空の花束、王子の恋文(三)

 星明かりが滑走路に降り注いでいた。

 ユーリは格納庫の壁に長身をもたせかけ、満天の星空を見上げている。

 食事を終えてしばらく経ったいまも、舌には心地よい余韻が残っている。

 空軍ルフトヴァッフェにいたころから、ユーリは食べることにはさして興味を持たなかった。パイロットとしての職務をこなすために必要な栄養を摂取できればそれでよく、味に頓着するのはばかげていると思っていた。

 それでも、美味なものを素直に認めないほどには根性は曲がっていないつもりだ。

 名誉勲章の受賞パーティで振る舞われた料理の味は忘れてしまったが、今夜のことはこのさきも忘れることはないだろう。

 

「こちらにおられましたか――」


 ふいに呼びかけられて、ユーリは声のしたほうにゆるゆると顔を向ける。


「まずいことをしてくれたな」

「夕食はお口に合いませんでしたか?」

「味のことを言ってるんじゃない。人間、舌が肥えるとろくなことがないということだ――――」


 ユーリの言わんとすることを察してか、ナシムの高雅な面上にやわらかな微笑みがよぎる。

 後ろ手に回していた手が動いたかとおもうと、ユーリの目の前に小ぶりなグラスが二つ差し出された。

 もう一方の手に握られているのは、戦前に醸造されたビンテージワインだ。


「一杯いかがです? 大使館のワインセラーから失敬してきた逸品ですよ」

「俺は酒はやらん。煙草もな」

「それは意外です。アードラー大陸の戦闘機パイロットは、皆さんその二つがお好きなものとばかり」

「酒は酔いから覚めてもしばらくは判断力が鈍る。煙草は……」


 ユーリの脳裏に浮かんだのは、懐かしくも忌まわしい戦争中の記憶だ。

 両切りタバコのむせるようなフレーバー。

 ゆれる紫煙の向こうからこちらを見つめている隻眼の男。そのするどい視線……。

 空軍ルフトヴァッフェの黒い軍服をまとった姿はおぼろにかすみ、幻のように消えていった。

 

「……パイロットは肺が生命だ。おまえも長く飛びたいなら煙草はよせ」

「肝に銘じておきます」


 上官の命令に答えるような口調で言って、ナシムはちらとユーリを見やる。


「隣、かまいませんか?」

「好きにしろ。いちいち俺の許可を取る必要はない」

「では、遠慮なく――」


 承諾を得たが早いか、ナシムはユーリからすこし離れたところで胡座をかく。

 王家の一員であってもじかに地面に座ることにさほど抵抗はないらしい。アードラー大陸とバラトリアの文化の相違であった。

 

「私に訊きたいことがあるのでは?」

「なぜそう思う」

「今回の一件、あなたにとっては不可解なことだらけでしょう。こうして依頼を請けてもらえたのが不思議なほどですよ」

「依頼人の個人的な事情には立ち入らないことにしている。報酬さえ契約どおりに払ってくれれば文句はない」


 ユーリは突き放すように言って、ついと夜空を仰ぐ。


「話したければ勝手に話せ。聞く保証はないが、べつに止めるつもりはない」


 そっけないユーリの言葉に、ナシムはおもわず安堵に頬をゆるませる。

 それも一瞬のこと。貴公子の秀麗な面立ちに差したのは、深い憂いの影だった。


祖国バラトリアの名誉を守るために航空祭に出場するというのは建前です。ほんとうはひとりの女のために飛ぶのだと言ったら、あなたには心底から呆れられてしまうかもしれませんね――」


 ナシムは指先でグラスをいらいながら、ぽつりぽつりと語りはじめた。


***


 一九四三年の夏――。

 十五歳の誕生日を迎えたばかりのナシムは、父であるサイイド・アズラキヤーヴ国王から突然の呼び出しを受けた。

 軍学校の制服のまま王宮に駆けつけたナシムに、父王は王族の正装に着替えたうえで自分についてくるよう命じたのだった。

 事情は飲み込めないものの、バラトリアにおいて国王の命令は絶対である。言われるがままに父王に付き従い、長い渡り廊下をとおって離宮へと足を踏み入れる。


 離宮の奥で二人を待っていたのは、ひとりの少女だった。

 年の頃は十六、七歳ほど。

 白く透き通った雪色の皮膚はだえに、陽光を浴びて輝くような亜麻色の髪がひときわ映える。

 しばらく茫然とその場に立ち尽くしていたナシムは、にわかに早くなった鼓動を自覚してはたと我に返った。


 幼いころからナシムのまわりには大勢の女たちがいた。

 乳母を始め、身の回りの世話をする大勢の女官たち、あでやかな花々のような後宮ハレムの美女たち……。

 いまナシムの目の前に佇む少女は、しかし、これまでの人生まで見てきたどの女ともまるで異なる雰囲気を漂わせていた。

 バラトリア人とはちがう肌や髪の色のせいではない。バラトリアの王宮には他国の外交官が頻繁に出入りしている。晩餐会が催された際などは、彼らの妻や娘とおぼしき若い女を見かけることもしばしばだった。

 異国の少女を前にしたからといって、胸が高鳴る理由も、言葉が出てこない理由もない。――そのはずだった。


 唇を結んだまま立ち尽くすナシムを見つめて、少女は涼やかな声でみずからの名前を告げる。

 

「リーゼロッテ・ラインザルツ・ゼッケンドルフと申します。どうかお見知りおきを、ナシム・アズラキヤーヴ殿下――――」


 ゼッケンドルフという名前は、ナシムも聞き覚えがある。

 アードラー大陸を支配する大竜公国グロースドラッフェンラントの王族だ。

 バラトリア王国と同盟関係にある大竜公国は、北方の大国ポラリアと長いあいだ戦争を続けている。

 ここ何年かは劣勢が続き、本土に攻め込まれるのも時間の問題だという。

 海外の事情に通じた家臣たちが言うには、この戦争はおそらく大竜公国の敗けだろうと――。

 ふいにナシムの背中を父王の分厚い掌が叩いた。


「ナシム、あいさつをせんか。リーゼロッテ姫は大竜公ドラッフェン・ヘルツォークジギスムント殿の姪御であり、おまえの妻になる方でもあるのだからな」


 父王が口にした言葉の意味をナシムが理解するまでには、わずかな時間を必要とした。


「父上――国王陛下、これはいったいどういうことなのですか!?」

「先だって大竜公国からわがバラトリア王家と婚姻を結びたいとの申し出があったのだ。わしの息子たちのなかでおまえだけがまだ妻を娶っておらん。士官学校も来年には卒業することだし、嫁娶にはいい機会であろう」


 こともなげに言ってのけた父王に、ナシムは二の句を継ぐことも出来なかった。

 

「もう決まったことだ。リーゼロッテ姫はまだバラトリアの文化や習慣に不慣れゆえ、ナシム、おまえがしっかりと面倒を見るのだぞ」


 飄々とした父王の言葉には、しかし、有無を言わせない重みがある。

 たとえ血を分けた実の息子であっても、ひとたび国王が下した決定に異を唱えることは許されない。

 まして国同士の政略結婚となればなおさらだ。国家間のパワーバランスにかかわる問題であるなら、個人の意志が介在する余地などもとより存在しないのである。

 そのことはむろんナシムも理解しているが、だからといって胸のざわめきが霧散するはずもない。

 

 ともかくも、その日から二人の新しい生活が始まった。

 ナシムは軍学校で講義と訓練を受けたあと、リーゼロッテのいる離宮で過ごすよう父王から命じられたのである。

 リーゼロッテに一日も早くバラトリアでの生活に慣れてもらうという名目だが、婚礼に先駆けて関係を深めさせようという両国の――実際には大竜公国側の――思惑がある。

 そんな周囲の期待とは裏腹に、ナシムはまともにリーゼロッテと目を合わせることも出来ず、ぎこちない会話を交わすのがせいいっぱいだった。


 そうして三週間が経ったころ、ナシムは意を決したように切り出した。


「リーゼロッテ姫。ひとつ、あなたにお尋ねしたいことがあります」


 小刻みに震える喉をなだめつつ、ナシムはようよう言葉を重ねていく。


「今回の縁談、あなたは本当に納得されているのですか。生まれ故郷を離れ、他国の王室に嫁いでもかまわないと……?」

「すべて承知の上です。祖国を救うことが出来るなら、私個人の意志など問題にはなりません」


 ためらいがちに問うたナシムに、リーゼロッテは至って冷静な声で答えた。

 十代の少女らしからぬ落ち着き払った態度は、相手が年下の少年だからというだけではない。

 祖国の命運が自分の肩にかかっているという責任がリーゼロッテを支えているのだ。


「ナシム殿下も軍人なら、大竜公国が厳しい状況に置かれていることはご存知でしょう」

「……知っています」

「バラトリア王家と姻戚関係を結べば、石油や鉱物資源を安定して入手することが出来るようになります。このさき戦局がいっそう悪化した場合には、ポラリアとの和平交渉の仲介を依頼することも……」

「つまり、あなたは祖国を救うためにバラトリアに引き渡されたというわけですか」

「そう思ってくださってかまいませんよ」


 ナシムの礼を失した言葉にも眉ひとつ動かすことなく、リーゼロッテは首を縦に振っただけだ。


「兵器の設計図と技術資料――そして大竜公ジギスムント陛下の姪であるこの私。それが大竜公国がバラトリアに提示した協力の代価です。国王陛下がおっしゃられたように、すべてはもう決まったことなのです」


 リーゼロッテの言葉には、自分はあくまで兵器の付随物にすぎないといった自虐的な響きがある。

 事実、バラトリアが真に欲しているのは、世界最高峰と名高い大竜公国の兵器開発技術だった。

 バラトリアは豊富な天然資源にめぐまれた一方、重化学工業の分野では大竜公国やポラリアにおおきく水を開けられている。資源と引き換えに最新技術を手に入れることが出来るなら、バラトリアにとってはまさに渡りに船だった。

 リーゼロッテがバラトリア王家に嫁いだのには、大竜公国が契約を履行するにあたって立てられた保証人としての側面もある。

 万が一、提供された設計図の内容に虚偽や欠落があったなら、その罪は彼女の生命で贖うことになるのである。


「ちがう……僕が聞きたいのは、そんな言葉じゃない」


 やおら立ち上がったナシムは、勇気を振り絞ってリーゼロッテに歩みよる。


「殿下?」

「リーゼロッテ――――自分を犠牲にして祖国を救おうとするあなたの覚悟はりっぱだ。おなじ王族として心から尊敬する。だけど、生まれてはじめて心から好きになったかもしれない女性ひとにそんなことを言われた男がどんなみじめな気持ちになるか、あなたはこれっぽっちも考えたことはないだろう」


 ナシムの言葉によほど驚いたのか、リーゼロッテはきょとんとした顔で目を瞬かせるさせるばかりだった。


「無理に僕のことを好きになってくれなくてもいい。嫌いならそれでもかまわない。だけど、仕方のない運命みたいに言うのだけはやめてくれ」

「私にどうしろとおっしゃるのですか?」

「大竜公国の姫だと知るまえから、僕はあなたに惹かれていた。だから、あなたも僕をバラトリアの王子ではなく、ナシム・アズラキヤーヴというひとりの人間として見てほしい。そのうえで好きになってくれたら、こんなにうれしいことはないけれど……」


 どこまでも真摯な少年の訴えに、リーゼロッテの白い頬はみるまに薔薇色に染まっていく。

 やがて愛らしい目尻からとめどもなく涙があふれるのを認めたナシムは、あわてて謝罪の言葉を口にする。

 リーゼロッテは声を押し殺したまま、ふるふると首を横に振るばかりだった。

 喜びのために流した涙だと気づくには、少年はまだ幼すぎた。


***


「本気で誰かを好きになったのは、後にも先にも彼女だけでした」


 ナシムは夜空を見上げながら、過ぎ去った日々を懐かしむように呟いた。


「それからどうなったんだ」


 傍らで黙りこくっていたユーリが反応を示したことがよほど意外だったらしい。

 ナシムはしばらく目を瞬かせていたが、やがてふっと息を吸い込むと、ひとりごちるみたいに語りはじめた。


「婚礼の一月ひとつきほど前、リーゼロッテはなにも言わずに私のまえから姿を消しました。手紙も言伝てもなく、ただ彼女が好きだったプリムラの花だけが私の枕元に置かれていました」

「逃げ出したのか?」

「いいえ。……ずいぶん後になって知ったことですが、父がむりやり大竜公国に送り返したんです。そのころには大竜公も代替わりしていましたし、なにより戦後のポラリアとの外交を考えれば、敗戦国の姫を王室に置いておくメリットはないと判断したのでしょう」


 ユーリはなにも言わず、ナシムの言葉に耳を傾けている。


「バラトリアは大竜公国の同盟国でありながら、戦火に巻き込まれることも、戦争責任を追及されることもありませんでした。いくらかの石油を提供する見返りに当時最新の戦車や戦闘機の技術を手に入れたのですから、あの戦争で美味しいところだけ掠め取っていったようなものですよ」


 自嘲するように言って、ナシムは手にしたグラス同士を軽くすり合わせる。


「もう終わったことだと頭では理解していても、未練はそう簡単に振り切れないものです。駐在武官としてアードラー大陸に赴任してから、ほうぼうに人をやってリーゼロッテの行方を探させました」

「それで、彼女の消息は掴めたのか」

「ええ。ほかの旧王族とおなじように、戦後は世間から隠れるようにひっそりと暮らしていました。分かったことはほかにもあります。彼女の父が詐欺によって多額の借金を抱えたこと、その返済を肩代わりしたとリーゼロッテが婚約したこと……」


 ナシムは一語一語、痛みをこらえるように言葉を継いでいく。

 最愛のひとが味わった苦難と屈辱、手を差し伸べることも出来なかった自分の無力さに思いを致すたび、貴公子の胸は何度でも引き裂かれるのだった。


「ギュンター・バイルシュタインと言えば、ユーリさんもご存知でしょう?」

「名前くらいはな。戦争が終わったあと、軍の備蓄品を闇市で売りさばいて荒稼ぎしたのなかでも一番の大物だ」

「そのとおりです。そして、彼はフェアバンティ航空祭の後援者スポンサーでもあります」


 ナシムの声のトーンがふいに低くなった。

 眉間に刻まれた皺が表すのは怒りか苦悩……あるいは、その両方であるのかもしれなかった。

 ユーリはなにも言わず、ナシムの次の言葉を待っている。


「バイルシュタインがどこで私とリーゼロッテの関係を聞きつけたのかは分かりません。それでも、名指しで挑戦を受けたからには、彼女のためにも逃げるわけにはいかないのです――――」

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