空の花束、王子の恋文(四)
雨粒が激しく窓を叩いていた。
晴れた日の日暮れ、ごく短時間だけ降る
窓際のスツールに腰を下ろした亜麻色の髪の女は、ぼんやりと雨にかすむ庭園を見つめている。
美しい女だった。
佇まいは成熟した大人のそれだが、年齢はまだ二十五を過ぎてはいまい。
大通りを歩けば誰もが振り返るだろう美貌には、しかし、歳に似つかわしくない
それは抗えない運命に打ちのめされ、若くしてなにもかもを諦めた人間に特有のものだった。
「先ほどから浮かない顔をしておいでですね――――」
ふいに背後から声をかけられて、女はあくまで優雅に振り返った。
それは意図したものと言うよりは、幼いころから無意識に身体に染みついた習い性と言っていい。
女の視線の先に立っているのは、三十がらみの壮漢だ。
整髪油の光沢を帯びた黒髪は頭の形に合わせてぴったりと撫でつけられ、広い額と太い鼻梁をくっきりと際立たせている。
たっぷりとした仕立ての白いダブルスーツと、ネクタイ代わりに巻かれた赤いスカーフの取り合わせが目を引く。
いかにも紳士めいた装いのなかにちらと見え隠れする剣呑な気配は、男が堅気の人間ではないことを無言のうちに物語っていた。
「バイルシュタイン様……」
「そろそろ他人行儀な呼び方はやめていただきたいものですな。私のことはぜひともギュンターとお呼びいただくよう申し上げたはずです、リーゼロッテ嬢」
言って、男――ギュンター・バイルシュタインはやれやれと肩をすくめてみせる。
戛然と靴底を鳴らして窓辺に近づいた彼は、リーゼロッテの視界を覆うように立ちふさがる。
「まったく毎日毎日、うっとうしい通り雨だ」
「……」
「しかし、ご心配は無用です。国立気象台の予報によれば、フェアバンティ航空祭の当日は朝から快晴とのこと――」
気味悪いほどやさしげに語りかけながら、バイルシュタインは左手の薬指をリーゼロッテの前にちらつかせる。
ダイヤモンドがはめこまれた純金の
金に糸目をつけずに作らせたひと揃いの指輪の、それは片割れだった。
「なにしろ戦争を挟んで十年ぶりに復活した空の祭典です。アードラー大陸じゅうから大勢の観客やマスコミが詰めかける。どしゃ降りに見舞われたのでは、せっかくのお祭り気分が台無しというもの……」
「あなたはご自分の会社の商品が宣伝出来ればそれで満足なのでしょう」
「あいかわらず手厳しいお嬢さんだ。否定はしませんが、しかし、それだけではありません」
バイルシュタインはリーゼロッテの顔に手を伸ばし、骨ばった指でほっそりとした顎の輪郭をなぞっていく。
端正な顔をよぎった隠しようのない嫌悪の相も、バイルシュタインを喜ばせただけだ。
「私たちの結婚を世間に発表する場としては、これ以上ない晴れ舞台だ」
「すべてはあなたの思惑どおり。なにもあの人に恥をかかせる必要はなかったはずです――――」
「私は過去にはこだわらない男です。あなたがこれまで誰を愛していたとしても、責めるつもりは毛頭ない。しかし、
バイルシュタインの鳶色の瞳に獰猛な光が宿った。
戦後の混沌のなか、手段を選ばずにのし上がってきた男である。
商売敵を排除するためならば恐喝や誘拐、
財界の若き名士として名声を手に入れたいまも、その本性は闇市でさまざまな悪事に手を染めていた時代から変わっていないのだ。
「大観衆のまえで一国の王子が醜態を晒したとあれば、これ以上ない物笑いの種になる。怖気づいて逃げ出したならなおのことだ」
「……最低ね。私は心底からあなたを軽蔑するわ、ギュンター・バイルシュタイン」
「なんとでもおっしゃるといい。しかし、その最低な男のおかげで、あなたとご家族が首をくくらずに済んだことはお忘れなきよう」
勝ち誇ったようなバイルシュタインの言葉に、リーゼロッテはおもわず顔をうつむかせる。
戦後、アードラー大陸に進駐したポラリア軍によって、大竜公国の王族は地位と資産を剥奪された。
リーゼロッテの生家であり、大竜公に連なる名門中の名門ラインザルツ家もむろん例外ではない。
広大な屋敷や土地は言うまでもなく、預金に株式、先祖伝来の美術品に至るまで、家財のほとんどを手放さざるをえなかったのである。
それでも、かろうじて手元に残った金をやりくりすれば、かつての華やかな暮らしぶりは望めなくとも、一家がささやかに暮らしていくには事足りるはずだった。
慎ましくも平穏な生活が終わりを告げたのは、終戦から三年ほど経ったある日のこと。リーゼロッテの父オイゲンが戦前の上流階級をねらった投資詐欺に引っかかり、財産のすべてを騙し取られたうえ、巨額の借金を背負わされるという事件が起こったのだ。
それからというもの、もともと裕福とは言えなかった一家は日々の食事にさえ困窮するようになった。
大竜公国時代の縁故を頼ろうにも、ラインザルツ家がそうであるように、かつての王侯貴族は経済的にきわめて苦しい状況に置かれている。生まれてこのかた額に汗して働いたことのない彼らにとって、市井での生活はあまりに過酷だったのだ。
いよいよ進退窮まったラインザルツ家に救いの手を差し伸べたのは、戦後の混乱に乗じて巨万の富を築き上げ、新進気鋭の若手起業家として名を馳せていたギュンター・バイルシュタインだった。
バイルシュタインはオイゲンの借金を肩代わりし、一家の生活を保証する見返りとして、ひとつの条件を提示した。
ラインザルツ家の令嬢――リーゼロッテとの婚約だ。
「私の父は辺境の下級貴族、母はその愛人でしてね。物心ついたころから妾の子と蔑まれてきたものです。もし
バイルシュタインはリーゼロッテに背を向け、窓の外に目をやる。
「戦前の社会制度が崩壊したおかげで、私は人がうらやむほどの財産と地位を手に入れることが出来た。しかし、どんな大金を積んだところで手に入らないものがひとつだけある……」
「大竜公の血筋ですか」
「さすがに聡明なお嬢さんだ。本来であれば触れることさえ許されない高嶺の花を摘む機会が巡ってきたのだから、まったく敗戦さまさまですよ」
バイルシュタインの声色にはあけすけな愉悦の響きがある。
リーゼロッテの肩に手を置きながら、成り上がりの男は努めて甘い声で囁きかける。
「しかし、あなたの身の上には同情しますよ。戦争中は祖国のために外国に送られ、戦争が終われば家を救うために見ず知らずの男に嫁がされる。ご家族はあなたのことを道具としてしか見ていないようだ」
「バイルシュタイン。心にもない同情を装って私と我が一族を侮辱しようとしても無駄です。私はそのような言葉に耳を貸すつもりはありません」
「そうして強がる姿も美しく可憐でいらっしゃるが、せめて結婚発表の場では笑顔を見せていただきたいものですな」
呵呵と笑い声を上げたバイルシュタインは、その場で身体を翻す。
ドアが閉まる音を背中で聞きながら、リーゼロッテは窓の外にうつろな視線を向ける。
ガラス越しの景色は白く烟り、爆ぜるような雨音だけが部屋に反響していた。
***
まばゆい日差しが
滑走路に降りたサラマンドラとファーブニルは、格納庫前の
航空祭にむけた曲技飛行の練習の最中である。いったんガソリンとスモークを発生させる
「二人とも、お疲れさま――」
小型
テオはサラマンドラの胴体後部にある給油口を開き、タンク容量の半分だけガソリンを入れる。
あえて満タンにしないのは、機体の重量をすこしでも軽くするためである。
サラマンドラほどの大型機になると、増槽を外した状態でも燃料搭載量はゆうに五百リットルを超える。ガソリンの分だけ機体は重くなり、それに伴って機動性が低下するのは当然の道理であった。
練習中は飛行場の上空から出ることはない以上、半量だけでも燃料切れの心配はないのだ。
「飛ぶたびに連携が上手くなってるよ。
空を見上げれば、いましがた二機が描いてみせたスモークの航跡がまだうっすらと残っている。
時間とともに色は薄れ、風によってだいぶ崩れてはいるものの、付かず離れずの間合いを保ったまま縦横に走る二筋の白煙の帯は、サラマンドラとファーブニルの阿吽の呼吸を伺わせるのに充分だった。
「
ファーブニルの
ゴーグルつきの飛行帽を脱いだ王子の顔には、汗の玉がいくつも光っている。
手放しの称賛は、お世辞でも皮肉でもなく、ひとりのパイロットとしての偽らざる本音だった。
やはりサラマンドラの風防を全開したユーリは、飛行帽を被ったまま、ナシムのほうをちらと見やる。
「自分の腕を卑下しなくてもいい。手加減せずに飛べる僚機は、最も戦力が充実していたころの
「あなたに及第点を頂けたなら、戦闘機乗りとしてこれ以上ない光栄ですよ」
衒いなく言ったユーリに、ナシムは白い歯を見せて微笑む。
ナシムはみずからの技量をユーリに認められたことを喜ぶ一方で、額面どおりに受け取れないこともむろん理解している。
サラマンドラは大柄な重戦闘機だけあって、
遠目にはおなじような
巨大な機体をみずからの手足のように操る技術だけではない。何度も死線をくぐりぬけてきたベテランならではの冷静な判断力と瞬発的な見切りのよさは、いまだ実戦を知らないナシムにはとても真似の出来ないものだった。
「それにしても、ちょっと意外だったな――」
サラマンドラへの給油を終えたテオは、コクピットを覗き込みながら問いかける。
「いったいなんの話だ」
「ユーリ、曲芸飛行なんて興味なさそうだったからさ。ずいぶん慣れてるみたいだったけど、どこかで練習でもしたの?」
ユーリはほんの一瞬考え込むような素振りを見せたあと、
「子供のころ、親父に連れられて一度だけフェアバンティ航空祭を見に行ったことがある――」
ぽつりぽつりと、古い日記のページをめくるように語りはじめた。
「まだポラリアとの戦争が始まる前、
「もしかして、それがユーリが飛行機乗りを目指した理由だったり?」
「さあな。昔のことはよく憶えていない」
かつて大竜公国空軍に存在した伝説のアクロチーム――”
その初代隊長を務めていたのが弱冠二十歳のランドルフ・シュローダー少尉だと知ったのは、ユーリが
昔日の思い出はすっかり色あせても、蒼空を自由に舞う赤い複葉機の姿は、いまもユーリの
「ユーリさん、テオさん、すこし話があります」
ユーリが声のしたほうに視線を向けると、いつのまにかファーブニルを降りたナシムと目が合った。
「次に上がったら、ぜひ練習に加えたい演目があるのです」
「8の字、
「いえ、二機だけで充分です。発煙装置にはすこし改造を加える必要はありますが――」
ナシムは身振り手振りを交えながら、温めていたアイデアを説明していく。
話が一区切りついたところで、ユーリとテオは顔を見合わせていた。
「どうだ、テオ。出来そうか?」
「本番までには間に合うと思う。ただ、機体はすこしだけ重くなるだろうけど……」
「いつも吊るしている
ユーリはこともなげに言って、ナシムのほうに向き直る。
「追加の技術料は必要ない――が、改造にかかった部品代は報酬に上乗せしておく。それでかまわないな?」
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