第8話 母親

 階上の騒ぎをよそに、襲撃者をやりすごして事務棟の一階まで降りるのに成功した玲子は、そのまま隠し通路を使って地下に築かれた「おたあさま」の部屋へ向かった。

 地下ピットのさらに下に、その空間はあった。狭いスペースをくぐり抜けるようにするとコンクリートの壁面だけの細い空間へ出た。灯りもないただの壁にかこまれた場所である。だが、じっと見つめていた玲子は、おもむろにその一角をつかんで揺すぶった。小さな隙間が生まれた。

 玲子のなめらかな腕に小さな血管が浮かびあがり、コンクリートの塊は音を立てて動いた。中には小さな空洞があった。

 ひんやりと湿った空気が感じられる。ただ、嫌な臭いなどはない。玲子は空洞に身を投じると、凄まじい腕力によってコンクリートを内側から元に戻し、すぐにはわからないようにした。

 

 しばらく腰をかがめて進むと、灰色のカーテンがあった。そこを開いてさらに歩くと、人の気配があった。

 天井は狭く、ごく小さな灯りしかないため部屋は暗がりに近いが、暗黒でも前進できる玲子の眼なら問題はない。

「おたあさま」

「まあ、玲子さん。ほんとうに久しぶり」

 店長が率いるグールたちの祖型であり、玲子にとっては実の母の声がした。

「こんなアリの巣みたいなところに一日中閉じ込めておくなんて、男たちはなにを考えているの」

 玲子の言葉に、返事があった。

「慣れたら、そう悪くもない。ときどき外にも出ていますよ。そうそう、湖畔を散策していたら幽霊と間違えられました。学生風の人たちが逃げていってしまって、気の毒なことをした」

 

 内部は、迷路のように薄い壁が重なっている。玲子は迷いもせず、一定の速度で歩みながら奥に話しかけた。

「ずっと嫌な予感がしていたの。だから来たわ。こんな騒がしい時でもないと会えないなんて、考えたら馬鹿げている。よほど自分たちに都合の良い説明ばかり私にしていたのね」

「ねえ、玲子さん」声が聞いた。「やはり、敵はきたのね」

「ええ。それも二十人以上。外国ならともかく国内では異例の規模よ」

 がらんとした部屋に出た。正面に棚があり、テレビとDVDが置かれてある。あとの壁は、ほとんどが書籍とレコードで埋められている。


「また、シャーロック・ホームズを観ていたの?」

「ええ。飽きないから」

 中央に置かれたロッキングチェアから声がした。

 ちょこんと腰掛けているのは15、6歳の少女だった。朝黒い肌に広い額、濃い眉毛。

 顔を見た玲子がうなずくと、意思の強そうな顔の美少女は、

「もう、どっちでもいいのだけどね」と年寄りくさい口調で言った。「玲子さんと一緒ならどうなってもいいわ」

「そうね、基本的にわたしも同じ考え。でもね、今夜ではないと思う。残務処理もあることだし」

 だが、少女の顔をした母親は玲子に言った。

「おそらく、このままわたくしが滅びてもあなたには影響はでませんよ」

「そういう意味じゃない。それに、今夜来ている連中は各地で妖怪ハントをやっている奴ら。おたあさまや私がずっと待っていた、運命ではないわ」


「そうですか。少し残念」うなずくおたあさまと呼ばれた少女の仕草は、中学生とも百歳の老人のどっちとも思える力の抜けたものだった。「そういえば、秀一さんと敬二さんはどうしました?」

「ただいま反撃中。生き生きしてる。あの人たちはあんな出入りが楽しくて楽しくて、むしろ待っていたのでしょうね。だから隙だらけだった。不自然に長命な我々に特有の自殺願望だな」

「わたしもそう」おたあさまは微笑した。「わたしのせいでこんな結末を招いた。考えもなく、命をながらえたために」

「今さら仕方ないでしょ。さっきの言い草じゃないけど、おたあさまの命日がその人の心臓の止まる日って仲間が何人もいるんだから。簡単に死なれちゃ困るわ」

 おたあさまは、声もなく笑ってから聞いた。

「それで、玲子はどうしますか」


 「おたあさまと一緒に、とりあえずここから離れる」と玲子は明言した。

 「私の車はこんな時のために離れたところに置いてあるけど、それよりも湖にボートがある。対岸には別の車もあるから、乗り換えてもらってそのまま大明石町のマンションに行ってもらいます。ここみたいにいい景色じゃない。それでも今夜みたいなトラブルには、巻き込まれにくいと思う。なにせ、ボートだってマンションだって、お兄様や敬二すら把握していない物件だから。落ち着いたら脱出に成功した連中と合流する。全滅だったら当分は二人で暮らす。いいわね」

 少女の顔をした「おたあさま」は、気の毒そうな顔をして言った。

「それより、あなたのことよ。玲子さん」


「わたし?ほんとね」玲子は悪戯っぽく鼻にしわを寄せた。「さて、これからどうしよう。新しいお店は最高に気に入ってたのに。今のところなんのちょっかいもないけれど、どうせ把握されているでしょうね」

 そう言ってから、玲子は長い息を吐いた。

「こればっかりは、ね。たくさんのお店に関わってきたけれど、あの店だけは残念でならない。バイトのカナちゃんもすごくいい子だし、なによりそれは素敵なお客様たちに会えた。私の収集品に挨拶をしに、毎朝20分だけきてくださる老婦人だっていらっしゃるの。そうそう、中学生の女の子たちとも仲良くなった。その子たち、店が1周年と知ったらね、何日もかけて記念品を」

 急に玲子の声が震えた。「……信じられないほどかわいくて……」

 彼女は言葉を絞り出すのを諦めた。空調装置の単調な音だけがしていた。


 すると、おたあさまがおだやかな声をして言った。

「わたくしも、当面の夢が、あなたの新しい店に行くことでした。そうねえ、玲子さん。もう少しだけ生きて、あなたの店に行ってもいいわね。あとのことは、それから考えましょうか。いまさら償える罪でもないし」

「そうね」ようやく顔を上げた玲子は、小さくうなずき笑ってみせた。

「そうしようか」

 すみに置いてあった母親用の緊急装備を彼女はつかんだ。リュックサックに当面の入用品が詰めてある。武器類はない。

「なら、さっさとここを出ましょう。ここの脱出通路は結構手が込んでいるから、あっちにまぐれ当たりが出ない限りは大丈夫。それに今回は、誘拐されてきた少女のふりは難しいと思う。前と同じ連中みたいだし」

「先方だって、進化してるもの」

「そうだ。お兄様から内通者の話は聞いてる?」玲子は母親を脱出口に案内しながら聞いた。「私が裏切ってるって意見が強かったみたいね」

「あなたが敵についたら、もっと早くに終わっています」

「そうね。でも、私にはわかってる。ここを教えた相手の正体は、間違いなく死んだはずの甲斐さんよ。スパイが足を洗うみたいに、自分の死を偽装した」


 短い沈黙があった。

「……敬二はなにか言っておりましたか」

「ちょっと匂わせただけで見事に真っ赤になって怒った。あんなの、さぞ騙しやすかったでしょうね」

「あなたが、甲斐さんにすべては伝えなかったのを、敬二は小姑による嫁いじめだってしつこく言っていました。間違いではなかったということなのね」

「でも、おたあさまだって心の底では疑っていたでしょう、可愛い嫁のことを」

「うーん」彼女は小首をかしげた。「わたしは気難しい敬二のパートナーになってくれただけで、ありがたかったから」

「あら、寛大なこと。こんなに気のいい姑を裏切るなんて、酷い嫁よね。あ、あの娘はここの緊急脱出ルートの知識は多少あったはずだから、教えたのとは別のを使うわね。ずっと掃除していないから、膝と肘がかなり汚れる覚悟をして」

「あなたが赤毛連盟と呼んでいた道ですね」

「ええ。それに扉を閉じながら進むから、私たち以外の誰も救えないのは理解してね。どうせいまからだと、ついた頃にはすっかり日が昇るだろうし、自由に動けるのはわたしとおたあさまぐらいでしょう」


 そう言ってから玲子は、今度は気配を探るように目を閉じた。

「何か感じますか」

「わからない。この襲撃に甲斐さんが同行している可能性も考えたけど、これほど呪いが飛び交っていたら、ぜんぜん感知できない。呪術師が四人はきてる。おたあさまはどう?」

「無理ですね。ただ、秀一と敬二がまだ無傷なのはわかります。でも、たとえ甲斐さんが相手に手を貸していて、今夜ここまできていても、この状況において仕返しを目論むのは得策ではないように思えます」

「ええ、そのつもりはない。気になるのは、あの人が私の大切なお友だちを利用しようと狙っているのではないかと言うこと。この話はややこしくなるから、落ち着いてからね。でも、そう考えたらやる気が湧いてきた」

 玲子は暗い天井を見上げた。「万が一にもあの子を傷つけたりはさせない。そのお友だちは、まだ十四歳なうえ、例の波がおたあさまとほぼ一致するということで、敬二がすごく関心を持ってるの」

「まあ、そうなの。さっきの素敵なお祝いをくれた人?」

「ええ。でも、敬二が彼女を知った経緯が不自然だし、かなり怪しい」

「あの子が、敬二が敵についたということ?」

「自覚しないまま、利用されている可能性はある」


 そこまで言って、玲子はおたあさまの前に掌を突き出した。

「しっ。誰か近づいてきている。あ、この先でとまった。4、5人はいる」

「身内ではありませんね」

「ええ。おそらく銃を持っていて、呪術師がついている。ただし、ここは馬鹿みたいにあとからあとから隔壁を設けてあるから、地図があっても到着するのは大変よ。お化け屋敷そのものだもの」不適な笑みを玲子が浮かべた。

「おや。壁を爆破することにお決めになったみたい。火薬とタイマーを準備中ね」

 そう言ってから玲子は、母親を壁一面の書棚の中に設けた緊急脱出口へと追いやった。

「先に行っていて。ここの通路はおたあさまが離れ次第、封鎖する。私は足止めしたあと、この先にある別のルートを使って行きます。もっと窮屈だけど」

 

 玲子は母を送り出したあと、かすかな音のする壁を探し、その前に立った。そして大きく息を吸って、吐いた。彼女の目の奥がかすかに赤く光った。そしていったん後ろに下がると、勢いをつけたまま伸ばした両手で壁を押した。

 壁一面が吹き飛び、勢いよく倒れた。盛大なホコリが舞い上がったあとには、武装した男たちが四人、倒れてきた壁の下敷きになって呻き声をあげている。

「ごめんなさい、こんなに上手く行くとは」そう言いながら玲子は、反撃の隙を与えない素早さで倒れた突撃メンバーの首筋に触れて回った。呻き声が消えた。


「ちくしょう、こ、この」倒れた壁の端に、他のメンバーと同じ黒い戦闘服姿が一人、倒れていた。壁から離れていたので直撃をくらわなかったようだが、片足が倒れた壁の下敷きになっている。

 なんとか手で這い出ようとしているが、うまくいかない。マスクもゴーグルも装着していないので顔立ちがわかる。

「あら、あなたが呪術師さん?こんばんは」笑顔のまま、玲子は三上の顔をのぞきこんだ。「なかなかの美人ね。まあ、それもオッドアイじゃないの。世を去る日はぜひ、知らせて欲しい。高値で買い取らせてもらうわ」

 三上は瞬間的に手で印を結んだ。そしてベルトに刺した呪具を抜き取って、玲子に突き刺さそうとした。だが、玲子は落ち着いた動作で呪具を蹴り飛ばし、顔をしかめながら三上に言った。

「やめてよ。その呪文ってすっごく効くんだから。頭痛が止まらない」

 三上がベストに下げた閃光弾をつかもうとするのを制して玲子は、

「あなたね、ここを見つけたのは」と聞いた。「たいした技術だし、きっと同業から一目置かれる呪術師なんでしょう」

「くそっ」三上は体を捻って逃れようとしたが、骨にひびでも入ったのか、足が思うように動かないようだった。

「安心して。お仲間は気を失っただけだし、あなたを傷つけもしない。甲斐さんはどう言ったか知らないけど、私はこんなことからすっかり足を洗ったつもりでいるの。だから、今夜は見逃してね」玲子は三上の首筋にも手を当てて気を失わせると、周囲の様子をさぐってから、暗闇に姿を溶け込ませるように消えた。



 真っ赤に血走った目玉が八木の視界いっぱいに広がった。

 死ぬ思いで彼は呪文を唱え続け、身体を横に転がせて横に離れた。

 床にうつ伏せの形になったグールの背中に、メンバーが至近距離からショットガンを二発、発砲した。すさまじい呪詛の言葉を漏らしながら、グールは立ち上がったが、頭部に一発を食らってその場に崩れ落ちた。

 「すまん、助かった」八木が礼を言おうとした途端、凄まじい風が起こった。

 ショットガンを持ったメンバーが吹き飛んだ。ヘルメットをかぶった頭部は変な方向に曲がっていて、すでに生存の可能性がないことは直感的にわかった。

「おおっと。手が滑った」

 すらりとした長身の男が髪を乱し、にっこりと笑っていた。ここの一味のリーダー、「店長」と呼ばれる男だ。いったん退避したと思っていたら、仲間を助けに戻ってきたのだ。


 八木が呪具を突き出すと、店長の額に血管が浮かび上がった。

 だが、店長はそのまま八木の胴体を正面から蹴った。八木は吹っ飛んで壁に頭を打ち付け、背中も強打した。頭部にはヘルメット、そして胴にも防弾ベストを装着していたが、しばらく息ができず咳だけが出た。

 やさしい色に塗られていた事務棟の壁面は、ひどい状態になっていた。そして床には男女のグールが計4人、倒れている。だが、2組の突入チームも被害は大きく、まだ動いているのは八木を含め三人だけである。これで別働隊が当たったグランドマザー確保がしくじったりすれば、今回の作戦は大失敗だ。

 もうひとり、グールの副頭目株がいた。こいつは最初、威勢は良かったが、集中砲火を浴びてすぐ窓の外に逃げ出した。甲斐の見抜いた通りの行動だったから、他のチームが下で待ち構える中に飛び込んだらしい。人とは思えない悲鳴が聞こえたが、そのあとはわからない。

 

 耳の横で力強い発砲音が続いた。仲間が拳銃を連射している。拳銃の携帯については、強襲の許可を申請した際にさんざん文句をつけられたらしいが、室内で取り回しの良い拳銃を持ってきてもらって心から助かったと思う。弾も人間よりも野生動物向けの強力なやつだと聞いた。

 十発以上の弾を受け、動きの鈍った店長がテーブルをつかもうとした。まだ攻撃してくるつもりなのには驚きながら、八木は懸命に呪をぶつけた。突入直後は椅子を振り回され、メンバーがなぎ倒された。同じ目はごめんだった。

 

 店長は、見た目はクイズ番組の司会者みたいににこやかな二枚目だが、力は熊とタメをはれる化け物だ。

 その二枚目が凄まじい笑顔を浮かべて八木を見た。こりゃ、やばい。

 だが、店長は身を翻し窓から飛び降りた。慌てて拳銃を撃っていた仲間が後を追ったが、待ち構えていた別チームの頭上を飛び越し、森の方に逃げたようだ。八木も懸命に店長を想定して呪を送ったが、成果はわからない。逃げられたのを、内心嬉しく感じている自分がいた。ついに緊張の糸の切れた八木は、ガラスと血泥の飛び散った床に腰を下ろした。

追跡は他の連中に任せよう。とにかく、少しだけ休憩だ。

「三上、どうしたかな」八木は、明るくなってきた空を見た。

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