第3話

「そして朝起きたら君の姿はなかった…」

「僕はこの先に何かがあって…あなたを…」

「記憶が行き違ってるね…」

「どういう事だろう…」

「明日、神官様に相談してみよう。」

 話に夢中で彼女の淹れてくれたお茶がすっかり冷めていて、申し訳なくなったけど凄く美味しかった。

「今夜も兄の部屋で寝て貰っていいかな。お洋服はこの前のが残ってるから。」

「わかった。」

「それじゃ、私はもう少し片付けてから寝るから…おやすみなさい。」

「おやすみなさい。」

 僕は以前の記憶を思い出して階段を上り、お兄さんの部屋に入ると着替えが用意してあった。ベッドに横になると、眠りはすぐにやってきた。

 夢の中で眠るなんて、不思議な気分だ。

 このまま目覚めなければいいのに…


 翌日。

心配していた僕の気持ちを裏切るように気持ちよく目覚めた。朝日の眩しさに目を開くと、お祭りの用意をしているらしい町の人達の声が聞こえる。ベッドから降りて何を着るか悩んでいたら彼女が顔を出した。

「そろそろ朝食の時間だから起こしに来たの。」

「おはよう。」

「あ、おはよう。良かった、この前みたいにいなくなってなくて。」

 彼女は冗談めかして笑った。僕の服は洗濯しようとしてくれているらしく、着替えを用意してくれた。

「着替えたら降りて来てね。」

 そう言って彼女は下の階へ降りていった。以前来た時に着た服だろう。サイズはぴったりだった。この世界の服はゆったりとしていて、まるで女の人のワンピースにズボンを合わせたみたいで少し気恥ずかしい。男の人は腰を紐で縛ったりしてるみたいだけど、僕のは縛るものがなかった。パジャマに使わせてもらった服を畳んでベッドの上に置いて、下の階へ行くと食事の用意が出来ていた。

「今日はお祭りだから、外で沢山美味しいものが売ってるよ。だから、簡単に食べてそれを食べよう。」

 テーブルには野菜で出来たスープが並んでいた。昨日とは少し違う味がした。入っている野菜も微妙に違う気がする。

「町の人達、朝から嬉しそうなんだよ。」

「僕…いいのかな…」

「何が?」

「救えなかったのに…」

「昨日も話したでしょ?助けてくれたんだよ、皆を。」

 食事が終わると、お祭りの時間まで二階のお兄さんの部屋の窓から町を見てみた。

町全体が会場になっていた。色取り取りの花が飾られ、見た事ない動物が豪奢に飾られているのもいた。町の人々は皆笑顔で、本当にお祝いなんだと実感した。

でも僕は、自分が主役だなんて実感を微塵も持つ事が出来なかった。だって僕はこの町を救ってないんだから。

 部屋を見回してみた。この前来た時、隣町に行ったって言ってたっけ。僕は覚えてないから、きちんと挨拶をしたいんだけど。家具は机と椅子、箪笥と本棚がある。

 窓から離れて本棚に近付いてみる。背表紙にも色々と文字が書いてあるけど、勿論読む事は出来なかった。

 どんな人なんだろう。いつ帰って来るのかな?そしたらお礼をまず言わなくちゃ。

 でももしお兄さんが帰ってきたら…僕はこの家にいられなくなるのかな…

 一抹の不安が過った。最初から宿か教会に行く予定だったんだ、それが良いに決まってる。いつまでもいたら彼女に迷惑がかかるかもしれない。少しは顔を知ってる神官様にお世話になれば問題ないし。

 そんな事を考えていたら彼女が顔を覗かせた。

「あの…お兄さんは…」

「隣町よ、まだ戻ってないの。」

「いつ頃帰って来るのかな。」

「どうして?」

「お礼を言いたくて…」

「私にもわからないわ。それより、そろそろお祭りよ。行きましょう。」

 実の兄の事なのに心配じゃないのかな。それともいつも、出掛けたらいつ戻るかわからないのかな…事実上彼女は一人暮らしをしてるようなものなのかな。

 疑問に思いながら扉の外に出ると、僕の疑念を晴らすかのような青空が迎えてくれた。

 町に出ると窓から見るよりもより町の皆の熱気が伝わって来た。町中が華やかになっていて、普段の素朴さはなくなっていた。

 石の土台に木で出来た温かみのある家々は今は花や鳥の羽根で綺麗に飾られてて、太陽の光を浴びてキラキラと輝いている。

「まずは町長様の所に先に行っちゃおうか。」

「挨拶に?」

「うん。今日の主役が来ましたって。」

「主役なんかじゃないよ…」

「謙遜しないの。」

 僕の手を取って外に出ようと階段を下りる。僕は自分が主役だなんて信じられず、それでも浮足立つ自分を自覚していた。そして彼女と繋いだ手…まるで当然の様な仕草だったけど、僕は少し恥ずかしくなった。

 町の中を歩いてる途中に何度も町の人に挨拶された。僕は段々、嬉しくなってきて…ついには手を振るなんて事までした。本当に勇者になったんだ、僕は。

 町長様の家は広場の向こう側で、広場は沢山の出店で溢れていた。見た事ない食べ物や動物が闊歩するこの世界の、僕は勇者なんだ。皆を救えるのは僕しかいない。

 そんな事を考えているうちに、この町で一番豪華な家に辿り着いた。町長様の家を見るのは初めてで、レンガみたいな石を組み上げて作られていた。広い庭には犬に似た動物が走り回っている。

「わぁ、犬がいるんだね。」

「あれはベルっていう動物よ。」

「犬じゃないの?」

「イヌ?」

 耳が垂れていて鼻が黒くて、四足でぴょんぴょん跳ぶように走っている。犬だと思ったんだけど違ったみたいだ。似たようなものは沢山あるけど、どれも違うものなんだな。

 観音開きになっている扉を開くと、広間になっていてカーペット…とても緻密な模様で織られたものが敷かれていた。これも赤いから、この町で信仰してる色は赤なのかもしれない。

 奥には大きな階段で、左右には大きな扉がある。お手伝いさんみたいな人がやって来て、彼女が要件を伝えると右側の部屋に案内された。

 中は応接室みたいにソファが二つ向き合っていて間にテーブルがある。大きな本棚が奥にあって、びっしり本が詰まってる。大きな窓の外はさっきのベルが走っているのが見える。

 二人で並んで手前のソファに座ってると、さっきの女の人がお茶を持ってきてくれた。昨日彼女が淹れてくれたお茶とは違う香りがする。

「このお茶は何ていうの?」

 一口飲んだ彼女が答えてくれる。

「これはセグル。ちなみに昨夜飲んだのはビーガだよ。」

「色々あるんだね。」

「後良く飲まれてるのは、サシェっていうお茶なんだけど、プシルの乳で煮出して甘くするの。今日のお祭りにあるかもしれないね。」

「楽しみだな。」

 お祭りがますます楽しみになってきた。そんな話を他愛なくしてたら町長様が部屋に入って来た。

 今日はお祭りだからか普段より服が豪勢だ。ローブっていうのかな、全身を包んでその上から赤い肩掛けをしている。

 挨拶を交わすと、普段は鳴らない時間のはずの時間に教会の鐘が鳴った。お祭りの始まりを示す鐘らしい。

 僕達が町長様に従ってお屋敷を出ると町の人達は広場に集まっていた。広場までの道は人垣が出来ていて歓声があちこちで上がる。彼女は端に寄って、即席らしい壇上には僕と町長様と神官様の三人が並んだ。広場は人がこれでもかっていうほど集まっていて、入りきれずに道にも人が溢れていた。

 二人の朗々とした演説が終わって、お祭りの始まりとなった。

「私と一緒に回ろう。迷子になっちゃうでしょ?」

「うん、ありがとう。」

「私も君と回りたいし。」

 彼女は人波をすすっと避けていつの間にか隣に来てくれていた。さっと僕の手をさらう。まるでそうするのが当然と言うように。でも僕はやっぱり少し恥ずかしかった。

お祭りが始まると人々は広場に出た出店や、あちこちで仲の良い人同士でお酒を酌み交わしたりし始めた。

 僕達も広場と市場を回る事にして、まずは広場の中に出来た出店に行く事にした。

「でも僕、お金持ってない。」

「多分、君は大丈夫だよ。」

 彼女が言った意味がすぐにわかった。何でも僕には無料で提供された。

「これがサシェ?」

「うん。美味しくない?」

「ううん、凄く飲みやすいし甘くてあったかい。」

「でしょ?」

 彼女は嬉しそうに微笑んだ。その後もデウの肉を焼いたものをメイヤに挟んだものや、プシルの皮を揚げたものなど色々食べた。

「あ、猫だ!」

 今度は猫に似た動物を見つけた。誰かの家の窓から町を眺めていて、三角の耳と綺麗な瞳。長い尻尾を持っていた。

「あれはグマキっていうの。愛玩として飼う人が多いかな。」

「グマキ?」

「そう。後でゼルも見に行こうか。狩りを手伝ってくれるんだよ。」

「どんな動物だろう…」

「ふふふ、楽しみが沢山だね。」

 道のあちこちでは大人の人達がお酒を飲んでいて、子供達ははしゃいで走り回っている。この平和を僕は守る為に来たんだ。

 市場はまた広場とは違って、普段のお店が大特価してる感じだった。見たこともない果物や野菜が沢山並んでいる。

「これがホクール。昨夜のスープに沢山入れたんだけど、原形じゃわからないよね。こっちがウバ。あれはヘルマ。」

 彼女が原形を手に取りながら僕に説明してくれる。見た事もない野菜の種類に僕は興奮しながら説明を聞いていた。

 ホクールはサツマイモとじゃが芋の間で、芋みたいな形をしてた。ウバは人参みたいだけど色が緑。大きさも色々あった。

市場の脇に家畜小屋みたいなものを見つけた。

「あそこにはデウとかプシルとかコッカがいるよ。覗いて行こうか。」

「うん!」

「君は動物が好きなんだね。」

 彼女に言われるまで気付かなかった。そうだ、僕は一人の時間が寂しくてペットが欲しかったけど…両親に反対されてずっと我慢していた…

「この大きなのがデウ。」

 目が隠れるほどに毛が長くて、鼻も大きい。四足で大きな足には蹄みたいなのが付いてる。牛よりも大きくて、象よりは小さい。ゆったりと動くからそんなに凶暴じゃなさそうだ。

「これがさっき食べたお肉になるのか。」

「想像と違った?」

「うん、全然違う。」

 てっきり牛みたいなのを想像していた僕は素直に頷いた。これじゃプシルやコッカもきっと全然違うんだろう。

「こっちがプシル。」

 言われて見てみると、大型犬くらいの動物が近付いてきた。ふわふわした毛並みと、愛らしい顔つきに思わず食べるのを躊躇したくなる。

「デウの毛は狩りの道具とか生活用品になるの。プシルの毛は私達の洋服。どっちの卵も美味しいんだよ。」

「え?卵を産むの?」

「そうじゃないと子供が出来ないからね。」

「コッカも?」

「コッカは卵じゃないの。」

「あれがコッカでしょ?」

 プシルと同じ区画に鳥の様な生き物がいる事に気付いた。でも三本の脚、大きな翼。大きな鶏冠に凶暴そうな顔をしてる。

「強そうな顔してるね。」

「怒ると大変だけど、そんなに凶暴じゃないんだよ。」

「あの羽は染めたりして飾りに使うんだけど…風切羽は沢山は取れないから、結構高価なんだよ。」

 辺りを見回してみる確かに、何人か羽飾りを頭や服に付けている人がいる。

「それにね、この町での染める技術が周りの町に認められてて。町の外でも結構な価値があって、それを求めて商人が来たりもするの。」

「そうなんだ。お兄さんは…そういうのを隣町に持って行ったりするの?」

「違うよ。」

 それはきっぱりした、それ以上聞かれたくないという程の早さで帰って来た言葉だった。その時の彼女の表情は何も浮かんでなかった。すぐに笑顔になって、僕を見た。少しぞっとした。

「それより、あれ飲もうよ。」

「え…どれ?」

 彼女が指差した方向を見ると明らかにお酒を売ってるお店だった。

「僕は未成年だし、お酒なんか飲んだ事ないよ。」

「大丈夫、子供用のお酒が売ってるんだ。」

「子供用?」

「飲んでみればわかるよ。」

 言われてお店の前に立つと、お店の人は僕を見て嬉しそうににっこり笑った。英雄なんて呼ばれて…困り顔の僕に助け船を出してくれたのは彼女で、何かを二つ頼んで店から離れた。

 真っ直ぐな通りのようになってる市場も終わって、また広場の端に戻って来た。

「広場に椅子が設置されてるはずだから、そこで飲もうよ。」

 彼女は言って、あちこちに設置されてる椅子を示した。そこに座って一息入れる時間が出来た。

「疲れてない?」

「町の人に歓迎されるのは嬉しいけど…此処まで優遇っていうか、こんな待遇受けた事ないから少し恥ずかしいよ。」

「君は勇者だからね。仕方ないよ。」

「でも…」

「さ、これ飲もう。美味しいんだよ。」

「これ…お酒でしょ?」

「お酒っていうより果実を搾ったものに近いかな。大人の飲むお酒は、エルムとパーシェって言うんだよ。」

 一つ渡されて匂いを嗅いでみる。父さんが飲んでたようなアルコールの匂いはあまりしない。柑橘系みたいな…爽やかな匂いだ。

 恐る恐る一口飲んでみると、爽やかなグレープフルーツみたいな味と甘みが口の中に広がった。

「どう?」

「美味しい。これは何?」

「グンカプって言って、お祝いやお祭りの時だけ許される子供用のお酒。生誕の祝いや太陽の神様に捧げるお祭りとか…色々な行事の時だけ作るの。」

「何の果物で作ってるの?」

「ミルマっていうんだけど…さっき市場にあったの見せれば良かったかな。」

「大丈夫、今度見せて。今日だけじゃどうせ全部覚えられないし。」

「うん、そうだね。約束。」

 お祭りはとても楽しかった。

 広場で休んでいると、広場の更に中央に柵を作って何か始めようとしている。

「何が始まるんだろ…」

「多分、ゼルの競争じゃないかな。」

「ゼル?」

「うん、さっき話した動物なんだけど…見に行ってみようか。」

 僕は頷いた。中央に近付くと僕に気付いた周りの人が僕が良く見えるようにと場所を空けてくれた。

 しばらくすると、動物が数十頭現れた。熊の子供みたいな姿はしてるけど、足は細くて速そうだ。目は意外と愛らしくまるで狩りなんてするようには見えない。色々な模様があってキリンとかトラとかシマウマとか…真っ白から真っ黒まで様々だ。

「どう?」

「何だか、可愛いね。ベルの方が狩りに向いてそう。」

「ベルでも狩りに出る種類もいるんだよ。」

「そうなんだ。」

「町の外には私達には飼えないような獰猛な動物もいて、それらを狩る時に使われるんだよ。後は、こういうお祭りの出し物とか。大人の人達は賭けなんかもしてるんじゃないかな。」

「そういうのは僕の世界でもやってたりするよ。狩りはあまりないけど…」

「狩りをしないの?」

「動物は保護するんだ。」

「ふぅん…町が襲われたりとかしないの?」

「えっと、街に降りてきちゃった奴らを眠らせて山に返したりはしてる。」

「平和な町なんだね。」

「平和って言うのかな。でもそれが普通だと思ってたから…」

「平和だよ。この町では近付いてきたらわかるように仕掛けして、仕掛けに掛かったら狩りに出掛けるの。町に下りてきたら大混乱になっちゃうからね。」

 僕は自分の世界を思い出してみた。確かにそういう意味では平和かもしれない。でも…あいつらは出てきたりするかもしれないけど、僕にとってはこの世界の方が平和に思えた。皆が皆で協力して生活をするなんて…僕の世界じゃ考えられない。

 車が走り回るコンクリートジャングルは本当に平和なんだろうか…

 だって僕は…僕の世界に存在してるかどうかすらわからなくなっているのに…

 いや…嫌な事は忘れよう。僕はこの世界の勇者で、この世界の住人になったんだ。戻れなくても構わない。

 僕がそんな事を考えていると、ゼルが一列に並んだ。鉄砲みたいな合図と同時に、一斉に走り出す。あまりの速さに驚いた僕は感嘆の声を漏らしていた。

「わぁ…凄い。」

「でしょう?皆この競技が大好きなんだよ。」

 さっきまで可愛い目つきをしていたのに今は真っ直ぐにゴールを目指した厳しいものになっている。彼らは自分の役割を知っているかの様だ。

 あっという間にゴールを抜けるゼルの群れに僕ははしゃいた。周りの大人達はやはり賭けをしていたのか、喜ぶ人や悔しがる声などが響いた。

 僕は思わずゴールの方へと足を向けてもっとよくゼルを見ようとした。飼い主らしき人に手招きされて、行ってみると触らせてくれた。手入れが行き届いてるのか、ごわごわする短毛はそれでも絡まったりせずに滑らかだった。レースを終えて満足してるのかご褒美の干し肉を美味しそうに食べていた。沢山撫でさせてもらってからお礼を言って、彼女の元に戻る。

「ゼルはどうだった?」

「可愛かった!触らせてもらえたんだ。」

「見てたからわかるよ。」

 彼女はクスクス笑って、僕ははしゃぎ過ぎた自分に少し恥ずかしくなった。

 このレースが最後の楽しみだったのか、教会の鐘はまた、普段と違う時間に鳴った。皆で準備して皆で片付ける。それが当たり前のように町全体が動き出した。

「僕も何か手伝えるかな…」

「その前に。教会に行ってないよね。」

「あ…神官様に挨拶、今日してないや。」

 思い出せば、朝は顔を合わせたけど…お祭りの前で、しっかりと話していない。

「多分…奉っていた剣を君に返したいはずだよ。」

「そうかな…じゃ、行って来る。」

「一緒に行くよ。」

「いいの?」

「お安いご用よ。」

 彼女は眩しい笑顔を見せて手を取った。何度も繋いだ手だけど…何度繋いでも慣れない僕は顔が熱くなる。彼女に気付かれなければいいけど。

 どうして彼女はそこまで知っているのか…僕の行動を先回りしてくれるのか…僕はまだ疑問に思う事が出来なかった。

 神官様のいる教会に向かう。そう言えば神官様の姿はお祭りの時、見なかったな。教会にいたんだろうか。

「じゃ、行ってらっしゃい。」

「一緒に行かないの?」

「私は此処で待ってるから。」

「わかった…」

 教会の中はいつも通り静かで荘厳な雰囲気がした。外のお祭り騒ぎが嘘のようだ。中にいる女の人に神官様を訪ねてきた旨を伝えると、小さな部屋に案内された。祈りの間とは違うらしく、簡素な机と椅子で出来た部屋だった。それでも窓と扉以外の壁際には本棚があってびっしりと本が詰まっていたんだけど。

 神官様が部屋に入って来たのは、少し経ってからだった。忙しかったのかもしれない。まずは謝ろうと思った矢先に、今日のお祭りが無事に終わったことを太陽の神様と月の女神様に感謝していた所だったらしい事を教えてくれた。

 僕が口を開く前に、神官様は僕に礼を言った。町の平和の象徴としての剣を、朝のうちに外してきた事と一緒に。そしてこれからもこの町を守って欲しいと頼んできた。

 僕は曖昧に頷いた。夢が醒めれば終わってしまう。この世界にはいられなくなる。

 でも…此処に…いたい…

 神官様は、何も言わずに僕に剣を渡した。すると前と同じように光を放ちながら僕の胸の中にすっと入っていった。

 それを見守ると神官様は笑みを絶やさずに頷いた。やはり真の勇者なのだと。僕は照れ臭くなって下を向いたけど、何だか胸に熱いものが込み上げてきた。剣の光が宿った部分に、まるで勇気が流れ込んできたみたいだ。

 神官様に挨拶をして外に出ると彼女が待っていた。キラキラとした眼差しで、此方を見ている。まるで何があったのかを知っているかのようだった。

「どうだった?」

「また剣を渡されたよ。後…この町を守って欲しいって頼まれた。」

「良かったね。」

「…………」

 彼女の言葉にどうしてか僕は何も言えなかった。彼女にも神官様にも…町の皆にも後ろめたさが拭えない。

 町長様の家の反対側にある教会から町の人達の居住区を抜けて、門の近くの彼女の家に近付くと門の周りが騒がしくなっている事に気付いた。何事かと彼女と走って近づく。

 お祭りの片付けの為に開いていた門から、あいつらが侵入してきたのだ。此処は僕の出番になってしまったのか…

 空は既に月の女神様の時間が近付いていたが、出現には早過ぎる。やっぱり僕が原因なのか…僕を狙ってあいつらが現れてるのか…わからないけど、とにかく皆を助けなければ!

 使命感に僕は、彼女を置いて距離を縮めようと空を飛ぼうとした。身体に力を込める。

 …何も起こらない…

 空が飛べない!!

 魔法が使えなくなった!

 試しに蒼い炎を出そうと試みる。出てくる気配は微塵もない。

「どうしたの?」

「えっと…」

「あいつら、また町の人達を狙って…!!」

「僕が行って来る!」

 魔法は使えないけど、たった今神官様から剣を貰ったばかりだ。全く戦えないわけじゃない。

 彼女をその場に残して走り出す。町の皆は阿鼻叫喚といった様子で、取り乱していたが僕の姿を見て安堵するのがわかった。皆が家の中に避難しようとしている中で、僕だけあいつらに立ち向かう。

「うわぁぁぁぁ!」

 声を上げながら必死に剣を振り回す。

剣はこんなに重たかったか…僕は勇者じゃなかったのか…

 剣で斬るとあいつらは奇声を上げながら煙のように消えていく。僕は不格好な戦い方だっただろう。

それでも一体一体倒していくと、少しずつ門に近付いて行く。町の男の人達が果敢に出てきてくれて、僕があいつらを門の外に追いやると門を閉ざしてくれた。

 町の皆は褒めてくれたけど…前はもっと簡単に戦えた気がする。夢だったからか…

 そうだ、夢だったから楽に戦えたんだ。改めてこっちの世界に来てから、僕はまだレベルが低いんだ。よくあるRPGゲームだってそうだった。最初は弱くて、段々レベルが上がって強くなるんだ。そうに決まってる。

 母さんがいない時にお小遣いで買ったRPGのゲームを思い出した。レベルは中々上がらなくて苦労した覚えがある。今の僕はきっと、それと同じなんだ。

 彼女が心配そうに駆け寄って来た。

「大丈夫だった?」

「どうにか…町の人達が門を閉めてくれたから撃退できたよ。」

「やっぱり君がいないと駄目だね。」

 彼女はうんうんと頷いて、にっこり笑った。

「そんな事ないよ。町の皆が門を閉めてくれなかったらもっと大変だったよ。」

門を閉めてくれた男の人達に礼を言われた。僕もお礼を言った。実際に門を閉めてもらわなければ、あいつらは無限に現れたかもしれない。あちこちの家の窓から歓声が上がった。それが僕は嬉しかった。

 この町は、僕が守るんだ。

 それが僕の使命なんだ。

「帰ろう。お夕飯の時間になっちゃうね。」

「うん。」

 僕は元気よく返事をした。太陽の神様はもう既に月の女神様に空を渡して休んでいた。今までの記憶も手繰寄せる。そういえば、この世界はいつも満月だな…月の女神様の加護とかそういうものなのかな。

「ね、この町はいつも満月なの?」

「満月?月の女神様はいつも太陽の神様と交代で、同じ姿で私達を見守ってくれてるのよ。」

 彼女の家に向かう。お祭りの名残はあいつらが消し去ってしまったけど…良い一日だった。こんな充実した一日は生きてて初めてだと思った。

 家に入ると彼女はキッチンに向かった。

「何か手伝える事はある?」

「今日は疲れたでしょ?二階で休んでていいよ。」

「でも、あなたも疲れてるんじゃ…」

「私は大丈夫。お祭りで良いもの食べた代わりに簡単なものにしちゃうから。」

 その笑顔を見て、僕も笑った。そして二階に上がると、今までもそうだったかのようにお兄さんの部屋へ行った。

 椅子と机と本棚と箪笥とベッド。それしか家具はない。まるで本当に客間として使っていたみたいだ。

 机に座ってみた。ああ、僕はこうして毎日授業を受けて…塾でも勉強して、帰ってから宿題をして…何だか昨日来たばかりなのに、もう懐かしいな。

 机から離れて本棚の前に立つ。何か暗号みたいな文字ばかりだ。この世界の言葉、勉強してみようかな。勉強だけは得意だし。でも話し言葉は同じだから不思議だな。

 今度は箪笥の引き出しを開けてみる。中には洋服がびっしり詰まっていた。けどそれは…良く見ると、僕のサイズのものだった。

 お兄さんは何処に…何があったんだろう…聞かれたくないみたいだったけど、事情があるのかな…

「お夕食、出来たよ。」

 僕は余程物思いに耽っていたらしい。彼女が後ろに立って、声を掛けるまで気付かなかったんだから…

 今なら聞けるかな…お兄さんの事。

「ねぇ…この部屋って、お兄さんの部屋だったんだよね。」

「そうよ。でも、今は君の部屋。」

「どうして?お兄さんは帰って来ないの?」

「どうしてそんな事聞くの?」

「だって…心配じゃないの?」

「兄さんは…旅立ったの。」

 彼女は少し悲しそうに目線を下げた。

 旅に出た?

 隣町に行ったんじゃないのか?

「隣町に行ったんじゃ…」

「お夕飯にしようよ。冷めちゃうから、ね。」

 言い含めるように言われて、それ以上は聞けなくなった。やっぱり何か事情があるんだ…何だろう…何だか言葉に出来ない不安が胸に広がった。

「今日はメイヤと、プシルの煮込み。実は朝少し支度して行ったんだ。」

「だから早かったんだね。」

「朝ごはんを簡単に済ませちゃったからね。そうだ。今日のお祭りで、一番気に行ったのは?」

「サシェ…だっけあれは甘くて美味しかったな。」

「ふふ、今度淹れてあげるね。」

「後、プシルやデウとか…色々な動物が見れたのが嬉しかった。」

「どの動物が一番気になってる?」

「ベルか…ゼルかなぁ。ゼルは触らせてもらったけど、ベルはまだ見ただけだから。」

「じゃ、明日町長様の家に訪ねて触らせてもらおうか。」

「迷惑じゃないかな。」

「きっと大丈夫よ。」

 夕食の話はお祭りや動物の事でいっぱいだった。お兄さんの事を口に出させないように会話を弾ませているようにも思えた。でも彼女に限って僕を裏切るはずがないんだ。

 だから、大丈夫。

 キッチンの奥にお風呂があった。何かあるように見えたのはお風呂だったらしい。昨夜は入らなかったけど、今日はお湯を沸かしてくれて、入る事になった。

 底が大きな石で周りが木で出来ていた。洗い場もあるし、結構しっかりしたお風呂。ガスなんかないから薪で沸かしてくれている。こんなお風呂初めてで少し緊張する。底は熱くないのかな…

 僕の予想を裏切ってとても気持ちが良かった。彼女は薪をくべ終わると僕がゆっくり出来るように、リビングに戻っていったようだった。

 石鹸らしいもので身体と頭を洗って、逆上せる寸前までゆっくり浸かってお風呂から出た。

「ゆっくり出来た?」

「うん、気持良かった。」

「良かった。これ、セグルを冷やしたものだから飲んで待ってて。今度は私が入って来るから。」

「ありがとう。」

「どういたしまして。」

 彼女は本当に笑顔を絶やさずに僕の面倒を見てくれる。全てを先回りしてくれて、きっとゲームの進行を手伝ってくれる妖精のような…そう、彼女がいなければ全ては始まらなかった。

 もう悲しい顔はさせない。

 失敗を取り戻す為に僕はこの世界に戻って来たんだ。

 彼女がお風呂に入ってる間に僕は、セグルを飲んだ。氷が入って冷やしてあるわけではないのに、喉に心地よく火照った体を冷ましてくれる。ぼんやりと家の中を見回しながら彼女が出てくるのを待った。

 これから彼女と暮らすなら、家事を覚えて手伝いたいな。そうしたら迷惑ばかりじゃなくて、助けになるかもしれない。

 しばらくして彼女はお風呂から出てきた。濡れた髪が赤みを増して、綺麗だった。電気もないから部屋には暖炉みたいな明かりと、月の女神様の明かりしかない。それなのに彼女の髪は輝いて、本当に妖精かと思った。

 彼女もセグルの冷やしたものを飲んで、他愛ない話をしてから寝ることにした。一緒に二階に上がると、向かいにある彼女の部屋とお兄さんの部屋で別れた。

 翌朝、僕はお祭りではしゃぎ過ぎたのか寝坊してしまった。太陽の神様はもう登っていて、教会の鐘も鳴り終わり町が動いていた。

「起こしてくれれば良かったのに。」

 朝食の時に言うと彼女は楽しそうに笑って首を左右に振った。

「あまりにも気持ち良さそうに眠ってたから、起こすの躊躇っちゃって。」

「僕もこの町の生活に馴染みたいのに。」

「わかった、明日からはちゃんと起こすね。」

「それで…この世界の言葉を勉強したいんだけど…駄目かな。話すのは不便ないみたいだけど、折角だから文字も読んでみたいよ。」

「いいんじゃないかな。ただ私は教えるのが下手だから…もし良ければ、神官様か町長様にお願いしたらどうかな。」

「でも、二人とも忙しいんじゃないかな。学校みたいなものはないの?」

「ガッコウ?」

「えぇと、子供が集まって学ぶ場所。」

「特にないかな。読み書きは皆普段の生活で覚えていくから。」

「そうなんだ…」

 学校がないのには驚いた。僕の世界では昔から寺子屋っていうのがあったって授業で聞いたのに。

 朝ご飯は一人で食べた。彼女は先に食べてしまったようだ。でも彼女は向かいに座って僕の話を聞いてくれていた。

 町に出ると、平和な一日が流れていた。子供達は大人を手伝い、大人達は助け合って町を動かしている。

 僕はとりあえず町長様の家に向かう為に広場を目指した。広場では繋がれたまま動物が闊歩していた。散歩でもしているんだろうか。

「彼らも歩かないと、いいお肉にならないし、いいお乳も出せないから。町の外は獣に狙われたら私達も危険でしょ?だから広場でこの時間に歩かせるの。」

 広場を歩きながら僕は不思議そうな顔をしていたのだろう。彼女が説明してくれた。だからこんなにこの町の広場は広いのか。

 動物達を横目にみながら町長様の家の庭に着いた。ベルが今日は芝生の上でごろりと転がっていた。本当に犬みたいだ。後で撫でさせてもらえるようにお願いしてみよう。

 昨日と同じ女性が、同じ部屋に通してくれた。そして同じお茶…ビーガを出してくれて町長様を呼びに行ってくれた。

 今日はすぐに町長様が来て、朝の挨拶を交わした。僕もこの町の力になりたい事、文字の勉強をしたい事を話した。彼女が言うんじゃなくて、僕が伝えなくちゃいけない…そう思った。

 町長様は嬉しそうに笑ってから、自分用のお茶を優雅な手付きで飲んだ。町長様はカップを置いてから、僕に彼女の手伝いをするように言った。でも僕は彼女が何の仕事をしているか知らない。

「私は、孤児なの。兄と一緒に門の前に捨てられていたみたいで…教会の神官様が拾って育ててくれた。私の仕事は町長様のご公務を手伝ったり、神官様のお仕事のお手伝いをする事なんだ。今は、少しお休みさせてもらってるけど。」

「それって、僕のせい?」

「君のせいじゃなくて、私がそうさせて頂いてるの。」

 どう違うのか、僕にはわからなかったけど彼女の優しさが垣間見えた気がした。

 でも…孤児だったなんて…

 僕の世界にも親が責任を放置してしまった子供がいるのは知ってる。そういう子供達は施設に入って、集団で行動したり…里親っていうのに入ったりするって本で読んだ事がある。

 そんな悲しい過去を微塵も見せずに、ずっと笑顔でいられる彼女は凄いと思った。僕も彼女の力になりたいと思った。

「手伝わせて、あなたの仕事を。」

「わかった。これから宜しくね。」

「後、町にももっと馴染みたいから…他の仕事もしてみたい。」

 町長様は僕の言葉に感動したように快諾してくれた。

 彼女も快諾してくれて、町長様から彼女の手伝いの合間に文字を教えてもらえる事になった。

 町長様の承諾を得て庭に出ると、ベルが鳴いた。近寄って見ると、賢そうな瞳が輝いて僕を映している。撫でさせてもらった。可愛い。やっぱり動物はいいな。

 それから市場で買い物をするという彼女と別れて一人で歩いて帰った。町の人達は僕が一人でも挨拶をしてくれて、皆が顔馴染みというような感じだった。町長様から了解を得たし、僕もこの町の一員になるんだ。

 こうして僕の毎日は激変した。

 勇者でありながら町の人達と一緒になって働く。とても楽しく、魅力的な毎日だった。

 まず、彼女の仕事は教会のお清めや掃除、洗濯をする。あるいは町長様のお屋敷でご公務のお手伝い。町をより豊かにする為に日々頑張っている町長様のサポート役だ。彼女は凄い事を平然とやりこなしているのに全然鼻に掛けないでいつも笑顔だった。

 そんな彼女が悲しい瞳をするなんて…

 あれこそが夢だったんじゃないかな…

 僕はそう思い始めていた。

 日々はあっという間に過ぎて、勉強や仕事の合間に町長様のお屋敷にいたベルと遊んだ。他の家にもいるベルとも仲良くなれた。彼らは人懐っこくて、すぐに馴染んだ。色々な種類がいて、でも全部ベルって総称されてるらしい。僕の世界では種類別に名前がちゃんとあるのにな。

逆に大変だったのはグマキ。慣れるまで何回も通わせてもらって、最近ようやく撫でれるようになった。グマキもベルと同じように色々な種類がいた。やっぱりグマキはグマキで、毛が長いのから短いのまで沢山いた。

僕はプシルやデウの乳搾り、コッカの扱い方からお茶の淹れ方までどんどん吸収していった。彼女の手伝いをしてるうちに少しずつだけど料理も出来るようになってきた。

 毎日があっという間に過ぎていく充実感。誰に強制されずとも皆で協力して活動する満足感が僕を満たしていく。

「どう?町の生活にもだいぶ慣れてきたかな。最初は重労働で毎日身体が痛いって言ってたけど。」

 数十日経ったんじゃないかな。彼女はくすくすと悪戯っぽく目を光らせて笑った。確かに僕はこの町の子供たちに比べて物凄くひ弱だった。それが今では干し草だって運べるようになったし、樽を転がすのも慣れてきた。

「もう…最初の頃は言わないでよ。」

「ごめんごめん、君が結構逞しくなってきたから。最初とは大違いなんだもん。」

「最初は…そりゃあんな仕事した事なかったからさ。でも今では色々出来るようになったし。文字だって大分読めるようになってきたんだよ。」

「良かったね。町長様も驚いてたよ、君が凄く吸収が早いからって。」

「勉強は得意だから。」

 本当は勉強しか出来なかった。でもこの町では出来る事が沢山ある。

「他にやってみたい仕事ある?」

 動物達の世話は大分慣れてきた。一つだけ、動物に関してまだやっていない事がある。コッカの羽を染める作業だ。見学くらいしたいと思っていた。

「コッカの世話は慣れてきたけど、コッカの羽を採って染めるのはした事がないから…興味があるんだ。見学だけでもしたいな。」

「町長様に相談してみようね。」

 毎日こんな感じで、僕がやってみたい事を色々と町長様に相談して、許可が下りたらやらせて貰っていた。

 最初から全てが良かったわけではなくて、徐々に徐々にこの町での生活に慣らす感じだった。

 今では僕はこの町の住人で一部だ。そう思えるように最近なって来た。

 動物の世話は、まずはデウの干し草運び。デウは沢山の干し草を食べるから、藁の束みたいになっていてそれを運ぶんだけど…とても重たくて、町の子供が二つ運んでる間に僕は一つしか運べなかった。今では町の子供たちとも並んで運べる。

 そしてデウの毛を梳く許可が下りた。長い毛は絡まりやすいけど、絡まっていると生活用品を作る時の作業が滞ってしまうから常に梳いて綺麗にしてやる。大人が生え際で子供達は毛先。毛先の方が絡まりやすいから、大変だった。特殊な櫛みたいのを使って丁寧に梳くと、デウは気持ち良さそうだった。

 次はデウの散歩。首輪から伸びた太い綱を持って、ゆっくりデウの歩調に合わせて進んでいく。広場を何週かしてから、プシルを交代で出す。デウはおっとりした性格だから、まずはデウから慣らしてくれたんだ。

 デウの最後の仕事は乳搾り。雌の、しかも妊娠中にしか採れないそれは貴重らしくてチーズみたいに加工するらしい。僕は加工には手は出せなかったけど、乳搾りは手伝えた。牧場で体験した乳搾りみたいだったけど、牛よりももっとおっぱいが大きくて大変だった。

 デウの事は一通り習って、僕はデウの本なんかも町長様から借りて読んでいた。

 次はプシルの世話をさせてもらった。まずは野菜の切れ端や皮なんかを餌としてあげる事。干し草運びで多少は体力が付いていた僕には少し物足りなかったけど、沢山食べる姿は可愛かった。プシルは角があって、デウより少し性格が荒っぽいらしい。ふわふわの可愛い見た目に惑わされちゃいけないよって注意されたんだ。

 次は乳搾り。デウとは違って、プシルの雌は一定の時期を越えるとずっと乳が出るような身体をしているらしくて、毎日搾った。逆に毎日搾らないと垂れてきて大変らしい。初めて搾った日は彼女がサシェを淹れてくれて、自分で搾ったものだと思うと余計に美味しく感じた。

 プシルの毛は柔らかくてふかふかしてて、すぐに伸びてしまうから毛刈りをしなくてはいけなかった。洋服を作る材料だし、毎日一頭ずつ刈るんだけど…僕は最初はプシルを押さえる係ばかりでいっぱいいっぱいだった。やっぱり毛を刈られるのは嫌なのかな。慣れた頃に鋏を渡されて、皆が押さえてくれる中、どうにかプシルを傷付けずに毛を刈る事が出来た。少し怖かったけど、貴重な経験をした。普段は子供にはやらせないから、内緒だよって言われて少し嬉しくなった。

 プシルの毛を紡ぐのもやらせてもらった。ふわふわ綿みたいになっているのを、見た事もない機械でどんどん縒っていく作業は楽しかった。細い筒みたいなものでくるくると回して糸を纏めて、車輪みたいなもので毛を纏めて毛糸の出来上がり。それを女の人が機織りで織って洋服が出来上がるらしい。機織りはまだ見た事がない。女の人の作業は大体屋内だから、お宅訪問するのは気が引けた。

 コッカの世話は最後だった。怒らせると怖いコッカは、普段は温厚だった。鋭い嘴を持っていて、不思議と三本脚で器用に歩く。でも違和感がなくて…立派な鶏冠で真っ白な綺麗な羽を持っていた。これがあんなに綺麗な羽の色になるのが不思議だった。やっぱり餌やりからだったんだけど、なんとコッカは肉食で。デウとかプシルの食べられない筋なんかを好んで食べていた。

 この世界の動物は本当に奇妙だけど、面白くて可愛かった。でも、動物を捌く姿は子供は見ちゃいけないらしい。僕も含め、子供達は見た事がなかった。残酷だからかな。

 デウやプシルの卵も採りに朝早起きをした。卵は市場で売るんだけど、お金とかそういうのは町全体で共有しているらしいから僕にはよくわからない仕組みだった。全部町から働いた分だけ支給されて、皆そのお金でやりくりしてるみたいだった。彼女はそういう部分もお手伝いしてるらしい。僕の世界とは大違いだ。

 卵はデウもプシルも味が違う。料理の使い方も違う。例えるなら…デウはピータンみたいに燻製にして食べるのが主流だった。デウの卵はちゃんと交尾しないと生まれないらしくて、少し貴重だった。プシルは鶏みたいに勝手に生まれてくるらしい。プシルの卵は焼いて食べるのが主流だった。

 僕がゆで卵を作ってみたら、皆が感動してた。そういう発想とかはなかったみたい。喜んでもらえるのが単純に嬉しかった。

「沢山頑張ったもんね。」

「でも僕はお手伝いしか出来てないから。」

「もう、君は本当に謙遜しかしないな。」

「だって本当の事だし。」

「違うよ。立派に働いてる。」

「そうかな…」

「町長様も褒めてたんだよ。」

 毎日毎日、彼女の手伝いじゃなくこの町の色々な仕事を体験するだけだった僕はやっぱり自信がなかった。自分だけが楽しんでいるような…

「毎日泥だらけになって帰って来て…時には擦り傷なんかも作って帰ってきたりして。でも毎日楽しそうに一日を話してくれる。こっちまで楽しくなっちゃう。」

「えへへ。ありがとう。」

「明日は町長様に文字を習いに行くんだよね?」

「うん、その予定だよ。」

「じゃ、一緒に行こうね。寝坊しちゃだめだよ。」

「もう最近はしてないもん。」

「この町の時間の流れに慣れてきたのかな。」

「そうかな。そうだといいな。」

 僕達は、僕が毎日泥だらけで帰って来ていたからか先にお風呂でその後に夕食という順番になっていた。夕食の後は二人で片付けて、お茶を淹れてゆっくりしてから部屋に帰る。こんな生活が続いていた。

 教会の鐘が鳴るのは、一日五回。朝起きる時間と仕事が始まる時間、お昼休憩に仕事を終える時間。そして、眠る時間だ。

 僕の体内時計はきちんと朝の鐘で起きて、夜は鐘が鳴ると朝まで熟睡という健康的なものになっていた。夢も見ないし、朝もすっきり起きる事が出来る。彼女より早く起きれる事もあり、朝食を作ったりもした。僕の得意料理はスワシっていう香草とプシルの肉とプシルの卵を炒めたものだった。これは彼女に大絶賛で、たまに作ると喜んでくれた。

 お茶も淹れるのが得意になった。セグルとビーガでは淹れ方が少し違うけど、それもマスターした。サシェは甘さ加減が難しくて、今勉強中だけど。

 ゆっくりお茶を飲みながら話していたら、就寝の鐘が鳴った。茶器を片付けて、お互いの部屋に入る。

「おやすみなさい。」

「また明日ね、おやすみ。」

 僕は当たり前のようにベッドに横になった。ふと…思い出した。

 このベッド…お兄さんのなんだよな…

 まるでこの部屋自体が僕の為に用意されてたみたいだ…

 二人で門の外に捨てられてたって話だから、本当の兄妹なんだよな。

 彼女は…お兄さんは旅立ったと言っていたけど、どういう事なんだろう。まさかあいつらに食べられたんじゃ…

 ちゃんと帰って来るのかな…

 そんな事を考えていたら、眠れなくなった。もう普段なら夢も見ない眠りの中のはずなのに。何だか胸の辺りがもやもやする。


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