3話 落下する煙
今までおかしな挙動は全部ゴリラが担ってくれていたので、不安な気持ちがそちらに注がれていたのだが、彼を失って一気にそれが自分の元へ帰ってきてしまった。俺たちはもう元の世界には帰れないのではないか。いつまでこの暮らしが続くのだろうか。ずっと?永遠に?その仄暗い恐怖が寝る前に襲ってくるようになった。落ち着け落ち着け、ひとまず今は考えるなおかしくなる、丁寧に隅々までゲームをやりこもう。限界までコントローラーを握り、気を失うように眠る。起きたらベランダに出て代わり映えのしない状況を確認、たまに長編漫画を一気に読み返したりラジオ体操の覚えている部分で体を動かしてまたコントローラーを握る。その繰り返し。ベランダに出ると否が応でも目に飛び込んでくるゴリラロープは見る度に俺を暗い気持ちにさせたが、徐々に意味を持たない景色の一部として溶け込んでいった。
ずっと籠っていると気が滅入ってくるので、たまに他の住人の動向が知りたいがためにベランダで長い間ぼんやり過ごすこともあった。煙草男は元々あまり顔を見せず、ベランダから立ち昇る煙でその存在を把握していたのだが、おそらく煙草が切れたのだろう、その煙すら確認できなくなってここの所完全に消息不明になった。左の部屋の女性はあんなことがあった後でもなおずっと規則正しい生活を続けていて、午前中に該当する時間は花の世話や洗濯物を干しにベランダにちょこちょこ出てくるので、会いたいと思えばいつでも会うことができた。俺なんて最後に顔を洗ったのはいつだろうという感じなのに、彼女はいつ見ても身綺麗にしていた。心なしか後ろの外壁まで綺麗に見える。顔を合わせて会釈を交わすと、この世界にも仲間がいるのだという安心感で不安が少し和らぐ。この安らぎのために、俺は初めに毎日のベランダ確認のタイミングを起きてすぐと決めたのだ。まぁすぐに生活リズムなんてもののない自堕落な生活にはなったのだが。
女性が部屋へ引っ込んでしまうと、ぼんやりベランダに齧り付いていても特に新しい発見もない。体を動かすために今日は部屋の模様替えでもしてみるか。少しは気分も変わるかもしれない。大物を動かそう。よしベッドとテレビの位置を逆にしよう。うちのアパートは各階二部屋しかないから全室が角部屋になっており、俺の部屋は北側に小さな窓がついているのだが、隙間風が寒いので南側にずっとベッドを置いていた。しかし今は隙間風どころか春風も木枯らしも日光だってない世界にいる。いい機会だ。何がいいのか分からないけど、せっかくだから、元気に、いってみようやってみよう。
そう決意して踵を返しかけたところで、久々に右のベランダに男が現れたのに気がついて足を止める。なんだか顔色が悪い気もするが、まじまじ見たことがないので元からかもしれない。ただし相当不機嫌そうなことはわかった。男は仏頂面で腕を伸ばし、新聞紙のようなものを柵の向こう側でバサバサと振った。細かい白いものがパラパラと落ちていく。なんだろう?ゴミ?
男は作業を終えるとのっそり部屋に戻っていく。俺のことは視界に入っているはずなのだが、気が付いていないのか、気付いていても反応するのが面倒臭いのか、目を合わせることもなく去った。多分後者だろう。こちらに微塵も興味がないんだろうなと苦笑いしつつ、俺もベランダを後にした。
模様替えついでに部屋の掃除も済ませ、久々に健全で健康的な充足感を味わう。やっぱり俺の部屋は最高だな。今日はいい1日だった、よく眠れそうだ。シャワーを浴びてさっぱりしてベッドに寝転がると小窓に目がいく。窓辺のベッドというのもなかなかいいな。寝る前に星とか眺めたりしてさ、まあ星どころか月もない世界に今はいるし、大体元の世界にしたって星なんて大して見えないんだけど。何気なく体を起こしてカーテンを開けてみる。見飽きた紫の虚空。そしていつも見ているのとは少し角度の違う、おそらく物資不足で強制禁煙中の男のベランダが見えた。どうせなら反対側に窓がついていたら、ベランダを囲む花が気軽に見えて癒されるのにな。そう思いつつ再び転がろうとした瞬間、男がベランダに現れたのが目に入る。1日に二度も目撃するなんて滅多にないことだ。好奇心から窓越しに眺めていると、前回見たのと同じような動作で何かを捨てるのが分かった。大きさはバラバラの白っぽいものだ。今回はきちんと最初から意識を向けて目を凝らしていたので、白い物の一つに持ち手がついているのが見えて、はっと気がつく。コップだ。コップの破片。それにおそらく皿。粉々になった食器を彼は捨てているのだ。
1日にそう何度も食器が破損することなんてあるだろうか。ストレス発散手段として故意に割っているのかもしれない。もしくはニコチン中毒の禁断症状で、アルコール中毒者の描写でよく見るみたいに手が震えて取り落としてしまうのかも。だとしたらちょっと気の毒だな。そんなことを考えながら天井を見つめるうちに、久々に動いた疲れもあり、俺はいつの間にか深い眠りに滑り落ちていった。
なんとなくその日以降男の様子が気になって、自然と小窓に目がいくようになった。ずっと張り付いていたわけではないので正確には分からないが、週に一度程度ベランダに現れては何かしらを廃棄していたのが、段々と頻度が増し、とうとうほとんど毎日見かけるようになった。初めは皿などの食器だったのが、もう割れるものが無くなったのか、そのうちビリビリに破かれた紙に変わった。新聞紙や広告みたいなものから恐らく写真まで、とにかく破れる物は全部破いている感じだった。次はズタズタに引き裂かれた衣類、鞄。徐々にエスカレートしていく不穏さに、彼の理性もすり減っていっている気がしてこちらも落ち着かなかったが、何しろベランダ越しに鉢合わせることがあっても目も合わせてくれないのだ、如何ともしがたい。
それを目撃したのは、やり込んでいたゲームのうちの一つの裏ボスを倒し、真エンドにたどり着いて興奮のあまり眠れずにいた日のことだった。しみじみエンドロールを見終わり、しかしまだ余韻に浸っていたくて電源を切れずにベッドに転がってぼんやり小窓から紫の空を見つめていると、ちょうど男がベランダに出てくるのが見えた。今日は一体何をダメにして捨てるんだろう。しかし男はベランダの手すりにもたれかかると、そのまま動こうとしない。いつもと違う挙動に好奇心が湧いてこっそり窓に張り付いて観察していると、男は右手を上に掲げたり振ったりし始めた。何か黒いものを握っている。それを顔の前に持ってきてはじっと睨み、また振りを繰り返すうち、上がる手は低くなり、振りも小さくなり、ついにガックリとうなだれた。一呼吸おいて男の左拳が思い切り手すりに打ちつけられるのが見えて、なんだか胸がざわつく。しばらく動かなくなった男は再び顔を上げると、手に持った黒いものをばきりと真っ二つに折ると、忌々しいものを投げ捨てるみたいにそれをベランダの向こうに放った。いつもは破棄し終わったらさっさと部屋に帰ってしまうのに、珍しくじっと落ちていく様を見守り、見えなくなっても男はまだ動かなかった。ようやく部屋へと消えていく様はいつもより弱々しく見えた。
おそらく、携帯電話だったと思う。今時珍しい二つ折りタイプのガラケーだ。おじいさんだってスマートフォンの時代だから、使っている人間を見るのは実に久しぶりだ。誰かに、繋がりたくて電波が入らないか試していたのだろう。ここには電気もガスも水もある、しかし1番欲しいものはない。食事も必要ない今となってはライフラインの最上位にあるのは通信だ。それがどんなに望んでもここにはない。そういえばあの男がベランダでタバコを吸っていたのは少しでも電波が入らないかと、淡い期待をしていたからかもしれない。いつもタバコをふかしながら携帯電話を手に、ベランダにじっと座り込んでいたのかもしれない。ヘビースモーカーのくせに、いちいちベランダに出てタバコを吸う姿にやや違和感があったのだが、そういう事情なら合点がいく。
ゴリラにしろ、右手の住人にしろ、彼らは人と繋がることを望んで心をすり減らしている。一方自分はどうだろう。俺は24時間365日誰かと四六時中一緒に生活するか、逆に24時間365日ずっと1人で生活するかどちらかを選べと言われたら後者を選ぶ。別に人嫌いなわけではないが、俺は1人の時間がないとストレスで死んでしまうタイプの人間だ。人付き合いは俺にとって水泳と同じで、息継ぎに1人の時間を確保しないと息が詰まって溺れてしまう。そんなだから結婚願望なんていうものも薄くて、彼女も社会人になってからはできたことがない。実家の母は口を開けば結婚の話ばかりで、する気はあるのか、見合いはしないのか、ご近所さんの子供はもうみんな所帯を持っている、独り身で孫の予定もないのはうちの子だけだ、恥ずかしくて近所付き合いするのも辛いなどと延々愚痴を聞かされるので、最近は距離を置いていた。仕事が忙しいからと帰省もせず、電話にもほとんど出ないようにしていた。本当に用事があるのならメールが来るから問題なかった。
久々に机の上に放置されて見向きもしなくなっていたスマホを取り上げる。そういえばこんなことになる前の晩に実家から着信があった。母親の声によって仕事がようやく終わった開放感に水を刺されるのが嫌で、どうせ大した用事ではないだろうと出なかったのだ。もう二度と会話できないかもしれないのか。出ておけば良かったかな。自分勝手な寂しさが襲ってきて、慌ててゲーム機の電源を落として布団に入る。明日はきちんとまともな時間に起きよう、いつもと変わらない花と、彼女に会うために。
浅い眠りから目覚めると、真っ先に花々が並ぶベランダを目指す。期待通りの同じ花同じ鉢植えプランターが並び、その世話をする女性が、い
つもと違う形相で立っていた。眉をひそめてじっと正面に視線を注いでいるので自然と俺も同じ方向を見る。足の折れたローテーブルが、くるくる空を舞っていた。
蜜蜂みたいに忙しなく男は引っ込んでは投げ捨て引っ込んでは投げ捨てを繰り返す。ちょっとしたゴミ捨てではないことはその内容品数から明白だった。部屋にあるものを照明に至るまで全て破棄しようとしている。次々ベランダから投げ出された家具が眼下の紫に溶けて消えていく。男の顔は無表情で、それが決められた日常の仕事であるかのように、ただただ淡々と作業をこなしていく。
それにしても、あぁ、宙を舞う家具の数々を見ていると、よく今日まで発狂しなかったなと思うくらい、何もインドアな娯楽のない部屋だったことがわかる。本棚みたいな家具はなかったし、電子機器の類もせいぜいがテレビくらいで、しかもやけに厚みがあって画面も小さいものだった。DVDやブルーレイディスクなんかも一枚もなさそうだったし、釣竿なんかあっても虚しいだけだったろう。煙草が切れてからは一体どうやって、そのなんの救いもない閉鎖された空間で生活していたのか。
ついに冷蔵庫まで持ち抱えて現れた男は、力任せにそれを放り出すと、がらんどうになった部屋の入り口で裂けるのも気にせずカーテンを引き千切ると、ぐしゃぐしゃに丸めて手摺りの向こうへ投げ捨てた。本当に何にもなくなってしまった。これから一体どうする気なのだろう。こちらの困惑をよそに男は一旦部屋に消えると、次に現れた時には火のついた煙草を吸っていた。履いていたサンダルを脱いで無造作にベランダの向こうに放るのを見た瞬間、俺は彼が何をしようとしているのか、はっと悟った。その煙草はきっとこの時まで、一本だけ、ずっと大事に取っておいたのだろう。
男は足を手摺りにかけると、ポンと地面を蹴ってそのまま頭から落ちた。
さっき見た家具みたいに静かに落ちていく男の手に、包丁があるのに気が付いた俺は、それがなんの目的で握られているのか知っていた。ずっと考えていたことだ。ゴリラは、果たして死んだのか。この世界には果てがあるのだろうか。もしもないのなら、ゴリラは全裸で永遠に落下し続けていることになる。何もできずただ落ち続けて、気が触れるのを待つ。それを防ぐためには、もう、この先に救いはないと判断した時点で自決するための手段が必要になるのだ。もうすでにここは死後の世界であるならば、それが成功するかどうかは分からないのだけれど。
煙草の男は部屋に留まる意味を見出せなくなったのだろう。本当に意味なんか、ないのかもしれない。俺も何のために、いつまでここにいるんだろう。ゲームのセーブデータに刻まれるプレイ時間が表示限界まできて進まなくなったのを見たら、耐えられるだろうか。あの長編漫画を読み返すのは、何回目までなら、面白いと感じられるだろうか。いつまで、全部夢じゃないかという淡い期待を、頭の隅で信じていられるだろうか。俺たちは、本当にもう二度と元の生活に戻れないのだろうか。腹の空かないおかしくなった体で、この部屋に閉じ込められて、何のために息をするのだろう。
浅く上下する胸を押さえて部屋に戻った俺はベッドで小さくなった。挨拶を交わそうとしていた花を世話する女性のことも、そのために早起きしてベランダに出た弾んだ気持ちも、昨日クリアしたゲームの余韻と一緒に、ベランダの向こうへ落っことして消えてしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます