かげろうと飛行機雲(ニ)

 夕闇に沈みゆく森のなかに、灰色の帯はうっすらと浮かんでいた。

 戦時中に建設された大竜公国海軍の野戦飛行場跡だ。

 ポラリア軍の本土侵攻を阻止すべく、海軍航空隊はトリナクリア島に飛行隊を駐留させていた。

 大戦中盤にかけて主要な空母をことごとく喪失した海軍にとって、離島は洋上の制空権を維持するための重要な拠点だったのである。

 ブルドーザーで密林を切り開き、夜を日に継ぐ突貫工事で作られた簡素な飛行場は、戦争の終結とともにあっさりと放棄された。

 その際に主要な施設は爆破・解体され、いまでは灰色の瓦礫の山が残るばかり。

 かろうじて往時の名残りを留めているのは、強化コンクリートが敷き詰められた滑走路と、基地のそこかしこに積み上げられた海軍機のスクラップだけだ。

 それも南洋の植物のすさまじい繁殖力に敗れつつある。あと十年もすれば、完全に森に呑み込まれ、かつてここに飛行場があった痕跡を見つけることさえむずかしくなるだろう。

 

 発動機エンジンの音をたよりに走っていたニコは、滑走路の半ばではたと足を止めた。

 

――いた……!!


 苔むした滑走路の端に、機械の巨竜はその身を横たえていた。

 CaZ-175”サラマンドラ”。

 あざやかな紺青色コバルトブルーの塗装を除けば、図鑑に載っていたイラストそのままだ。

 ニコの前に現れたのは、大竜公国最強の重戦闘機にほかならなかった。

 

「やっぱり本物だ……!! でも、本物のサラマンドラがどうして……?」


 サラマンドラの総生産数は六十機にも満たない。

 既存の戦闘機を寄せつけない高性能と引き換えに、一機あたりの製造コストがきわめて高かったためだ。

 そのうえ機体に組み込まれた複雑精緻なメカニズムのために整備性も劣悪で、補修用の予備パーツだけでも一般的な戦闘機の調達価格を超えていたという。

 そうした事情もあって、とうとう終戦までサラマンドラの大量生産が行われることはなかったのである。

 かろうじて大戦を生き延びたサラマンドラも、ポラリア軍による接収を恐れた大竜公国軍の手によってすべて破壊され、完全なかたちで現存する機体は一機もない。

 いままでニコが読んだ本には、決まってそう記されていたものだ。

 存在しないはずの幻の戦闘機は、しかし、たしかに少年の目の前に鎮座している。


「ここからじゃよく見えない。もっと近くで……」


 恐れも忘れて、ニコがもっとサラマンドラに近づこうと一歩を踏み出したときだった。


「動くな――――」


 冷えた鉄みたいな声だった。

 ふいに背後から呼びかけられて、ニコはおもわず身体を硬直させる。

 カチリと乾いた音が生じた。拳銃の安全装置セーフティを外した音だ。

 相手の姿は見えないが、銃を向けられていることは分かる。


「う、撃たないで……」

「この島の子供か?」

「うん……僕、飛行機を近くで見たくて……それで……」


 ニコが言い終わるより早く、背後でまたしても音が聞こえた。

 硬いものと柔らかいものをすり合わせたときに特有の摩擦音だ。

 どうやら拳銃をホルスターに収納したらしい。


「そのままこっちを向け」


 言われるがまま、ニコは身体を反転させる。

 カーキ色の飛行服に身を包んだパイロットと目が合った。

 金灰色アッシュブロンドの髪と青碧色ターコイズブルーの瞳。

 血の通った人間というよりは、金属塊を削り出して作られた彫像みたいな印象を与える青年だった。

 

 青年――ユーリはニコを見据えたまま、低い声でぽつりと告げる。


「銃を向けて悪かったな。子供だとは思わなかった」

「僕、ニコラオス・ランティモスっていいます。みんなにはニコと――」

「なぜこんなところにいるのか知らないが、まだ日があるうちに家に帰れ。俺のことを家族に話したければ好きにしろ。止めはしない」


 突き放すように言って背を向けたユーリを、今度はニコが呼び止めた。


「あそこに停まってる戦闘機、サラマンドラだよね」

「……」

「その格好、大竜公国グロースドラッフェンラント軍の飛行服だ。空軍ルフトヴァッフェのパイロットなんだね」

「いまの仕事は運び屋だ。もう軍人じゃない――――」


 ユーリの返答はあくまでそっけない。

 たとえ相手が年端も行かない子供だろうと、わざとらしく態度を変えることはないのだ。


「しかし、なぜそんなことを知っている? その歳では戦争中のことなど憶えていないだろう」


 おもいがけず反問されて、ニコはおもわず視線を俯かせていた。

 ややあって、少年は視線をそらしたまま、ためらいがちに語りはじめる。


「僕の父さんも空軍の戦闘機乗りだったから……僕がまだちいさいころ、ずっと北のほうで死んじゃったけど……」


 ニコはちらとサラマンドラを見やる。

 主翼から雫のようなものがたえまなく滴り、滑走路上に水溜りを作っている。

 燃料タンクの裂け目からガソリンが漏れているのだ。


「サラマンドラ、壊れてるの?」

「ついさっきパッサカリア海軍の攻撃機にやられた。出会い頭に空対空ロケットを乱射してきたんだ。ロケット弾自体はかすりもしなかったが、機体のすぐ近くで近接自動VT信管が作動した……」


 ユーリはいったん言葉を切ると、「余計なことを言った」とばかりに顔を背ける。


 近接自動VT信管を内蔵したロケット弾は、炸裂と同時に数百の破片となってサラマンドラに襲いかかった。

 そのうちのいくつかが右主翼の燃料タンクを直撃したのだ。

 サラマンドラは防漏タンクを標準装備している。小口径弾が貫通した程度であれば、タンクの内側に張られた特殊ゴム皮膜が膨張して破孔をふさぎ、ガソリンの流出と引火を阻止するのである。

 とはいえ、防漏タンクが想定しているのはあくまで機銃弾である。

 厳格な工業規格に基づいて製造されている機銃弾に比べると、ロケット弾の破片は長さも断面もてんでバラバラだ。

 それらの破片がめちゃくちゃな軌道と速度で突き刺さった結果、サラマンドラは防漏タンクの能力を超えた損傷を被ったのだった。

 むろんユーリも手をこまねいていたわけではない。機体に衝撃が加わった瞬間、すばやく燃料コックを胴体タンクに切り替え、あわせて主翼タンク内の全燃料を放出。

 機体が炎に包まれるという最悪の事態は間一髪のところで避けられたものの、主翼タンクの燃料を失っては、とてもマドリガーレまで飛びつづけることは出来ない。


「海の上を飛びながら、トリナクリア島に海軍の前線基地があったことを思い出した。滑走路がまだ残っていたのは幸運だった……」


 ユーリは腕を組みながら思案に暮れている。

 どうにか墜落は免れたが、しかし、安心するにはまだ早い。

 パッサカリア海軍はいまごろ血眼になってサラマンドラの行方を探しているだろう。

 暗いうちはいいが、こうして機体を滑走路上に放置していれば、遅かれ早かれ発見されることは避けられない。

 なにより、トリナクリア島の住民が海軍に通報するという可能性も否定できないのだ。


 ニコはユーリの顔を見上げながら、心配そうに語りかける。


、サラマンドラをこのままにしておいたら誰かに見つかっちゃうよ」

「格納庫はあのざまだ。どこにも機体を隠す場所はない……」

「大丈夫――ついてきて。あっちに飛行機を隠すためのトンネルがあるんだ!」


 ニコに言われるがまま基地の隅まで歩くと、ユーリの目の前に小高い丘が現れた。

 木々に覆われた斜面の片隅には、黒い穴がぽっかりと口を開けている。

 空襲の際に戦闘機を隠すための掩蔽壕ブンカーだ。

 もともと存在した天然の洞窟を利用したのか、わざわざ掘削工事をおこなったのかは定かではないが、掩蔽壕の入り口は滑走路とおなじ強化コンクリートで固められている。

 直径はサラマンドラの全幅よりこころなし小さいが、高さは充分だ。主翼を折りたためば問題なく収納出来るだろう。

 そのうえで入り口を木の枝や蔦でカムフラージュすれば、遠目にはまさか戦闘機が隠されているとは分からないはずであった。

 

「どう? サラマンドラを隠すにはちょうどいいでしょ?」

「たしかにあそこなら見つかる心配はないだろうが……」

「いい隠し場所を教えてあげたんだから、僕のお願いも聞いてくれるよね」


 訝しげに見つめるユーリに、ニコは照れくさそうな笑顔を浮かべる。


「おじさん、僕に飛行機のことを教えてよ――――」


***


 ニコがおばあの待つ家に帰ったのは、もうすっかり日が暮れたころだった。

 戦争で父親を失い、戦後まもなく母親も流行り病で亡くしたニコは、それ以来祖母といっしょに暮らしている。

 おばあことゾエばあさんは、女だてらに果樹園と野菜畑を所有する農園主であり、ここトリナクリア島では知らない者のないでもあった。


「ただいま……」


 ニコがそろそろと勝手口を開けたとたん、ゾエ婆さんの怒声が家じゅうに轟きわたった。


「この悪ガキめが! こげな遅くまでどこをほっつき歩っとたんじゃ!!」


 憤怒の形相で一喝され、ニコはおもわずその場に尻もちをついていた。

 腰を抜かした孫にむかって、ゾエばあさんはのしのしと床板を踏み鳴らしながら近づいていく。

 その足取りは今年で七十二歳になる老婆とは思えないほどに力強い。

 長年の畑仕事で鍛えられた身体は小柄だが筋肉質で、並の男であれば簡単にのしてしまうほどの腕力の持ち主でもある。

 

「ご、ごめん――」

「いまさら謝っても遅いわい。門限破りには尻叩きと言ったはずじゃ」

「そんなことより、おばあに紹介したい人がいるんだ」

「あン?」


 怪訝そうな顔で孫を見つめるゾエばあさんをよそに、


「おじさん、入ってきていいよ――――」


 ニコが手招きすると、開きっぱなしの戸口から長身の人影がふっと湧いた。

 カーキ色の飛行機服を認めたとたん、ゾエばあさんはシワに埋まった細い目をかっと見開いていた。


「ヨアニス……!! あんた、生きてたのかいッ!?」


 ユーリが名乗るより早く、ゾエばあさんはうわごとみたいに呟いていた。

 老婆は小刻みに肩を震わせながら、おそるおそるユーリに近づく。

 

「だれと間違えているのか知らないが、あいにくだが人違いだ。俺は――――」

「おばあ、ユーリさんだよ。マドリガーレの郵便屋さんで、配達の帰りに飛行機が故障しちゃったんだ」


 ニコの言葉を耳にして、ゾエばあさんははたと我に返ったみたいに足を止めた。

 そのまま数秒ほどユーリの顔をまじまじと見つめたあと、


「あ、ああ……たしかに別人だ……もう戦争が終わって六年も経つのに、あの子が帰ってくるはずがない……」


 そう言って、長いため息をついたのだった。


「おばあ、大丈夫……?」

「あたしのことなら心配ないよ。それで、の郵便屋がうちになんの御用だね?」

「飛行機が直るまでしばらくユーリさんをうちに泊めてあげてほしいんだ。島には宿屋もないし、ほかに頼れそうな人もいないんだよ」


 ニコが言い終わるが早いか、ユーリはゾエばあさんをまっすぐに見据えて言った。


「何日か部屋を貸してもらえれば助かる。もちろんそのぶんの謝礼はする――――」


 ゾエばあさんはふんと鼻を鳴らすと、わざとらしく顔の間で手を振ってみせる。


「金はいらないよ。トリナクリア島の人間は情に厚いんだ。困ってる旅人に宿賃をせびるようなこすっからい真似はするもんかい」

「本当にいいのか?」

「そのかわり、タダ飯にありつけるとは思わないことだね。ちょうど男手が足りなくて困ってたところなんだ」


 ゾエばあさんはにっと相好を崩すと、さっさと上がれとユーリを手招きする。


「郵便屋……たしかユーリとか言ったね。島にいるあいだは寝床も食事も面倒みてやる。そのかわり、うちの農園でみっちり働いて返してもらうよ」

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