郵便社の一番長い日(ニ)
異形の機体――リヴァイアサンは、その外見からは想像も出来ないほど安定した姿勢で滑走路に降りると、格納庫の手前で停止した。
ほんのすこしまえまで空気を震わせていた
突撃銃を手にしたユーリを制止しつつ、テオはゆっくりとリヴァイアサンに近づいていく。
ふいにリヴァイアサンの機首のあたりでガスが抜けるような音が生じた。
完全与圧式コクピットを採用したリヴァイアサンは、通常の戦闘機のように風防をスライドさせるだけで機外に出るというわけにはいかない。
まずは減圧バルブを操作し、コクピットと機外の気圧を等しくするという手順を踏むのである。
複雑精緻なメカニズムを組み合わせた構造も、テオには手に取るように分かる。
記憶との違いといえば、コクピットのレイアウトが
奇妙なことに、後席は無人であった。
「……やっぱり君だったんだね」
風防が開ききると同時に、テオはぽつりと呟いていた。
操縦席から立ち上がったのは、一人の若い男だ。
年の頃は二十五、六歳。
日焼けした肌と濃い色の金髪が特徴的な長身の青年である。
くっきりと鼻筋の通った彫りの深い顔立ちは、美男子と言って差し支えないだろう。
その外見でひときわ目を引くのは、顔貌よりもおよそパイロットらしからぬ服装だ。
仕立てのいいビジネススーツの上に救命胴衣を兼ねた赤いフライトベストを羽織り、両手に
戦闘機の操縦に不可欠な電熱服も酸素マスクも身につけていないのは、高度一万メートルでも地上と変わらない環境が維持される完全与圧式コクピットの恩恵だ。気密性にすぐれたコクピット内に身を置くかぎり、高高度の寒さに骨まで凍えることもなければ、低酸素症で失神する懸念もないのである。
大ぶりな涙滴型のサングラスにしても、機能性よりも見栄えを優先したものであろうことは想像に難くない。
「おひさしぶりです、ザウアー主任――――」
言い終わるが早いか、男はすばやく機体を降りていた。
手袋をフライトベストのポケットに収めながら、ゆっくりとテオに近づいていく。
「早いもので、あの事故からもう六年ですか。終戦後もながらくご無沙汰していたことをお詫びしなければなりませんね」
「べつに気にしてないよ。会社自体がなくなって、連絡の取りようもなかっただろうし……」
テオは顔を俯かせながら、ためらいがちに言葉を紡いでいく。
「それにしても、いまになって僕の前に現れるなんて、いったいどういうつもり?」
「聡明な貴女のことだ。わざわざ私の口から説明するまでもなくお分かりなのではありませんか」
男は突撃銃を手にしたまま微動だにしないユーリをちらと見やると、あくまで優しげな口調でテオに語りかける。
「リカルド・ヴァレンティアーノ、かつての部下を代表して、”リヴァイアサン”とともに貴女をお迎えに参上いたしました」
***
数分後――。
ひとまず応接室にところを移したユーリとテオ、そしてリカルドは、テーブルを挟んで向かい合う格好になった。
「この建物は戦時中からまるで変わっていませんね」
そう言って、リカルドは懐かしげに室内を見回す。
フライトベストは脱いでいるが、サングラスは建物に入ってもかけたままだ。
ファッションへのこだわりか、それとも直射日光が差さない場所でも外せない理由があるのか。
いずれにせよ、ユーリもテオもわざわざ咎め立てるつもりはない。
「ご紹介が遅れました。わたくし、リカルド・ヴァレンティアーノと申します。オーディンバルトでちょっとした会社を営んでおりましてね」
リカルドが差し出した名刺には、ヴァレンティアーノ
ユーリはしばらく名刺を矯めつ眇めつしたあと、リカルドの顔をまじまじと見つめる。
「ヴァレンティアーノ自動車といえば、この数年で急成長している自動車会社だな」
「ご存知とは光栄の至りです。おかげさまで昨年は全メーカー中トップの販売台数を……」
「あいにくだが、車のセールスならよそを当たってもらおう。うちには新車を買うような余裕はない」
あくまで真顔で言いのけたユーリに、リカルドもいささか面食らったようだった。
最初からからかうつもりの相手なら対処しようもあるが、真剣にバカげたことを言い出す相手は始末に負えない。
ユーリはさらになにかを言おうとしたところで、脇腹にかすかな痛みを感じて口をつぐんだ。
真横に座ったテオが無言で肘鉄砲を撃ったのだ。
「……ユーリはすこしだまってて」
「分かった」
テオはそれきりだまりこんだユーリから視線を外し、リカルドに向き直る。
「さっき僕を迎えに来たと言ってたけど、どういうこと?」
「単刀直入に申し上げましょう。ザウアー主任、貴女をわがヴァレンティアーノ自動車にスカウトしたいのです」
リカルドは足元に置いたアタッシェケースを開くと、封筒と万年筆を取り出す。
外から見ただけでは封筒の中身がなんなのかは判然としない。
「わが社はカールシュタット・ザウアー合同設計局やグレースアリシア社の技術者を積極的に雇用しています。自動車と航空機は一見畑違いのように見えるかもしれませんが、実際のところ技術的な共通点も多い。
「僕にも君の会社で自動車を作れ……と?」
「まさか! 車作りはあくまで資金調達のためにやっていることです。貴女にはよりふさわしい仕事をしていただくつもりですよ」
リカルドはいったん言葉を切ると、ふと窓の外に顔を向ける。
その視線の先にあるのは、
日差しのなかに佇む異形の竜が醸し出す剣呑な雰囲気は、遠目にもはっきりと伝わってくる。
データ収集のために作られた実験機とはまるでちがう。
リヴァイアサンがまとっているのは、破壊と殺戮のために極限まで贅肉を削ぎ落とし、洗練された兵器だけに宿る鬼気にほかならなかった。
「ポラリアによる航空禁止令が年々緩和されつつあることはご存知でしょう。自動車産業で得た利益を元手に、我々はいずれ航空分野に参入するつもりです」
「それでリヴァイアサンをもう一度作り上げたの?」
「あの機体は私が知るかぎり世界最高の航空機です。もし戦争に間に合っていたなら、ポラリア軍にも一矢報いることが出来たでしょう。それは
テオはちらとリヴァイアサンを一瞥したあと、意を決したように言った。
「わざわざ誘ってくれたのに申し訳ないけど、君の会社には行けないよ」
「理由をお聞かせ願えますか? ザウアー主任」
「いまの仕事を放り出すわけにはいかない。どんな条件を提示されても、僕の意志は変わらないと思ってほしい」
リカルドは驚くでも落胆するでもなく、ただテオの言葉に耳を傾けている。
やがて、ふっと長いため息をついた青年は、あくまで紳士的な声色で語りかける。
「サラマンドラ航空郵便社。いったん顧客から荷物を預かったなら、どんな場所でもかならず届けるという評判はかねがね聞き及んでいます」
「……」
「しかし、けっきょくのところは
リカルドは唇に微笑を溜めたまま、封筒から一通の文書を取り出す。
「じつは先日からマドリガーレ政府と用地買収の交渉中でしてね」
「この書類、まさか……」
「話がまとまり次第、この飛行場の土地を買い上げ、あらたな工場を建設するつもりです。そうなれば当然、あなたがたには即刻立ち退いてもらうことになる」
テオの顔をまっすぐに見据えたまま、リカルドはあくまで坦々と言葉を継いでいく。
「裁判所に異議申し立てをするのもいいでしょう。もっとも、非合法業者が土地の所有権を主張したところで、まともに取り合ってもらえるとも思えませんが――――」
リカルドの語気はあくまでやわらかく、およそ威圧感とは無縁だ。
だが、どんなに表面を取り繕っても、言葉の奥にちらちらと見え隠れする毒気は隠しきれない。
「そう怖い顔をなさらないでください、ザウアー主任。私もべつに貴女を脅して引き抜こうというわけではありません」
「さっきまでの物言いはそういうふうにしか聞こえなかったけど」
「私と
言いざま、リカルドはサングラスに手をかける。
あらわになった
精巧に作られたガラス製の義眼なのだ。
おもわず息を呑んだテオにむかって、リカルドは不敵に微笑みかける。
「貴女が作ったリヴァイアサンと、あのサラマンドラ。どちらが世界で最も優れた戦闘機か、確かめてみたいとは思いませんか――――」
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