かげろうと飛行機雲(三)

 あたたかな日差しが農園に降り注いでいた。

 海にむかって拓かれた畑は、海岸すれすれまでなだらかな段を描いて続いている。

 ところどころで木々の植生がおおきく異なっているのは、場所によってちがった種類の野菜や果物を植え分けてあるのだ。

 日照量や風向き、連作障害の起こりやすさといった要素を勘案したうえで、発育に最も適した種類の作物を選んでいるのである。

 

 バルコニーでオレンジを選り分けていたゾエばあさんは、ふと背後に気配を感じてゆるゆると振り返る。

 案に相違せず、視線の先には灰金色アッシュブロンドの髪の青年が佇んでいた。

 飛行服から野良着に着替えても、青碧色ターコイズブルーの瞳は変わらず冷たい光を湛えている。


「なんだい――もう終わったのかえ?」


 ユーリは無言でうなずくと、畑の一角についと顔を向ける。

 ゾエばあさんがその方向に目を向ければ、真新しい小屋はすぐに見つかった。

 段々畑のちょうど中ほどに建つそれは、人家ではなく、野良仕事に必要な道具を収納しておくための物置小屋である。

 今朝までは三十年ものあいだ風雨に晒され、なかば倒壊しかかった古い小屋がおなじ場所に建っていた。

 ユーリはゾエばあさんの命令によってそれを撤去し、あらたな小屋を作り上げたのだった。

 

「へえ! 内部なかがどうなってるかはここからじゃ分からないが、なかなかきれいに仕上げるじゃないか。戦争中は工兵隊にでもいたのかい?」

「俺は六時間かかった。本職なら一時間と経たずに済ませているだろう」


 ユーリはこともなげに言うと、ゾエばあさんをまっすぐに見据える。

 べつに重労働を押し付けられたことに抗議しているわけではない。ただ「次の仕事はなんだ」と、無言のうちに問いかけているのだ。

 ばあさんはシワだらけの顔をくしゃりと歪めると、呵呵と笑い声を上げる。


「ふふん、見上げた働き者だね。根性のあるところは気に入ったよ」

「やることがあるなら遠慮なく言ってくれ」

「今日の仕事はもうええ。それより、自分の飛行機のところに行きたいんじゃないか?」


 ゾエばあさんはくつくつと笑いながら、流れるような手さばきでオレンジを選り分けていく。

 ユーリの目にはどれもおなじように見えるが、老婆のちいさな手は上等な果実とそうでないもの……育ちすぎて果肉にが入ったものや、寄生虫に食われたものを軽く触れただけで判別することが出来るのだ。

 それはゾエばあさんが素人のユーリを選別作業に関わらせなかった理由でもあった。


「伊達に長生きしとりゃあせん。飛行機乗りの考えてることくらいお見通しじゃて……」

「あんたの息子も戦闘機乗りだったそうだな」

「ニコが話したのかい?」

「ああ。それに、リビングに写真と勲章が飾ってあるのを見た」


 わずかな沈黙のあと、ユーリはゾエばあさんを見つめたまま言葉を継いでいく。


「ヨアニス・ランティモス少佐か……」

「せがれのことを知っとるのかえ?」

「直接会ったことはないが、名前くらいはな。ティユール戦線では有名だった。手足を失っても戦場に戻ってきたパイロットは何人かいたが、エースと呼ばれたのはランティモス少佐くらいだろう」


 ユーリはひとりごちるみたいに呟くと、海の彼方に視線を向ける。

 当時すでに旧式化が著しく、二線級の戦闘機と見なされていたCaZ-155"サーペント"を駆って三十機を単独撃墜した空軍ルフトヴァッフェのベテラン飛行士。

 その抜きん出た戦績もさることながら、ヨアニス・ランティモス少佐の名前が広く知られるようになったのは、彼が背負っていたハンディキャップによるところがおおきい。

 ポラリアとの開戦に先立つこと五年まえ、少佐は編隊飛行の訓練中に空間識失調バーディゴに陥った僚機に追突されるという不運に見舞われた。

 かろうじて脱出には成功したものの、回転するプロペラブレードに巻き込まれて右腕を――パイロットにとって生命とも言える利き腕を失ったのである。


「あの子が片腕を失くして帰ってきたときはそりゃあ悲しかったさ。だけどね、母親としてあっちゃならんと思いながら、あたしゃホッと胸をなでおろしたもんだよ」

「もう二度と飛行機に乗れない身体になったからか?」

「そんなところさ」


 ゾエばあさんは自嘲するように言って、ふっと息を吐いた。


「飛行機乗りはいつ生命を落としてもおかしくない仕事だよ。まして戦闘機乗りとなりゃなおさらだ。あたしは倅が十五歳で空軍ルフトヴァッフェに入ると言い出したときも猛反対したくらいでね……」


 いつのまにかオレンジを選別する手は止まっている。

 老いた女の目交を埋めるのは、もはや戻ることのない過去への追憶だった。


「もう何年前になるか――――ポラリアとの戦争が始まってしばらく経ったころ、せがれのところに空軍からの召集令状が来たのさ。あたしゃなにかの間違いだと思って、村役場の兵事係に怒鳴り込んだよ。予備役どころか片腕失くした傷痍軍人にまた軍に戻れとはどういうことだ、世界に冠たる大竜公国グロースドラッフェンラントはいつからそんな情けない国になったんだ……とね」

「軍もまさか戦闘機パイロットとして召集したわけではないだろう。飛行学校の講師や参謀として有能な傷痍軍人を復帰させることは珍しくなかった」

「そのとおりさ。でも、可愛がっていた部下が死んでいくのを見ていられなかったんだろうね。軍医に特製の義手を作らせて、自分もまた戦闘機に乗るようになって……けっきょく、戦争が終わってもあの子は帰ってこなかった」


 一九四五年の八月なかば――。

 ランティモス少佐のサーペントはポラリア軍との空戦中に消息を絶った。

 敵機に撃墜されたとも、機体の不調による自爆とも言われるが、その真相はいまも謎に包まれている。

 やがてトリナクリア島の生家に届けられたのは、基地に残されていたわずかな遺品と遺髪、そして二階級特進によって授与された空軍大佐の階級章だけだ。

 終戦のちょうど一ヶ月のことであった。


「ユーリと言ったかい。あんたも木の股から生まれてきたわけじゃないだろう。親はどうしてるね?」

「父親はずいぶん前に死んだ。母親とは子供のころに別れたきり、いまでは生きてるのか死んでいるのかも分からん」

「たとえどんなに離れていても、息子が飛行機に乗っていると知ったら、おっかさんはさぞ心配しただろうさ。母親ってのはそういうものだよ」

「なにも知らせないことがせめてもの親孝行かもしれないな――――」


 そのまま立ち去ろうと背を向けたユーリに、ゾエばあさんは俯いたまま声をかける。


「ところで、あんた、かげろうって虫を知ってるかえ」

「……あいにく虫には詳しくないが、聞いたことくらいはある」

「かげろうって虫はね、一生のほとんどを水のなかで過ごすんだ。そうしてようやく空を飛べるようになったら、たった一日で死んじまうのさ。長生きしようにも、飛ぶために口吻くちも胃袋もなくしちまってるんじゃどうしようもない……」

「……」

「あたしにすれば飛行機乗りもかげろうとおなじさ。自分のお腹を痛めてこの世に産んで、病気や怪我で死なないように必死で育て上げても、空に飛び上がったらあっというま……いったいなんのために生まれてきたんだか分かりゃしない……」


 午後の日差しを受けて長く伸びたユーリの影にむかって、ゾエばあさんは血を吐くような叫び声をしぼり出していた。


「ねえ、後生だよ! 孫に……ニコに余計なことを吹き込まないでおくれ!! あの子はあたしのたったひとりの家族なんだ。倅とおなじ飛行機乗りにだけはさせたくないんだよ――――」


 ユーリはなにも言わず、ただ黙々と歩を進める。

 老婆のすすり泣く声が聞こえたのは、あるいは気のせいだったのかもしれない。

 どこまでも晴れ渡った空に流れるのは、島を吹き渡る海風の音だけだった。


***


 ゾエばあさんに仰せつかった農園の仕事を片付け、小休止を挟んでから日没までの数時間……。

 それがユーリに与えられたサラマンドラと向き合うための時間だった。

 ロケット弾の炸裂による破損箇所はさほど多くはない。右主翼の燃料タンクと冷却器ラジエータのほかには目立った損傷は見当たらず、せいぜい風防のガラスにヒビが入った程度だ。

 サラマンドラの構造を知悉した専属整備士――テオがいれば、半日どころか三時間とかからずに元通りに修復してみせるだろう。

 こと整備にかけてはテオの足元にも及ばないユーリは、機内の応急修理キットに搭載されていた補修材をおっかなびっくりタンクの裂け目に宛てながら、たのむから飛行中に燃料が漏れ出してくれるなと祈るほかない。

 能うかぎりていねいな修理を心がけるなら、せいぜい一日に一箇所の破孔を塞ぐのがせいいっぱいというありさまだった。

 このペースで進めば、すくなく見積もってもあと十日はこの島に滞在する計算になる。


「おじさん、サラマンドラの修理はどう!?」


 息せき切って掩蔽壕ブンカーに入ってきたニコは、作業灯の下で修理にいそしむユーリに声をかける。


「見てのとおりだ。そう簡単にはいかん――」

「でもおじさん、パイロットなんだよね? 戦闘機に詳しいんじゃないの?」

「パイロットは戦闘機を飛ばすのが仕事だ。あいにくと直すほうは専門家じゃない」


 ユーリが言い終わるまえに、ニコは通学カバンから戦闘機図鑑を取り出していた。


「ちょっと待っててね。いまどこを直せばいいか調べてあげるから――――」

「そんな本を隅々まで読んでもサラマンドラの図面は載っていない」

「で、でも……」

「読みたければこれを読め。くれぐれも粗末に扱うなよ」


 そう言ってユーリが手渡したのは、革表紙に大竜公国グロースドラッフェンラントの国章とカールシュタット・ザウアー合同設計局の社章をあしらった分厚い冊子だった。

 サラマンドラの公式運用マニュアルだ。

 重厚な外見に違わず、基本的な操縦法から日常的な保守点検項目、さらには緊急時の応急修理方法までもが千ページ以上にわたって詳細に記されている。

 かつてサラマンドラのパイロットや機付き整備兵のために三百部ほど製本されたが、それでも軍用機のマニュアルとしては少ないところに、戦禍によってそのほとんどが散逸したのである。

 ニコの手のなかにあるのは、いまでは世界に十冊と残っていない貴重な原本オリジナルのひとつだった。


「すごい!! ホンモノだ……!!」


 壕内に置かれていた空の弾薬箱に腰を下ろしたニコは、目を輝かせてマニュアルを読みふける。

 絵や図面は豊富に掲載されているものの、実機の運用に携わるプロフェッショナルにむけて書かれているだけあって、その内容は分かりやすさとはほど遠い。

 小学生が読んだところで内容の十分の一も理解出来ないだろう。

 もっとも、どれほど難解であったとしても、本物に触れているという喜びのまえでは些末な問題にすぎなかった。


 燃料タンクの補修作業を進めながら、ユーリはぽつりと問いかける。


「戦闘機乗りになりたいか?」


 ニコはページをめくっていた手を止めると、ためらいがちに肯んずる。


「うん――」

「父親もそうだったからか」

「どうかな……父さんのことはよく憶えてないんだ。父さんは僕がまだちいさいころに戦争に行って、そのまま帰ってこなかったから……」


 ニコの言葉に悲痛な響きはなかった。

 少年にとって父親は物心がついたときにはすでに遠い存在であり、その死にも祖母ほどの感傷は抱けないのだ。

 ユーリはニコを一瞥すると、なおも坦々と言葉を継いでいく。


「戦闘機だけが飛行機じゃない。軍に入らなければ操縦免許ライセンスが取れなかった戦前とちがって、いまの時代なら民間の旅客機や輸送機パイロットになる路もある」

「知ってるよ。でも、僕はどうしても戦闘機のパイロットになりたいんだ」

「戦闘機は戦うための道具だ。敵を殺すこともあれば自分が殺されることもある。ポラリアとの戦争は終わったが、いつまでも平和が続くという保証はどこにもない――――」


 あくまで落ち着いたユーリの声には、有無を言わせない迫力が宿っている。

 大陸間戦争が終結し、平穏を取り戻したかのようにみえるアードラー大陸にも、いまだガリアルダ半島のような紛争地帯が存在している。

 なにより戦勝国であるポラリアは戦後も兵器開発を着々とすすめ、ジェット戦闘機の実戦配備もすでに始まっているのである。

 現在の平和は未来の平和を約束しない。次の戦争が始まらないとは、だれにも言い切れないのだ。


 だまってユーリを見つめていたニコは、やがて意を決したように問いかける。


「おじさんは、どうして戦闘機で郵便屋さんをしているの?」


 ユーリはわずかに逡巡するような素振りを見せたあと、訥々と語りはじめた。


「むかし、ある男と約束をした」

「……」

「その男はサラマンドラを世界で一番きれいな飛行機だと言った。もしサラマンドラが郵便飛行機だったなら、世界のどこにもでも届けられるだろうと。……戦争のために生まれた機械にも、それ以外の使い途があることを証明するために、俺はこの仕事をしている」


 ユーリの言葉にニコはじっと耳を傾けている。

 サラマンドラのことを語っているというのに、まるで自分自身の弁明をしているように聞こえるのは奇妙でもあった。

 修羅の空を翔けぬけた男の来し方は、むろん少年には知る由もないことだ。


 やがてユーリは機体から離れると、顔に飛び散った機械油を拭いながらニコに声をかける。

 

「そろそろ戻るぞ。続きはまた明日だ」

「ねえ、おじさん。サラマンドラの修理にはまだ時間がかかりそう?」

「そう簡単には直れば苦労はない――――」


 無愛想に言い捨てたユーリの背中を追いながら、ニコはおもわず顔をほころばせていた。

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