かげろうと飛行機雲(四)
ユーリがランティモス家に滞在するようになって六日目の夜――。
夕食を終えたころ、ふいに戸口を叩く音が響いた。
あたりはすでに闇の帳が降りている。夜っぴて営業する店はおろか、街灯もほとんどないトリナクリア島では、こんな時間に出歩く者はめったにいない。
ゾエばあさんは食器を片付けていたユーリの腕を掴むと、
「さっさとクローゼットに隠れな!! あたしがいいと言うまで出てくるんじゃないよ。ニコ、あんたはそこでしっかり見張っておいで」
きつく言いつけて、単身で玄関へと足を向けたのだった。
そのあいだにもノックは熄むことなく、むしろその間隔は次第に短くなっている。
ドアの向こうに立っている人間が苛立っているのはあきらかだった。
「うるさいね!! いま何時だと思ってるんだい!?」
「夜分におさわがせして申し訳ない――自警団長のオルランドスです。すこしお話をうかがいたいのですがね」
ゾエばあさんが鍵を開けるが早いか、五人ほどの男たちが先を争うように室内に入り込んできた。
いずれも二十代から三十代の屈強な青壮年たちだ。右腕につけた黄色い腕章は、自警団員の証であった。
戦後の混乱期、復員軍人によって結成された自警団は、トリナクリア島において警察と消防団を兼ねる一大組織である。パッサカリア政府の正式な委任を受けた彼らは、独自の判断で犯罪者の逮捕・勾留をおこなう権限を与えられている。あくまで本土の司法機関に引き渡すまでのつなぎにすぎないとはいえ、離島における治安維持を担う実力組織であることに変わりはない。
ややあって、団員たちを押しのけるようにゾエばあさんの前に出てきたのは、ソフト帽を手にした四十がらみの男だった。
ランタンの灯りを浴びてぎらつく禿頭と、並の男二人分はありそうな分厚い胸板が特徴的な巨漢である。
見るからに上等な仕立てのチョッキにはいくつも勲章が光っている。
なかでも”二つ星と竜”をあしらった旧
自警団長トマス・オルランドス元中佐は、ゾエばあさんの前に出ると、あくまで慇懃に会釈をした。
「こんばんわ、ランティモスさん」
「むさくるしい男どもが雁首揃えて、いったいうちになんの用だい? 自警団の活動資金をカンパしてほしいなんて言うんじゃないだろうね」
「ご冗談を――いくつか質問に答えていただければすぐに引き上げますよ」
オルランドスはごほんと咳払いをすると、ゾエばあさんをまっすぐ見据えて言った。
「じつはパッサカリア海軍本部から連絡がありましてね。このトリナクリア島の近辺に国籍不明の戦闘機が墜落したかもしれないということで、なにかご存知ならぜひ教えていただきたいのです」
「はん――なんのことだか知らないが、うちみたいな農家にはまるで関わりのないことだね。そんなに海軍に恩を売りたいならよそを当たるがいい」
つっけんどんなゾエばあさんの言葉に、若い自警団員が勢いよく前に出た。
戦争中、島の若者の多くが陸軍に徴兵された関係で、自警団のメンバーも血気さかんな陸兵上がりが大半を占めているのである。
オルランドスは年長者らしく団員を片手で制しながら、あくまで柔和な面持ちで問いかける。
「ランティモスさん、どんな些細なことでもかまわないのですよ。ここ何日かのあいだに見慣れない飛行機や不審な人物を見かけませんでしたか?」
「あんたもなかなかしつこい男だねえ。うちには関係ないと言っただろう」
「なにしろ島全体の安全に関わることですので、念には念をというわけです――ところで」
オルランドスは人のよさそうな笑みを浮かべながら、ガラス越しに農園を見やる。
夜闇に沈んだ段々畑のなかで、真新しい農具小屋と柵だけがうっすらと浮かび上がっている。
「農園の柵や道具小屋を新調されたようですね?」
「あんたらには関係のないことだよ。それとも、自警団ってのは人ん家の覗き見が仕事なのかえ」
「めっそうもない……ただ、ご老人とお孫さんの二人暮らしでは、ああいった力仕事はさぞ骨が折れるだろうと思ったまでです。もっとも、若い男が手伝ったなら話は別ですがね」
オルランドスの奥まった瞳がぎらりと輝いた。
ゾエばあさんを見下ろしながら、巨漢はにんまりと太い唇を歪めてみせる。
自警団とて愚か者の集まりではない。実際に動くのは、クロと断定するだけの証拠を揃えたときだけなのだ。
「それじゃあなにかい。うちが犯罪者を匿ってるとでも言いたいのかえ?」
「まだそうと決まったわけではありませんが、身の潔白を証明するためにもここは素直に協力願いたいものですな。けっして手荒な真似はしないと約束しますよ」
ゾエばあさんがなにかを言うより早く、オルランドスが言葉を重ねた。
「自警団の権限において、すこし家のなかを調べさせていただきます。……おい」
オルランドスは二重あごをしゃくって団員に指示する。
黄色い腕章をつけた男たちは、親分の許しを得たが早いか、ずかずかと玄関に上がりこんでいく。
ユーリはクローゼットに隠れているだけだ。見張り番を仰せつかったニコが多少抵抗したところで、力自慢の男たちの前では無力だろう。
ゾエばあさんが動いたのはそのときだった。
老人とは思えない素早さでリビングに駆け込んだばあさんは、なにかを手に玄関に引っ返す。
「この罰当たりのロクデナシども、そこから一歩も動くんじゃあないよっ!!」
ゾエばあさんは一喝すると、額に収まった白黒写真を自警団に突きつける。
写真に映っているのは、
歳のころは三十五を過ぎたかどうか。はにかんだような笑顔を浮かべて佇む青年は、右腕が肘のあたりから空になっている。
「これは戦争で死んだあたしの一人息子だ」
「もちろん存じております。彼はこの島の誇りでした――――」
「なにが島の誇りだい。遺された家族を犯罪者扱いしておいて、よくもまあそんなことが言えたもんだね」
ゾエばあさんはふんと鼻を鳴らして、自警団員たちを睨みつける。
「戦争中はお国のために戦死した軍人の鑑だ、郷土の英雄だなんだと持て囃しておいて、戦争に負けたとたんにこの仕打ちかい!! あんたたちだって大竜公国の軍人だったくせに、戦死者に鞭打つような真似をして、すこしは恥ずかしいと思わないのか!?」
「ランティモスさん、落ち着いてください。冷静に話し合いましょう」
「元陸軍中佐だかなんだかしらないが、うちのせがれは二階級特進で空軍大佐だよ。中佐と大佐、どっちが偉いか言ってごらん!?」
オルランドスはしどろもどろになりながら「それは大佐だが……」と答えるのがせいいっぱいだった。
「分かったらさっさと出ておいき!! このあたしの目の黒いうちは、この家であんたたちの好き勝手にはさせやしないよ!!」
オルランドス元中佐も戦没者を持ち出されては手も足も出ない。
トリナクリア島の退役軍人会のリーダーである彼は、合同慰霊式や追悼集会を主催する立場なのである。
あだや祖国に生命を捧げた軍人をおろそかに出来るはずもないのは道理であった。
たとえ家ではいけ好かない
「ランティモスさん!! 今日のところはこのへんで失礼しますが、また日をあらためて伺いますからね!!」
オルランドスが巨体を揺さぶりながら玄関を出ていくと、自警団員たちもその後にくっついて引き上げていった。
ゾエばあさんが写真を抱いたまま玄関にへたり込んだのは、男たちが立ち去ってからたっぷり三分も経ったころだった。
さしもの名物ばあさんも、極限まで張り詰めた緊張の糸が切れては、もう立ってはいられなかったのだ。
***
「おじさん、ほんとうにもう行っちゃうの?」
ニコの問いかけに、ユーリは
「奴らはまた来る。俺がこの家にいることが知れれば厄介なことになる――――」
玄関でうずくまっていたゾエばあさんをベッドに運んだあと、ユーリはさっさと家を出る準備に取りかかった。
べつに大仰な荷物があるわけではない。もともと着ていたカーキ色の飛行服を身にまとい、飛行帽とゴーグルを装備すればそれで終わりだ。
このまま立ち去れば、この家にひとりの男が滞在していた痕跡はもはや誰にも見つけられないだろう。
ばあさんが生命がけで作ってくれた脱出のチャンスをふいにするわけにはいかない。
ユーリはこのうえは一刻も早くランティモス家を離れ、愛機サラマンドラのもとへ向かうつもりだった。
「でも、サラマンドラはまだ修理が終わってないよ」
「飛行機はいつでも完璧な状態で飛べるわけじゃない。たとえ機体が不調でも、どうにか持たせてみせるのがパイロットの腕だ」
この数日のあいだに、ユーリは海軍機のスクラップから抜き取ったガソリンを
いちおうスクラップ処分の際に抜いてあるとはいえ、爆撃機や輸送機ともなれば相当な量のガソリンがタンク内に残っているのだ。
むろん経年劣化は避けられないが、いまは贅沢を言っていられる状況ではない。
手動ポンプで移し替える時間を勘案しても、今夜じゅうに給油を済ませておけば明日の午前中には離陸出来る。
損傷のはげしい右翼のタンクから優先的に使い切るようにすれば、どうにかマドリガーレの飛行場に戻ることは可能な計算だった。
むろん、それも空戦や悪天候といったトラブルに見舞われなければの話である。
傷ついた機体に粗悪な燃料、そして帰路に待ち受けているパッサカリア海軍……無事に帰れる保証など、どこにもありはしないのだ。
「ねえ、おじさん。せめてあと一日、出発の準備をしてからじゃだめ……?」
「これ以上迷惑はかけられない。おまえには助けられたな。あらためて礼を言わせてもらう」
言って、ユーリはニコの頭をやさしくなでる。
少年がそれきり黙り込んだのは、泣いているのを悟られまいとしたからだ。
いつか来ると分かっていた別れの時。
もちろんニコも覚悟はしていたが、いざそのときが訪れてしまえば、心の準備などなんの役にも立たない。
「ばあさんにあいさつをしてくる――――」
ユーリがゾエばあさんのベッドに近づくと、老婆は横たわったまま首だけで応じた。
「もう行くのかえ……」
「いままで世話になった。たいした礼も出来ずにすまん」
「ふん、水臭いことをお言いでないよ。あんたはよく働いてくれた。それで充分さ」
それだけ言って、ばあさんは飛行服に身を包んだユーリをまじまじと見つめる。
「あんたを最初に見たとき、あたしは本当にせがれが帰ってきたんだと思ったよ」
「……」
「あの子がもう二度と帰ってくるはずがないのは、あたしがだれよりもよく分かっているはずなのにねえ……」
「つらいことを思い出せたな」
ユーリの言葉に、ゾエばあさんはゆるゆると首を横に振る。
たとえ幻にすぎなかったとしても、死んだ息子の姿を重ねることが出来た。
それがどれほどの救いであったかは、わが子に先立たれた親にしか分からない。
ユーリはばあさんを見つめながら、訥々と言葉を紡いでいく。
「戦闘機乗りはかげろうみたいだと言っていたな」
「そんなことも言ったっけねえ……」
「たしかにそのとおりかもしれない。俺たちはいちど飛び立てば二度と生きて戻れる保証はない。空で死ぬためにこの世に生まれてきたようなものだと、そう思われても仕方がない人種だ。しかし……」
ユーリが見つめているのは、ゾエばあさんの顔でも、窓の外の暗闇でもない。
戦いのなかでおびただしい血が流れ、それでも寸毫ほども美しさを失うことのないはるかな蒼空。
果てしなく続く空に思いを巡らせながら、ユーリはひとりごちるみたいに呟く。
「……どんなパイロットも、最後まで還ることを願っている。たとえ叶わなかったとしても、残してきたものを忘れることはぜったいにない」
「分かってるよ。あの子もきっとそうだったんだろう。そう思うと、なおさらせがれが不憫でねえ――――」
言い終わらぬうちに、ゾエばあさんは声を詰まらせた。
息子ヨアニスが最期の瞬間まで考えていたことは容易に察しがつく。
生まれ育った故郷に。自分を待っている家族のもとに。
かならず生きて還ると強く念じながら、彼もまた多くのパイロットとおなじように、戦場の空に散っていったのだ。
「ねえ、ニコは飛行機乗りになれると思うかい?」
「本人次第だ。あいつが本気でそうなりたいと願っているのなら、他人にはどうすることも出来ない。止めるのも背中を押すのもけっきょくはおなじことだからな」
「そうだろうねえ……死んでほしくないから飛行機に乗るなというのは、言ってみればあたしのワガママだもの……」
「あの子を愛しているなら、信じてやることだ」
ゾエばあさんは瞼を閉じると、ため息ともつかない声でささやく。
「もう行きなよ。あんたを心配して帰りを待ってる人もいるんだろう?」
「ああ――――」
「せいぜい大事にしておやり。愛想を尽かされないようにね」
ユーリは無言で頷くと、音もなくベッドを離れていく。
遠ざかっていく足音を聞きながら、ゾエばあさんの頬をひとすじの涙が伝い落ちていった。
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