空の花束、王子の恋文(七)

「ユーリさん、そろそろをやる頃合いでしょう」


 ファーブニルを水平飛行に戻しながら、ナシムはユーリに呼びかける。

 二機で可能な演目はすべて終わった。満足しきった観客たちの視線を浴びながら、サラマンドラとファーブニルは編隊を組んで飛行場上空を旋回する。

 刹那、ナシムの耳に飛び込んできたのは、緊張に張り詰めたユーリの声だった。


「待て。二機、上がってくるぞ」

「次のチームがもう離陸を!? そんなはずはありません。まだ持ち時間は残っているはず……」

「どうも様子が妙だ。気をつけろ」


 ユーリの言葉をかき消すように、爆音を轟かせながら駆け上がってきたものがある。

 ほとんど反射的に回避運動を取りながら、ユーリとナシムの目は風防ごしにを捉えていた。

 黒一色に塗り込められた鋭利なシルエット。機体の随所には、大竜公国とポラリア双方の技術的特徴が表れている。

 どちらの陣営の戦闘機にも似ず、あるいは見方次第ではどちらにも似ているその姿は、奇怪な合成獣キマイラを思わせた。

 高等練習機スカイウルフ――。

 バイルシュタイン商会の新製品は、サラマンドラとファーブニルを相手取って初陣に臨もうとしている。


「ユーリさん、こいつらは新型の練習機です。おそらくバイルシュタインの命令で我々の邪魔をしにきたのでしょう」

「どうする。このまま諦めて退散するか?」

「まさか――――」


 冗談めかして言ったユーリに、ナシムは笑い声で応じる。


「奴らが模擬戦を仕掛けるつもりなら、望みどおりの戦い方を教えてやりましょう。微力ながら、この私もお手伝いします」


 ユーリはなにも言わず、サラマンドラを急上昇させた。

 それが返答の代わりだった。空戦によって観客に危険が及ぶことのないよう、高度を上げたのである。

 ファーブニル、そして二機のスカイウルフもサラマンドラの後を追う。

 高度三千メートルに達したところで、四機は水平方向に散開。

 どちらも武器を持たない空戦の、それは幕開けの合図にほかならなかった。


(こいつら、――――)


 ナシムは急旋回の負荷に歯を食いしばりながら、隙あらば背後に回ろうとするスカイウルフを必死に目で追う。

 アクロチームの例にもれず、スカイウルフのパイロットは全員がマドリガーレ空軍のなかから選抜されたトップエリートである。

 そして非武装の高等練習機とはいえ、スカイウルフのポテンシャルは旧来の戦闘機を凌駕する。

 これまで何度か実施された実戦形式の性能テストでは、マドリガーレ空軍のリザード改を一方的に追いかけ回し、撃墜判定を勝ち取っているのである。


 パイロットの技量が同等ならば、まず旧式機に勝ち目はない。

 武器を用いない模擬空戦であっても、完全に背後を取られればそれで終わりだ。

 すくなくとも、地上からこの戦いを眺めている観客たちの目には、はっきりと勝敗が示されるだろう。


(ユーリさんは――――)


 周囲を見渡すまでもなく、サラマンドラはすぐに見つかった。

 紺青色コバルトブルーの機体は、その巨体に似合わぬ俊敏さでスカイウルフを右に左に翻弄している。

 大型機が小型機をいいように手玉に取る。にわかには信じがたい光景を目の当たりにしても、ナシムはべつに驚かなかった。

 彼自身、軽戦闘機のファーブニルを駆りながら、ユーリのサラマンドラには手も足も出なかったのだ。

 パイロットの技量次第で機体の不利を覆しうるという事実は、ナシムを勇気づけるのに充分だった。

 

 スカイウルフがファーブニルの後方に回った瞬間を見計らって、ナシムは操縦桿をめいっぱい手前に引き、スロットルを全開。

 雄々しく竿立ちになった明灰白色ライトグレーの機体は、そのまま天空めがけて急上昇する。

 軽量なファーブニルであっても、重力に逆らった垂直上昇は長続きしない。

 はたして、速度はみるみる落ちはじめ、やがて完全な失速ストール状態に陥った。

 むろん、それはナシムが意図して引き起こした失速だ。

 ユーリが使った手を、今度は自分の手で再現しようというのである。


 プロペラが停止したファーブニルは、慣性に任せるがまま、木の葉が風に流されるように空をすべり落ちていく。

 そのあいだ、ナシムは一切の操作を放棄し、なすがままに任せている。

 やがてファーブニルはひらひらと半回転したあと、機首を下げた姿勢で緩降下に入った。

 危険な錐もみ降下スピンに突入することもなく、操縦桿とフットペダルの反応も正常だ。

 設計段階ですぐれた空力特性を与えられたファーブニルは、同時に強力な復元力をもつ。

 たとえ完全な失速状態に陥っても、高度さえ充分なら機体はひとりでに安定を取り戻すのである。

 パイロットが余計な操作を加えることは、かえってその妨げになるのだ。

 

――自分の力ではどうにもならないと思ったときは、機体を信じることだ。流れに身を任せたほうがうまく行くこともある。


 以前ある男に教わったことだが……と前置きしてユーリが語った言葉を、ナシムはあらためて噛みしめる。


 スロットルを開き、ふたたび加速したファーブニルは、オーバーシュートしたスカイウルフを捕捉する。

 完璧な後方占位。一度この位置ポジションを取られてしまえば、どれほど機動性にすぐれた機体も逃れることは出来ない。

 空戦の決着は一瞬だ。もし実戦であれば、ナシムは迷わずスカイウルフを撃墜していたはずであった。

 ふとサラマンドラに目を向ければ、やはりと言うべきか、もう一機のスカイウルフの後方にぴったりと張り付いている。


 模擬戦の勝敗は誰の目にもあきらかだった。

 二機のスカイウルフは、揃いも揃って旧式機にされたのだった。

 大観衆が見上げるなかで醜態を晒すことに耐えられないとでも言うように、黒い練習機はどちらともなく空域を離脱していく。

 それがバイルシュタインの指示によるものだとは、むろんユーリとナシムは知る由もない。

 そして、往年の名機が勝利を収めたことで沸き起こった大喝采と歓声も、空の上にいる二人には届かなかった。


「ユーリさん――――」

「これでもう邪魔が入る心配はない。おまえはいいが、俺はそろそろ帰りの燃料が心もとなくなってきた。まさかフェアバンティ空軍基地に降りるわけにもいかないからな」

「では、あれを始めてもかまわないのですね」

「タイミングは任せる」


 ナシムは「了解ヤヴォール」と短く答えて、操縦桿を力強く握る。

 サラマンドラとファーブニルは最後の演目を完成させるべく、それぞれの軌跡を描きはじめた。


***


 バイルシュタインが悄然と席を立っても、リーゼロッテは来賓席を動かなかった。

 おのれの敗北をまざまざと見せつけられた婚約者は、彼女についてこいとも、そこにいろとも言わなかった。

 ならばと、リーゼロッテは自分の意志でこの場に残ったのである。

 ナシムとの約束がある。最後まで彼のすることを見届けなければならない。


 軍事とは無縁の世界で生きてきたリーゼロッテには、飛行機のことは分からない。

 それでも、かつてバラトリア王国に赴いた際、往路の貨客船のなかに一機の戦闘機が積まれていたことはよく憶えている。

 自分とおなじ、大竜公国グロースドラッフェンラントから外国への……。

 十七歳のリーゼロッテの胸に不思議な共感を呼び起こした美しい機体――ファーブニル。

 あれから八年あまりの歳月が流れ、大竜公国が地上から滅び去ったいまも、ナシムはその機体を使い続けている。

 彼には自分のことなど忘れていてほしかった。バラトリアの王族として、過去に囚われることなく前に進んでいてほしかった。

 だから、格納庫に佇むファーブニルを見たとき、胸の奥がひどく痛んだ。

 バイルシュタインが「時代遅れの薄汚いガラクタ」とあざわらった古い戦闘機は、ナシムの時計があの日から進んでいないことを物語っているようだった。

 

 見上げれば、明灰白色ライトグレー紺青色コバルトブルーの戦闘機が大空を悠然と舞っている。

 もう一機には誰が乗っているのだろう。

 バラトリアの軍人か、それとも雇い入れた民間のパイロットか。

 分かっているのは、並外れた操縦技術を持っているということだけだ。

 ナシムを恥辱から救ってくれた名も知らないその人に、リーゼロッテは心のなかで深く感謝をささげる。

 

 サラマンドラとファーブニルがふいに編隊を崩し、左右に別れた。

 同時に、白から薄紅色へと、噴射するスモークの色が変わっていく。白色のものとは別に、塗料を混ぜ込んだ発煙油スモークオイルを蓄えたタンクを機内に設置していたのだ。

 二機はめまぐるしくスモークの色を切り替えながら、何度か空中で交差する。

 やがて空に描き出されたのは、美しく咲きほこる大輪の花だった。


 プリムラ――――またの名を”鍵の花シュリュッセル・ブルーム”。

 王宮を去った夜、ナシムの枕元にそっと置いた一輪の花。

 もともとバラトリアには自生していないその花は、リーゼロッテが輿入れの際に大竜公国から一鉢だけ持ち込んだものだ。

 自然の分布域をおおきく外れた南国では、あれから一年と持たずに枯れてしまったにちがいない。

 記憶の彼方に置き去りにしたはずのちいさな花は、いまあざやかによみがえり、リーゼロッテの目交を埋めている。

 

「プリムラの花言葉は”青春の恋”。そして、”永遠の愛”――――」


 万雷の拍手喝采のなかで、リーゼロッテはあるかなきかの声で呟いていた。


 空を見上げる何万人もの観客たちは、誰もその花に込められたほんとうの意味を知らない。

 それは正真正銘、たったひとりだけに向けられたものだ。

 リーゼロッテの青い瞳から熱い涙があふれ、頬を伝っていった。


 すべてはもう手遅れなのかもしれない。

 それでも――と、リーゼロッテは涙を拭うこともせずに空を見上げる。

 私は、あの人のくれた勇気に報いなければならない。

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