第2話 いじめっ子、いじめる

「お母さん、ハナの訓練に行ってくるねー」

「はーい、車に気をつけてねー」

 学校から帰ってきた健斗は、最近の日課となっているハナの訓練をしに、二人で河川敷へと向かった。散歩ではない。訓練だ。


 というのも、ハナは警察犬なのである。


 正確には嘱託(しょくたく)警察犬と言う。警察で飼われて訓練されている直轄(ちょっかつ)警察犬とはちがい、ふだんはふつうの家で飼われていて、事件が起きると出動する。試験に合格した犬がなることができ、日本全国で千三百頭ほどが登録されている。

 もともとはミステリー作家のお父さんが、お話の取材のために訓練所を訪れたのがきっかけだ。犬の訓練方法などを聞いているうちに、その訓練所では警察犬の訓練だけでなく、ふつうの犬のしつけ教室もやっていますよと聞いた。

 取材として、自分でも犬を訓練する経験をした方がいいなと思ったお父さんは、ハナを連れて参加した。警察犬になる犬は、生後六か月ぐらいで訓練所に預けるのがふつう。子犬の時から訓練した方が身に付きやすいからだ。なので、ちょっと訓練の様子を体験してみようと思っただけで、ハナを警察犬にしようなんて思ってもいなかった。入ったコースもふつうのしつけコースだった。

 ところがそこで、ハナがふつうではない才能を発揮したのだ。まず、特に厳しくしていたわけではないのに、訓練士さんがおどろくほどしつけはばっちり。ふつうのコースではもう教えることがないので、ではちょっと専門的なこともやらせてみましょうか、と試してみたら、それもすいすいできるようになる。

 この子は天才、ぜひとも警察犬にと訓練士さんの方が乗り気になって、お願いしてきた。けれど、ハナはうちで健斗の世話もしている。一年間訓練所に預けてしまったら、お父さんがハナの分まで子守をしなければならず、原稿が進まない。そんな事情に向こうが折れて、じゃあ通いでもいいですからと提案した。

 お父さんも、どうせ毎日散歩には連れて行くのだし、訓練所はちょうど近所だったので、散歩代わりに連れてくればいいかと毎日通うことになり、訓練開始。かしこいハナはめきめきと上達して、年齢や訓練時間のハンディキャップをものともせず、試験に合格した。

 そのうちお父さんも犬と共に働くハンドラー役に興味を持ちだして、特訓を開始。ハナといっしょに出動するようになった。

 そしてハナは出動依頼を受けているうちに、何度も手柄を立てて表彰された。ただの警察犬ではない。「非常に優秀な」「天才」警察犬。この界隈の関係者には、一目置かれている存在だ。

 ところが、試験は毎年あってそれに合格し続けなければ資格を失ってしまうというのに、ハナを操るハンドラー役のお父さんが、うっかりぎっくり腰になってしまった。

 もともとお父さんは腰痛持ちだ。腰痛は、ずっと家にこもってパソコンに向かって原稿ばかり書いている作家の、職業病とも言える。そこにぎっくり腰と来て、すっかり気力がなえたお父さん。もうハナも歳だし、今年の審査会はいいかとキャンセルしてしまった。

 そうして、ハナはあえなく引退となってしまったのだ。

「あたしはまだまだできるけどね! 歳なのはお父さんだよ!」

 ハナ本人はそれをとても不満に思っている。そこで今度は健斗と出ようと、二人で訓練を続けているのだった。お父さんもお母さんも、まあハナの運動になるからと笑って見ているけれど、二人は本気だ。

 というよりも、健斗も鼻が利いて、それに犬としゃべれるのだから、むしろ最強のコンビではないかと息巻いていた。

 健斗はハナとお父さんにくっついて、よく訓練所に行っていた。ハナも天才と評判だったが、そこでは健斗も天才の名を欲しいままにしていた。なにしろ、訓練士さんもてこずるようなやんちゃな犬が、健斗にはすぐなつき、言うことを聞くようになるのである。

「だめだよー、まだだよ、まて。ふせ。はい、おいでー」

「うわ、すごい! 完璧」

「えー、あの子全然、私の言うこと聞いてくれないのにー」

 小さな健斗がベテランハンドラーさながらに、どんな犬でも操ってしまうのは、訓練士の、特に始めたばかりの見習いの人たちにとっては称賛の的。

「健斗くん、将来うちに来たらいいよ。健斗くんならすぐに訓練士の資格取れるよ」

 この道三十年の大ベテランの所長さんも、健斗の能力には太鼓判をおす。訓練士の資格を取るためには、何段階かの試験がある。まず最初は簡単なしつけのような服従訓練を犬にして、ちゃんとできるようにさせられるか、というところから。何頭合格させなければいけないという目安があるのだが、すでに健斗は遊びに行って訓練を手伝っているうちに、それをクリアしてしまっている。

 健斗が犬のそばに座りこんで、じっと目を見ながら何かぽそぽそ語りかけると、とたんに犬の動きが変わるのは、ふつうの人から見ればまるで魔法のようだった。何をして欲しいのか、犬の言葉で犬にちゃんと伝えているだけなのだが、そんなことはふつうできないので、まあ魔法と呼んでも差し支えない。

「はい、待て、待てだよー。ちょっと、待てだってば、わかった、わかったから。きゃあ!」

 やんちゃでひとなつっこいゴールデン・レトリーバーのケンシロウ。元気がありすぎるということで、訓練所のしつけ教室に通っているのだが、新米の見習い訓練士、吉沢さんには荷が重い。もうとにかく人間が大好きで、尻尾がちぎれんばかりにぱたぱたとふりながら、突進してくるのだ。

「飼い主としては元気がよくてひとなつっこいのはかわいいんだけど、あの調子だと散歩に連れて行くのも一苦労なのよねえ。だれでも構わずに走り寄っていっちゃうでしょう。身体があれだけ大きいから、小さな子供だとこわがって泣きだしちゃったりするし、いつ、まちがってけがさせちゃうかわからないし……」

 飼い主の小林さんも困り顔。

「はあ……。私、この仕事、向いてないのかなあ……」

 吉沢さんは職業選択の結果についても悩み始めてしまっている。

 こうなると、健斗の出番である。

「ちょっと、ケンシロウ、だめだよ、そんなにつっこんでいったら」

「だって、だって、おれ、吉沢さんのこと大好きだもん。大好きなんだもん」

 尻尾をぱたぱたふりながら、ケンシロウの熱烈アピール。

「おう、それはわかるな。おれも吉沢さんのことが大好きだ。あの人がちょっと困った顔していると、なぐさめてあげなきゃって、思うよな」

「うんうん、そうそう」

 周りの犬も賛同している。そう、吉沢さんはこの仕事に向いていないのではない。犬たちには好かれていて、けれど意図が伝わっていないのである。

「だからってだめだよ。それじゃ、吉沢さん困らせちゃってるよ」

「えっ、おれ、吉沢さんを困らせてる……。もしかして、吉沢さん、おれをきらいになっちゃう?」

「えっ、おれも?」

「そんな!」

 健斗の言葉に、みんないっせいに悲壮な顔になる。

「だいじょうぶ、みんながちゃんとやって、吉沢さんを困らせなければ、そんなことにはならないよ。それどころか、めっちゃかわいがってくれるよ」

「えっ、そうなの?」

「うん、だから、ちょっと練習しようか。じゃあ、行くよ。待て」

 健斗はさっそく、犬たちに待ての練習をさせる。声をかけたあと、健斗はその場からはなれていく。すぐにそばに行きたくなっても、がまん、がまん。犬たちは、ちょっとおしりがむずむずしているけれど、はなれていく健斗の元には行かず、その場でお座りしてたえている。

「はあ……。健斗くんはすごいね。私の言うことは全然聞いてくれないのに……」

「吉沢さん、だいじょうぶだよ。やることわかってなかっただけだから、もう吉沢さんの言うことも聞いてくれるよ」

「えっ。本当かなあ……」

 吉沢さんも、試してみる。今度は、ケンシロウたちはじっとがまん。大好きな吉沢さんのところに飛んでいきたいけれど、じっとがまん。健斗の話によれば、ここでがまんすれば、あとでめっちゃかわいがってくれるという。がまん、がまんである。

「……ほんとだ! 健斗くん、私の言うことも、聞いてくれてるよ!」

「ね、言った通りでしょ? みんな吉沢さんのこと大好きだから、できたらめっちゃほめてあげてね」

「うん! よし、来い!」

 がまんの果てにとうとう呼ばれて、犬たちは一目散に吉沢さんのもとにかけてくる。

「よーし、よし、いい子! みんないい子だねー! 大好き! お……およ、ちょ、ちょっと待って、みんな飛びつきすぎ……きゃあ!」

 がまんにがまんを重ねて、大好きという気持ちをためこんでいた犬たちは、それを一気に爆発させて、吉沢さんをおしたおし、その顔をぺろぺろなめている。

 とりあえずみんな待てはできるようになって、こうして問題は解決したのだが、吉沢さんが一人前のたよれる訓練士になるには、まだ先は長そうだ。

 さて、そんな調子で、すでに訓練所でも一番の結果を出している警察犬ハナと、小学生なので資格はまだ取れないけれど、犬としゃべれるという特技があって、訓練士として将来をとても有望視されている健斗。この二人が組んだコンビなら、どんな難しい課題でも十分こなせるし、だれが相手でもかなわないということはない。

 目標は審査会合格だけではなく、それに続く競技会の全国大会での優勝だ。これはお父さんとハナのコンビでも果たしていない。二人の目標はとても高かった。

「今日は向うのやぶのところでやろうか」

 河川敷に着いて、辺りの様子を見わたした健斗は、アシのしげみの方を指差した。河川敷には原っぱがあって、そこでやろうと思って来たのだが、遊んでいる子供や散歩している犬など先客がたくさんいたからだ。

「いいけど、また足をふみ外して川に落ちたりしないでおくれよ。健斗はうっかりしてるんだから。警察犬じゃなくて救難犬の訓練をするところだったよ」

 ハナが心配そうにつぶやく。それはちょっと前にあった話。訓練のために、健斗はしげみをかき分けて進んでいた。自分より背の高いアシ原の中は見通しが悪く、ぱっと視界が開けたと思った時には、そこはもう川だった。足をすべらせて転げ落ち、ずぶぬれになってしまったのだった。

 ハナは本当に肝を冷やしたようで、以来、ここに来るたびにそれを言う。

「だから、このあいだ一回落っこっただけじゃん。浅いところだったし。あれからはちゃんと気をつけてるからだいじょうぶ……あれ、だれかいる?」

 そんなやり取りをしながらアシ原に向かうと、そこにも人がいることに気づいた。

 同い年ぐらいの女の子。健斗とハナは、ちょっとあごを上げ、宙にただようにおいをかぐ。二人の鼻ならこの距離でもだれだかわかる。

 知っているにおい。

 小春ちゃんだ。同じクラスのとなりの席の子で、保育園からいっしょのおさななじみだった。

 それと同時に二人は、ちがうにおいもかぎつけた。

「泣いてる?」

 こちらを向いていなかったけれど、健斗とハナはすぐに気づいた。犬はにおいで感情を感じることができる。感情が動くと、身体の中で化学物質が分泌されるので、そのにおいでわかるのだ。

 例えば人が興奮するとアドレナリンが出る。血管を広げ、顔が赤くなる原因になる物質だ。そういうにおいを犬はかぎとれる。

 今二人がかいだのは、なみだのにおい。泣きながら、やぶの中に分け入って、何かを探している様子。

「小春ちゃん!」

 健斗はかけよって声をかけた。小春ちゃんはいきなりの声にびくっとしたあと、こちらをふりむいた。

 急いでぬぐったのか、なみだはなかったけれど、目は赤い。二つに結わいた後ろ髪がたよりなげにゆれている。もともと小柄でおとなしい印象の子だけど、ますます弱々しく見える。

「どうしたの? 何か探してるの?」

「あ……えと……リコーダーを。この中に落ちたと思うんだけど」

「ハナの訓練にちょうどいいから、探してあげるよ」

 健斗はどうして泣いていたのかは聞かなかった。心当たりがあったからだ。小春ちゃんも、根ほり葉ほり聞かれず、ちょっとほっとした様子。

 ハナは小春ちゃんに寄っていった。おさななじみということは、小春ちゃんもハナと顔見知りだ。ハナがかぎやすいように手を差し出した。

「ハナ、お願い」

 一瞬ハナの表情がくもったのは、ぬぐったなみだのにおいもかいだからだ。

 小春ちゃんの手に残るリコーダーのにおいを確認し、ハナはやぶの中へがさがさと入っていく。健斗と小春ちゃんは外で待っていた。健斗が来て気を張っているのがうかがえるが、なんと話しかけていいかわからない。居心地が悪くて、むずむずする。

「ワン」

 ハナがリコーダーを見つけたらしく、合図してきた。しばらくがさごそとやぶをかき分ける音をさせたあと、ひょっこりと顔を出す。口にリコーダーをくわえている。

 水たまりに落ちいてたようで、どろだらけになっていた。

 健斗はハナからリコーダーを受け取った。小春ちゃんにわたす前に、さりげなくにおいをかぐ。


 やっぱり、あいつらのにおいがする。


「よごれちゃったね」

「ありがとう、洗えばだいじょうぶだから」

 リコーダーを受け取った小春ちゃんは、けなげに笑ってみせた。

 そして、ハナにもあちこちどろがついているのに気がつくと、ハンカチを取り出してぬぐい始めた。

「ハナ、ありがとう。私のせいでどろだらけになっちゃったね」

 水たまりにつっこんだ足も、ちゅうちょせずふく。きれいなハンカチがあっという間によごれていく。

「あ、小春ちゃんいいよう。どうせ家に帰った時に洗うんだから」

「ううん、びちゃびちゃだと、気持ち悪いよね、ハナ」

 小春ちゃんはにっこりハナに笑いかけながら、ていねいにどろを取る。ハンカチが真っ黒になってしまったけれど、気にする様子はない。いい子なのだ。

 そんな小春ちゃんに、健斗は意を決して切り出してみた。

「やっぱり、あいつらがやったの……?」

 小春ちゃんは、悲しそうな顔で、小さくうなずいた。

「ここでリコーダーの練習してたら、後ろから急にやってきて、やぶの中に放り投げて……。他の人に言わないでね。お母さんが知ったら、心配するから」

「……うん、わかってる」

 やはり、山本、安田、林田の三人組だ。クラスのいじめっ子。しょっちゅう小春ちゃんをいじめている陰険な奴らだ。

「暗くなっちゃったから、家まで送るよ」

 今日の訓練はもう切り上げて、三人は小春ちゃんの家に向かった。小春ちゃんはクラスではあまりしゃべらず目立たない子だけど、小さいころから遊んでいる健斗とはよく話した。話題は今日の四時間目で、健斗のおなかの鳴る音の大きさに、小春ちゃんもやはり思わず笑ってしまったそうだ。

「今日はありがとう」

 アパートの階段を上がっていく小春ちゃん。扉の閉まる音がすると、真っ暗だった部屋の明かりがついた。お母さんがまだ帰っていないのは、いつものことだ。

「三人組って、あのにおいがそうかい?」

 ハナがたずねた。リコーダーを探し当てくわえてきたのだから、当然ハナも、そこに残ったにおいをかいでいる。

「うん。小春ちゃんがお母さんしかいないからっていつもいじめている、やなやつらなんだ」

 小春ちゃんの家は、お父さんがいない母子家庭だった。お父さんは、小春ちゃんが保育園のころ亡くなったのだ。以来お母さんが働いて、小春ちゃんを育てている。

 毎日仕事でいそがしいお母さんに心配をかけたくないので、小春ちゃんはいじめられても、だれにも言わずがまんしていた。もともとおとなしい上に抵抗しないので、連中は調子に乗って、ますますいじめはひどくなっていた。

「両親がそろってたって、あんなにおいをまきちらす子に育っちゃ、意味ないよ」

 ハナは鼻をしかめた。

「うん。ほんと」

 健斗も同意する。陰険な奴らからは陰険なにおいがする。じっとりしめってかびたような、いやなにおいだった。

 健斗とハナは家路についた。ハナがふと思い出したように言った。

「その点、小春ちゃんはいいにおいがするよね」

「うん、いい子だからね」

「健斗はああいう子をお嫁さんにするといいよ」

「ぷぶっ?」

 ハナの突然の言葉に、健斗は鼻と口から同時に息が出て、変な音をもらした。真っ赤になって大あわて。

「な、何言ってんの、ハナ!」

「だってあたしの他の子は、もう子供もいるんだよ? 健斗だけまだ彼女もできないなんて、あたしゃ心配だよ」

「犬と人間はちがうの! もう……」

 犬と人間では大人になる速さがちがう。犬は、犬種によってもちがうけれど、だいたい一歳ぐらいで成犬になる。だからハナの歳の犬なら、子供どころか孫も、さらにはひ孫だっている。でも人間はそんなに速く大人にならない。そこのところを、ハナはわかっているんだかいないんだか。

 結局家に着くまで、ハナの小春ちゃん推しは続いたのだった。

 次の日。

「よう健斗、お前小春と付き合ってんのかよー」

 いじめっ子三人組のリーダー格山本が、健斗と小春ちゃんがいっしょにいるのを見て、からんできた。にやにやとうすら笑いを浮かべ、二人に好意的でないのはすぐわかる。大きな身体をかがめ、のぞきこむようにして言葉を続ける。

「昨日二人でなかよく帰ってたじゃんよ、え? どうなんだよ」

 ハナと同じような話題なのに、何でこんなににおいがちがうんだろ。健斗はうんざりした。

 だいたい、いっしょに帰ったのを知ってるってことは、こいつらリコーダーを投げ捨てたあと、どこかで小春ちゃんが困ってるのをこっそりのぞいてたということだ。たまたま風下の側にいたのか、健斗もハナも気がつかなかった。本当に性格悪い。

「行こ、小春ちゃん」

 健斗は無視して小春ちゃんの手を引いた。次は音楽で、教室は移動だった。

「なんだよ、健斗! 無視してんじゃねーよ!」

 わめく山本を背に教室を出る。もう、性格の悪さが出たにおいが教室中に充満していて、一刻も早くここからはなれたかった。

「ごめんね、健斗くん」

 小春ちゃんがもうしわけなさそうにあやまった。

「いいよ、別に。小春ちゃんのせいじゃないもん。……ねえ、やっぱり先生に相談したりしないの?」

「うん……」

「そっか……」

 担任の橋本先生はいい人だけれど、山本たちは巧妙に立ち回っているので、いじめに気づいていないようだった。

 山本は顔立ちよく、身体も大きくて、クラスのリーダー格だ。表向き、先生には、クラスを引っ張っているように見せている。その実裏では、小春ちゃんみたいなおとなしい子をターゲットにして、ねちねちといじめをくりひろげていた。切れるとこわいので、みんなそれにはふれないようにしているのだ。

 本当は相談した方がいいんだけれど。見かけた時は健斗がかばっているのだが、ずっとべったりいっしょというわけにもいかない。

 今日の音楽は合奏だった。まじめな小春ちゃんはそれで、昨日練習していたのだ。

「リコーダー洗ったの?」

「うん、だいじょうぶ。ちゃんと音も出るよ」

 小春ちゃんは小さく、ピイとふいてみせた。

 でも、リコーダーからは、まだどろのにおいがした。ふつうの人は気にならないかもしれないけれど、鼻のいい健斗はそれが気になる。昨日のことを思い出して、またむかむかといきどおっていた。

 そして事態はさらに進んだ。

 音楽室から帰ると、机の上に健斗のノートがめちゃくちゃにされて乗っていた。ぐちゃぐちゃに丸めたあとがあり、ページは破かれ、黒の太いマジックで落書きがしてある。ちらりと見ると、三人組がニヤニヤしている。さっきの仕返しのようだ。

 もともと仲がいいとは言えなかったが、ここまで露骨ないやがらせをしてくるのは初めてだ。小春ちゃんをかばっている健斗も、いじめのターゲットにしたようだ。

 その日から、細かないやがらせが続くようになった。

 そばを通りかかった時のこと。山本はわざとどんっと肩を強く当ててきた。健斗の方が小柄なので、バランスをくずしてよろめく。

「おっ、悪りい。当たっちゃった」

 たおれそうになって机に手をついた健斗を見下ろして、山本はいやらしく笑った。

 朝、学校に来てみると、机の中にごみがつまっていた。ごみ箱から取り出してつめたらしい。どこから拾ってきたのか、奥の方には生ごみもあって、そうじしたけれどにおいが残り、鼻のいい健斗は授業中苦しめられた。

 帰りに靴箱から靴を取り出そうとすると、ずぶぬれになっていた。生ぐさいにおいで、学校にある、ビオトープの池にしずめらたんだとわかった。ごていねいに中には池の底のどろがぎっしりつめられていたので、どうせよごれるならぬれない分ましと、健斗はその靴をはかずにはだしで帰った。

 他にもいろいろいやがらせは続いた。こうしていじめられても、健斗はじっとがまんしていた。

 とにかくがまん。ひたすらがまん。

 けれど、何事にも限界というものがある。

 机のわきに下げておいた給食袋が、カッターでずたずたにされていた。

 これはお母さんのお手製だ。わざわざ作ってくれたのだ。

 

 それをぼろぼろにするなんて。

 

 健斗の堪忍袋の緒が、これで切れた。

 この日は健斗は日直で、いろいろ仕事をしていたら、帰りがちょっとおそくなった。職員室から出て、さあ帰ろうと廊下を歩いていると、ひそひそと話し合う声がした。

「あいつ生意気だから、ちょっと階段でつきとばして、びびらせようぜ」

 山本の声だ。安田も林田も笑っている。

 健斗は争いごとがきらいだった。そういう緊張感のある場所は、いやなにおいが充満するからだ。なるべくさけようとするので、いじめっ子のような人種には、それが弱腰に見えるようだ。

 小春ちゃんをかばっていても、いっしょに連れてにげるぐらい。先生にも言いつけていない。反撃できないと思われている。だからいじめがだんだんエスカレートしていたのだ。

 でも実際の性格は、曲がったことがきらいな正義漢だった。何しろ警察犬ハナの子だ。

 がまんしていたのは、小春ちゃんのためだ。いじめを大ごとにすると、小春ちゃんがいじめられていることも表ざたになる。それは、お母さんに心配をかけてしまうと、小春ちゃんが望んでいない。

 ちなみに小春ちゃんは健斗にそんな迷惑をかけることもいやがるだろうから、こう考えていることも内緒にしていた。

 さらに健斗がターゲットになってから、小春ちゃんや他のおとなしい子に対するいじめが減っていた。三人組が新しい獲物にご執心だからだ。健斗をいじめている分、他の子に構う時間がなくなっていたのだ。

 自分ががまんすれば、小春ちゃんが助かる。だから、健斗はがまんしていた。

 けれど健斗はもうがまんしないと決めた。お母さんが一生懸命作ってくれた物にまで手を出すなんて、もう許せない。

 今聞き取ったひそひそ話は、ふつうの人なら聞こえない距離だから、向うは健斗が気づいているとは思っていない。だが健斗は犬のように耳もいい。後ろからしのびよってくる様子も、ふりむかなくても手に取るようにわかる。

 山本がこっそり走りよってきて、つきとばそうと息を吸いこんだ瞬間。

 思い切り後ろへ飛んだ。


 ごつん!


 健斗の頭に大きな衝撃が走った。後頭部が山本の鼻っ柱に激突したのだ。

 ねらい通り。

 ただし、かなり痛かったので、健斗も頭をかかえてうずくまった。

「何すんだこの……」

 頭つきを食った山本は、顔を赤くしてつかみかかってきた。

 けれど、その赤は興奮しているからだけではなかった。

「やま、やま、血が」

 となりの安田が、動転した裏返った声で告げる。いつもねむそうな顔をしているのに、その目が大きく見開かれている。つり目の林田は、さらに目がつりあがっていた。

「え、あ、うわあ!」

 三人組はパニックになった。山本のシャツが、真っ赤な鮮血に染まっている。鼻血だ。それも大量に。

 ぼたぼたと床にも赤い斑点ができていた。山本はあわてて鼻をおさえてうずくまる。けれど止まる様子は全然なく、おさえた指の間からもしたたっている。

 すごい量なので健斗もびっくりしたが、ここははったりかますところと、つとめて冷静を装って告げた。

「おい。ずいぶんいろいろとやってくれたな」

「な、何だよ、証拠あんのかよ」

 この期におよんでしらばっくれて林田が反論してくるが、鮮血におびえ腰が引けていて、いつもの威勢のよさはない。

「証拠? おおありだよ。おれの犬が警察犬なの知ってるよな。捜査でいっしょに仕事するのは、警察の鑑識。おれも知り合いだ。プロの手にかかったら、お前らの犯行なんて穴だらけだぞ。最初に破かれたノートなんて、表紙がつるつるの紙だから、指紋がよく残ってるだろうな」

 三人はぎょっとしたようだ。山本も鼻血を忘れて見上げている。

「小春ちゃんのリコーダーからも指紋出るよな。鑑識は、リコーダーに残った小さな砂粒からでもあの河原の物だと特定できるから、おれらの証言を裏付ける、いじめの証拠になる。ノート破きとかは知り合いの警部さんのとこ持ってけば、器物破損でもつかまえてもらえるかもな? 少なくとも」

 健斗はここで一息ついて、相手に事の重大さがしみわたる時間を取った。そこで声のトーンを一段落とす。

「もうこの学校にはいられないようにできんだぞ」

 本当はそこまではやってくれないんじゃないかと思ったけれど、はったりは勢いが大事。ひとなつっこい丸顔には似合わない冷徹な表情と、せいいっぱいの演技で、全力でおどした。警察といっしょに仕事している小学生なんていないから、健斗の言葉がうそか本当かなんて判断がつかないはずだ。

 三人組にとっては目の前の健斗が、自分たちの予想とはちがってまったくひるむ様子がなく、本気で反撃してきたということだけが、はっきりした事実だ。

 すっかり弱気になったのが、においをかぐまでもなく、そのおびえた表情でわかった。

「おい、どうした?」

 階段の下から声がした。橋本先生だ。ちょうど階段上ってくるところ。

 三人組がしゃべる前に、健斗は口を開いた。

「おれが立ち止まったら、後ろから来た山本くんとぶつかっちゃって……」

「うわっ、すごい鼻血じゃないか!」

 階段を上がってきた先生も、びっくりしたようだ。かがみこんで山本の様子を見る先生の後ろで、健斗は三人組に向かってわかってるよなとにらみつけた。そして声を出さずに、け・い・さ・つ、と口の形を作る。三人はぶるりと身ぶるいした。

「あー、これは鼻折れてるなー。よそ見して走ってたのか? 危ないぞ。健斗の方はだいじょうぶか? ぶつかったのはどこ?」

 橋本先生は山本のけがを確認すると、健斗の様子もたずねた。

「ここです」

 これはかくすこともないので、素直に後頭部をさす。

「ああ、こぶになってるなあ。二人とも保健室に行こう」

 保健室の先生もびっくりしたようだ。あわてて止血し、病院に連れて行く手配をしていた。健斗は頭を氷のうで冷やされ、もし気持ち悪くなったら、すぐ病院にいきなさいと帰される。

 お母さんにはいじめの話はできないので、やっぱり先生に言ったように当たり障りないことを伝える。向うがぶつかったという話なので、危ないわねえと眉をしかめていた。

 そして事情がわかっているハナには本当のことを。

「うん、よくやったね! 三人がかりで女の子をいじめるようなくだらないオスには、それぐらいでいいよ」

 ハナは犬だからか、人間の大人と言うことがちがう。みんななかよくしなさいとか、話し合えばわかるとか、そんなきれいごとは言わない。

「話してわかるようなやつなら、いじめられた子が泣いてる時点で反省するんだよ。それを笑って見ているくずなんだから、どっちが強いかはっきりわからせて、相手がひっくり返って腹を見せてくるまで、手をゆるめちゃダメだよ!」

 むしろもっとやれと、はっぱをかけられた。犬の世界は意外に厳しいようだ。正直、健斗はけんかはきらいだったけれど、確かにハナの言うことには一理あるので、仕方ない。

 弱点にかみついてやるんだよというハナの教えにしたがって、次の日から、ひとけのないところですれちがうたびに、山本の折れた鼻をいきなり無言でパシッとはたいた。

「あうっ!」

 まだちゃんとくっついていない鼻をたたかれれば、力がたいして入ってなくてもめちゃくちゃ痛い。山本はなみだ目で健斗を見つめる。

 でも目撃者がいなければ、先生に言うわけにもいかない。何しろ健斗は警察に証拠を見せると言っている。事をあらだてると三人組の方が不利。それがわかっているので、されるがままにがまんするしかないのだ。

 繰り返していると、山本はそのうち、健斗の顔を見るだけでびくびくするようになった。いつも三人で歩いていたのが、いつしかばらばらになり、安田にいたっては健斗に下手に出てきて機嫌をうかがう始末。山本はいやな奴だと前から思ってたとかうったえる。

 そんな安田も、健斗にじとっとにらみつけられると、すごすごと去っていった。

 結局三人がつるんでいたのは、友情なんて立派なものじゃなかったのだ。力のあるやつにこびへつらっておこぼれをもらう腰ぎんちゃくと、それにおだてられるばか大将。

 あまり後味よくないけど、確かにハナの言うとおり、あいつらは話し合ってもやめそうにないから、こうするより他にない。自分たちが人にやってたことだしな。自業自得。

 とにかく小春ちゃんへのいじめもなくなった。他の子にタームゲットが移ることもなかった。それが大切。

 そう自分へ言い訳する。

 相手の感情がにおいでわかる健斗は、いじめなんてしたくもなかった。いじめられている子の悲しそうなにおいもいやだったけれど、もっといやなのは、いじめる子が出すにおいだった。いじめられている子を見て喜ぶ後ろ暗い感情は、とても苦いいやなにおいがするのだ。自分からもそういうにおいが知らず知らずのうちに出ているんじゃないかと、心配になる。

 まったく、どう育てたら、あんないやなにおいのする子供が育つんだろう。

 健斗はため息をついた。

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