2話 ゴリラのブランコ
慣れというものは恐ろしい。初日こそ震えて過ごしたものの、誰にも邪魔されない1人時間を手に入れてしまった俺は存分にそれを有効活用して楽しむようになった。買ったものの読めずにいた漫画、本、中途半端なところで止まっていたゲームソフトの数々。自分の時間を、自分のために使える幸せ。昼夜の区別がなくなり、眠たくなったら眠りたいだけ寝る。自分を支配しているのは自分だけという喜び。あれ?もしかして俺は極楽にきてしまったのか?不思議なことにお腹は空く感じがしない。始めのうちは冷蔵庫の中身をチマチマ消費していたが、そのうち食事を取るという行為が面倒になってやめてしまった。念の為水だけは気がついたときに飲むようにはしているが、痩せた気配もなければ体の不調もなく、ますますこの世界は極楽説が濃厚になる。そういえば髭も伸びる気配がないし髪もしかり。煩わしさからの徹底解放、最高だ。
しかし他の部屋の住人はそうでもないらしかった。毎回眠りから覚めたらベランダに出て世界に変化はないか確認するようにしているのだが、たまに鉢合わせる彼らの顔はとても楽しそうには見えなかった。右手の部屋の男はいつも難しい顔をしてタバコをふかしていたし、正面の部屋の男はずっと怒っているような態度だった。左手の部屋の女性は驚く程正確に誠実に、今までの日常を守って暮らしていた。本当に、何も変なことは起きていないみたいに、定刻に起き、花の世話をし、洗濯物を干し、取り込むの繰り返し。きちんと、毎度違う服を着て、毎度涼しい顔をして会えば会釈をしてくれた。彼女の世話する花々は太陽もないのにいつも瑞々しく上を向いていた。
1番初めにおかしくなったのは正面の部屋の男だった。ガタイもよく筋肉隆々なのは遠目からでもよくわかったから、おそらく運動が好きな人種だったのだろう。確かにそういう人間にこの引き籠り生活は辛かったと思う。窓を開け放して体操や筋トレに励む姿を見かけていたが、段々とその頻度は減っていった。そして恐ろしいことにベランダ越しに鉢合わせると、空き缶や瓶などをこちら目掛けて投げつけてくるようになった。なんと凶暴なゴリラだろう。しかし彼の腕力なら届くはずのそれらは、こちらが身構えて目をつぶってしまうより先に、途中で急速に推進力を削がれて下へ下へ落下していった。どういう仕組みなのだろう。空間がねじ曲がってでもいるのだろうか。落ちた先には何かあるのか知りたくてじっと目で追ったが、少なくとも落とし物がゴマ粒になって見えなくなるまでの距離には何も存在していないようだった。
無意味な攻撃は自分の苛立ちを募らせるだけだと、散々俺たちに嫌がらせをしたのちようやく把握してくれたゴリラは、大人しくなるかと思いきや別のアプローチに切り替えてきた。全裸だ。心までゴリラになったのだろうか、彼は衣服を、羞恥を脱ぎ捨てた。それだけなら檻越しのゴリラを暖かく見守るのもそこまで苦ではなかったのだが、よほど自分の体に自信があるのか、このままその自慢の宝物を腐らせるのは勿体無いとでも考えたのか、顔を合わせる度にボディビルダーのようなポージングをして挑むようにじっとこちらを見つめてくるようになった。非常に気まずい。目を逸らしても熱い視線が絶え間なく注がれてくるのが肌で分かる。さらに最悪なことに、たまたま左の部屋の女性と三つ巴になった時に発覚したのだが、あのゴリラは彼女相手だと一物をおっ立てて見せびらかし、酷い時だと下卑た笑みを浮かべて自慰を始めたりしていたのだ。なんてやつだ。ゴリラの風上にもおけない。女性は決して目を合わせることなく俯いて自分のルーティーンワークをこなすのだが、視界に肌色のゴリラが嬉々として舞っているのがちらつくのはさぞや不快だったことだろう。
その日ベランダに出ると、正面の部屋から一糸纏わぬゴリラがぶら下がっていた。ついに降り積もるフラストレーションに耐えかねて首を括ったのかと一瞬思ったが違った。周囲への迷惑は別として、彼は耐えかねるどころか前向きなエネルギーに満ち溢れていた。カーテンやシーツ、衣類をより合わせて長く繋げロープ状にしたものをベランダの柵にくくりつけて下に垂らし、そこに持ち前の筋力持久力胆力でぶら下がっていたのだ。なるほど、ロープの先を輪にして足場にしたのか、それでもあんな頼りないものにしがみついて揺られていられるとは大したものだ。しかし一体なんのために?ゴリラはこの作業を俺が見つけるかなり前から行っていたらしく、銀のジョウロを握ったままの女性だけでなく、珍しいことに右手の部屋の住人もベランダから顔を出してその様子を見守っていた。節約しようとしているのだろうか、火をつけずに煙草を咥えている。へービースモーカーのようだったから、きっと吸いたくても吸えなくて辛いんだろうなとちらりと同情する。
そうこうしているうちにゴリラは膝を曲げたり伸ばしたりブランコの要領でロープを大きく揺らし始めた。そこでようやく俺はゴリラがじっと俺の左手側を一心に見つめ続けていることに気がついて全てを悟り、ゾッとした。飛び移る気だ。あのゴリラは遠隔セクハラでは満足できなくなり、女性の部屋に乗り込もうとしている。女性は身を固くしてじっとこの成り行きを見守っている。大変なことになった。
しかし確か初期のゴリラの遠投では、物を他の部屋目掛けて投げこんでも、近付くほどに不自然に速度が落ちて届くことはなかったはずだ。その事実は彼自身が身をもって1番よく分かっているはず。それなのにこんな暴挙に出るとは、やはりストレスで頭がおかしくなってしまったのだろうか。それぞれのベランダから3人が固唾を飲んで見守る中、ゴリラのロープの揺れ幅はぐんぐん大きさを増していき、女性の部屋との距離を詰めていく。おかしい、こんなに部屋が目と鼻の先なのに勢いが死ぬ気配がない。よく見るとゴリラは殺される勢いを上回る勢いで追加漕ぎを施していた。まずい、時空の歪みを筋力でねじ伏せる気だ。これはいけると確信したのか、ゴリラの顔は上気しギラギラ照り輝いていた。
どうするどうする、俺に何ができる。焦って咥え煙草の男を振り返るも、全く慌てるそぶりがない。どうやら女性がどうなろうと大した興味はないらしく、この世界の理は筋肉と根性で捻じ曲げることが可能なのか、そのことだけが気になるらしい。肩肘なんかついて虚な瞳でのんびりと眺めている。いや待て待て、もしもこのゴリラの試みが成功した場合、事態は急に他人事ではなくなるのだがそのことに気がついていないのだろうか。ゴリラは容易に全部屋を蹂躙、制圧することが可能になるのだ。そんなひ弱そうな腕でゴリラにかなうと思っているのか。俺は絶対に無理だ。
ゴリラブランコはついにロープから手を離せば勢いそのままに女性のベランダへ着地可能な位置まで振り登った。相変わらず声は聞こえないのだが、高笑いしているのが表情から伝わってくる。これはひとまず部屋の中に逃げて窓に鍵をかけるべきではないか?しかし女性は恐怖のあまり身体が凍りついているのだろうか、微動だにせず肩を竦めてゴリラを見つめている。無駄とは知りながら「逃げろ」と叫ぶが逃げ場などないことも頭では分かっている。
ついにゴリラはロープから手を離すとパラシュート隊のような格好で女性のベランダ目掛けて空を舞った。最悪だ。最悪の飛来物が眼前に迫っている。次の瞬間、女性の肩が素早く動くのが見えた。何かが回転しながらゴリラの顔目掛けて飛んでいった。そうかジョウロか。しかしその程度の衝撃ではゴリラの滑空を止められる気はしな
カァァンッ
衝撃が全空間を走った。予想外の現象に頭が追いつかない。全速力のゴリラと全速力のジョウロがぶつかるその瞬間に甚大な斥力が生まれた。二つの物体は弾かれて、ジョウロはあらぬ方向に吹っ飛んでいき、ゴリラは鼻をひしゃげさせながら高く上へ昇り、ふわりと浮いたかと思ったら一呼吸おいて一直線に落下していった。ジョウロを放った本人も俺も咥え煙草の男も、唖然とゴリラの軌跡を目で追う。ゴリラは人形のように手足をぶらつかせながら落ちていく。肌色の点が完全に消えるところまで見守ると、女性はその場に崩れ落ちた。ブルブル震えながら泣いている。そりゃあそうだ、あんな恐怖体験をしたら、俺だって小便漏らしていたかもしれない。よくぞ勇敢に戦ったと思う。天晴れだ、あなたはよくやった。
しかし驚いた。さっきの光景は自動車免許更新の講習で見る事故映像を思い出させる。スピードを出した者同士がぶつかると衝突エネルギーは何倍にもなるというあれの原理なのだろうか。筋肉でねじ曲げられそうな理でも、助走をつけてやれば強く働くのか。ともかく、この世界は住人同士の接触を確実に嫌っていることだけははっきりした。
咥え煙草の男は、ゴリラが消えるとすぐ部屋に戻っていった。俺はというと、何ができるわけでもないのだが、泣いている女性を1人残して自分の世界へ帰ることに気が引けて、彼女が泣き止むまでじっとベランダから見守った。
しばらく肩を震わせていた女性はようやくゆるゆると立ち上がると、振り返りざまに俺の姿を捉えてハッとした顔になり、申し訳なさそうに会釈をした。俺は誠心誠意心配そうな顔を浮かべて会釈を返す。女性が俯いたまま弱々しく部屋に消えるのを見守ってから、俺も窓に手をかけた。背後にはゴリラのお手製ロープがだらりとぶら下がっていて、その存在が今日の出来事をずっと先までこの場に刻み付けることは間違いなかった。
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