泡沫

満つる

泡沫


 

 

 大きな大きな太陽が、頭の上でギラギラと光っている。

 砂浜は裸足を下ろしただけで火傷やけどしそうに熱かった。まともに足をつけてはいられなくて、うひゃうひゃ踊るみたいに走って飛び込んだ海。

 飛び込むなり足の裏から何から体中が海水を吸い込んだみたいにじゅわじゅわっと音を立てて、ふくらむ。その感じがあまりに変で、体中がくすぐられてるみたいで、思わず声を上げて笑ってしまう。私の笑い顔を見て、後を追ってきた父さんも大きく顔を崩す。

「海は、楽しいなあ」

 まだ海に入っただけなのに。他に何もしていないのに。

 でも、そんなことを言う父さんは本当に嬉しそうだ。だから「うん」と笑ったまま頷く。

 父さんは満足げに、あとから水の中に入ってきた兄さんにも

「おい、海は楽しいよなあ」

 同じことを言って、「何言ってるんだか」って顔を返されている。

 振り返ると、砂浜の奥にオレンジ色の小さなテント。その前で、あれは母さん。大きなつばの帽子を目深にかぶって、こちらを見ているように見える。

 だから手を振る。大きく大きく、振り回すように手を振る。見えないのに、帽子の下の顔がほころんだような気がする。

 横にやってきた兄さんが、私につられて振り返ると

「おーい」

 びっくりするような大声で母さんに向けて叫んだ。兄さんの声を受け取ったのか、母さんが帽子を取って振り回す。風にのってこちらまで届きそうなくらい、ぐるりぐるり。

 声。匂い。笑顔。海風に乗って、色んなものが砂浜と海の上を渡る。

 ああ。やっぱり父さんが言う通り、楽しい。

 大きく口を開けて笑った私に、ざぶんと波がかかる。目も口もしょっぱい。慌てて目をこすって開き直した瞳に映るのは、光る波と青い空、そして皆の笑顔だけだ。


 海からあがった砂浜は、ずっと水の中にいた体でもやっぱり熱い。走ってテントに逃げ込む。日陰で涼んで、飲んで食べて、そしてまた海へ。何度繰り返しただろう。

「そろそろ帰るぞ」

 父さんに促されていやいやながら片付けを始めると、途端に体の重だるさに気付くから不思議だ。

 濡れそぼって重たくなった水着を脱いでも、まだ体が重い。他にまだ脱げるものがあるんじゃないかと、むき出しの手足を見つめる。赤らんだ肌の他には何もなくて、だまされている気がしてつい口に出た。

「なんでこんなに体が重いのかな?」

 畳んだベンチを担いだ父さんが私を見ると

「海の神様がくっついているからだよ」

 いつになく真面目な顔で答える。

「海の神様?」

「そう、海の神様」

 オウム返しで頷いた父さんに

「それ、なあに?」

 何も考えず、ただ尋ねた。

「子供好きでさみしがり屋の神様さ。子供が海で喜んで遊べば遊ぶほど、可愛く思って帰したくなくなる。だから、海で長く遊び過ぎると、海の神様にこっそり引っ張られて、体がどんどん重くなるんだ」

 そう言われて、もう一度、自分の体をよく見直した。オナモミみたいな何かが引っ付いているのかと思ったけれど、火照ほてった色の素肌の他にはやっぱり何もない。

「どこ?どこにもくっついてないよ?」

「そりゃ、神様だもの。見えるわけないさ」

「神様、って見えないの?」

「そう。ふつうはね」

 話しながら手際よく車に荷物を積み込んでいた父さんが、目を細めた。

「でも、たまに、あ、って思うときがあるよ」

「ほんと?」

 つい、身を乗り出した。

「どんな時?」

「教えて欲しいかい?」

「うんっ」

「だったら早く、服、着なくちゃ」

「あー、」

 言われて慌てて頭から服をかぶる。体が思うように動かなくて、ロボットみたいにぎくしゃくする。

 かぶった服が体にまとわりついた。早く着ようとむりやり引っ張ると、火照ほてった肌を服がちくちくと刺す。着るのが当たり前なのに、やけにうっとうしくてそのまま裸でいたいくらいだ。それでもようやく全部を身につけると

「着たよ?」

 自分の口から出てきた言葉が、服を着た分だけさっきより重たく聞こえる。

 車の後ろで父さんが振り返った。

「ああ、じゃあ、おいで」

 言うなり大股で先に立って歩き出した。その背中は車から離れ、波打ち際に向かって砂浜を渡っていく。

 急いで追うと、せっかくキレイにしたビーチサンダルにまた砂が入ってきた。足の裏だけでなく気持ちまでジャリジャリと砂っぽくなる。さっきまでは気にならなかった砂が、今ではやけにうっとうしい。


 突然、父さんが立ち止まった。大きな背中が視界をふさぐ。

 背中の向こうからぼそぼそと小さい声が聞こえた。止まった体は動かず、足元だけが小刻みに動いている。

 何してるんだろう。

 その動きにぼうっと気を取られていると、いきなり背中が振り向いた。

「ほら、」

 声と同時に、両腕が差し伸べられる。何も考えず、ただその腕に向かって飛び込んだ。太い腕にガシッと抱えられると体ごと持ち上げられ、

「この辺りかな」

 すとん、と砂の上に立たされた。


 なんだろう。

 思う間もなかった。足元からぞぞぞと何かがいっせいに這い上がってくる。すーっと血の気が引くような、めまいがするような、意識が半分飛ぶような、吸い付かれるような、得体のしれない何か。何かが体の中と外の両方から、水が染み込むようにずるずるずるずると私の中に入り込んでくる。

 海に来て最初に飛び込んだ時のあの感触とどこか似ているけれど、やっぱり全然似ていない、気味の悪い侵入者。

 そのあまりの不気味さに、ひゃっと片足を持ち上げた。

 砂から離れたその足は、一瞬で軽さを取り戻した。代わりに砂の上に残った足に、沈み込みそうになるくらいいっぺんに両足分の何かがぎゅっと掴まってくる。ぎょっとして今度はその足を持ち上げると、さっきまで持ち上げていた足がすぐさま同じように掴まれた。うかうかしていると一瞬で砂の中に引きずり込まれそうだ。

 どうしていいか分からなくなって、飛び跳ねるようにせわしなく足を交互に持ち上げる。砂の上の奇妙なダンス。砂の熱さから逃げだして海に駆け込んだ時とはまるで違う、泣き出しそうなくらい必死の踊り。

 やめて。やめてよ、やめてやめて。

 突然、体がすっと軽くなった。父さんの腕の中だった。

 抱え込まれた腕の中で、くぐもった太い声が体を伝わって響いた。

「わかった?」

 言葉なんか出ない。ただ顔を胸に押し付け、ごりごりと上下に動かした。

 ぽんぽん、と軽く頭を叩かれ、ぎゅーっと一度、体を強く抱きしめられると、抱えられたまま運ばれた。父さんの歩幅に合わせて軽く上下する体からその都度、さっきの得体のしれない何かが少しずつ降り落とされていく。なんだか急に眠くなるようだった。

 体に残った感触がぞろりと全部抜け落ちた辺りで、無造作に下に降ろされた。


 目の前に母さんがいた。

 髪を束ね、むき出しになった顔に、乾いた大きな笑み。

 途端に、悪寒が蘇る。

「母さんっ」

 小さく叫んで、その懐へと逃げ込んだ。

 父さんの太い腕とは全然違う、細くて真っ直ぐで、でも柔らかい腕。その中には海の気配が微塵みじんもなかった。そのことに、心底ほっとした。ほっとしたら、

「嫌い!きらいきらいきらい、だいっきらいっっ」

 なんでか悲鳴のような言葉が勝手にこぼれ出た。

「ダメよ、黙って」

 腕の力がぎゅうううっと強くなり、乾いた声が耳元でささやく。

「いい子だから、ね?」

 言葉の意味も考えられずに、ただ腕の中で小さくなって頷く。頷くうちに体がどんどん小さくなっていき、しゅわしゅわと縮んだ体が母さんの腕できれいにかくまわれる。

「これで安心」

 母さんの声が波打ち際すれすれを飛ぶ海鳥のように耳元をかすめた。

 安心、かあ。

 心がふうっ、と緩むと同時に、縮んだ体が急に丸くなって……






ぷしゅっっ






 ……音を立ててはじけた。

「あ、」

 短い悲鳴のような母さんの声が聞こえた、気がした。























それきり私はずっと、海、だ。

父さんと兄さんはいなくなってしまったけれど、母さんが残ってくれたから淋しくはない。それに、時に、私みたいな子もやって来る。

そんな時はそれはもう嬉しくて、大歓迎している。


海は楽しいよ、

ずっとずっといるといいよ、と。





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