空の花束、王子の恋文(六)
二組の曲技飛行が終わったところで、とうとうバラトリア空軍の出番が回ってきた。
ナシムはファーブニルをアイドリング状態に保ったまま、
「
飛行帽に内蔵されたスピーカーが管制官の声を吐き出す。
B1とは、ファーブニルに割り当てられた今回かぎりのコールサインだ。
「B1、
ナシムはプロペラのピッチ角が最低レベルに設定されていることを確認し、車輪のブレーキを解除。
スロットルをわずかに開くと、低い唸り声とともに空冷
フェアバンティ空軍基地の主滑走路はおよそ千五百メートル。
滑走路の両脇ぎりぎりまで観客用のスペースがせり出しているのは、戦闘機をより近くで観たいという要望に応えた結果だろう。
かすかな緊張を覚えながら、ナシムは滑走路上でいったん機体を停止させる。
滑走路の両側から割れんばかりの歓声が上がったのは次の瞬間だった。
――見ろ、ファーブニルだ!
――まだ飛べる機体が残っていたとはなあ。
――しかし、たった一機だけというのは、ちょっと寂しいんじゃないか……。
目の前に現れた往年の名機にむかって、観客たちは思い思いの言葉を口にする。
先に曲技飛行を披露した二組のアクロチームは、どちらも六機編成だった。
航空機としての性能ではファーブニルに軍配が上がるとはいえ、迫力の面で見劣りがするのは否めない。
管制官が興奮した声を上げたのはそのときだった。
「対空レーダー
航空祭の最中に
「管制塔よりB1、非常事態が発生した。離陸は許可出来ない。すみやかに滑走路上から退避せよ」
狼狽しきった管制官に対して、ナシムは落ち着き払った――というよりは、どこか安堵した様子で応える。
「B1より管制塔へ。その必要はない」
「なに?」
「基地に接近中の機はわが僚機である。このまま離陸することを許可されたし」
「バカな、そんな話は聞いていない。……だれか警備中隊を呼べ!! ファーブニルを止めろ!!」
「これはバラトリア政府からの正式な要求だ。苦情なら大使館で聞こう。B1、通信を終了する――――」
言い終わるが早いか、ナシムは通信機のスイッチを切っていた。
両翼フラップをハーフ・ダウン。
空冷十八気筒
充分な加速を得た
主脚を格納したファーブニルが急上昇に移ったのと、飛行場の上空に爆音が響きわたったのは同時だった。
とっさに顔を上げた観客たちの目交に飛び込んできたのは、空の青よりもなお深い
他に類を見ない特徴的な逆ガル型の主翼。戦闘機らしからぬ優美なシルエット。
美しい火竜はみずからの威容を示すように、フェアバンティ飛行場の上空でおおきく旋回する。
――あれはサラマンドラだ!! 幻なんかじゃない、本物のサラマンドラだぞ!!
誰かがそう叫ぶや、観客席にどよめきが広がっていく。
戦後も少数が運用されたファーブニルとは異なり、サラマンドラは大戦の終結とともに完全に姿を消した。
空の戦いにおいて無敗を誇ったサラマンドラは、当時の最先端テクノロジーの結晶でもあった。
空軍上層部はポラリア軍に技術が渡ることを恐れ、かろうじて戦火を生き延びた機体も友軍の手でことごとく破壊・焼却されたのである。
サラマンドラはもはや一機も現存しない――すくなくとも、世間ではそう信じられている。
歴史の闇に消えたはずの世界最強の重戦闘機は、いま、往時の姿もそのままに観客たちの前に現れたのだった。
ナシムはファーブニルをサラマンドラと同高度に上昇させると、無線機の周波数をあらかじめ設定しておいた編隊間通話チャンネルに合わせる。
「ユーリさん、きっと来てくれると信じていました!!」
「予定時刻ぴったりだ。依頼人を一人で踊らせるわけにはいかないからな」
ユーリの言葉はあくまでそっけないが、その声音にはナシムへのたしかな信頼が宿っている。
「始めるぞ。もたもたしていると、余計な邪魔が入らないともかぎらん――――」
通信が終わらないうちに、サラマンドラがファーブニルの上方に出た。
巨体に見合わないすばやさで反転したサラマンドラは、そのままファーブニルの真上で背面飛行に入る。
互いの垂直尾翼が触れ合うかというぎりぎりの距離で背中合わせになった二匹の竜は、そのまま観客席の上を
観客たちが驚きのあまり目を見開いたのは、サラマンドラとファーブニルが
同型の戦闘機同士でさえ難しいとされるバック・トゥ・バック。
それを異なる機種で、しかも瞬時に機位を入れ替えてみせたのは、ユーリとナシムの卓抜した技量の為せる業であった。
二機はいったん別れたあと、おなじ高度を保ったまま正反対の方向へと離れていく。
そうして千メートルほど距離を取ったところで、サラマンドラとファーブニルはともに急旋回。
スモークの白い尾を引きながら、二機は真正面から向かい合うかたちになった。
ユーリとナシムは同時にスロットルを全開し、愛機を加速させていく。
進路はまったく同一。避けようにも距離が近すぎる。数秒後の衝突は火を見るよりあきらかだった。
――ぶつかる!!
二機が重なったのと、観客席から悲鳴が上がったのはどちらが早かったのか。
ほんのわずか機体を傾け、翼端が触れ合うほどの距離ですれ違ったサラマンドラとファーブニルは、そのまま次の
スモークをたなびかせながら、サラマンドラは上方、ファーブニルは下方にむかって
青空に浮かびあがったのは、一筆で書き上げたような美しい8の字だ。
地上から割れんばかりの喝采と歓声が上がった。
興奮に沸いたのは観客だけでない。他のアクロチームのパイロットや整備員、マドリガーレ空軍の将兵たちまでもが二機のパフォーマンスに目を奪われている。
大竜公国の空・海軍を代表する傑作機の雄姿を見逃すまいと、誰もが目をしばたたかせることさえ忘れて空を見上げていた。
***
「司令官、これはいったいどういうことだ?」
バイルシュタインの声は静かな怒気をはらんでいた。
一般の観客席とは別に設けられた来賓用の特等席である。
すぐ隣では、空軍の制服に身を包んだ小太りの中年男がしきりに額の汗を拭っている。
フェアバンティ空軍基地の司令官も、政財界に強い影響を持つバイルシュタインには頭が上がらない。
そのうえ航空祭の開催にあたって多額の
「管制塔からの報告では、ファーブニルの離陸直前にあのサラマンドラが乱入したと……」
「そんなことは見れば分かる。私はなぜ空軍はそんな狼藉をみすみす座視しているのかと聞いているのだ。領空侵犯ではないか!?」
「ナシム・アズラキヤーヴ殿下があの機体は自分の僚機だと主張されたのです。空軍として迎撃機を上げれば、マドリガーレ共和国とバラトリア王国の外交問題になりかねません。なにぶん高度な政治的判断を必要とする案件ですので、私どもの一存ではどうにも……」
保身しか頭にない木端役人めが――。
バイルシュタインは心中で吐き捨てながら、いまいましげに空を睨む。
大観衆のまえでナシム・アズラキヤーヴに恥をかかせてやるつもりが、サラマンドラの乱入で予定はおおきく狂いはじめている。
観客たちはすっかりファーブニルとサラマンドラの飛行に心を奪われている。
それだけならいい。問題は、来賓席にいる各国政府の要人や軍高官までもが熱っぽい視線を送っているということだ。
このままでは、旧式のファーブニルを当て馬として、自社の新型機スカイウルフの高性能ぶりをアピールするという目論見までもがご破算になりかねない。
「よろしい。マドリガーレ空軍が出動出来ない事情は了解した」
バイルシュタインは眉間に皺を寄せながら、司令官にするどい視線をむける。
「軍の戦闘機でなければかまわないのだろう?」
「と、申されますと……?」
「スカイウルフを出す。民間の機体であれば、空軍には迷惑もかからないだろう」
「運営委員長、いくらなんでもそれは……!!」
「心配しなくてもスカイウルフは非武装だ。奴らに模擬空戦を仕掛け、そのまま基地の外に追い出してやる。あのサラマンドラを退けたとあれば、スカイウルフの性能をアピールするにはこれ以上ない好材料になるだろうからな」
自信満々に言い切ったバイルシュタインに、基地司令は困惑した表情を浮かべる。
幸いと言うべきか、五機のスカイウルフに乗り込んでいるのは、マドリガーレ空軍でも指折りのベテランたちだ。
ファーブニルとサラマンドラを基地の上空から追い出す程度であれば、まさか事故も起こるまい……。
「分かりました。しかし、離陸させるのは二機だけです。狭い空域に多数の機体が入り乱れれば空中衝突の危険もあります。いくら運営委員長の希望でも、それ以上の機体を出すことは司令官として承服いたしかねます」
「ふん――」
バイルシュタインはいかにも不服げに鼻を鳴らすと、空に目を向ける。
金で基地司令の横面を引っ叩けばどうなるという問題ではない以上、食い下がっても無駄だと悟ったのだ。
なにより、最新鋭機であるスカイウルフの前では、大戦中の旧式機など問題にならない。
たとえ数の上で優位に立てなかったとしても、スカイウルフの勝利は揺るがないはずであった。
「バイルシュタイン――これ以上あの人を苦しめるのはやめなさい。この式典が終われば、私はあなたのものになります。それで充分でしょう」
頑なに口を閉ざしていたリーゼロッテがふいに発した重々しい言葉は、バイルシュタインをたじろがせた。
すぐに鼻持ちならない自信家の顔を取り戻したバイルシュタインは、太い唇に不敵な笑みを浮かべる。
「勘違いをなさらないでいただきたい、リーゼロッテ嬢。これは私の個人的な感情ではなく、ビジネスの問題なのです」
「バラトリア人は誇りを重んじる民族です。ましてあの人は生まれついての獅子。たわむれのつもりで手を出せば、その手を失うことになりますよ」
「せっかくのご忠告痛み入るが、アードラー大陸ではとうの昔に
吐き捨てるように言って、バイルシュタインは滑走路に視線をむける。
基地司令の命令を受けた二機のスカイウルフは、早くも離陸準備に入ろうとしていた。
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