉さん的存在だ。

「あー、綾香お姉ちゃん。うーんと、訓練といえば訓練中……」

 健斗はあいさつしたが、生返事。気もそぞろな様子で、となりをちらちら気にしている。となりでハナとジョニーがしゃべっている内容のせいだった。非常に気になる、本命の話になっていたのだ。

「実はこういう子に会ってさ。なんか様子がおかしいから健斗と話を聞こうとしてるんだけど、犬ぎらいらしくて、にげ出しちゃうから参ってるんだよ。今も大泣きされたところで……」

「ああ、その子知ってるよ。うちの町に住んでる子だよ。ちょうど今日も、家の前通ったよ」

「えっ! 知ってるのかい?」

「あの家はうちの近所の犬の間では評判で、知らないやつはいないよ。すごくやばそうなにおいのする家なんだ」

「その家はどこ? くわしく教えて!」

 ジョニーがその家までの道筋をハナに伝える。いきなり重要な情報が飛びこんできて、健斗はすっかり会話が上の空。いぶかしむ綾香お姉ちゃんに呼びかけられる。

「健斗くん?」

「あ、うん、あー、えーと……そういえばおれたち、急いで行かなきゃいけないところがあったんだ! またね、さよーなら!」

 ハナが説明を聞き終わったのを見計らって、ぽかんとしている綾香お姉ちゃんを後に残して、走り出した。急いで聞いた家に向かう。五分ほど走ったところだった。

「ここか」

 しっかりした本格的な門のある、大きな家。造りからして古風なので、昔からの地主か何かだとすぐわかる。表札の名前は片平。

 健斗の住んでいるところとは学区がちがって、友達もいないから、ここら辺にはあまり来たことがない。この家を見るのは初めてだ。

「さて、とりあえず来たけど、どうしようか。男の子の名前も知らないし、いきなりインターホンで呼んでもだめだよね」

 ハナは鼻先を高く上げて、くんくんとにおいをかぐ。

「うん。まだ帰ってないみたいだしね。それにしても、いやなにおいのする家だね!」

 感情をかぎ分けられる二人の鼻には、どこか不快なにおいが届いていた。これは、嘘、欺瞞、打算、嫌悪……。そういったものが混じり合って、悪臭のカクテルとなっている。ジョニーの言っていたように、やばそうなにおいだ。

 こんなにおいのする家の子が、あんな悲しいにおいを出している……。やっぱりただごとではない気配がぷんぷんする。

 さて、でも正面から聞くことができないとしたら、いったいどう事情を探れば……。

「いよう、ハナと健斗じゃねえか!」

 次の手を考えあぐねている二人に、となりの家から声がかかった。人の声じゃなくて犬の声だったが。

 河川敷でよく会うハスキー犬のコタローだ。ちょっとがんこなところがあるけど、きっぷのいい犬で、健斗たちと仲がよかった。こちらはいたってふつうの構えの門のすきまから鼻をつきだし、尻尾をブンブンふっている。

「こんなところまで来て、いったいどうしたっていうんでい? あんたらの家からはだいぶ遠いだろ?」

「コタローなら、ここの様子を知っているかも」

「そうだね、聞いてみようか」

 健斗とハナはコタローのもとへと歩み寄り、これまでのいきさつをくわしく話した。すると。

「ああ、しょうちゃんかあ」

 やっぱりコタローは知っていた。犬は鼻もいいし耳もいい。例えのぞくことができなくても、となりの家で何が起きているのか、けっこういろいろわかるのだ。

「しょうちゃんのことは、おれっちもまずいと思って気にしてんだよ。ちょっとややこしい話でな」

 コタローは、顔をしかめて、知っていることを話し始めた。

「この家さ、見ての通りでけえだろ。昔っからここに住んでる金持ちの家なんだ。なんか土地をたくさん持ってて、そこらのでかいマンションとかのオーナーらしくてな。働かなくても暮らしていけるんだと」

「わあ、うらやましい」

 健斗の口からとっさに出たのは素直な感想。健斗の家では作家のお父さんがずーっと原稿を書いていて、肩が痛いとか腰が痛いとか、しょっちゅうぼやいている。そうじゃなければ、評判がどうとか編集部がどうとか、いつもハナにぐちをこぼしているので、正直大変そうだなと思う。

 働かずそんな思いをしなくていいなんて、なんてすばらしい。

 健斗のそんな感想を聞いて、コタローが首をふる。

「だめだぞ健斗、そんなこと言ってたら。やることなくてだらだらしてっと、人間だっておかしくなっちまうんだぞ」

 コタローは、そりを引く犬として有名なハスキー犬。体を動かして働くのが大好きなのだ。健斗をたしなめて話を続けた。

「ここの家の息子、しょうちゃんの親父がまさにそうなんだよ。働かなくていいもんだから、生活乱れきっててな。典型的なドラ息子ってえやつだ。しかもばあさんが息子かわいさのあまり、めちゃめちゃあまやかせて育てたらしくて、そんなかでも、さらにダメな部類になっちまってんだよ。

 顔とか見た目はまともで、頭も回って口はうまいらしくってな、それで金持ちの息子だろ? 人間のメスはそういうのに弱いらしいから、とにかく女にだらしなくてな」

「確かに人間は上っ面にすぐだまされるよねえ。においをかげば一発なのに」

 ハナがあいづちを打つ。確かに健斗も、悪い人のにおいはすぐわかる。

「だろ? 人間てなあ、不便なもんだよな。で、そこにやってきたのがしょうちゃんのお母さんってえわけだ。この人はにおいからしていい人なんだよ。すごいかわいい人だったし、多分あのドラ息子にだまされたんだと思うんだよな」

 健斗は首をひねった。

「あれ? お母さん、いい人なの? じゃあ何で、しょうちゃんのことはほったらかしなの?」

「まあ待て、健斗。そうあわてるもんじゃあねえよ。あわてる乞食はもらいが少ねえってな。そこからいろいろ起きたのさ。

 まず起きたのが、ばあさんの嫁いびり。ばあさんの息子かわいがりはすごかったから、息子の嫁にしっとしたんだよ。愛する息子を取られたって」

「え? そういうものなの? おれなんか、ハナにまでお嫁さんの心配されてるよ?」

 健斗にはますますわからない。このあいだハナから小春ちゃん推しをされたばかりだ。ふつうはお嫁さんが来たら、うれしいものなんじゃないのだろうか。

「うん、心配する親の方がふつうじゃねえかな。ウチの奥さんはお嫁さんと仲いいし。でも、あそこのばあさんはちがった。憎しみのにおいはすごかったぞ。あんな家の飼い犬じゃなくてよかったと、つくづく思わあな。あんなもんをそばでかがされ続けたら、正気じゃいられねえよ。

 人間はそんなににおいには敏感じゃねえけど、それでもやっぱり、あれはこたえんだな。それをぶつけられて朝から晩までいじめぬかれて、しょうちゃんのお母さん、心も身体もこわして、病気になっちまったんだよ。そしたら、働けない嫁なんかいらないって離婚されて、家をたたき出されちまってな。ばあさん、孫のしょうちゃんはあと取りとしてかわいがってたから、お前だけ出てけって」

「何それ、ひどい! 大人なのにいじめって!」

 健斗はふんがいした。ハナも眉をしかめている。大人なのにそんなくだらないことするなんて。

「残念ながらそこはちげえんだよ、健斗。大人のいじめの方が悪知恵がつく分、ずっとひでえのさ。あのばあさん、お母さんがやることなすこと全部けちつけてたよ。自分で言ってやらせといて、そんなこと言ってないとか切れるんだよ。暴力もふるってた。だんなも機嫌悪いとすぐなぐってたしなあ。あの人は気の休まる時もなかったと思うよ。

 ご飯も、おれっちのかいでた感じだと、ちゃんと食べさせてもらえなかったりしてたみてえだよ。あの人だけ食卓別とか、残り物だけとかな。

 でもそんななのに、たまにおれっちに、残り物のおすそ分けをしてくれんだよ。ほんとに優しい、いい人だったよ。よく庭のすみで泣いてたけど、どうも身寄りがなくて、帰る家がなかったみてえだったね。それも責められてた。うちの財産が目当てなんだろうって。

 なんか、優しいのもあって強く言い返せずに、どんどん追いこまれている感じだったなあ」

 健斗は言葉もなかった。学校でのいじめもひどいけど、家でのいじめはもっとひどい。

 このあいだ健斗は例の三人組にいじめられていた。あれをがまんできたのは、学校の半日をがまんすれば家に帰れたからだ。むかついて仕方なかったけれど、あと何時間でそれも終わりだとわかっていた。けれど、家でいじめられたら朝から晩まで一日中、休みなしだ。気の休まる時間がない。

 だまりこんでしまった健斗の代わりに、ハナが質問した。

「ちょっと待っとくれ。お母さんがひどい目にあったのはわかったけど、じゃあ、あの男の子、しょうちゃんは? なんか夜おそくまで家に帰ってないみたいなんだけど、おばあさんはかわいがってるんだよね?」

「いや、ここからがまたひでえんだよ」

 コタローは顔をしかめた。

「しょうちゃんのお母さんと離婚したら、だんなはすぐ次の女を連れこんだんだよ。すぐ次っていうか、前からずっと浮気してた。今もしてるよ。いつもいろんな女のにおいをさせてっからな。

 ところがこの後妻がすごくてなあ。こっちはほんとに財産ねらいの、いわゆる鬼嫁ってえやつなんだよ。だんなが浮気してるのもわかってる。完全に金目当てなんだ。

 そんな女だからばあさんになんか負けねえ。逆に言い負かしてなぐり返してたぐれえだよ。こないだ、ばあさん階段から落ちて腰の骨を折っちまって、そしたらそこからぼけはじめてな。鬼嫁はこれ幸いと、とっとと遠くの介護施設に放りこんじまった。乗っ取り完了だよ。証拠はないけど、あの嫁だったら、つき落としたんじゃないかとまじで思うわ。

 ちなみにだんなが連れこんだ時にはもう子供がいてな。後妻は自分の子をあと取りにしたい。だからしょうちゃんがじゃまなわけだ。だんなは本当に人のことなんかどうでもよくて、自分の快楽にしか興味ねえから、昔からしょうちゃんに全然関心がなかった。それでばあさんも施設送りにしたろ。もうしょうちゃんの味方はいねえから、後妻はろこつにしょうちゃんをじゃまにしはじめたんだよ。

 いつもどなってるし、ご飯もちゃんとあげてねえし、子供は外で遊べって夜おそくまで家に入れねえしな。殺すのはてめえの腕が後ろ手に回っちまうからってんで、外でふらふらしているうちに、車にでもひかれればいいって思ってんじゃねえかなあ」

「なんて女だろ! 犬のあたしが血のつながりのない人間の健斗の面倒を見てるっていうのに、人間同士で面倒見ないなんてさ! そのうえ、死んじゃえばいいだって!」

 ハナも猛然とおこりだした。ハナは子供好きだから、子供をいじめる人は許せない。

 健斗にいたってはあまりの話に、むかむかしすぎて本当に気持ち悪くなってきたぐらいだった。

「ほんとにひでえ話だろ。この辺りの家の犬はみんな事情がわかってっから、おこってんだけどさ。

 ひとつ悪いことしたなあと思っててな。最初、閉め出されて困ってたしょうちゃんが、うちに迷いこんできたんだよ。しょうちゃんが後妻にいじめられ始めたのに、まだおれっち、気づいてなくてな。いたずらしに来たのかと思って、思いっきりほえちまってなあ。あれ以降でかい犬がこわくなったみたいで、おれの顔見ると道の向うにさけてくんだよ。困ってるなら、おれっちんとこ来てくれても、いいんだけどなあ」

 なるほど、それでは大きな犬がこわくなる。健斗とハナは納得した。

 何しろコタローはハスキー犬。大型で力が強くオオカミみたいな顔つき。しゃべってみればきっぷのいい、裏表のない気のいい犬だけど、本気でほえられたら健斗だってこわい。

 それにしても、ここまで複雑で重大な話だとは思ってなかった。助けてあげたいと思ったけれど、いったい何ができるのだろう。

 もしかして公園のおばさんたちはこれを知ってて、やめておけと言ったのだろうか。

 その時健斗はふと気づいた。

「でもそしたら、何で毎日、家から遠い公園に来ているんだろう?」

「そう言えばそうだね。単に公園というだけなら、こっちの町にもあるしね。遊びたい様子でもないし……。何か理由がありそうだ」

「やっぱり何とか、本人の話を聞かないとなあ」

 健斗はしばらく考えて、ひらめいた。

「そうだ! こういうのはどうだろう」

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