第4話 おばあさん、にぎりしめる

『それでは、まずこちらのニュースです。本日午後三時ごろ、○○県○○市で通り魔事件が起きました。犯人は覚せい剤を使用しており、意味不明な供述を繰り返しているとのことです。現場の荒木さんにつないでみましょう。荒木さん?』

『はい、荒木です。こちら○○警察署前です……』

 麻薬を使って頭がおかしくなってしまった通り魔が、街中で事件を起こしただけでなく、植物公園まで逃走して刃物をふり回し、ようやく警察に取りおさえられたという、健斗たちが巻きこまれた事件。これはまぎれもない大事件だったので、テレビの全国ニュースでも大々的に放送された。

「わー、あそこの警察だ。すごいさわぎになってるねえ」

「あんなさわぎになる前に帰れてよかったわ。現場検証だけでも大変だったんだから」

 警察の事情聴取のために残っていたお母さんは、夕方にはパトカーで送ってもらって帰ってきた。でも今日はさすがにつかれたと、晩御飯は出前のピザを取る。それにインスタントの卵スープ付き。

 ピザのにおいはどうしてこう、食欲をそそるのだろう。健斗はぺろりと平らげる。

「あんな事件にあったのに、いつもの調子と変わらないのね。元気なくなっちゃうよりいいけれど」

 それを見て、お母さんが我が子ながらおどろいた様子。うん、確かに事件にはびっくりしたし、どきどきしたけれども、それでもおなかはすくのだ。いやむしろ、どきどきした分エネルギーを使って、それでおなかがすいている感じさえする。

「……食べ終わっちゃった」

「えっ、足りないの? ああじゃあ、お母さんの分をあげるわ。お母さんはつかれて、ピザはちょっと重かったから」

「ありがとう!」

 健斗はおかわりも平らげる。パリパリのおこげと生地のもっちり感。それにどっしりとしたチーズのコクと、サラミソーセージの旨味、トマトの酸味。うん、ピザってほんとにおいしい。

「ハナも取りおさえたのに協力したんだから、ニュースに出てもいいのになあ。また表彰されたら、出られるかな」

 事件直後は自分のいないところで家族がおそわれて真っ青だったお父さんだったが、今はのど元過ぎればなんとやらで、テレビを見ながらのんきにそんなことをつぶやいていた。

「お父さん、そんなこと言って! ハナだってさされやしないかと、本当にこわかったんだからね!」

 お母さんがその言葉をとがめる。

「でもさー、ハナが話題になると、お父さんの本がちょっとだけ売れるんだよねえ」

 お母さんの強い口調に身を縮めていたのに、ハナの頭をなでながらこっそり小声でそんなことを告げる。あくまでのんきなお父さんである。

 結局、お父さんの願いむなしく、ハナがニュースで取り上げられることはなかった。

 けれどテレビや新聞のニュースには流れなくても、休日の公園は人でにぎわっていた。事件の詳細を知った人もいたのだろう。これだけの大事件、話題性は十分、人の口の端に上る力はばっちりだ。次の日の学校では、健斗と小春ちゃんがおそわれ、それをハナが守ったという話が、しっかり広まっていた。クラスメイトから質問攻めになる。

「ねえねえ、昨日の通り魔事件、公園で犯人がつかまった時に健斗くんと小春ちゃんがそこにいたってほんと?」

「何だよー、健斗、にげてただけなの? 俺ならその辺の枝を折って、犯人バシッとやっつけるのによー」

「うそつけ、お前じゃやり返されて、さされるのがオチじゃん」

「そうだよー、大人の犯人にそんな危ないことできないよ。ハナがつかまえたの?」

「ハナ一人じゃなくても、犯人やっつけたって、すげえな!」

 授業前に大さわぎ。クラスのみんなもハナが警察犬で、表彰されたこともあると知っているので、その活躍には納得顔だ。

 そうやって、ハナがほめられるのはうれしい。けれどあの時、健斗もお母さんと同じく、ハナがさされちゃうんじゃないかと気が気ではなかった。なので、どうせ役に立つとしても、もっとおだやかなのがいいのにと思う。

 例えば人探しとか。

 警察犬の仕事で、昨日のように犯人を逮捕する場面に関わることは、実はそんなにない。それよりもやはり、鼻を使った仕事の方がずっと多い。追跡、遺留品探し、麻薬探知も有名だ。

 その中でも人探しは、みんなの役に立つし、喜んでもらえるし、とてもいい仕事だ。

 そして、そんなことを考えているときには、不思議と事件は続くものなのだ。


 健斗が学校から帰ってくると、家の玄関先に顔見知りのお姉さんがいた。

「ああ、健斗くん帰ってきた、ちょうどよかった」

 エプロン姿の山口さん。人のよさが表れているかわいい丸顔の、いつもニコニコ明るいお姉さんだが、今はちょっとあせった表情をしている。

 その顔を見ただけで、健斗は何の用事だかピンときた。

「ちょっと待ってて。ランドセル置いてくる!」

 バタバタと家にかけこんで、机の上にランドセルを放り投げる。ちょっと勢いよすぎて本立てで並べた教科書もなぎたおしてしまったけれど、今はそれにかまっている場合じゃない。

 山口さんがあんな顔して家に来たということは、緊急事態の合図なのだ。

 ハナもそれをよくわかっていて、出動の準備は万端だ。自分でリードをくわえて、玄関先で待ち構えている。そのリードをハナに装着して、準備OK。

「いいよ、すぐ行こう」

「ありがとう。それじゃ健斗くんとハナをお借りします」

 山口さんは、玄関先のお父さんに頭を下げた。お父さんは健斗が帰ってくる前に、山口さんに緊急事態の事情を聞いている。そして、それには健斗が行った方がいいこともよくわかっていた。だからすんなりとうなずいて、健斗に一言だけ注意する。

「車に気をつけるんだぞ」

「だいじょうぶ、わかってる。行ってきます!」

 健斗とハナは、山口さんと急ぎ足で出発する。歩きながら事情を話す山口さんは、本当に困り顔だった。

「帰ってきたばかりなのに、ほんとごめんね、健斗くん。いつも行くところはあらかた探したんだけれど、見つからなくって」

「どれくらい経ってるの」

「朝ごはんを食べた後から見当たらないのよ」

 朝ごはんからか。するともう六時間以上過ぎている。思ったよりも深刻だ。これは急がないと。

 健斗は気持ちを引きしめる。手ににぎるリードから、ハナが気合を入れ直したのも伝わってきた。

 二人が話しているうちに最初の目的地に着いた。住宅街の中にある、大きい建物。庭もあってきれいな花がさいている。塀も、ぐるりと囲う金網のフェンスに花を伝わせて、とてもきれいに仕上げてある。他にもこまごまとしたところにちょっとした気配りがいくつも見えて、住む人の居心地に対する配慮がうかがえる。その門のところで一行は足を止めた。

「まずここからだね、ハナ」

「まかしとき。慣れたもんさ」

 ハナはふんふんと門の辺りをかぎ始めた。

 山口さんは胸の前で手を合わせて、心配そうにその様子を見つめている。

 健斗とハナの到着に気づいて、建物の中からぞろぞろと他の人たちも出てきた。みんな同じように心配な様子。一番年長の、ふっくら優しそうな女の人が健斗に声をかける。

「健斗くん、いつもごめんね。よろしくお願いね」

「任せといて」

 不安そうな顔でこちらを見ているみんな。歳も性別もバラバラだけれど同じエプロンをしている。この施設で働いている人たちだ。

 ここはいわゆる老人ホームだ。おじいさんおばあさんたちが、お世話をされながら暮らしている。エプロンをしているのはそのお世話をする人たち、つまり介護士さんたちだった。

 今問題になっているのは、ここでお世話しているおばあさんの長谷川さん。ときどきホームをぬけ出して、行方不明になってしまうのだ。

 介護士さんたちで手分けして探しても見つからないと、警察に捜索願いを出すことになる。そしてそこから現場に一番近い嘱託警察犬のハナに出動依頼が来るのだが。

 長谷川さんの捜索を何度もうけおっているうちに、最近では警察への捜索願いをすっ飛ばして、今日のように直接、新島家にお願いに来るようになっていた。

 ただ、それには、単に手間を省くだけではない理由があって……。

 その時、ハナがこちらを向いた。

「うん、見つけた。これが一番新しい足あとだ」

「見つけたって」

 健斗が、犬の言葉がわからない山口さんに、それを伝える。山口さんの顔が少し明るくなる。健斗とハナは何度も長谷川さんを見つけているので、信頼がある。それは山口さんだけではなく、ホームの人たちも同様だった。

「お願いねー!」

 ホームの人たちのすがるような視線に見送られ、ハナの追跡が始まった。

 ついていくのは健斗だけではなく、山口さんもだ。ハナは頭を下げ、地面に鼻を近づけたまま、どんどんまっすぐ進んでいく。

「けっこう急いでいるみたいだね、この足取り」

 ハナはうろうろすることなく進んでいく。それは、ハナが優秀な警察犬でにおいをしっかりと追えているということだけではなく、長谷川さんの足あとの進み方にもよるようだ。

「それ、いつもじゃない?」

 長谷川さんがホームをぬけ出す理由は、だいたいいくつかに決まっている。そして、その半分ぐらいは急ぎ足になるものなのだ。

「いや」

 ハナが首をふった。

「いつもより急いでいるよ」

 実際の様子を見ているわけではないけれど、歩く速さは歩幅にも表れる。ハナは一つ一つの足あとをかぎわけ、それに気づいたようだ。

 聞いた健斗は顔をしかめた。長谷川のおばあさんは足腰も弱っている。なのにそんな急ぎ足で歩いている。どこかで転んで骨を折ったりしていないか、心配になる。

「ねえ、もう探してあるのは、どこら辺?」

 山口さんに聞いてみた。ただ足あとをたどるだけではなく、とにかくたくさん情報を集めて、行き先をしぼりこまないと。

「いつもよく行く所は先に探したの。商店街の人たちは見てないって。小学校と公園も行ってみたけど、そこでも見たっていう人には出会わなかった。ただ、こっちは平日の昼間だから、そもそもずっとそこにいたという人があまりいなくて、それでかもしれない。神社の方にもいなかったわ」

「ふーむ」

 すると、商店街は確実に行ってない。店番をしている顔見知りの店員さんが大勢いるから、長谷川さんが通ればわかるはずだ。小学校、公園、神社は、山口さんの言う通り、行っていないというには証拠が弱いけれど、少なくとも最終目的地ではない。

 実際にハナの向かうコースも、その予想に沿っていた。商店街方面には向かわない。小学校、公園、神社はやはり、人に出会ってなかっただけのようだ。そこの前には来ていた。入口のところで少しうろうろして、それから立ち去っている。

 ただ、そこから先。健斗は様子がちがってきたことに気づいた。

「いつものパターンじゃないね、こっち」

「うん。あまりこっちの方には来た記憶がないね」

 ハナも首をひねっている。

 老人ホームでお世話になっている人たちの中には、認知症を発症している人が多い。年をとって段々と脳機能がおとろえてしまっている状態だ。そしてその認知症ではよくある症状の一つとして、自分の過去にもどってしまうことがある。昔の記憶と現在が区別つかなくなってしまうのだ。

 長谷川さんも、よくそういう状態になって、自分がいそがしく家事をしていたころの記憶で、用事を済まさなければとホームをぬけ出すのだ。

 例えば商店街に行くときは、早くお買い物をしてみんなの夕ご飯を作らなくちゃと言っていたりする。昔の、家に食べ盛りの子供たちがいた時の記憶だ。他の目的地も、同じように過去の記憶と結びついている。だからだいたいぬけ出す先が、同じところになるのだ。

 商店街に行かずに、小学校、公園、神社というのは、夕方、遊びに出かけた子供をむかえに行く時だ。この調子でぬけ出すこともよくあった。そこから道に迷って自分が帰れなくなって、というパターンになると、介護士さんたちも見つけられなくなるので、健斗とハナの出番になるのだ。

 ところが今回はそれとはちがう。まずそもそも時間がおかしい。このパターンはいつも子供が帰ってこなければいけない時間帯、夕方に発生するのだ。でも、朝からぬけ出している。それに、子供が遊んでそうな場所を一通り回った後も、足取りに迷いがない。他にも目的地があるようだ。

 いったいどこへ向かっているんだろう。どんどん町の外れに向かっている。これだけ歩き回っているのは、何が理由なんだろう。

「これはちょっとやばいかも」

 健斗は道の行く先をながめながら、つぶやいた。

 山口さんも緊張した顔つきになる。

 大きな国道に出たのである。車がビュンビュンと飛ばしている。健斗たちの脇を大きなダンプカーが、ごおうと轟音をひびかせて通り過ぎた。こんなところを、足腰弱っている長谷川さんがふらふらとわたろうとしたら、ひかれてしまうかもしれない。早く見つけないと危ない。

 そんなあせりが頭をもたげてきた時、ハナがぴたりと足を止めた。

 地面を注意深くかいでいる。

「どうしたの、ハナ……あっ!」

 健斗も気づいて声をあげた。

「何、何? どうしたの?」

 山口さんが心配そうにのぞきこんできた。

 健斗が見つめる先。

 その地面に、かすかな赤。

「血だ……」

「えっ!」

「ちょっとだけだけど……転んだのかな」

 山口さんが青くなる。年をとると骨がもろくなり、骨折しやすくなるのだ。そして、治りも悪くなる。さらには動けなくなって脳への刺激が減ることにより、認知症が進行してしまうこともある。ただ転んだではすまなくなるのだ。

「だいじょうぶかな……早く見つけないと……」

 山口さんの心配レベルがぐっと上がって、声がふるえ始めた。それをかぎ取ったハナが声をかける。

「でも、まだ歩いていっているから、大きなけがはしてないよ。足取りもしっかりしている」

 ハナはそう言って追跡を再開。ハナの言葉がわからない山口さんには、健斗が伝える。

「ハナがまだ追っているから、だいじょうぶ。まっすぐ歩いているみたいだし、けがもそんなにひどくないはず」

「そうならいいけど……。ああ、どこまで行っちゃったんだろう」

 山口さんはやきもきとして、辺りを見わたす。健斗も心配だ。早く見つかるといいけど……。

 その時、ハナが頭を上げるのと同時に、健斗もそのにおいをかいだ。

「いた!」

 長谷川さんのにおいだ。

 山口さんも、さっとかけだすハナを見て、かぎつけたのだと気づいた。健斗とともに走ってついていく。

 数百メートル走った先、コンビニ前のバス停のベンチに、長谷川さんは座っていた。左足をさすっている。

「おばあちゃん!」

「健一!」

 呼びかける声にこちらに気づいた長谷川さんが、名前を呼んでよろよろと立ち上がる。それを支えにかけ寄った健斗を、おばあさんはぎゅっとだきしめた。

「どこへ行っていたの、健一。お母さん、探したのよ。学校に行っても見つからなかったし。今日が遠足の日だったのかしらと思ったけど、ちがったのね」

「えっと、多分帰ってくるとき、行きちがっちゃったんじゃないかな」

「そうなの。でも、本当、無事でよかった。通り魔が出たらしいのよ、こわいわね」

 ああ、そうか。

 健斗は、長谷川さんがホームをぬけ出した理由に納得した。

 ここにも健斗を守ろうとしたお母さんが一人。

 長谷川のおばあさんが健斗を健一と呼んでいるのは、人ちがいをしているからだ。自分の子供の名前なのだ。

 長谷川さんと最初に出会ったのは、幼稚園の頃。

「……健……いち?」

「? ちがうよ。ぼく、けんとだよ?」

「あ、そうよね……ごめんなさい、おばあちゃんまちがっちゃって」

 健斗が通っていた幼稚園と、長谷川さんがお世話になっていた老人ホームは、経営母体がいっしょで、小さい子が老人ホームを訪ねるという交流会を行っていた。そこでおじいさんおばあさんにお遊戯を披露する会というのがあって、それで初めて会ったのだ。

 その頃の長谷川さんはまだそこまで症状が進行しておらず、健斗が自分の息子によく似ているけれどちがう子だ、ということは理解していた。ただ、本当によく似ていたようで、健斗の顔を見つめたまま、びっくりして固まってしまった。

 大きく目を見開いたまま、自分を見つめて動かないおばあさんの第一印象は、幼い健斗にはちょっとこわいと感じるものだった。でも長谷川さんは、そのあととても健斗によくしてくれたので、次第になかよしになった。老人ホームと幼稚園はとなりあった建物なので、健斗は生垣の穴からもぐりこんで、よく遊びに来ていた。

「おばあちゃん、あそびにきたよー」

「あらあら、健斗ちゃん、またあそこの穴を通ってきたのね。お膝がどろだらけじゃない」

 長谷川さんはそう言いながら、うれしそうに健斗の膝のどろをぬぐってきれいにする。まるで我が子のお世話をするように。

 小学校に上がっても、通学路とちゅうでちょっと寄り道して、たびたび帰りに遊びに行った。やがてだんだん、長谷川さんの症状は進んでいき、健斗と自分の息子の区別がつかなくなってきた。名前をまちがえることも多くなり、健斗の知らない話をふってくることも増えた。

 最初はとまどったけれど、そのころには健斗もだいぶ大きくなっていたので、おばあちゃんがどういう状態か、理解できるようになっていた。

 一度長谷川さんの家族に、昔の健一くんの写真を見せてもらったことがある。デジタルではない、昔のフィルム撮影された写真は、時代の流れを感じさせた。なのにそこには、自分でも勘ちがいするほどそっくりな子供が写っていた。まるで自分がタイムスリップして、昔の世界で暮らしていたよう。

 そして長谷川さんは、本当にタイムスリップしてしまったかのように、昔の世界にもどってしまった。まだ健一くんが亡くなっていない、昔の幸せだったころに。

「長谷川さん、健一くんが見つかってよかったね。さあみんなで、帰りましょう」

 山口さんが声をかける。心配していた足の様子を見ると、やはり転んで血が出ていた。でも、骨には異常がない様子。足をさすっていたのは、朝からずっと歩き通しで痛くなってしまったかららしい。

「だいじょうぶです、見つかりました。ちょっとけがしていますけど……あ、はい、だいじょうぶです。すりむいているだけで、骨には異常はないです。本人もあまり痛がってませんし……はい、ここから歩いてもどるのは大変なので……はい。お願いします」

 山口さんは長谷川さんのけがの様子を確認したのち、ホームに電話した。車でむかえに来てくれるそうだ。

 その間も長谷川さんは、健斗の手をにぎってはなさない。

 心配していた我が子の存在をもう手放すまいと、はなさない。

 ハナに直接捜索をたのむだけではなく、健斗をハンドラーとして連れて行くのは、長谷川さんが健斗を自分の子供だと思いこんでいるからだ。健斗がいると、素直についてきて帰ってくれるのだ。

 ホームからむかえにやってきたミニバンに、みんなで乗りこむ。長谷川さんは健斗を自分のとなりに座らせて、やっぱりずっと手をはなさない。

 いつも健斗とハナが訓練している河川敷に差しかかった。

「健一、このあいだは危なかったわね。もう川に落ちるようなことしちゃだめよ」

「え?」

 健斗はおどろいて長谷川さんの顔を見る。ハナの訓練のとちゅう、やぶの向こうがもう川だと気がつかず、足をすべらせて水にはまったことは知らないはずなのに。

 でも、そこで思い出した。

 長谷川さんの息子、健一くんは、この川に流されて死んだのだ。

 大雨の後、晴れてはいるがまだ増えた水が引いていない川の河川敷に遊びに行き、足をすべらせ、流れに飲まれた。

 息子さん、健一くんの実の弟によれば、長谷川さんはずっと、自分があの時、遊びに行くのを止めていたらと後悔していたそうだ。だから自分は、絶対川に遊びに行かせてもらえなかったと言っていた。

 健斗を健一くんとまちがえるようになってからは、流されて亡くなったという記憶が、危ない目にあったけれど助かったと上書きされているらしい。

 今回は、このあいだの雨で川が増水していて、その辺の記憶が刺激されていたうえに、テレビの朝のニュースで通り魔事件のことをやっていたので、心配でたまらなくなって、子供をむかえに出たようだ。学校にも見当たらず、今日が遠足の日だったかと、バスで植物公園に向かおうとしていたのだ。

 川を見つめている長谷川さんは、健斗の手をことさらぎゅっとにぎりしめていた。

 記憶があやふやになってしまっても、それでも残った母の愛情。

 健斗はその手の暖かさを感じていた。

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