君の心臓を返しにきたよ

ゆきちび

第1話

だんだんと暑くなった夏の兆しに目を細めていたのなんて、もうずいぶん前のように感じる。まだ7月の頭だというのにここ最近は、もう既に猛暑日が続いてばかりだ。それでも暑い暑いと文句を言いながら、目の前で轟々と焚きあげられるソレを眺めてしまうのはきっと、柄にもなく本当のお願いを書いてしまったからだ。

家の近くのデパートでやっていた小さな七夕祭。何気なく足を止めたところを主催者らしきお姉さんに声を掛けられたのが始まりだった。あれよあれよという間に受け取ってしまった短冊を突き返すこともできずに、困り果てた挙句、ふとホントに思った事を書いてしまった。誰にも見られないように出来るだけ目立たないところに括り付けて足早にその場を去ったが、結局気になって近くの神社で行われるお焚き上げまで見に来てしまった。叶うはずもないそれが天に届けられるのを見送ってから、静かに神社を後にした。


「ただいま」


静まり返る部屋に声をかけ続けてひと月が過ぎた。ずいぶんと繰り返した気もするけど、未だに慣れる気がしない。

テーブルに置いてあった掌サイズの小さな箱から一本取り出して、隣に添えてあったライターで火を付ける。あの人が置いていった煙草は禁煙者だった私からすればただただ苦くて変な味がするだけで、とても吸えたものじゃなかったけれど、それも今では噎せる事もなくなった。ふわりと吐き出した紫煙はゆらゆらと宙を彷徨ってやがて消える。その行方をしばらくの間ぼぅと見つめてから、すっかり短くなった煙草を灰皿に押し付けた。

いつになく憂鬱になるのは、あり得ないことを一瞬でも夢見てしまったから。どうしようもない気持ちをコーヒーで押し込めてから、考える事を放棄するために額をテーブルへそっと乗せて瞼を閉じた。



「…たっく。相変わらずだな、お前は」


懐かしい声がした。

忘れるはずもないその声が私の名前を呼ぶ。

優しく何度も、慈しむように。

彼が小さく息を吐いた後、無骨な指が私に触れた。私の髪を2、3度梳いて、ゆっくりと私の肩を揺する。長い間求めていた体温に縋るように、私は彼に手を伸ばした。


「おはよう。といってもまだ夜だけどな」


意地悪く口の端を上げて笑う。

懐かしい、大好きだった笑顔。


「なんで……?」


ゆっくりと伸ばした手が中途半端に止まる。

もし、これが夢だったら?

彼は本当は存在しなくて、私の手をするりと抜けてしまったら?

私はきっと……


「何でって……」


呆れたように微笑む彼が、宙を彷徨う私の手をしっかりと握った。恋しくてたまらなかった体温がゆっくりと指先を伝う。痺れるように甘く伝った体温に少し泣いた。


「お前が言ったんだろ。俺に会いたいって。お前が願ってくれたおかげで、日付けが変わるまでは一緒にいられる」

「それ、ホント?」

「嘘だと思うか?」

「……っ、おかえり。あいたかった…!!」

「ただいま」


抱き着く私を彼は優しく包んだ。全身で感じる体温はあの頃と変わらない。嗅ぎ慣れた煙草の匂いが鼻孔を擽った。

お互いの体温を確かめるように抱き合ってキスをした。いるはずのない相手の存在を離さないように、離れていた空白を埋めるように、何度も何度繰り返して、ようやく落ち着いた頃に2人で寝室に移り、定位置に腰を下ろした。彼が居なくなってからただのオブジェに成り下がったセミダブルのベッドは、1ヶ月ぶりにようやくその役割を取り戻した。ここで寝ることができなくなったのは、彼が居なくなった事を実感するのが怖かったからだとようやく気付いた。


「……突然1人にして、悪かった」


申し訳なさそうに、悔しそうに下を向く彼にかける言葉は、喉元に貼り付いて出てくることはなかった。代わりにその頭を数度優しく撫でると、彼はゆっくりと顔を上げた。


「私ね、ずっと続くと思ってたよ」


申し訳なさそうに眉を下げた彼を見て、私は静かに目を閉じた。

彼が死んだと聞かされた時のことは、あまり覚えていない。気がつけば葬儀は恙無く終わっていて、私は自宅へ戻っていた。ただ1つ、自分が発した「ただいま」の一言が重く沈んでいった事だけは鮮明に覚えていた。

私の時間は、あの時からずっと止まったままだ。進まない。だからって戻れるわけでもない。まるで私も一緒に死んでしまったみたいだ。


「貴方がいなくなって、どうしていいのか分からなくて、死んでしまいたいと思ったの。でも、そしたら怒るでしょ?だからやめたの。怒られるのはイヤだから」


コツンと彼の額が私の額に触れる。

彼は「バーカ」と優しく笑って、2人で少しだけ泣いた。チクタクと規則正しく時間を刻む秒針が今日ほど憎らしい日は、この先きっとない。


「コレ、やっぱり渡しとく。ホントはあの日渡そうと思ってたんだが…」


掌の中でキラリと光ったのは、1対のピアス。

彼は今更とも思ったんだけど、と照れたように眉を下げた。さっそく身につけたそれは何もなかった私の耳を艶やかに飾った。


「…似合ってる」

「ありがとう。大事にするね」

「……それじゃあ、元気でな」


気づけば時計はもう24時を指そうとしている。ゆっくりと薄れていく彼の身体は、もう触れる事すらできない。


「あぁ、それと…」



カーテンの隙間から漏れる光で目を覚ました。固まった寝起きの身体をほぐしながら、洗面所へ向かう。鏡に映った自分の両側にはピアスがキラリと光った。夢じゃなかった事にホッとしながらピアスにそっと触れてみる。昨日の晩の出来事が私の都合のいい夢や幻じゃなかった事を確認してから、顔を洗って手早く身なりを整えた。必要な物を鞄に詰めながら、最後にテーブルの上に置かれた煙草に伸ばされた手が直前で止まる。


『あぁ、それと……煙草は身体に悪いからやめておけ』


去り際のあの人の言葉を思い出して、クスリと笑う。あの日から未練がましく吸い続けていたそれを迷いなくゴミ箱へ放り投げた。

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