第6話:Clear a ditch



◆◆◆◆



 ――これは、シェリスがストリンディに答案を送りつけた日より、少し過去の出来事だ。


 アドロという男は、下層都市ボーダーラインでそこそこ敏腕として知られる情報屋である。不健康に痩せた長身にゴーグルと人工ドレッドヘア。そして頭蓋骨の内側には増設デバイスという、やや流行から後れた典型的ボーダーラインの住人の姿をしている。


 彼が根城にしているのは、企業のフロント建造物のすぐ真下だ。日常的に企業間闘争の戦火にさらされるそこは、真っ当な神経の人間ならすぐに引っ越すような物件である。しかし、元よりアドロは真っ当ではない。彼が自分の唯一の貴重な財産である頭部を守りつつ、後ろに追っ手がいないことを確認してから、自宅のドアを開けた時だった。


「遅かったわね」


 知らない声が中から聞こえた。ボーダーラインに似つかわしくない、優しげな少女の声だ。同事に勝手に照明が灯る。足の踏み場もないほど、ゴミと数理関連の機器とその他諸々で埋め尽くされた狭い室内が照らし出される。薄汚れたコーヒーメーカーを机に置き、欠けたマグカップを手に、一人の少女が椅子に座ってこちらを見ていた。


「ひぃッ!」


 思わずアドロは悲鳴を上げてしまった。華奢な銀髪の少女だ。上層都市スカイラインの学校指定とおぼしき制服を着ている。足が悪いのか単純に体が弱いのか、隣には凝った装飾の杖。こんな不潔な場所よりも、高級な喫茶店にいる方が余程様になる少女だ。そしてその後ろには護衛のように、礼服を着た人造が無言で控えている。


「勝手にくつろがせてもらっているわ」


 少女は平然とコーヒーを一口飲んだ。


「あ、あんたが連絡があった“コンフィズリー”か?」

「うん、まずまずね。あなたも一杯どう?」


 アドロの疑問を無視し、少女は別のカップにコーヒーを注ぐと彼に差し出す。


「俺の家のコーヒーだろ……」


 抗議しつつも、雰囲気に飲まれてアドロはそれを口に運んだ。


「どう?」

「まずい」


 味は自分で煎れた時と変わらなかった。しかし、少女は嬉しそうに笑う。思わず見とれてしまいそうな可愛らしさだ。


「それがいいのよ。“上”は駄目ね。どこの店もお上品でお高くとまって砂糖とクリームをたっぷり入れて、時間をかけてじっくりと焙煎した豆を使って……ああ、本当に口に合わないわ」


 彼女は首を左右に振る。


「コーヒーはこういう、泥水と大差なくて、おがくずを濾過したような、単純に苦くて、死ぬほどまずくて、しかも胃が荒れるようなものじゃないと」


 そう言いつつ、急に少女は顔をしかめた。


「あ、本当に胃が痛い……」


 彼女が視線で信号を送ったのか、人造が錠剤の入った瓶を差し出した。すぐに少女は蓋を開け、中の薬をいくつか飲み下す。


「何なんだよあんたは……」


 強固なセキュリティを施したはずの自分の家に平然と居座る、整った身なりの可憐な少女。どこのハッカーのいたずらか? と思いつつ、それでもアドロは尋ねた。


「コンフィズリー」


 少女は胃の辺りをさすりつつ名乗る。


「あんたが? 本物かよ?」


 アドロは身を乗り出す。コーヒーが床にこぼれても気にならない。


 コンフィズリー。最近突然現れた凄腕のハッカーの通称がそれだ。砂糖菓子という可愛い名前とは裏腹に、その手腕は大胆不敵かつ容赦のないものだ。好き放題に様々な企業の依頼を受けては、後方から強力な数理で支援を行う。幾度となくこの辣腕のハッカーの乱入により、趨勢が決まったはずの戦場がひっくり返されてきた。


「本物かどうかなんてどうでもいいでしょ? 大事なのは、私が今ここにいることよ」


 その正体がまさかこんなに小さな、しかも可憐な少女だったとは……。もちろん外見を偽っている可能性は大いにある。しかし、アドロのゴーグルに搭載された数理でスキャンしても、少女の小さな体には生体パーツが見あたらない。どうやら正真正銘の生身らしい。


「あんたくらいなら通信で充分じゃないか」

「古巣を散歩したついでよ。深い意味なんてないわ」


 本物のコンフィズリーかどうかはさておき、この少女は自宅のセキュリティをすべて無効化している。その事実だけは確か故、アドロは少なくとも彼女を腕利きのハッカーとして扱うことにした。


「私は仕事の依頼に来たの。はい、まずは報酬の先払いよ」


 少女はポケットから〈原画〉を取り出してアドロに放る。受け取ったアドロはまずゴーグルでスキャンする。いきなり教書に入れて中身を確認するような真似はしない。時限式の論理病源が仕込まれている可能性もあるからだ。


「これは?」

「行方不明になっていたローズウィンドウの未発表作品」

「本当にこれを見つけたのか!?」


 アドロは叫ぶ。その名前は上層都市の有名服飾ブランドだ。


「もし本物ならいくらになると思ってるんだよ!」

「どうでもいいわ。私が欲しいのは情報だけ」


 少女はこともなげにそう言う。その姿を見て、アドロは全身に鳥肌が立つのを感じた。目の前にいる少女が、彼には地獄から這い出してきた恐れを知らぬ魔物か何かに見えてきたのだった。



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