かげろうと飛行機雲(五・終)
鐘の音は正午ぴったりに鳴り響いた。
昼休みを告げる合図だ。
白衣を羽織った理科教師は板書の手を止めると、「今日はここまで」とだけ言ってさっさと職員室に戻っていく。
弁当箱を携えて教室を出ていこうとしたニコは、不躾な視線を背中に感じてふと足を止めた。
半身だけで振り返れば、はたして、ガキ大将のダンことデメトリオス・オルランドスと目が合った。
「よお、ニコ。おめえ、今日もまたひとりぼっちで昼飯かあ? 可哀想なヤツだなあ――」
ダンがわざとらしく言うと、取り巻きの少年たちからどっと笑い声が上がった。
「そういや俺の父ちゃんが言ってたけどよお。おめえんち、怪しいよそ者を匿ってるんだって?」
「きのう来た自警団の人たちはなにもせずに帰ったよ」
「そうかい。でもな、今夜あたりまた調べに行くって言ってたぜ」
意地の悪い言葉を浴びせられても、ニコは言い返すこともしない。
むきになって反論すれば、そのこと自体がからかいのネタにされるのは分かりきっている。黙っているのが一番なのだ。
それに、もしダンの言うように今夜自警団がふたたびランティモス家にやってきたとしても、彼らはなんの成果も得られないだろう。
ユーリは昨夜遅くに家を出ていった。さすが元軍人と言うべきか、自分の痕跡を消し去る手際はじつにあざやかった。
たとえ自警団の連中が家じゅうひっくり返して調べ回ったとしても、髪の毛ひとすじも見つけることは出来ないだろう。
(おじさん……)
ニコは窓の外をちらと見やる。
トリナクリア島の空は朝から晴れわたり、雲ひとつ見当たらない絶好の飛行機日和だ。
昨日の夜更け――
サラマンドラが飛び立つのを見送りたいと懇願したニコに、ユーリはただ首を横に振るばかりだった。
自警団の捜査の手が放棄された飛行場に及ばないともかぎらない。
もし運悪く離陸前に発見されたとしても、ユーリだけであれば、ニコやゾエばあさんを巻き込むおそれはないのだ。
ユーリの堅い決意を前にしては、ニコもそれ以上わがままを言うことは出来なかった。
ニコは俯いたまま教室を出ると、そのまま校舎裏に足を向ける。
校舎裏はうっそうとした木々の生い茂る山の斜面に面しているだけあって、めったに生徒も立ち寄ろうとしないさびしい場所である。
クラスメートたちから離れて一人になりたいとき、ニコは決まってここにやってくるのだった。
(おじさん、いまどのあたりを飛んでるのかなあ――――)
ユーリとサラマンドラは、もうとっくにトリナクリア島を離れているだろう。
彼方に去った美しい火竜とその操り手は、もう二度と少年の前に降り立つことはないのだ。
ニコが校舎の壁に背をもたせかけ、膝の上に置いた弁当箱の蓋を開けようとしたときだった。
「……っ!!」
どこからか流れてきたその音を耳にしたとたん、ニコの身体はバネ仕掛けの人形みたいに跳ね上がっていた。
地鳴りのような遠雷のような、腹の底にずんずんと響くような重低音。
聞き間違うはずはない。
竜の心臓――アルモドバル二十四気筒X型液冷
あの日、暮れなずむ森のなかで聞いたすさまじい爆音は、真昼の蒼穹をはげしく揺さぶっている。
「おじさん――――」
蓋を閉じた弁当箱をかたわらに置くが早いか、ニコは矢も盾もたまらずに駆け出していた。
湿った地面に何度も足を取られそうになり、そのたびに壁に手をついて姿勢を安定させながら、少年はがむしゃらに校舎を迂回していく。
やがてニコが角を回って正面の
そのとき、ニコはたしかに見た。
白い日差しが降り注ぐなか、地面にあざやかに刻まれた火竜の
時間にしてそれはほんの一瞬。まばたきをすれば消えるほどの刹那。
眩しさをこらえて顔を上げたときには、サラマンドラの姿はもうどこにも見当たらない。
三千馬力の
「おじさん……おじさんっ!!」
突然の爆音に泡を食ったみたいに飛び出してきた生徒と教員をよそに、ニコは猛然と運動場を駆けていく。
やがて金網にぶつかるように止まると、サラマンドラが飛び去った方角にむかって、あらんかぎりの声を張り上げる。
「僕、いつか戦闘機乗りになるよ!! どんなに反対されても、みんなからバカにされても、ぜったいになってみせるから……!!」
胸を詰まらせたように言葉を切ったあと、ニコはあるかなきかの声で呟いた。
「だから、おじさんとサラマンドラも、それまできっと飛んでててね――――約束だよ」
空から答えが返ってくるはずもない。
それでもかまわなかった。
あの無口な飛行士なら、きっと例のごとく無愛想に、ただ深く肯んじたはずだ。
もう見えなくなった彼と彼の愛機にむかって、ニコは何度も学帽を振る。
吹きわたる海風が爆音の残響を消し去っていく。
少年の
【第三話 完】
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