blue wolf is asking death.
雨が降っていた。
その日は酷い豪雨で、曇天は激しく怒号を轟かせていた。屋根に弾かれた雨粒はまるで遊んでいるように跳び跳ね、音を踏み鳴らす。
例えるならばチャンネルの放送時刻を過ぎた深夜のテレビジョンに砂嵐が写っている時、またはチャンネル未設定の時、または電波の届きにくい時のラジオで聞くあのノイズによく似ていて、けたたましく鼓膜を打ってくる。
神経を逆撫でるような騒音を幾度も重ね奏で、縁取られていない訴えを明らかに提示しながら。が、生憎、空の心情を察する能力なんてものは寸分も持ち合わせていないし、また、全ての人類もそれを成しえられないだろう。…全て、は飛躍し過ぎているかもしれない。
もしも超人的能力をその内に秘めたる存在ならば、或いは可能かもしれないからだ。屋根から滴る雨雫は地面を穿ち、大小ある窪みをそこいらに作る。そこへ砂混じりの濁った水が溜まっていく。今は間隔が空いているが、やがて水路が繋がり大きな水溜まりになるのではないか。いや、なるに違いない。これはそう、土砂崩れ前の兆候を再現されているようだ。若しくは、その果て。
随分と機嫌の悪いその銀灰色を、月虚は懐に腕を差し入れ、開かれた襖に寄り掛かって、只眺めていた。
時刻は午前二時。短い秒針ももうすぐ平坦になる頃。シェアハウスの住民は既に各々寝床に入り、室内は静寂と暗闇に包まれている。広いせいでやたらと不気味さを主張しているが、差し込む月光により多少なりとも緩和されているようだ。輪郭を露にする壁の向こうには、何者の気配もありはしない。
このシェアハウスには、約十人の人間が住んでいる。未成年もいれば、成人している者。穏便な者、やんちゃな者、控えめな者、物静かな者…、性格も歳もばらつきがある。それは極端なものではないが、それでも皆仲違いもなく過ごしている。単に顔合わせの機会が少ないというのもあるかもしれないが、互いの意思を尊重し合うくらいの心遣いは熟知していた。
それぞれ仕事をしているので、帰宅時刻は違うといえど、夜中には皆しっかり帰ってきて、好きなことをした後眠る。その繰り返しだ。最もこれは、人の生活リズムの基準では、ごく平凡な暮らしに入るだろう。
明日の天気はどうなるのか。昼間のバラエティーが終わり、直後で放送された予報では、翌朝には太陽が照り、暖かい日差しが降り注ぐだろうと言っていた。しかし雨は止みそうになく、故に晴天には程遠く、蒼窮を窺う余地さえ今は顔を覗かせない。
止まらない雨。
―――ふとその中に、僅かな水の跳ねる別の音が、微かに混じった。不規則なノイズにのせいで掻き消されない違和感に、些細な気配。月虚(げっこ)は、深海を連想させる群青の瞳を横に流す。それから、動いた。
長く灰暗い廊下を歩いて、玄関へ。引き戸を開くと、玄関には、一人の青年。吹きすさぶ雨風のせいで、髪や衣服はべったりと濡れ肌に密着してしまっている。髪を頭上で結っており、水を含んでいるせいで毛先は撓垂れている。あらゆるところから滴が伝い落ちていた。玄関手前の地面に泥寧が出来る程に。青年の年齢は見たところ若々しく、また初々しく窺えた。二十代前半辺りだろうか。それにしてはどこか、推測する年齢よりも大人びているように見えた。月虚と青年は、対峙する。ややあっての沈黙の後、青年はすうっと息を吸った。
「…アンタ、烈さんの家族かィ?」
後方の月光により煌めく鶸萌黄の瞳の眼差しが、鋭く月虚を見据える。その奥に含まれている警戒と疑念を眼前に沸き立たせ、そして飛び出さぬよう伏せている。外見からの判断だろう。家族というにしては、あまりにも似てなさすぎる。誰の眼にも必ず違いが分かるだろう。
「そうですね」
賢明なのか、探りを入れているのか。賢い故の詮索なのか。ふ、と月虚は口元だけの笑みを漏らす。初対面の第一声としては、何ともまあ不粋な対応だ。若輩者であるから、仕様がないか。と。文面で表すなら卑下に似た思惑と一部に捉えられることは免れないが、その実は、そうではなかった。ただ、そう思った。それだけだった。
「ですが、正しくは違います」
「…何だ、それ。…あァ、同居人か」
「そうともいいますね」
白々しい態度で悠々と放てば、的を射ぬ回答が気に触ったらしい、青年は眉間に皺を寄せ、益々警戒をした様子。言うなれば空気が、漂う酸素が急激に薄くなるような。立ち眩みを覚えるような。震動していると錯覚のする程に、殺気に満ちに満ちている。何故それほどにまでピリピリするのか、月虚は理解しようとは微塵にもしようとはしていない。あっけらかんとしている。
「…アンタ、ここの奴じゃねぇのかィ?」
「そうですが?」
「…」
増幅した気配。極限にまで刃を研ぎ澄ませる為に槌を打つ職人の眼光…。或いは、その主。或いは、その刃。鋭利たる切っ先をこちらに差し出し、本性なる虎(こ)を隠し息を潜める。最も相手に悟られてはならないのが前提だが、明らかな輪郭がそこに象られているのを、月虚は犇々と感じていた。
「…。…俺が思うに、ここにいる時点で、ここに住んでるって事だと思うんだが?」
「単に宿泊しに来た…という選択はないのですね?」
「…ふん、成る程ね…」
舌打ちを重ねての皮肉と共に、視線を横へ逸らす。どうやら会話を投げ出したらしい青年は、浅く溜め息を吐いた。
「まァいい。ここにいるんだ。この家のもんかどうかは、この際どうでもいい」
質問した本人とは思えない台詞に、先程の疑いの念はどこへ行ったのかと逆にこちらが疑念を抱きそうになる程、あっさりと消えた殺気。…綺麗に消えた、とは言い難いが、鬼気迫る雰囲気は薄れていた。正確には、押し潜めただけだろうが。
「貴方が始めた話ですよ」
「うっせェ」
青年は、その一言で大雑把に一蹴する。本当にどうでもよくなったらしく、応答をする気もないという風だ。随分と身勝手で奔放だと、月虚は先の自分の見聞した記憶を上書きしておいた。勿論、第一声からの相手の態度についてである。青年は、視線を後ろへ遣った。誰かを背負っていた。項垂れているので顔までは確認しようがないが、フードを被っているというまでは一見できる。月虚も、青年がここへ訪れた時から気にはなっていた。
「アンタに、頼みたい」
そう言って背中を向ける。
「この人」
月虚は少し足を折り屈むと腕を出し、横抱きにする。その人物は、力なく首を横に傾けた。それによりフードが下へ落ち、ぶら下がる。僅かだが月に照らされた顔に、そこで漸くその人物が誰なのかを把握出来た。先程、青年が家族かと訊ねた前に出した名の本人に違いない。月虚は目を細めた。意識がなく、瞼は固く閉ざされている。呼吸は…しているかどうか、定かではない。危うい状態だった。そして伴い、雨に流されなかったまとわりつく不愉快な異臭…、漂う鉄の臭いが鼻を掠めた。この有り様は何故か、という訝しげな眼差しのみを相手に向ける。
「…俺じゃねぇよ。だとしたら端からここに来ねぇだろィ」
「でしょうね。問いたいのはそうではなく、こうまでなる過程についてです」
「…俺ァ、知らねぇよ。なぁんにも、な」
ザーザーと鳴り止まぬノイズに曖昧に溶け込みそうな声量で、半ば投げやりに青年はぽつりと呟く。自虐的なようで、叱咤しているような。抽象化した何かに向かって眈々と睨んでいるような素振りを、しかし前面には出そうとせず堪えている。そう月虚には窺えた。対象となるものの姿など知りもしないが。隠そうとしても抑えきれていないところを見ると、やはり若輩者だとも思った。
「…辻褄が合いません」
「何のだィ?」
「貴方がこの方を運んで来たのなら、この理由も分かる筈でしょう?何も、なんて、それこそ知らない理由は何もありませんよ」
「…」
青年は口を閉ざした。どうやら図星のようだ。判りやすいものだ、素直である事は悪くないがそれは相応な場面で発揮されなければ意味はなく、最悪弱味を握られてしまう。知らないなら知らないと強かに返せば相手も己の内までは読めないのだ。そう、今月虚も言った、訪れた理由。知らないとは、記憶にないという意味でもある。そこに矛盾が生まれるのだ。例えば青年がこの場に表れた事自体とか、月虚の抱えている人物を彼が背負いここまで運んで来た事実とか、そもそも茂みに隠されたこのシェアハウスは地図にも載っていないし存在の他言もしていない筈だ。どういった経緯で探ったのか…、と。
「本当に知らねぇんだよ。その人の事ァ」
青年は、今度は深い溜め息を吐く。
「では何故、ここへ来たのです」
「何故って、ここは烈さんの家なんだろォ?」
「…彼が、そう言ったのですか?」
「あァ」
それこそ、真実味のない虚言に思えた。その烈(れつ)という人物は、いつでも無愛想で不機嫌、横暴な発言をし、他人の好を足蹴にする、そんな行為が目立つ、決して関わりたくはない部類に入る人間。目に映る人物像はそうして刷り込まれている。殆どの者が、そう感じる筈だ。本人も他人との関わりに煩わしさを覚えている様で、もし姿を表したとしても住人との立ち会いをあからさまな態度で回避しようとする。それどころか、皮肉や憎まれ口を叩いてその場から立ち去るのだ。そんな彼が他者に、ここを自宅だと断言するだろうか?彼がシェアハウスの住人である事に変わりはないのだが、想像だけでもあまりにも無理がありすぎる。
「…貴方は、何者ですか」
「あん?何って…俺ァ、烈さんの同僚だよ」
「怪我をしているならば、ここへ来るより病院へ行くのが先決だと思いますが?」
「…事情があんだ、それは難しい」
「事情?」
「…ああもう、アンタめんどくせェ」
ガシガシと乱暴に頭を掻いて、悪態を吐いた。
「とにかく、その人の事ァ頼んだぜィ」
手振りをして、踵を返す青年。足早に離れていく背中に、月虚は投げ掛けた。
「結局、貴方は誰なんですか」
間隔が十分に空いた距離になって、青年は足を止める。ややあって、振り向いた。
「―――言っただろ、その人の同僚だって。どうせ分かってんだろ?刑事サン」
最後の方は雨音に薄れていき聞き取りにくくなっていたが、彼は確かにそう残して、何事もなかったように降り頻る雨の中へ消えていった。霧になって分散してしまったように、痕跡も、そこにあった気配を今度こそ拭い切って。青年の消えた先方を睨み付けながら、月虚は家内へと入っていく。腕に抱いている人物を支えながら指先で引き戸を静かに音も立てず閉めた。扉の向こうからは雨音が唸り声を上げているが、外気を直に実感するよりは随分とましになった。しん、とした、誰もいない静謐で灰暗い廊下。月虚は下駄を脱ぐ際、廊下を背中にして揃えて脱ぐ。ほんの僅かに砂を踏む音、カラン…という木を叩く音がした。しかしそれは、静寂だからこそ木霊したように目立っただけだった。月虚は細心の注意を払い、床を軋ませぬよう振り向く。すると振り向いた廊下の先には、一人の少年が立っていた。セミロングの黒髪に怒っているように吊り上がった目付き、白いシャツに、ゆとりのある黒いジャージを履いている。
「…おや、こんな時間にどうしたのですか?」
「目が覚めちゃってさ。…それより、誰?その人」
月虚は、静かな声量で尋ねる。少年はゆっくりとした足取りでこちらに歩み寄ってきた。密かに床がきしきしと鳴く。少年はきょとりとしながら腕に抱えている人物に目を向け、咄嗟にそう、聞いた。
「ここの住人の一人です」
「そうなのか…、その人、ぐったりしてるけど…大丈夫なの?」
「分かりません」
「生きてる…んだよな?」
「さぁ…分かりません」
少年は月虚の言葉に、不安そうにその人物を見詰める。見ず知らずの人間の心配をする等、お人好しである証拠だ。それが通常のよくある反応かどうかは知らないが、知らぬならば無関心であってもおかしくはない。いや、先程このシェアハウスの住人だと認めたのならばそれも当たり前の反応なのかとは納得はいく。しかし少年とその人物は同じ住人とはいえ面識は一度たりともなかった。
「確かめる為に、座敷へ行こうかと思いまして」
どうやら、介抱をするために部屋へ運ぼうとしたらしい。何やら訳ありのようなので、病院へ行っては駄目なのならこちらで手当てを施すしかないだろう。座敷ならば誰も使っていないし、救急箱や使用していない布団も何枚かはあった。手勝手がいいのだ。
「では、処置しなければならないので、行きますね」
「え、…ああ、…うん。じゃあ…」
「はい、お休みなさい」
それだけを残し、月虚は少年の横を通り過ぎていった。座敷は、廊下を真っ直ぐ進み、居間が目前にあるとしたらその右側に襖がある。その部屋へ入り、それからその右隣の部屋が座敷になる。通路から座敷に踏み入る為の経路はないので、手段はそこを通るしかない。月虚は座敷に入り、左にある箪笥へ烈を凭れさせると、向かって右にある押し入れを明け、手前にある布団を引っ張り出すと畳に敷く。そこに烈をゆっくりと寝かせ、救急箱と、箪笥からはタオル、余っている鳶茶色の浴衣を取り出した。洗面所から水を丸い容器に注ぎ入れ持ってくると、烈の横へそれらを置いて準備が出来た。早速処置に取り掛かる。烈の容態は…見ただけでも悲惨なものだった。顔には青痣ができていて、鋭利な刃物で作ったような切り傷や擦り傷があった。血色が悪く肌は生気を失い真っ青で、唇は青紫に変色し、後頭部には大きな痼が少し出っ張り、血の塊が出来ている。額も同様に10針は縫うであろう大きな傷跡。月虚はタオルを手にすると、顔を軽く叩くようにして柔く拭いていく。白かったタオルが、泥や血液のせいで瞬く間に汚れていった。救急箱からは消毒液、傷薬、包帯、金属の留め具、紙テープ、綿やピンセットを取り出し、太股のベルトを外し、ロングブーツを脱がせ、横向けにして置いた。次に、服を脱がようとした。衣服の状態もまた酷い状態だった。所々擦ったように破れていたり、衣服ごと切られ、切り傷が露出していたりしている。血が滲み、赤黒くなっていた。雨に濡れたせいで、染みが広がっている。月虚はそろりと上着を脱がせる。そして、シャツも脱がせた。上半身も、痛々しい傷跡でいっぱいだった。それこそ隈無くといった感じで、そこまででも悚然してしまいそうな有り様である。月虚は黙々とただ、処置を施している。そしてそこで、あるものが視界に入り、月虚は目を細めた。
一段落を終えて月虚が烈に布団を掛けた時、襖が静かに開かれた。見ると、そこには廊下にいた、あの少年がいた。
「灯焔(とうえん)」
名前を呼べば、少年は後ろで襖を閉めて、灯焔はそっと月虚の隣に座った。
「眠れなくて…」
「…心配ですか?」
「…うん」
灯焔は、瞼を閉ざしたままの烈を見る。悄然と翳る蒼い瞳に彼を写し、じっとただ眺めていた。
「貴方は、この方を存じませんよね」
「うん。でも、さ。さっき言ってたじゃん?ここの住人だって」
それだけだと言うように、灯焔は言葉を途切れさせる。同じ場所に住んでいるだけで、あまり顔合わせもしない、いや、あまりどころか記憶にない者を、たった今さっき知った存在を気掛かるとは。本当にそれだけなのか。月虚は思う。酷薄かもしれないが、月虚は見ず知らずの人物なぞを構わないしそんな気もない、時が淡々と過ぎるように、脳に記録されていない者に情けをかける心情は申し訳ないくらいに持ち合わせていない。そう、他人なら尚更だ。こう治療しているのならば、辻褄の合わない話ではあるが…。
「それだけですか?」
「それだけだよ。住人ってことは、赤の他人ってわけじゃないし…」
「まあ、そうですね」
なるほどと、月虚は相槌を打つ。
「…それにしても、どうしたんだ?この人…。酷ぇ怪我じゃん。月虚が手当てしたっていってもさ、一応病院とか、連れてった方がいいんじゃないか?」
「そうですよねぇ、それが一番なんですよねぇ…」
「…じゃあ何で」
「事情があるみたいですよ」
先程訪れた青年が、公共施設との接触は避けたいといった言い方をしていた。何らかの理由があるのは明らかだが、かといって大事に至ってしまっては根拠どころではなくなってしまうのではないか。この様子では一般人には対処できない部分も当然にある筈だ。プロである医者に掛かればまずは安堵できる。ともなればそれが最善の方法とも考えられる。…が、その何らかの理由が何なのか分からない以上、こちらも迂闊には行動できないのだ。もしそれが彼らにとって重大であったなら?死活問題であったなら?彼らにしか把握しようのないもの故に、軽率に扱う訳にはいかない。
「事情、…って?」
「さあ。私にはさっぱり」
「…その事を、月虚が知ってるのは何でだよ」
それは、と。先程あった出来事を話そうと口を開いた瞬間だった。
灯焔は瞠目し体を強張らせる。烈の睫毛が震え、瞼が緩やかに開けられたのだ。半分だけ覗いた虚ろな金色が電光を捕捉し、僅かに鈍く光を帯びる。その瞳は間違いなく天井を写しているが、丸い傘を差したそれが『明かりを点す為の機器』だと認識しているかどうかは知れない。静謐な呼吸を、今しがたやっと開始したかのように肩が上下をし始めた。薄く開かれた青紫の唇はまるで死人のそれのようだ。しかし生きている。生きていた。灯焔はぎこちなく彼を呼ぼうと声を紡ごうとした、その時ーーー。緩やかな動作でこちらに向いた彼。ばちりと視線が交差する。驚愕する灯焔。虚ろな瞳。ーーーであったが、
「ーーー!!!」
一気に開かれた瞳。それと同時に、彼は布団を跳ね退ける。それが月虚と灯焔に投げ付けられ、視界が一瞬遮られた。布団が畳にずり落ちる。
「うわっ!?…な、何だ…!!?」
布団の端を持って、灯焔は突然のことに狼狽した。烈はゆらりと立ち上がり、荒い息遣いでぎらりと双方を見る。冴え凍る憤りを金色に燃え上がらせ、熱と冷を綯い混ぜにしながら睨み付ける。体は異常に震え、足は今にも崩れ落ちてしまいそうだ。見るからに弱っている姿だが、それでも尚、強かな態度を示している。烈は数歩、覚束なく後退した。ふっ…、ふっ…、と浅く呼吸を繰り返し、息を潜める。まるで獣が、最後の力を振り絞り敵に抗う様に正に酷似していた。灯焔は狼狽しながらも、立ち上がり彼とコンタクトを取ろうと試みようとする。すると烈は、前屈みになり、喉元を押さえた。
「…ッう"、ぉ"、え"え"」
ビシャリ。呻きと共に胃を引っくり返したように盛大に嘔吐をした。吐き出されたのは胃酸に伴う、多量の血液。それも尋常ではない量の、蛇口を瞬間的に強く捻り水を放出させたようにばたばたと烈の足元へ落ちていった。畳が瞬く間に朱に染まり、赤がじわじわと広がっていく。鼻につく異臭に混じる鉄の臭いが、室内に充満していった。赤々しいそれに、灯焔はまた、瞠目する。これでもかというくらい吐血をし、やがて止まった。…かと思えば、一拍置いてまたようようとえづき始める。もう出せるものはない様子で、ただ吐き出そうとしている動作だけをしていた。このまま死んでしまうのではないかという、そんな光景。それが数秒継続した後、ややあってふと、ぴたりと動きを止めた烈の体が、糸を切ったようにぐらりと傾く。倒れそうになった途端、月虚が近寄り腕で支えた。嘔吐物を踏みつけ、白い靴下は赤く汚れてしまったが、一切気に止めない。騒然としていた空間が、再び静寂になる。灯焔は唖然とし、力なく項垂れている紺色を見詰めていた。
「…気を失っただけのようです。…まあ、あれだけの怪我をしていても命を落とさないのなら、心配は杞憂に終わるでしょう」
背中を持ち、顔を覗き見て断言すると、抱き上げて敷き布団に寝かせる。月虚が触れた彼の体は、最早人間のものとは思えない、体温の一切を感じられなかった。生命を宿した肉体だと誰が断定できるだろうか。それでも微かに呼吸をしているところから、生きているということには間違いない。無造作に置かれてある掛け布団を掴み手繰り寄せると、食道の位置まで掛けてやる。灯焔は、座り直して眠る烈を暫く傍観した。相変わらず血色のない面持ちで、先程よりも髪が若干乱れてしまっていた。
「…この人の腕には、」
暫くして月虚が、ぽつりと声を紡ぐ。
「注射の痕が、幾つかありました」
予想のしなかった単語に、灯焔は月虚に振り向く。月虚の視線は、烈に向けられたままだ。
「古傷ではなく、真新しいものでした。恐らく二、三時間程度経過したものと思われるその痕は、とても不自然な形をしておりました。医療機関に携わる者が打った、痕跡が然程残らないものではありません」
まるで教科書に載せられている文面を読み上げるように、感情の込められていない抑揚ない声量でただただ言う。
「そう、素人が。まるで素人が乱暴に針を突き立てたような。内出血を起こし、傷の周囲は黄色く変色していた」
ーーー月虚が介抱をしていた際に見たものは、今の言葉通りのものだ。幾多の傷跡、古傷から最近のものまで、細かく浅いものもあれば、深く抉られた名残もある。いったいどんな生活を送ればこんな有り様になるのだろうと、月虚でない他者であれば、烈がそこでどんな人間かを想像して、尻込みをしてしまうかもしれない。止血はしているものの、少し力を込めるとすぐに傷口がぱっくりと割れて多大に出血してしまいそうな傷ばかりが腕や腹部にありありと赤黒く主張している。鬱血した箇所は、そこを切開し血抜きしなければならないのは承知であったが、そこまでは月虚には出来なかった。肋骨がやや肌から不自然に突きだしており、その部分はきっと折れてしまっている。早く病院へ搬送させた方がいい。取り返しのつかない事態になる前に。事態は深刻であるに違いないのに。しかしーーー。月虚は烈の腕を見た。そこには、注射の痕が数個ほどあったのだ。…もしかしてこれは…。そうだとすると、病院へ行けない理由も合点する。調べられると薬物使用をしていたと発覚しそこで違法をしていると通報をされ、怪我が完治したと同時に即牢屋に放り込まれるだろう。これはこの青年が、烈本人が自らしたのだろうか。そう結論を下すにはこの有り様とあまりにも合致しない。もし自らが用いたというのなら、この傷は何なのだろうか?他者が彼に無理強いをしたというならば、まず疑うべきは彼をここへ運んできたあの青年だが…だとしてもやはり合点には至らない。青年がここへ烈を連れ赴く理由はどこにも結び付かない。犯人が青年なのだとしたら、そもそも彼をこの自宅だという場所には運ばず、どこかへ隠蔽しようとする筈だ。疑われるのは自分だと考える。だから根拠からは外れる。では、いったい誰だろう、という思考より、その誰かが分からない以上どれだけ考えようが意図の断片も垣間見えないのだと考察を諦めた。そして手早く手当てを施していったーーー。
「…薬?」
おずおずと灯焔が口を開く。月虚は「どうでしょう」と曖昧に返す。方向を変えれば、若しくは違う答えもあるかもしれない。これはほぼ確定した憶測なのだが。
「…こんな人が?」
「格好だけで、内面までは分からないでしょう?」
「それは…そうだ、けど…でも、」
「そのような人達もいるということですよ、灯焔」
灯焔がちらりと烈を見遣る。信じられない、と訝しげな視線。テレビのニュースやバラエティーで見かけるだけのものだと灯焔は思い込んでいた、それが身近に現れるなんて予想もしていなかった。拒絶とまではいかないが、少し怯んでしまっている。先程のあの尋常ではない様子はそのせいだったのかと頷けたようだった。それでも灯焔は烈を憂慮する。
「こんな世の中です。苦悶しない人生など有りません。それを隠していかねばならない人もいるのです」
そうして暫くの沈黙が、また生まれる。
「…さて、灯焔」
その後、月虚が口を開く。
「自室に戻りなさい」
突然切り出され、灯焔は月虚を見上げる。何故だと言いたげな瞳で。
「…え。でも、俺もここで、」
「貴方は今日も仕事でしたよね?まだ出勤時刻までに時間がある。ならばもう一眠りつくとよいでしょう」
説得…、というよりも催促の方が正しいかもしれない。有無を言わそうとしない月虚に対し、灯焔はやや渋るが、月虚はその様子を見ても妥協はしない。
「変な時間に目が冴えてしまうと、日中、体が重くなってしまいます。眠気が襲っては仕事に支障を来します。それは困るでしょう?」
「だから眠くないって…」
「灯焔」
軽く微笑み、月虚は言う。こうなれば、灯焔はもう反論は出来ず、首肯した。
「…分かった。じゃあ、お休み」
「はい、お休みなさい。また今朝」
立ち上がり、ゆっくりとした足取りで出入り口に向かう。さっと引き手に指を掛け開くと、境を跨がり隣の部屋に移動した。襖を閉めようとして、灯焔は再び座敷を見る。
「大丈夫ですよ。この人は、私が看てますから」
優しい声色で嗜めるように返すと、灯焔は浮かない表情で瞳を伏せて、頭を下げた。そして襖を静かに閉めた。しんとした室内。光が遮断されたことにより今まで明るい場所にいた灯焔には壁の輪郭があやふやに感じられたが、月光を浴びて少し明るくなっていた。もう、直に朝日も昇る。月と太陽の役目が入れ変わる。ややあって、灯焔はその部屋から廊下に出た。雨は未だ止みそうになく、窓の外や頭上からは雨滴がザーザーと騒ぎ立てている。今朝も大雨なのだろうか。灯焔はぼんやりと考えながら、長い廊下を歩いていった。
銀灰色の空は寂寥に只、泣き張らしていた。
I @norameco
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