ぼくは犬のおまわりさん
かわせひろし
第1話 おなか、なる
そろそろお昼が近づいた、給食前の四時間目。
給食室からおいしそうなにおいがただよってくる。
今日のこんだてはキャロットピラフのオムライス、野菜のポタージュ、フルーツの盛り合わせ。フルーツの種類は、モモ、みかん、パイナップル、それに杏仁豆腐にレモンシロップが加えられてる。
にんじんはきらいな子が多いので、細かく刻んでピラフに入れる。ちょっとこがしそうになったのは、新任の調理師、藤本さん。給食は家のご飯とちがって大量に作るから、手際よく作業しないと火の通りがばらばらになったりして難しい。ふんわりただようバターのにおいが、食欲をますますそそる。
ポタージュに入っているのは、じゃがいも、コーン、たまねぎ、セロリ。これにパセリを散らすようだ。セロリはけっこうかおりがする。きらいな子も多いけど、おれはにんじんもセロリも好き。
デザートのフルーツはきっとみんな好きだ。きらいな子なんているのかな。レモンのすっぱいにおいをかいでいると、口の中によだれがたまって……。
ぐううー!
おなかの鳴る音が教室中にひびいた。
あまりの音の大きさに、クラスメイトがふきだして、みんな笑い出した。
「けんとー、くいしんぼうすぎー!」
「毎日グーグー鳴らしてるもんな!」
黒板に問題を書きつけていたひょろりと背の高い橋本先生も、苦笑いしながらふりむいて、みんなをたしなめた。
「おなかがすくのは元気な証拠! みんなそんなに笑うな。健斗、あと三十分がんばれ。そしたら給食だ」
「はい」
自分でもおなかの音の大きさにびっくりして、まん丸な目をさらに丸くしていた健斗は、赤くなって身をすくめた。
「えへへー、ごめんね」
となりの席の友達に、照れながら謝る。
けれど、心の中でつぶやいていた。
みんな知らないんだ。給食が、どれだけいいにおいをさせているか。確かに給食室は校舎の反対側だから、ここまでそんなに、においは届かないけど。でも、おれにはそれで十分。今何を切って、何をいためているかも手に取るようにわかる。
だっておれは、みんなの百万倍鼻が利くんだもの。
「ただいまー」
「お帰り健斗。今日はどうだった?」
「うーんと、今日はね、オムライスにポタージュにフルーツ。調理師の藤本さんがにんじんちょっとこがしてあわててた」
「なんだい、給食の話ばかりじゃないか。ちゃんと勉強してたのかい?」
「してたよー。て言うかさ、おいしそうなにおいが気になって仕方ないのに、がまんして勉強してるんだから、おれ、みんなよりがんばってるよね?」
「はいはい」
「お帰り健斗。今日はどうだった?」
「ただいま、お母さん。四時間目におなかが鳴って、みんなに笑われた」
「また? ちゃんとご飯食べさせてないって思われてたらどうしよ。おなかいっぱい食べてるよね?」
「うん。育ち盛りなんだよ」
健斗の答えを聞いたお母さんは笑っていた。その前の質問からして、本当に心配しているわけではなく、おなかを鳴らしてばかりいる健斗によく言う冗談なのだ。なので健斗も本当のことは言わず、いつも通り適当にごまかした。
それでは学校から帰ってきて、最初に本当のことを話していたのはだれかと言えば。
飼い犬のハナ。十二歳のメスのラブラドール・レトリーバー。薄茶色の短い毛並みにかしこそうな瞳。
健斗とハナが話していたからと言って、ハナが人の言葉を話せるわけではない。
実は健斗が、犬と話ができるのだ。
そして鼻も人よりずっとよく、耳もいい。健斗は犬みたいな能力を持っているのだった。はなれた給食室の様子を事細かにかぎ当てられるのも、その力のためだ。
小さいころは、それが人とはちがう異常なことだと気づかずに周りの人にしゃべってしまい、おかしなことを言う子だ、だいじょうぶだろうかと親に心配をかけたりもした。小さな子が犬と話している風景はほほえましいけれど、人には聞こえないもの、かげないはずのものについて話し始めると、ちょっとやばい。
「おかーさん、うちもハンバーグがいい! やましたさんちは、きょうハンバーグでおいしそう!」
三軒となりのまだ焼いてもいない夕食のおかずをぽんぽん言い当てたら、この子はもしかしてこっそり上がりこんでのぞいてるのでは、と思われても仕方ない。
このような時にはお母さんは、我が子がご近所に迷惑かけているのではないかと、本気で心配した。しかし注意して見ていてもそういう様子はなくて、なぜわかるのかは謎のままだったのだけれど。
そんなおさわがせな健斗だったが、物の分別がつくにしたがって、ふつうの人はそんなことはできないとわかるようになり、それをうまくかくすすべを覚えた。何かかぎとった話はしたらだめ、何か聞こえた話もしたらだめ。ハナと話すときも辺りに気を配って慎重に。
その努力のかいあって、今では犬好きで、犬とすぐなかよくなれる子、ぐらいになっている。
「あたしがおっぱいあげて育てたからかねえ」
健斗が周りとちがう子に育ったことについて、ハナはそう言っている。
この、ハナが育てた、には少々わけがある。
ミステリー作家の健斗のお父さんは、かけだしのころ、ちょっとしたヒットで舞い上がり、少し都会から外れた郊外に家を建て、それまでしていた仕事をやめて作家業一本にしぼった。ところが次の作品がさっぱり売れずに、お金がなくなってしまったのだ。
そこで弱気になったお父さんの尻をたたいたのは、お母さんだった。お父さんのお話は絶対売れる、自信を持ってもっとどんどん書けとはっぱをかけて、代わりに自分が働きに出ると決意。お母さんが仕事に出て、お父さんが家で小説を書きながら健斗の面倒を見ることになった。
でもお父さんはお話を考えるのに夢中になると、赤ちゃんの世話がついついおろそかになってしまう。かわりにいつも健斗のそばにいたのは、ハナだったのだ。
そのころ、ハナはお母さんになりたてで、ぐずる小さな健斗をかわいそうに思って、自分の子供といっしょにおっぱいをあげていたんだそうだ。
ハナが健斗を育ててくれたのよというのは、両親の笑い話になっているのだけれど、犬のおっぱいを飲んで育つと、犬の能力がつくものなのだろうか。
それより健斗が気にしているのは、最近ハナに似てきたねと言われることだ。つぶらな目に、ひとなつっこい丸顔が子犬っぽいと言われる。いつもいっしょにいるからだと友達は笑うけれど、内心このまま本当に犬になったらどうしようと心配なのだ。
とにかく健斗は鼻が利き、犬とおしゃべりできる少年なのだった。
そしてハナは、健斗だけではなく、この新島家全体の「お母さん」だった。
お父さんはその後、超売れっ子とは言わないまでも、ちゃんと暮らしていけるぐらいには本が売れるようになった。しかしそうなったらそうなったで、新たな悩みが発生するものだ。
しめきりはせまっているのにアイディアが出ないとか、ネットで自分の本の悪口が書かれてたとか、心をさわがせることはたくさんある。そんな時、ぼんやり庭をながめてため息をついているお父さんのわきには、必ずハナが寄りそっていて、お父さんはハナにぐちをこぼしていたりする。
「不安な時には、だれかにそばにいてほしいものなんだよ」
そうハナは言っている。だとするとよく庭をながめているお父さんは、年中不安ということになる。大人って大変だなあと健斗は思う。
もちろんハナはお父さんだけでなく、家族みんなを見守っていて、落ち込んでいる人のそばには必ず寄ってきてなぐさめてくれる。健斗もテストの点が悪くておこられたりした時には、よくお世話になる。
お母さんもたまにハナをかかえている時があるが、それよりもお母さんがたよりにしているのは、もっと別のことだ。文字通りハナの鼻をたよっている。
一度食事を作っている時に、ハナが猛然とほえたのを、おなかがすいているのかなと放っておいたら、ご飯を食べたあと、お父さんとお母さんはおなかを下してひどいことになった。ハナの言葉がわかる健斗はその時おとまりで出かけていて、ハナがその食材は痛んでいると警告していたのに、お母さんには伝わらなかったのだ。
それ以来お母さんは、消費期限があやしそうな食材を冷蔵庫から見つけると、ハナを呼んでおうかがいをたてるのだ。ハナがかいでもほえなければ、だいじょうぶ。
「痛んでるけど火を通せば平気なのかなってあの時は思ったけど、かみついてでも止めるべきだったねえ」
ハナはみんなの健康にも責任を感じている。
もちろん健斗のお母さんとしての責任感は人一倍だ。
「何しろあたしは健斗のオムツの世話もしてたんだからね」
「オムツはさすがにお父さんとお母さんがかえてたんじゃないの?」
「うんちが出たら素早く教えていたのが、あたしなんだよ」
こんな調子なので、健斗がごろごろ漫画を読んでいると、そばに来て一言言うのを忘れない。
「宿題終わらせたのかい? このあいだ忘れて学校に行って、先生におこられたんだろ?」
「んー、これ読んだらやるー」
「だめだよ、この前もそう言って、その漫画の続きをずーっと読んでて忘れたんじゃないか。先にやっちゃいなさい」
ハナは健斗のやわらかいわき腹を鼻の頭でぐりぐりとおして、早くやりなさいとせきたてる。
「もー、わかったよ」
大正時代の鬼狩りについて描かれたその漫画は健斗のお気に入りで、確かにとちゅうで止まることができずに、読みふけってしまうことがしばしばだ。
ハナもそれがわかっているので、容赦ない。犬の型その壱「鼻でぐりぐり」のうちに動かないと、その弐、その参と、せきたて方がどんどん手厳しくなる。
しぶしぶ漫画を置いたところで、お母さんも一言。
「健斗ー。漫画読んでるけど、宿題終わってるのー?」
「もー! 今やるって言ったのに!」
「何よ、今初めて聞いたんじゃないの」
しまった最初に言ったのはハナだったと、健斗はごまかして部屋に退散。朝は二人に尻たたかれて、早くご飯食べろ、忘れ物はないかとうるさく言われるし、お母さんが二人いると大変だなあと健斗は思う。
でも優しい時も二人分だ。健斗が風邪を引いてねこんでいると、お母さんは優しくおでこに手を当てて、熱を見る。
「苦しくない? 何か食べられそう? りんごむいてあげようか」
「んー」
「じゃ、ちょっと待っててねー」
ハナはそんな時、ずっと健斗のそばに寄りそっている。
「そうそう、ハナ。健斗をあっためてあげててね」
健斗はやっぱりハナもお母さんも大好きなのだった。
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