空の花束、王子の恋文(八・終)

「ユーリさんとテオさんには、なんとお礼を申し上げればいいか――――」


 黒髪を潮風になびかせながら、ナシムは感極まったように言った。


 マドリガーレ北部に位置する港湾都市クレプス。

 古来よりアードラー大陸の玄関口として栄えた港には、各国の貨客船がひっきりなしに出入りしている。

 ユーリとナシムは、埠頭に隣接した展望バルコニーに佇んでいる。

 顔を隠すように鳥打帽を目深にかぶったユーリは、周囲に視線を巡らせたあと、ちらとナシムの顔を見やる。


「礼はいい。俺たちは報酬分の働きをしたまでだ」

「あなたならそう言うと思っていました。しかし、私の恩人であることには変わりはありません」

「それより、本当にこれでよかったのか?」


 ユーリの言葉に、ナシムの顔にわずかに暗い影が差し込んだ。

 それも一瞬のこと。柔和な微笑みを浮かべた貴公子は、坦々と言葉を継いでいく。


「ええ――もともと駐在武官としての任期はあと半年だったのです。それに、私がこういうかたちで責任を取らなければ、バラトリア王国としてもマドリガーレ政府に面目が立ちませんからね」


 フェアバンティ航空祭から数日と経たないうちに、マドリガーレ外務省はバラトリア王国の第三王子ナシム・アズラキヤーヴを”好ましからざる人物ペルソナ・ノン・グラータ”に指定した。

 指定を受けた者は、あらゆる外交特権を剥奪されたうえ、すみやかな国外退去を求められる。

 管制官の命令を無視して離陸したことで航空祭の運行を妨げ、来場者を危険に晒したため――というのはあくまで表向きの理由だ。


 実際はバイルシュタインが子飼いの政治家を動かし、外務省に圧力をかけたのである。

 期待の最新鋭機スカイウルフがサラマンドラとファーブニルに惨敗したことで、バイルシュタインのメンツは丸つぶれになった。

 ひとたび戦時中の旧式機にも劣るという評判が立ってしまった以上、今後予定されている各国への売り込みにも暗い影を落とすだろう。

 大観衆のまえで恥をかかされ、多大な利益をもたらすはずだったビジネスを台無しにされたバイルシュタインが怒り狂ったことは言うまでもない。

 とはいえ、相手は一国の王族である。激情に任せて危害を加えれば、自分も無事では済まないことはむろん承知している。

 ナシムの国外退去は、法を侵すことなくバイルシュタインが行いうる最大の復讐だった。


 ナシムはふと港のほうに目を向けた。

 岸壁にはバラトリア王国の国旗を掲げた貨客船が停泊している。

 ファーブニルは各部を分解されたうえで船に積み込まれ、出国の時を待っている。

 出港予定時間は明日の午前零時。それは、マドリガーレ外務省が通告したナシムの国外退去の期限でもあった。


「もうアードラー大陸に思い残すことはありません。バラトリアに帰ったら二度と飛行機には乗れなくなるかもしれませんが、最後にあなたのサラマンドラと飛べたことは、私にとって一生の宝ですよ」

「乗らなくなってもファーブニルは大事にしてやれ。あれはいい機体だ」

「もちろん、私にとってはかけがえのない相棒ですから――――」


 背後から近づいてくる足音に気づいて、ユーリとナシムは同時に振り返っていた。

 二人の目に飛び込んできたのは、こちらにむかって息せき切って駆けてくる一人の少女だった。

 長い髪を下ろし、白いブラウスとスカートを身に着けたその姿は、ふだんの整備ツナギ姿とは別人のよう。

 乱れた呼吸をととのえたテオは、肩に下げたバッグの中身をごそごそと探る。


「二人とも、これ見てっ!! さっき売店スタンドの前を通りがかったときに偶然見つけたんだ。買うのはすこし恥ずかしかったけど……」


 テオが差し出したのは、今日発行のノイエ・レプブリーク新共和国紙だ。

 戦後に相次いで創刊された新聞のなかでも、映画スターや政財界のゴシップ・スキャンダルに特化したタブロイド紙である。品性下劣な三流新聞として嫌悪する者も多いが、その一方でスクープ記事の信頼性には定評がある。

 ナシムはテオが指で示した箇所をゆっくりと読み上げていく。


「本紙独占スクープ……大富豪ギュンター・バイルシュタインと没落した大竜公国グロースドラッフェンラントの元王女、挙式直前でまさかの破局……」


 ナシムの声はひどく震えている。

 テオはナシムの顔を覗き込みながら、ためらいがちに問いかける。


「この記事に書かれてる元王女って、王子が言ってたリーゼロッテさんのことだよね?」

「おそらく……いえ、まちがいないと思います」


 あのあと、結局フェアバンティ航空祭での結婚発表は中止になった。

 バイルシュタインはスカイウルフの大失態を必死に取り繕わなければならず、とてもそれどころではなかったのだ。

 記事の内容を信じるなら、それからまもなくリーゼロッテのほうからバイルシュタインに婚約破棄を告げたということだった。


「しかし、これが事実だとしても、私がいまさら彼女の前に現れることは――――」


 ユーリがふいにナシムの左手を掴んだのはそのときだった。

 そのまま互いの航空時計パイロットウォッチを突き合わせる。

 現在の時刻は午後二時半を回ったところ。

 

「ユーリさん!?」

「時計は合っているな。出国期限の午前零時まであと九時間はある」

「ここから彼女が住んでいるマドリガーレ市まで三百キロ以上は離れています。いまからではとても……」

「車や列車なら無理だが、飛行機なら別だ。クレプスには飛行場もある。ファーブニルでなくても、往復するには充分だろう」


 わずかな逡巡のあと、力強く肯いたナシムは、次の瞬間には走り出していた。

 みるみる遠ざかっていく背中を見送りながら、テオはユーリの袖を軽く引っ張る。

 

「ねえ、ユーリ。ナシム王子とリーゼロッテさん、上手くいくかな?」

「さあな――――」


 ユーリの返事はあくまでそっけない。


「俺たちの仕事は終わった。ここからはあの二人の問題だ。ただ……」

「ただ?」

「ひとつだけ確かなことがあるとすれば、飛行機乗りはこの世で一番あきらめの悪い人種だということだ」


 それだけ言って、ユーリはふと空を仰いだ。

 つがいと思しいカモメが二羽、海にむかって飛び去っていく。

 やがておとずれる厳しい冬をまえに、彼らははるかな南をめざして長い旅に出るのだ。


 白い羽が海と空のあわいに溶けて見えなくなるまで、ユーリとテオはいつまでもその姿を見守っていた。


【第一話 完】

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