1話 煙草と筋肉そして花

「えっ連帯保証人2人もいるんですか?」

 思わず声が出た。

「ええ、この築年数の単身者様用では珍しいとは思うんですけどね、過去に夜逃げした住人がいたらしくて大家さんもちょっと慎重になってらっしゃるんですよ。お手数ですが2人分、よろしくお願いします。」

 あまり交流のない姉の旦那に頼む事になるので正直面倒だった。間取りも西向きだし、全四室二階建て築年数三十二年の燻んだ外観、内見時部屋に入ると慢性鼻炎で鼻の効かない自分でも気になる程度にはヤニくさかった。だがしかし、この立地はその欠点を補って有り余る。人生で最も無意味な時間、それは通勤時間だ。ゲームをしたりネットニュースを読んだりしてこのくだらない時間を有意義に過ごすなんて愚の骨頂。くだらないものは極力、最大限、減らす努力をすべきだ。俺は自分の部屋が大好きだ。ゲームも読書も何故わざわざ集中力をかき乱される群衆の中で行う必要があるのだ。部屋でいいだろ、俺は自分の部屋でやりたい、部屋が好きだ。だから会社へ徒歩十分で辿りつけるこの部屋は最高だった。煙草臭さなら隣の席の同僚の方がキツいからすぐ慣れるだろう。家賃だって相場よりかなり安い、何を迷うことがある。些末な事には目を瞑り契約書に判を押し、引越しを済ませ、いくらでも引き篭もっていられる自分の城を築き上げた。

 毎朝、後ろ髪引かれる思いでその大好きな城を後にして仕事へと出掛ける。そして少しでも城で過ごす時間を延ばすために、全力で仕事を片付けて帰路に着く。その繰り返し。そのはずだったのだが。


 その日の朝玄関の扉を開けると俺の部屋だけ残して世界が消し飛んでいた。


「は?」

足を出したら扉の先には踏みしめられるものがなく、慌てて靴先を引っ込める。一度扉を閉めてドアノブをじっと見つめる。こっちは東だから、強い日差しが目に入って視覚と平衡感覚が狂った。オーケーその可能性高そうじゃないか。扉を開ける。

 なんにもない。綺麗さっぱり、なーんにもない。廊下も建物も車も木も雲も太陽だってない。紫のスライムの中に俺の部屋だけポンと投げ込まれたみたいな感じで、上も下も右も左も一面紫色、目一杯手を伸ばしても何の手応えもない。息はできる。重力もある。じゃあどういう事だ?俺の部屋だけが浮いているのか?

 鞄を居室に向かって放ると、膝をついてドア枠をしっかり握り、頭を垂れて向こう側を覗き込む。果たして、俺の部屋は床下すぐのところですっぱりカットされて暗い灰色の面を晒しながら虚空に浮いていた。急に手が汗ばんできて自然と体が揺れ始めたので、慌てて頭を引っ込めようとしたその時、灰色の影の向こうにちらりと何かが見えた。俺の部屋の他にも何かある。弾かれたように立ち上がると、さっき放り投げた鞄を踏んづけもんどり打ちそうになりながら殆どぶつかるようにして西向きの窓に駆け寄り全開にする。


 あった。俺の部屋以外の物体がこの空間にあった。


 俺の部屋と同じように切り取られた部屋が三つ、角度は違えどいずれもベランダをこちらに向けて寄る辺なく浮いていた。サンダルに足を突っ込むのも忘れてベランダの手摺りに寄りかかる。うんと乗り出して周囲を確認してみても、目の届く範囲にあるのはこの浮いている部屋の一群だけだった。部屋は少しずつ浮いている高さが違って、左手に見える部屋は俺よりやや下方にあり、ベランダの中がよく見えた。プランターや鉢植えがベランダ内周をぐるりと取り囲み、色とりどりの花や瑞々しい葉っぱがこちらに向かって背伸びしている。正面の部屋は大体高さは同じくらいに存在していて、白いTシャツと使い古されたタオルが物干し竿にかかっているのが柵の隙間から見えた。空気が固まったように感じられるこの空間に風が吹いているはずもなく、洗濯物は竿と一体化したオブジェみたいになっていた。右手の部屋は底の断面が薄く見える程度に上手にあって、ベランダ内部の様子は殆どわからなかった。どの部屋も間に国道を挟んだくらいの距離があり、行き来は難しそうだ。



 誰かいないのか。叫んでみようか。迷っているうちに視界の端で何かが揺れたのを感じて、喰らいつくように首を素早く回す。目が合った。人間だ。俺以外にここに人がいた。どうやらベランダにずっとしゃがみ込んでいたらしい右手の部屋の住人は、立ち上がるなり俺を見て固まった。咥え煙草の、歳は少し上だろうか、紺のジャージ姿の男は遠目にもわかるくらい目を大きく開いて身じろぎもせず俺を凝視していたが、ぱっと石化魔法が解けたみたいにタバコを俊敏に投げ捨てると、怒鳴るような勢いでこちらに向かって何か叫び出した。しかしおかしい。この程度の距離だったら耳に届くはずの音が微塵も聞こえない。呆気に取られていた俺も、慌ててこの事実を彼にも伝えるために叫び返す。

「聞こえませーん!こっちの声は聞こえますかー!!全然聞こえないんですー!!」

なんだか電波状態の悪い人とビデオ通話をしているような気持ちになる。しばらく叫び合って互いの声が届かないことを理解すると、途端に全ての活力を失った顔をして、ジャージ男の頭は再びベランダの中に引っ込んでしまった。すぐに立ち上った煙が、彼がまだベランダにいることを教えてくれた。


 手持ち無沙汰になる暇もなく今度は正面の窓が勢いよく開いて、タンクトップ姿のガタイのいい男がつんのめるようにしてベランダに現れた。青い顔をして辺りを見回し、ベランダの下を落ちてしまうんじゃないかと心配になるほど覗き込んだあと、俺といつの間にか再び顔を覗かせていたジャージ男とを代わる代わる見て、口に手を添えて大口を開けた。多分何か呼びかけているのだと思うのだが、やはり何も聞こえない。ジャージ男は先ほどと同じようなやりとりをする気はないらしく、気怠そうにさっさと引っ込んでしまった。仕方なく俺が事態を知らせるために叫び返すも、このタンクトップ男は理解が非常に遅く、からかわれていると誤解したのか途中で憤慨し出した。確かに混乱しても仕方のない状況ではあるが、この異常事態を共にする数少ない人間を刺激するのは得策ではないように感じられて、俺は「勘弁してよ」と思いつつも耳に手を当てたり顔の前で腕をクロスして見せたり大袈裟に悲しげな顔を作って見せたりして、ようやくタンクトップを落ち着かせ、音の不通を理解してもらうことに成功した。タンクトップは俺が作ったのより数段悲しげな顔を浮かべて、置いてきぼりを食らった子供のように硬直して一面紫の世界へ瞳だけを彷徨わせた。


 一仕事終えてやれやれと視線を正面から外したところで、左手に見えるベランダに人が立っているのが見えて思わず飛び上がった。いつからそこにいたのだろう。物音が届かないのだから音も無くというのは当然なのだが、完全に虚を衝かれたために幽霊でも見たような衝撃があった。しかし彼女の足元に転がるジョウロと撒き散らされて広がった水のシミを見て、血の通った人間が自分と同じように動揺して取り乱した形跡に急速に親しみが湧いた。地味ではないのだがどうにも垢抜けない格好のその女性は、神妙な顔でタンクトップから俺に視線を移すと、恐る恐るという感じで会釈をした。異常続きの世界でようやく常識的な反応に出会い心底ほっとした俺は、自分にできる精一杯の人の良さそうな笑顔を浮かべて会釈を返した。この人は、いい人だ。



 一通り各部屋の住人は確認できたわけだが、一名は非協力的、一名は茫然自失。さらに音声による意思疎通は不可。中途半端に距離があるから筆談の形を取ろうと思ったら相当文字を大きくして、それこそ横断幕でやりとりしないといけない。これがサバイバル脱出ゲームならかなり厳しい条件での開幕だ。

 ここは一体どこなのか。なぜ俺たち4人だけこんなところに浮いているのか。なんで俺たちなのか。そこまで考えてはっと気がつく。タンクトップが項垂れてるあのベランダ、見覚えないか?こっちも…いや待てこっちもだ。細切れにされてるからすぐに気がつかなかったが、茶色のタイル張りの外壁、頼りないスカスカの白い柵、間違いない。これは、うちのベランダだ。築32年の、うちのアパートじゃないか。部屋が四つで数も合う。越してきてから挨拶まわりもせず、普段もなるべく人と会わないようにしていたから人影くらいでしか住人を確認したことがなかった。

 ということはうちのアパートだけがこの怪異に巻き込まれたということか。古いアパートだし怪奇現象の類で変な世界に飛ばされたとか、あるいはこれは考えたくないことが、俺たちはもう死んでいて、そう、ガス爆発事故とかに巻き込まれたとかで、自分たちも気づかぬ間に一度に4人死んであの世にきてしまったとか。しかしそうだとしたらあまりにも体に変化がないというか、腕も頭も重みがあるし抓ると皮膚は痛みを感じるし、さっき叫びすぎて喉の調子はおかしいし、死と生の境界がなさすぎる。そして死んでいるにせよ生きているにせよ、俺たちはここでどうしたらいいんだ?この、自分の部屋の他は何にもない場所でどうすべきなんだ?…元の世界に帰れないのか?


 ファーストコンタクトを終えた住人たち全員がおそらくその疑問に打ち当たり、空恐ろしくなったんだろう。タンクトップは出てきた時と真逆の弱々しい足取りで窓の向こうへ消え、ジョウロを拾った女性も青い顔をして俯いたまま部屋に入っていった。タンクトップ登場後一切顔を見せなくなったジャージ男のベランダからは薄い煙が途切れ途切れに上がり続けている。ここにいても仕方がない。

 部屋に戻った俺はまずスマホを確認した。予想どおり圏外。ネットも通話もできない。つまり、仕事に行けない、連絡もできない。その事実に少し喜んでいる自分がいて奇妙だった。それどころじゃないというのに、毎晩毎朝、明日職場が爆発して消し飛んでないかな、今日こそ火事で消し炭になってないかな、などと妄想し続けたことが現実になって、やや興奮しているらしい。まあ、職場どころか世界が消し飛んでしまったのだけれど。

 次にやや緊張しながらシンクの水道レバーを上げる。もし俺が生きているのならばこれが明暗を分ける。出た。信じられないが水は流々と惜しみなく落ちて排水溝に消えていく。どこからきてどこへ流れて行くんだこの水は。しかし細かいことに驚いている場合ではない。これはもしかするともしかするぞ。

 予想は当たった。水だけでなく、電気・ガスまで普段と変わりなく供給されていた。とりあえず飢え死ぬことは免れたが、ますます謎は深まる。ライフラインが繋がっているということはその向こう側に人がいて、施設が稼働しているということだ。しかし見渡す限り存在するのは部屋が四つであとは何もない世界に俺はいる。つまり、俺は幻覚を見ている?俺の頭がおかしくなったのか?ぞっと背筋が凍った。1番可能性が高そうじゃないか。だがもしそうならばやけにリアルな幻覚だ、あの他の3人の住人の反応だって生々しい。そもそも人はこんな風にある日突然に前兆もなく気が狂ったりできるのだろうか。さっぱり分からない。俺は一体、どうしたらいい?

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