4話 極楽浄土の花咲く場所は

 ベランダに出なくなってどれくらい経っただろう。ゲームも、本も、どれだけボタンを押そうがどれだけページを捲ろうが頭の中を滑っていって胸に落ちてこない。ここの生活が楽しかった絶頂期に、好きなキャラクターがポーズをキメている漫画の表紙を模写なんかしたりして、中学生ぶりに絵を描いたというのになかなか上手いもんだと1人悦に入ったりしていたのだが、それも紙屑になって部屋のどこかに消えてしまった。何もする気力が湧かない。何もしなくても死なない。何もしないと死なない。この淡々とした、なんも変化なく、なんの意味もない生活は終わりがあるのだろうか。…終わらせてしまおうか。

 ふと、着信を無視した実家からの電話を思い出す。それと同時に、挨拶をしそびれた隣人のことも。終わらせる前に、最後に顔を合わせておくのもいいかもしれない。きっと彼女は、変わりなく花を愛で、家事をし、規則正しく自分の生活を守っているのだろう。よっぽど意志が強くないと、こんなおかしな世界であんな正しい生き方はできない。鋼の精神の持ち主とはまさに彼女のことだ。



 飛び込んできた光景に、絶句した。頭がなかった。あんなに所狭しと賑わっていた花々は一つ残らず頭を失い、緑の針山と化していた。急激に鼓動が早くなるのを感じた。間引きだとか、植え替えだとか、そんなものではない異質さが立ち込めていた。その場から動けずにいると、鉢植えの奥にあるカーテンが揺れた。目が、あった。

 彼女はまだ、いた。変わらずその部屋で暮らしていた。しかし、俺の知っている彼女ではなかった。ゆっくりと窓を開けると俺を見据えたまま裸足で歩んでくる。いつもそのまま買い物にだって遊びにだって行けるようなきちんとした格好をしていたのに、誰が見ても部屋着だと分かるダボついた服装。部屋の中ではどうだったのかは知らないが、ベランダにそんな格好で出てきたことなど一度もなかった。艶を失った髪はうねっている。ぼんやり、夢遊病患者みたいに、ゆらゆらして手すりを握ると、真っ直ぐ俺に向かって、全く表情を変えずに、ゆっくり口を動かした。

『ご』『め』『ん』『な』『さ』『い』

多分、そう言った。彼女は深々と頭を下げると、顔を上げると同時に踵を返し、俺のことを見ることなくカーテンの奥へと消えていった。

 

 じっとり汗をかいていた。久々に大量に血を送られて思考が全力疾走する。なぜ彼女は謝った?いつの間に彼女は変わってしまった?花が頭を落とされたのはどのくらい前のことなんだ?俺は本当にどのくらいの間、部屋に籠もっていた?彼女はカーテンの隙間から、俺のベランダをいつからあんな風に見つめていたんだ?

 頭がグルグルしてきて気持ち悪くなり、俺はよろめきながら部屋へ戻るとカーテンを真ん中が重なるくらいぴっちりと閉め、ベッドに突っ伏した。何も変わらないと思っていた世界が、まだ変わる余地を残していて、それが正面からぶつかってきた衝撃に息ができなかった。説明のできない恐怖が体を縛り付けていた。彼女は、なんで、何を謝った?



 いつの間にか寝ていたようだった。重い体を起こして、ベランダに続く窓を見つめる。カーテンを開けるのが怖かった。しかし確かめずにはいられない。音が立たないくらいにゆっくりと布を引くと、恐る恐る窓に手をかけて這い出るようにベランダに出る。

「あ」

彼女の部屋にはカーテンがかかっていなかった。

「あ あ あ」

彼女はこちらに背を向けて窓にもたれて座っていた。

「あああああああ」

窓の鍵のところにベルトみたいなものが引っ掛けてある。

「ひグ」

それが彼女の首にかかっているのが分かった。


彼女は、死んだのだ。


「おえぇぇえっ」

胃液がベランダのコンクリートを汚した。



 ドアノブにタオルを引っ掛けて自殺した人間がいた。そのニュースを聞いた時、とてもそんなもので死ねるとは思わなかった。でももう、生きる気力が微塵もなかったら。確かに可能なのだろうと、今なら分かる。


 彼女は強い人ではなかった。きっと人に見られているから、正しく在れたのだ。もしかしたら、人のために、正しくあろうとしていたのかもしれない。正しく、規律正しく、規則正しく。彼女だけは変わらないとなぜか思っていた。周りに流されない人だからと。どこかで心の拠り所にしていた。じゃあ彼女は?彼女の心の拠り所はどこにあった?

 俺が、ベランダに出続けていれば、彼女は変わらなかった?俺が、彼女を殺してしまったのか?彼女はなぜ俺に謝ったのだ?俺は、どうすればよかった?

 この生活を終わらせようと、死のうとしていたのに、現実に死をまざまざと見せつけられて、怖気付いている自分がいた。しかしなんの希望もなしに、この生活はとても続けられない。彼女が死ぬのが早いか俺が死ぬのが早いか、ただの順序の違いだったのだ。俺もおそらく、死ぬなら彼女と同じように部屋で死ぬだろう。やっぱり俺は、部屋が好きだ、最期の場所は部屋がいい。もしかしたら彼女もそうだったのかもしれない。しかし、最後の1人というのは孤独の質が違う。急に体が小さくなってしまったみたいだ。一歩進むにも、何倍もエネルギーがいる。


 しゃがみ込んだまま地面にできた吐瀉物の染みを見つめる。古くて、薄汚れたベランダ。今作った染みの向こうにも、今までの住人がつけた落ちない汚れが染み込んで










 全身が総毛立つのを感じた。


 この、染みに、俺は覚えがある。心臓が熱くなる。こんなにまじまじ見たのは初めてだったから今まで気がつかなかった。手が、抑えきれずに震え出す。四角いの、丸いのがぐるりとベランダの縁を取り囲んでいる。弾かれるように立ち上がり、もう二度と見たくないと思った、さっきまで釘付けになっていたベランダを目を見開いてもう一度観察する。間違い、ない。


 これは彼女の、プランターの、植木鉢の、染みだ。


 一体どういうことだ。俺のベランダについている黒い染みは、形も位置も、彼女のベランダに並ぶ植物たちの入れ物とピタリと一致していた。ちょっと待ってくれ。ちょっと、待って。鼓動が頭の中まで響いてくる。今まで景色として溶け込んで意識に上ることがなくなっていた正面のベランダに垂れ下がっているロープが、急に存在感を増して眼球を射抜いてくる。まさか、まさかだ、そんな、そんなこと。柵に括り付けられたロープ。白い柵の、左から、五番目に。ゆっくり、ゆっくり片膝をついて確認する。


 俺のベランダの右から五番目の柵は、根元の塗料が不自然に剥げ落ちていた。


 意味が分からない、どういう、一体どういう。よろめきながら立ち上がり部屋に雪崩れ込むと、もうすっかり慣れて感じなくなっていたはずの匂いが鼻をつく。


 染み付いたニコチンの匂い。 


 息があがる。震えが止まらない。はっと気がついてもう一度ベランダに飛び出す。俺はこの空間にある四つの部屋は、同じアパートの、今俺の住んでるアパートの四室だと思っていた。だがおかしいのだ。カーテンを失って中が丸見えになった他の三部屋を信じられない思いで見つめる。


 全て小窓が、北側についている。


 ゆっくりと振り返ると、急に目の前の部屋が俺のものではなくなったように感じてベランダにへたり込む。俺の部屋と同じ外壁、同じベランダ、つまり明らかにうちのアパートなのに、全室俺の部屋と全く同じ間取りをしていた。同じアパートの四室なら、二部屋は小窓が逆に付いていなければおかしいのだ。理解できない、理解できないが、この場に残された過去の住人の痕跡、そして目の前の空っぽの部屋とそこに住んでいた人間の特徴を照らし合わせれば、導き出される答えはどんなに突拍子がなくとも、ひとつしかない。

 ここにある部屋は全部、今、俺が立っている、この俺の部屋なのだ。つまり、あの3人は全て、この部屋の過去の住人だったのだ。


 家の契約の時に仲介業者が口にした台詞が蘇ってくる。

『過去に夜逃げした住人がいたらしくて大家さんも慎重に…』

違う、夜逃げじゃない、落ちたんだ、この世界に落ちて消えたのだ。

 相場より随分家賃が安かった。それはきっと彼女のせいだったのだ。いわゆる事故物件。でも彼女の後、俺の前に誰か契約者がいたから、告知義務がなくなってきっと俺には知らされなかったのだ。


 今までの住人がこの世界で見た3人だけなのか、そうじゃないのかは分からない。ただ一つ確かなのは、この部屋は過去この空間にやってきて、また新しい住人を迎えている。俺を、迎えている。つまり、元の世界に帰っているのだ。ということは、いつになるかは分からないが、今俺がいるこの部屋も、元の世界に帰る可能性が、あるということだ。俺より未来の部屋がこの場に浮かんでいる訳じゃないから確実ではない、だが永遠じゃない、終わりがある可能性が、ある。

 

 ぱっと視界が広がった気がした。それなら俺は、籠もっていられる。俺は、部屋が好きだから、まだまだやれる。引き籠りは得意分野だ。人は気が狂うのにどのくらいかかるのだろう。思考に余裕ができて、興味が湧いてきた。まあ途中で力尽きたら、さっきの予定通り自分の手で終わらせたらいいのだ。そこまで考えて、もしも全員死なないと帰れないとかだったらどうしよう、と不安がよぎる。どうしようもないことは考えても仕方がない。とにかく帰れる可能性はある。今はそれでいいのだ。

 窓の鍵が目に入り、彼女の死に様がフラッシュバックして、そこで一人の人間が死んだのだと生々しく突きつけられてやや怯むも、振り払うように素早く窓を開き中に入る。ええい今は俺の部屋だ。振り返りざまに勢いよくカーテンを閉める。ここでの異常な生活によって、俺の神経は多少は図太くなった気がする。もしかしたらもう軽く気は狂っているのかもしれない。


 さあ、ワンルーム引き籠り生活、再スタートだ!

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