第三話:かげろうと飛行機雲

かげろうと飛行機雲(一)

 午後三時――


 放課を告げる鐘の音が島じゅうに鳴りわたった。

 小高い丘にたたずむ白壁の建物は、ここトリナクリア島で唯一の教育機関である。

 我先に校庭に飛び出してきた子供たちの数は、小・中学校あわせても五十人に満たない。

 パッサカリア本土の公立学校であれば一学年どころか一クラスの人数だが、この離島では総人口のおよそ一割に相当する。


 やがて鐘の音が鳴り終わるころ、ひとりの少年がそろそろと校舎を出た。

 小柄な少年である。

 よれた学帽から栗色ブラウンの髪と琥珀色アンバーの瞳がのぞく。

 無地の開襟シャツに膝丈のズボンというラフな出で立ちは、この島の子供たちのほぼ四季を通した装いだった。


「よう、ニコ――ひとりでお帰りかよ?」


 ふいに背後から声をかけられて、少年はびくりと肩を震わせた。

 ニコとは、ニコラオスの愛称である。

 自分が呼び止められたことはまちがいない。

 観念したように振り向けば、はたして、ニコの倍は体重があるだろう肥満児が腕を組んで仁王立ちしている。

 横幅だけでなく、背丈も小学五年生にしてすでに大人顔負けだ。

 その周囲でニヤニヤと薄笑いを浮かべている取り巻きを見るまでもなく、絵に描いたようなガキ大将であった。


「デメトリオスくん……」

「古くせえ名前で呼ぶなって言っただろ! でいい。そっちのほうが響きがポラリアっぽくてイカすからな――」


 ポラリアかぶれのガキ大将は、ニコの返答を待たずに言葉を継いでいく。


「ところでニコ。おめえよ、最近ちょっと付き合い悪ぃんじゃねえか?」

「べつに……」

「とぼけんなよ。遊びに誘ってもなんだかんだ理由つけて断るし、学校でもむずかしそうな本ばっか読みやがってよ」


 言い終わるが早いか、ダンは「やれ」と言わんばかりに角張った顎をしゃくる。

 親玉の意を汲んだ取り巻き二人がすばやく突進し、ニコの通学カバンを力任せにひったくる。


「なにするんだよ!!」

「かまわねえ。ガリ勉のニコラオス・ランティモスくんがどんなご本をお読みになってるんだか、俺たちが調べてやろうじゃねえか」


 ニコの抗議の声を無視して、ダンは取り巻きが投げよこしたカバンをまさぐる。

 必死に振りほどこうとしても、両脇をおさえこまれては小柄な少年の腕力ではどうすることも出来ない。

 悔しさに歯噛みするニコの目の前で、ガキ大将は太い指で二冊の本を掴み取っていた。


「ふーん……『航空力学入門・飛行機はなぜ飛ぶのか』ねえ? おっ、こっちは『世界の傑作戦闘機』?」

「返せよ!! 返せったら!!」

「なんだ、つまんねえなあ。スケベな漫画だったら面白かったのによう――――」


 ダンはいかにも落胆したように言って、二冊をひょいと校庭に投げ捨てる。

 取り巻きが離れた瞬間、ニコは脱兎のごとく走り出すと、本のもとへ駆け寄っていた。

 付着した泥汚れを必死にはらう姿を眺めながら、ダンと取り巻きたちは手を叩いて囃し立てる。


「ニコよう。おめえ、まさかパイロットになろうなんて思ってんじゃねえだろうな?」

「……」

「たしかおめえの死んだ親父も空軍ルフトヴァッフェのパイロットだったよなあ」

「それがどうしたっていうんだ」


 気丈なニコの言葉を耳にして、ダンの太い唇に嗜虐的な笑みがよぎった。


「陸軍の中佐だった俺の父ちゃんが言ってたぜ。空軍ルフトヴァッフェは陸軍や海軍のきついシゴキから逃げ出したオカマ野郎の掃き溜めで、戦争中はクソの役にも立たなかったってな」

「やめろ……」

「そのくせバカ高い戦闘機だの爆撃機を乗り回して貴重なガソリンを無駄食いしてたんだから、ろくでもない税金ドロボーの集まりだ。大竜公国グロースドラッフェンラントが戦争に負けたのもあいつらのせいだってな――――」


 そこまで言って、ダンは試すような視線をニコにむける。

 怒りに任せて殴りかかってくるという予想に反して、ニコは固く拳を握りしめたまま、肩を震わせて立ち尽くすばかりだった。

 たとえ万にひとつも勝ち目はないにせよ、男なら殴りかからねばならない状況である。

 次の瞬間、ニコはまだあちこちに土埃のついた本をカバンに突っ込むと、脇目もふらずに駆け出していた。


「見ろよ――死んだ親父の悪口を言われたってのに、殴りかかるどころか言い返せもしねえ。さすがはオカマの空軍野郎の息子だな」


 どっと起こった意地の悪い笑いを背中で聞きながら、ニコは俯いたまま校門を飛び出していった。


***


 汗まみれになったニコは、草むらに膝をついてぜいぜいと荒い息をついた。


 の家からすこしはなれた森の中である。

 ニコはつらいことがあるたび、ここに足を運ぶことにしている。

 祖母にひどい顔を見られたくないとき、人気のないこのあたりは絶好の隠れ場所だった。


 戦時中、このあたりには大竜公国海軍の野戦飛行場が存在した。

 いまでは管制塔コントロールタワー格納庫ハンガーもことごとく取り壊され、滑走路も自然に飲み込まれようとしている。

 島民たちもわざわざ近寄ろうとしないここは、文字通りニコの秘密基地なのだ。


 海から吹く心地よい風が髪を揺らす。

 汗とはちがうものがひとすじ、少年の頬を伝っていった。

 

「飛行機が好きでなにが悪いんだよ――――」


 ニコは青々と茂る雑草を掴みながら、か細い声でひとりごちる。

 

「パイロットになりたくて、なにが悪いんだよ……」

 

 いつから空に憧れるようになったのかは、ニコ自身にも分からない。

 の家には父の若いころの写真が飾ってある。

 愛機の前で戦友と肩を組んだ父と目が合うたび、少年の胸の奥で憧憬がふくらんでいった。

 俺といっしょに飛ぼうと、そう呼びかけられているような気がした。


 自分もいつか飛行機乗りになりたい――

 父さんとおなじように、パイロットになってこの空を飛んでみたい――

 

 思ったところで、だれにも言えなかった。

 戦争で息子を失ったおばあに聞かせるにはあまりに酷な話だ。

 軍人であろうとなかろうと、パイロットという職業は死の危険と隣合わせなのである。

 息子だけでなく、たったひとりの孫までも空で失うことになるかもしれないとなれば、老いた彼女の心痛ははかりしれない。

 それでも諦めきれないニコは、定期的に島を訪れる行商人に飛行機に関する本を仕入れてくれるよう頼みこみ、なけなしの小遣いをはたいて買い入れてきたのだった。


 そうして本気で夢を追おうとするほど、ニコは孤立していった。

 ガキ大将のダンをリーダーとする悪ガキたちとも、以前は仲良く遊んでいたのだ。

 飛行機の本にのめり込むようになってから遊びの誘いを断ることが増え、彼らとの関係も悪化していった。

 いつからかニコはいじめの標的にされるようになり、何事もなく家路につける日のほうが少ないというありさまだった。

 

 気づくと、あたりはすっかり薄闇に包まれていた。

 草むらに身を横たえているうちに、いつのまにかウトウトと寝入ってしまったらしい。

 時刻はすでに七時に近いだろう。孫の帰りが遅いことに、おばあもさぞ心配しているはずだった。

 早く帰らなければと、ニコは通学カバンを手に立ち上がろうとする。

 

 どこからか爆音が聞こえてきたのはそのときだった。

 気のせいなどではない。 

 それが戦闘機の発動機エンジンの音であることを、ニコは本能的に察知していた。


「うそだ……あれは……」


 地鳴りのような轟音を響かせながら、少年の頭上を巨大な機影が通過していった。

 液冷発動機エンジンを搭載した航空機ならではのシャープなシルエット。

 ゆるやかなW字を描く逆ガル型の主翼。

 大戦中の戦闘機について書かれた本にはかならず登場する大竜公国の傑作機。

 つねに最前線で戦いながら、終戦までついに一機も空戦で失われることのなかった無敗の重戦闘機。


「サラマンドラ――――」

 

 その名を呟いたニコは、いてもたってもいられずに走り出していた。

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