第9話 呪術師
「たん、よん、たんよーんよん、たん、たん、たんよーんよん、たん」
タケルの父、慎吾が家の中をうろうろしている。コンポのリモコンの電池が切れたと探し回っているのだ。
マニアにはほど遠くても、慎吾は音楽や落語を好み、時間ができると買っておいたCDやレコード類を階段の下に設けた「オーディオルーム」で楽しそうに聴いている。だが、このところ多忙が続き、動画サイトをつまみ食いする程度だったため、電池切れに気がつかなかったようだ。時間は夜9時にまだ間がある。
表情が明るいのは、仕事の上の面倒な問題が一段落したせいだろう。慎吾は職場での不機嫌をあまり家に持ち帰らないタイプだが、それでもヤマを超えると、とたんに鼻歌が増える。節回しから察すると、前に家族で観たミュージカル映画のサントラを聴くつもりなのかな、とタケルは母の出してくれたりんごを食べながら思ったりした。
父の探す様子におかしみを感じて、タケルは食卓に腰掛けたまま、単三ならあるが単四はない、でもいつかきっと見つかるだろう、とのいい加減な詩をディズニーアニメ調メロディーに乗せて返した。小学校低学年なら一緒に踊ったりもしたが、今では声の参加だけである。
それでも応答に気を良くした父は、今度は息子に合わせた曲調で、霧の彼方にきっと電池はある、という歌を熱唱した。男二人のくだらない掛け合いに、
「ストックがあるでしょ」と母の理玖が冷静に言った。
まだ歌の止まらない父は、おととい壁掛け時計の電池に使ったのが最後だったようだ、単4とは春の氷のように儚い存在である、などと返したが、
「使うのはいいけど」冗談には取り合わず、理玖は怖い顔をした。「そのあとはちゃんと補充しておいてと何回言ったら……」
どうやら夫婦の間でごく最近、似た内容の揉め事があったらしい。
雷を抱いた雲が湧いて出たような不穏さを敏感に察したタケルは、
「じ、じゃあ、ちょろっとコンビニで買ってくる」とありあわせの小銭を急いで掴み、自転車へまたがった。
夜だから車に気を付けろとの母の声に続き、「おーい、好きなジュースかマンガ、買ってこいよー」と父の声がした。駄賃がわりらしいが、まるで昭和の小学生相手みたいだ。
家から自転車を7、8分も走らせると運送トラックの停車できる広々した駐車場を持つコンビニがある。今夜もカニの怪獣みたいな重機を載せた陸送のトラックが何台も停まっていた。
とりあえず電池を選び、店内を見て回った。7、8人は客がいた。一人暮らしサラリーマン風の男女が数人、弁当を見たり立ち読みしたりしている。近くにできた大きな集合住宅の住人かもしれない。
タケルは書棚に近づいた。ミステリー小説をコミック化した分厚い単行本が並んでいた。背表紙には探偵役である主人公の絵が大きく描かれている。細面の可愛い顔をして姉に受けそうだ。母も興味を持つかも知れない。手に取ろうと近づいたとたん、
(あれ……)わけもなく、背筋にゾクっとする感触を覚えた。目の奥に一瞬、 赤い海のようなものが見えた。
(うえっ。これが、シックスセンス?それともセブン?)
そそくさと夜道を自宅へと戻る。家の裏まで来たところでスズメの声に迎えられた。
「あっ、こんばんは」タケルは言った。夜雀の姉妹だとすぐわかったが、いつもと場所およびタイミングが少し違う。
「夜に一人でお買い物?」とささやき声がした。ももだ。
「ええ、電池のストックがなかったんです。それと」タケルは二羽に聞いてみた。
「ぼく、さっき異様にゾゾッとしました。風邪をひいたとも思えません」
「そうなのよ。あたしたちもよ」
「こんな時間だし、あなたに迷惑をかけたくないのはやまやまながら、どうやらお友だちに関係がありそうだから」
「梓に?」即座にタケルは聞いた。
「だったら恋人が危ないって真っ先にいうわよ」
「ち、が、い、ま、す」
「照れちゃって」「ああ、楽しい」二羽がぱたぱたと羽ばたいた。
「いや、友だちって誰ですか」
「そうそう。この前のよく日に焼けたお嬢さん。渚沙ちゃん」
タケルはうなずいた。「あの、変な協会の話の続きですね」
渚沙と由実を尾行中、バーネット協会という妖怪ハンターの団体ともめてからおよそ一ヶ月が経過していた。
その後、カフェ・アイリスは突然に無期限の休みとなり、シャッターは閉じられてしまっている。
怪しんだ雀たちの調べによると、店で働いていた女性のところにも一時休店するとの連絡だけがあり、休業補償として驚くほどの金額が口座に振り込まれていた。困ってしまった彼女がいくら連絡をとろうとしても、店主の玲子とは直接コンタクトできないのだという。
「気になってお嬢さんのお家を見張るよう、頼んでおいたの。お友だちに」
「はいはい、家スズメたち」
「エリアの都合からカラスとヤモリさんに。あのお家って有名なのね。みんな知ってたわ」
「でしょうね。ずっと料理教室をやってるし、最近は動画配信の撮影も」
「その有名なお家にね、ここ数日間、怪しい影が繰り返し訪問したの。料理を習いに通っているわけじゃないわよね」
「なんですか、それ」
「おうちの裏手に改装工事中のテニスコートがあって、そこに明らかに工事車両とは違う不審な車がやってきては帰っていくんですって。車内には毎回、平均を大きく上回る体格の怪人が、異様な気配を放ってるそうよ。カラスは神経質なところがあって、とても気味悪がってた」
「カラスって繊細なんですか。イメージと違うな。それと、怪人?」
「この前のグール、あるいはそれよりタチの悪い相手」
「えっ」いったい、どんな怪人だ。タケルは目をパチパチさせた。
「加えてあのおうち、普段より客が多くて賑やかなの。二、三日前から準備していたパーティかなにかが、今夜本番らしい。そしたら、案の定その車がきて、日暮れの時刻に家の周囲でなにやら怪しい作業をしてたそうよ。気になるでしょ」
「夜分まことに申し訳ないけど、ご同行願えないかなーって、思ったわけ」
口調は丁寧だが、夜雀たちが彼を必ず連れて行くつもりなのはわかっていた。仕方ない。とにかくいったん家に入ってから、喜ぶ父に買った電池を渡し、そのままこっそりUターンして外へ出た。しばらくは不在を疑われはしないだろう。
「ふだん夜遊びに縁がないと、こういう時困る」
タケルが自嘲気味につぶやくと、
「あら。あなたの優等生な生活態度って、わたしたち大好きよ」と、さくらが言った。「今夜はちゃんと大人もついてるし」
角ばった真っ黒の車が静かに走ってきて、河本渚沙の自宅を通り過ぎたあと、先にあるテニスコートの駐車場の前に停車した。
いつも静かな渚沙の家の窓からは、今夜ばかりは煌々と灯がもれている。祖母と母親の主催する料理教室の関係者を集めた催しが自宅で行われているのだ。普段は点けていない庭の小さな飾り照明まで、暖かな色の光を放っている。
黒い車の窓が開いた。若い男が腕を置いて窓の外を見た。夢見るような表情をしているのは、敬二だった。
凛々しい目鼻に変わりはないが、頬から喉にかけて傷跡があって頬もそげ、前より痩せた感じだ。車内には他に二人がいるが、一言も口を聞かない。
表情を引き締めた敬二が言った。「きた」
それを聞いても二人に目立った反応はなかった。それぞれすでに接近を感じていたのだ。
暗い通りの向こうから女が一人歩いてきた。足音はしない。
綿コートを羽織り小さなバックを肩からかけている。荷物はそれだけだ。玲子だった。同行者もいない。
敬二とは違って彼女の顔に緊張の色はなかった。距離を置いて立ち止まると、敬二が車から降りて声をかけた。
「よくきたね。もちろん一人じゃないんだろう」
「一人にきまってるじゃない」
「いい度胸だな、姉さん」
「なあに、そのダサダサのセリフ。口が腐らない?」
敬二は笑ってみせたが、楽しさとは無縁そうだった。
「それで」玲子が促した。「昨日はぐずぐず言ってたけど、条件をここではっきり言いなさい。あんたがバーネットと手打ちしようが知ったことじゃない。聞きたいのは、あの子に手を出さないための条件だけ。それが呑めるかどうかよ」
いったんは人外対策機関であるバーネット協会の手に落ちた敬二だったが、隙を見つけて辛くも脱出、その後に接触した先方の「代理人」とのやりとりの結果、いくつかの条件を受け入れることで互いに干渉し合わない「条約」を結ぶのだと姉に伝えてきた。
そして、一群のグールの女王として大きな影響力を有する彼らの母親と、彼女のスペアたる河本渚沙の処遇について、先に打ち合わせをしたい、と敬二は玲子を呼び出したのだ。
「せっかく弟が命からがら逃げてきたというのに、冷たい言い草だなあ」
もったいぶった弟の口調に、玲子の顔から一切の表情が失われた。
「早く言え。さもないと交渉はここで終わる」
しかたないな、と敬二はまた形だけの笑顔を浮かべた。
「はっきり言うよ。どさくさに紛れて拉致したおたあさまを返すこと。それから、残念だが玲子さんの……」
「馬鹿?あなた、そこまで頭が回らなくなったの?」全部言い終わる前に玲子は言った。
「おい」敬二の顔が歪んだ。「口に気を付けろよ。親しき中にも礼儀ありだ」
「馬鹿を馬鹿と言ってどこが悪い。どこかで聞いてる甲斐にも言ってやる。ばーか、ばーか。まだ生きてるのは知ってるぞ」玲子は鼻にシワを寄せ舌を出した。
「わたしたちとバーネットの両方を利用しようたって、うまく行くわけない。それに、わたしたちのささやかな財産も生物的な特権も、あんたらに渡すくらいならすぐ、破棄するわ」
「なんて性格が悪いんだ。交渉ははやばやと決裂だな。仕方ない」
敬二が合図をすると、大柄な人影が車の後部座席から降りてきた。顔立ちは男女どちらともつかないほど優しく、体つきは重量級のボクサーのように、逞しいことこの上ない。
「あら、我夢じゃない。久しぶり」巨体を見た玲子が親しげに声をかけた。
「元気そうね。そうか、あなたって隠し武器が敬二にはあったな。ついうっかり忘れてた」
我夢と呼ばれた男は、「そうだよ、玲子さん」と優しい声でうなずき、ささやき声の届く距離まで前に出た。
玲子は目を細め、大男より車の中に残ったもう一人を気にするようだったが、
「たしか、やっかいなハンターに目を付けられていたんじゃなかったの」と、我夢に聞いた。
「無事そいつを倒したわけ?」
「それがさ、しつこい奴だったけど急にちょっかいがなくなった。死んだって噂だよ。僕だけじゃなく、あなたたちにもグッドニュースだよね」
「ふーん。それで余裕ができて、よその仕事を手伝ってるんだ」
「まあね」
「とはいえ、どこか変ね。ところで、あんたのいまの雇い主は、甲斐さんなの?死んだことになってたけど、ちゃんと生きているのは知ってる」
「うーん」我夢はたくましい肩を揺らした。「あまり喋るなって敬二さんが。とりあえず僕と敬二さんとは仲間だから、いいじゃない」
「でも」玲子は声を出さずに口だけを動かして言った。「あんたを仲間に入れたそいつら、ちゃんと理解してるの?あんたが私たちとも違う、生まれながらのノスフェラトゥだってこと」
我夢は最初、軽く口を開いたまま黙っていたが、やや間が空いてやっと「さあ」という風に首を傾げた。巻き毛のベビーフェイスによるその仕草は、どこか可愛いらしく見えるほどだが、それの載っている逞しい体つきとの違和感が際立った。「毛色の違うのは、ある程度理解してもらってるようだよ。でも、なんでもいいや。僕は呼んでもらえてうれしいだけかな」
ふーん、という風に唇を曲げた玲子は、もう一度視線を車に向けてから、今度は通りの向こうになる渚沙の自宅へと転じた。
冷たい闇の中に温かい色合いの光が浮かび、かすかに笑い声らしい音が彼女の耳に届いた。宴たけなわのようだ。
ほんの短い間、玲子の口元に笑みが浮かんだ。
「悪いね、玲子さん」彼女の表情を誤解したのか、雅夢は楽しそうな顔になった。「このところ冷たい血ばかりでさ、うんざりしちゃって。あなたは前々から嫌ってたね。でも今夜だけは許してくれるかな。すごい楽しみなんだ。あなたを止めて、噂の女の子さえ確保すれば、あの豪邸にいる人たちを好きにしていいって言われた。それが報酬」
「そ」一瞬、玲子の目が細まった。そしてまた声に出して言った。「なんだ。最近ご遺体の処理が粗雑だと感じてたら、あんたに下請けに出してたの」
「ほんの一部さ。それでも、死体より生者がいいなあと最近しみじみ思う。血とともに魂の抜け出ていくあの気配を感じるには、まず相手が生きていないと。生きてるってことはホント、素晴らしい」
「なら、わたしと原始的な争いをする必要があるわね」微笑んだ彼女の目の奥が、点灯したかのように小さく赤くきらめいた。「わたしの大切なお友だちに手をかけるなんて、決して許さない」
我夢も首を傾けて笑ったが顔つきに生気はなく、死者のようだった。
「その前に」玲子は車を指差した。「中にいらっしゃる人は、お連れさん?」
敬二の制止を振り切るように小柄な影が車から降りると、進み出て我夢の前に立った。黒っぽい衣装にソフト帽をかぶり、ステッキをついているが足取りはは軽やかだ。銀地にびっしり彫刻の施されたそのステッキが、呪具であるのは玲子にもすぐわかった。
(魔法の杖ってわけ)
「やあやあ、こんばんは」相手は明るく声をかけてきた。「ご挨拶が遅れました。この歳になってもワタシ、人見知りするものですから」
しゃあしゃあと語る姿を見て、玲子はテレビが白黒だったころ、気に入っていた特撮番組のキャラクターを思い出していた。あれはまさしく悪魔だったが、こっちは一応、人間だ。ただし、
(悪魔のように油断ならないっていうけど、まさにこいつね)
常人をはるかに超える鋭敏な感覚を持つ彼女にも、心音や分泌物の匂いがほとんど感じられない。ということは正体もわからず、思考や行動を予測できないということだ。
ただ、一つだけわかっていることがある。こいつはぜったいに呪術師だ。それもこの前の襲撃にきたような若造ではなく、十分な経験と力を持ち、呪いをもって超人間たる玲子に対抗しうる存在だということだ。
彼女は、いやににこやかな男の顔をじっと見つめた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます