冬の飛竜 -JG508,1943-(三)

 吹きつける風が風防キャノピーを震わせていた。

 高度一万メートル。はるか眼下には灰色の雲海が茫々と広がり、空の色は蒼というよりはいっそ黒に近い。

 足元から背中からたえまなく伝わってくる地響きのような振動は、二千馬力の大型発動機エンジンならではの特徴だ。

 飛行帽と一体化した酸素マスクで顔を覆い、毛皮ファーつきの分厚い飛行服を着込んだは、身じろぎもせずに先行する味方機を睨んでいる。


 いま、楔形のフォーメーションを組んだCaZ-160”ワイバーン”は、まさしく無人の野を行くがごとくに天穹を翔けていく。

 機数は十二。四つの編隊ケッテから成る飛行中隊シュタッフェルである。

 これほどの高高度で整然と編隊を組むことが出来る戦闘機は、大竜公国グロースドラッフェンラントとポラリア両軍でもワイバーンだけだ。

 先代の主力機CaZ-155”サーペント”が七千メートルを超えるとまっすぐ飛ぶことさえおぼつかなくなることを考えれば、その性能はまさしく別格であった。


「ファーレンハイト少佐より中隊各機へ――――」


 飛行帽に内蔵されたスピーカーが編隊長の声を吐き出した。

 音声がひどく歪み、耳障りなノイズが混ざるのは、強電界層による通信障害だ。

 強電界層――この惑星ほしを包むように存在する不可視の磁気帯。

 短波・長波の別なく電波を乱反射し、無線機やレーダーといった電子機器は性能低下を余儀なくされるのである。

 その影響は、高度を上げるほど顕著になる。一万メートルは機上無線が使用可能な限界高度でもあった。

 指向性の送受信アンテナを搭載するほかに手立てはなく、単座戦闘機としては大柄なワイバーンであっても良好な通信感度は得がたい。


 は無線機のノイズ除去リダクションレベルをさらに上げる。

 あくまで気休め程度の効果しかない装備だが、だからといって使えるものを使わない手はない。

 すさまじい振動と爆音に支配されたコクピットのなか、指揮官の言葉を片言隻句たりとも聞き逃すまいと、彼は耳をそばだてる。


「偵察機からの報告によれば、北北西より接近中の敵編隊はおよそ二十機。うち爆撃機が九機、残りは先導機パスファインダーおよび護衛戦闘機と思われる。敵のねらいは言うまでもなく我が軍の補給基地である――――」


 補給基地には大量のガソリンや石炭が備蓄されている。

 空軍だけでなく、地上戦を展開している陸軍にとっても文字通りの命綱なのだ。

 もし爆撃を許せば、かろうじて維持されているこの方面の戦線はたちどころに崩壊するだろう。

 それは同時に、ポラリア軍が何度となく全滅の憂き目を見ても爆撃隊を送り込んでくる理由でもあった。


「ケンプフェルトとキルンベルガーの隊は重爆を阻止。アッカーマン隊は敵編隊の後方に回りつつ、両隊の援護にあたれ。……もし敵の戦闘機にまとわりつかれたときは、まともに相手をせず、上昇して振り切れ。ワイバーンは格闘戦ドッグファイトに向かん機体だということをくれぐれも忘れるな!」


 ファーレンハイト少佐が名前を挙げた部下のなかに、は含まれていない。

 命令を受けた三隊・九機のワイバーンは我先にと編隊を離れ、それぞれの攻撃コースへと針路を取る。

 会敵までの時間はのこりわずか。焦れる気持ちを抑えてぐっと操縦桿を握り込んだとき、喝を入れるような少佐の声が耳朶を打った。


「エレンライヒ! ルブラン! おまえたちは私と来い。敵戦闘機の相手は我々がする――――」


 ワイバーンは火力と上昇力、最高速度にすぐれる反面、水平方向への旋回性能は劣悪だ。

 小回りの利く敵戦闘機との格闘戦ドッグファイトは不得手であり、ほとんど隊では厳重に禁止されているほどだった。

 すくなくない犠牲の上に得られた戦訓は、ここ第五○八ゴオマルハチ戦闘航空団ヤークトゲシュバーター第一飛行中隊でも徹底されている。


 例外は中隊指揮官であるエドゥアルド・ファーレンハイト少佐と、わずかに二人の若手パイロットだけだ。

 それはとりもなおさず、彼らが戦闘航空団でも最高の技量をもつパイロットであることを意味している。

 大柄な重戦闘機をおのれの手足のように操り、敵戦闘機と互角の戦いを演じるためには、単純な飛行時間の多寡では計れない天性のセンスが必要とされたのである。


 ファーレンハイト少佐の機体はすでに加速に入っている。

 置いていかれまいと、はスロットルを開きながら応える。


「ユリアン・エレンライヒ曹長、了解ヤヴォール――――」


***


 一九四○年の二月十七日――

 大竜公国は突如としてポラリアに宣戦を布告し、時を置かずに全軍を挙げての侵攻を開始した。


 もともと専制君主制と民主・共和制という国家体制の違いからしばしば衝突してきた両国だが、今世紀初頭に友好条約が締結されて以来、すくなくとも表向きは平和的な関係を維持してきた。

 潮目が変わったのは、あらたにジギスムント・トゥーゲンフルス・ゼッケンドルフが大竜公に即位してからのことだ。

 ジギスムントは王太子だったころからポラリアの――より正確に言うなら、ポラリアが支配するボレイオス大陸の地下資源に目をつけていた。同国では百年ほど前に大規模な油田が相次いで発見され、その総埋蔵量はじつに数百億バレルにのぼると推測されている。

 他方、アードラー大陸では石油がほとんど産出せず、大竜公国はポラリアやバラトリア王国からの輸入に頼らざるをえない事情があった。

 他国に石油を依存しているということは、とりもなおさず国家の生命線を握られているということだ。生かすも殺すも相手国の胸三寸となれば、安全保障のみならず、外交や貿易といった分野にも深刻な影響をおよぼす。

 独立不羈を志向してやまないジギスムントにとって、ボレイオス大陸の石油を手中に収めることは自身に課せられた崇高な使命であり、戦争はそのための手段にすぎなかったのである。


 宣戦布告から半年と経たないうちに、戦火はボレイオス大陸の全土に広がっていった。

 ポラリア軍は奮戦したものの、ろくに迎撃態勢が整っていないところに急襲を受けてはひとたまりもない。

 開戦劈頭において連戦連敗を喫し、甚大な損害を被ったポラリア軍は、ほうほうの体で内陸部へと後退していった。


 まんまと油田地帯を占領した大竜公国軍だが、しかし、戦争はそこで終わらなかった。

 連日もたらされる勝報に狂喜したジギスムントは、資源を確保するだけでは飽き足らず、ボレイオス大陸の完全支配を望むようになっていたのである。

 野心に充ちた専制君主は、王政を否定してはばからない共和主義者たちを完膚なきまでに撃砕し、史上初めて二つの大陸を支配した大帝として後世に名を残すという甘美な誘惑に抗えなかったのだ。


 明くる一九四二年の八月、破竹の勢いで進撃する竜公国軍は、ついにポラリアの首都ヒュペリオンに迫った。

 ヒュペリオン攻防戦――――。

 首都をめぐって繰り広げられた一連の戦闘は、後世においてそのように総称されている。

 大竜公国軍はこの戦いに百五十万人の兵士と十二万門の火砲、一万五千台の戦車と自走砲、そして三万機を超える航空戦力を惜しげなく投入した。

 これは外征軍の総戦力のおよそ三分の一に相当し、その多くは他の戦線からの引き抜きというかたちで調達された。人員と装備を取り上げられた部隊はいちじるしく弱体化したが、それも戦争の勝敗を左右する重大作戦の前では取るに足らない些事に過ぎなかったのである。


 ヒュペリオン攻略の総指揮に当たるのは、大竜公ジギスムントの信頼もあつい老将ヘルムート・ドルネンホフ陸軍元帥。

 前世紀からの豊富な実戦経験と、卓越した戦術眼をもつ知勇兼備の名将として知られた人物である。

 巨大な兵力とすぐれた兵器、それらを統率する有能な指揮官……。

 大竜公国軍の勝利は、たとえ天地が覆ったとしても揺るがないはずだった。

 

 これまで優勢に戦いを進めてきた大竜公国は、ここで予期せぬ挫折を味わうことになった。

 ポラリア軍はヒュペリオンの外周部に堅固な防御陣地を十重二十重に築きあげ、大竜公国の猛攻によく持ちこたえたのである。

 両軍は一進一退の戦いを繰り広げ、いつしか戦況は千日手の様相を呈するようになった。

 年明けまでにはヒュペリオンを陥落させるという楽観的な見通しを立てていたドルネンホフは、大幅な戦略の修正を余儀なくされたのだった。


 戦局におおきな変化が生じたのは、その年の十二月のこと。

 それまでひたすら防戦に徹していたポラリア軍が各地で反攻に転じたのだ。

 捨て鉢の突撃ではなく、周到に準備された戦略的行動であることは言うまでもない。

 首都ヒュペリオンは、言うなれば大竜公国の主力部隊を誘き寄せるための囮であり、また時間稼ぎのための捨て石だった。

 ポラリア軍はそのあいだに各地の兵器工場をフル稼働させ、緒戦で被った損害をほぼ回復していたのである。大竜公国軍がヒュペリオン攻略に気を取られているあいだに、瀕死のポラリア軍はみごとに蘇生を果たしたのだった。

 陸と空から怒涛のごとく攻め寄せるポラリア軍の前に、ヒュペリオン攻略に戦力を割かれて手薄になった大竜公国の各方面軍はあっけなく崩れ去っていった。


 戦線を立て直すための増援を送ろうにも、すさまじい量の積雪によって道路は寸断されている。

 かろうじて通行可能な道路には輸送用トラックが長蛇の列をなし、やむなく徒歩での移動を強いられた歩兵は行軍中に凍死するというありさまだった。陣地転換中の部隊が猛吹雪に飲み込まれ、敵と戦わずして全滅するという悲劇が起こったのも一度や二度ではない。

 もちろん大竜公国軍の上層部もボレイオス大陸の冬の厳しさは承知していたが、首都攻略によって早々に決着がつくというドルネンホフ元帥の報告を信じ、ほとんど対策を講じていなかったのだ。


 追い打ちをかけるように、兵站能力を超えて戦線を拡大した弊害も露呈した。

 豪雪のために食料品の輸送もままならず、前線の兵士たちは慢性的な飢餓状態に置かれるようになったのである。

 ほんの数ヶ月前まで無敗をほこった大竜公国は、いまや見る影もないほどに追い詰められている。

 周辺の戦線がことごとく崩壊した結果、ドルネンホフ元帥が率いるヒュペリオン攻略軍は敵中で孤立していった。

 そうしたポラリア軍全体の動きに呼応するように、それまでじっと耐えてきたヒュペリオン防衛軍団も攻勢に転じ、大竜公国軍は二重円の内と外から挟撃される格好になった。


 もはや敗北は避けがたいと悟ったドルネンホフ元帥は、みずから大竜公ジギスムントに敗戦を詫びる文書をしたためたあと、帷幄内でピストル自決をとげた。享年六十九歳。

 ジギスムントはドルネンホフの武人らしい身の処し方を称賛したが、それも彼が戦場をとおく離れた王宮に身を置いていたからこそだ。

 指揮官の死は指揮系統にいたずらな混乱をもたらし、撤退判断の遅れによって生じた犠牲は数十万人にのぼった。

 十九世紀生まれの老将軍が最期に発揮した騎士道精神は、しょせん彼の自己満足にすぎなかったのである。

 

 年明けを待たずしてヒュペリオン攻略軍は四分五裂し、各部隊は自力での敵中突破を余儀なくされた。

 厳しい寒さとポラリア軍の激しい攻撃のなか、ボレイオス大陸の白い大地は大竜公国軍の血で真っ赤に染め上げられていった。

 百五十万人の兵士のうち、生きて戦場を脱出できたのはわずか十七万人。

 戦闘機や戦車・火砲の多くは燃料切れによって破棄され、さらには少なくない数の兵器がポラリア軍に無傷で鹵獲された。

 ヒュペリオン攻略の失敗により、大竜公国の外征軍は、その総戦力の三分の一を無為に失ったことになる。


 人間の都合などおかまいなしに年は明け、一九四三年の一月。

 大竜公国軍の参謀本部は崩壊した戦線を整理し、いったんボレイオス大陸の沿岸部まで後退する方針を各軍団に示達した。

 それにあわせて陸・空軍の立て直しも急ピッチで進められていった。アードラー大陸本土で徴兵されてまもない新兵が各部隊に配属され、航空機と機甲部隊の再編にあたっては新兵器への装備更新がさかんにおこなわれた。


 熾烈を極めたヒュペリオン攻略戦をかろうじて生き延びた第五○八ゴオマルハチ戦闘航空団ヤークトゲシュバーターは、空軍ルフトヴァッフェでも指折りのエース部隊として知られた存在だった。

 もともと戦闘機部隊だった五○八戦は、壊滅した他の戦闘航空団の生き残りを吸収し、爆撃機を迎え撃つための邀撃インターセプト専門部隊として再生した。

 大竜公国はもはや一方的に攻める側ではなく、ポラリア軍の攻撃を迎え撃つ側に回っていたのである。

 部隊には最新鋭の重戦闘機ワイバーンが配備されるとともに、本土での訓練を終えた新人パイロットがぞくぞくと着任していった。

 どの顔も若い。最年長の者でも二十歳を超えないのは、徴兵年齢が大幅に引き下げられたためだ。

 そのなかでも、金灰色アッシュブロンドの髪と青碧色ターコイズの瞳をもつ少年飛行兵の姿はひときわ目を引いた。


 ユリアン・エレンライヒ曹長。

 のちに空軍ルフトヴァッフェ最年少の撃墜王エクスペルテンとして名を馳せる彼も、このときはまだ十八歳の若者にすぎなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る