空の花束、王子の恋文(二)
「あの、よかったらどうぞ……お口に合うといいんですけど」
湯気の立つティーカップをテーブルに置いて、テオはためらいがちに言った。
なめらかな肌合いの白い陶磁器は、ふだんは応接室の棚に飾られているとっておきの逸品だ。
とっておきなのは器だけではない。カップを満たした薄紅色の茶は、かつては
ユーリとテオが日ごろ水代わりに飲んでいる一山いくらの特売品とは、味も値段もまさしく別格なのだ。
「ありがたくいただきます――――」
バラトリア空軍の白い
年齢は二十歳をすこし過ぎたかというところ。
濃褐色の肌と、濡れたような艶を帯びた美しい黒髪。アーモンド型の双眸に息づくのは、碧色の澄んだ瞳だ。
目鼻立ちのくっきりとした端正な面立ちは、高雅な気品にあふれている。
アードラー大陸の諸民族とは人種的特徴を異にしているものの、衆目を集めるほどの美男子であることにはちがいない。
ナシム・アズラキヤーヴ。
南洋の島国・バラトリア王国の第三王子は、サラマンドラの後を追って飛行場に降り立ったのだった。
なんの前触れもなく訪れた珍客に、社内が上を下への大騒ぎになったことは言うまでもない。
テオはファーブニルを格納庫に誘導するかたわら、殺風景な応接室をせいいっぱい華々しく飾り付け、とびきりの茶葉と茶器を用意したのだった。
そんな苦労を知ってか知らずか、当の本人はあくまで優雅に淹れたての茶を味わっている。
そんなナシムをテーブルごしに見据えて、ユーリは無表情で安物を啜る。
「こいつは勝手に俺のあとにくっついてきただけだ。わざわざ上等な茶をふるまってやることはない」
「ユーリ、この人は本物の王子様なんだよ! あんまり失礼なこと言わないでっ!」
そんな二人のやり取りを眺めて、ナシムはふっと目を細める。
カップをソーサーに置いた異国の貴公子は、あらためてユーリに向き直る。
「先ほどは失礼しました。凄腕とうわさのサラマンドラ航空郵便社の実力がどれほどのものなのか、どうしても確かめたかったのです。もっとも、あの速度でオーバーシュートしたときは、さすがに肝を冷やしましたけどね」
「あやうく墜落死するところだったという自覚はあるようだな」
「戦闘機乗りにとって、空の上で起こったことはすべて自分の責任です。たとえあのまま死んでいたとしても、あなたを恨みはしませんよ」
秀麗な面容にやわらかな微笑みを浮かべたナシムは、こともなげに言いのける。
彼の愛機ファーブニルは、すべての武装を取り外したうえで、バラトリア大使館が所有する自家用機として登録されている。
現役の空軍大佐でもあるナシムにとって、戦闘機の操縦はたんなる趣味にとどまらず、パイロットとしての腕を鈍らせないために不可欠なトレーニングでもある。
そんな彼が僚機も連れずに洋上飛行をおこなっていた最中に墜落死したとしても、不幸な、しかしよくある航空事故として処理されるのが関の山だ。
いったん地上を離れてしまえば、戦闘機パイロットはコクピットという孤独な牢獄に閉じ込められた囚人にひとしい。
どれほど高貴な血筋に生まれついた人間だろうと、その宿命からは逃れられないのだ。
「ユーリさん。あなたをアードラー大陸で最高のパイロットと見込んで、どうしてもお願いしたいことがあるのです」
「どこでそんな与太話を聞いたのか知らないが、勧誘の類なら他を当たることだ。俺はどこの軍にも入るつもりはない」
「もちろん仕事の依頼ですよ。ふだんのお仕事とはだいぶ毛色が違うかもしれませんが――」
「くわしく説明してもらおう」
ユーリが話を聞くつもりがあると分かって、ナシムは表情をわずかにゆるませる。
それも一瞬のこと。ナシムは至って真剣な面持ちでユーリに問いかける。
「お二人はフェアバンティ航空祭をご存知ですか」
「それって、大陸間戦争が始まる前に
おずおずと答えたのはテオだ。
ナシムは首肯しつつ、なおも言葉を継いでいく。
「アードラー大陸でもっとも歴史ある空の祭典です。戦争のためしばらく休止していましたが、さる資産家の
あくまで穏やかに語るナシムの瞳には、深い苦悩の色が浮かんでいる。
「航空祭の目玉は、各国のアクロチームが腕を競う
「あれだけうまくファーブニルを操れるなら、なんの問題もないだろう」
「いま現在、アードラー大陸にいるバラトリア空軍のパイロットは私だけです。本国にいる部下たちを呼び寄せるには、すくなくとも一ヶ月はかかる。航空祭まではあと二週間ほどですから、とても間に合いません」
「つまり、このままではたったひとりでショーに出場するはめになるということか?」
「そのとおりです。……そして、彼らはこちらの事情をすべて把握したうえで、あえて私に恥辱を与えようとしているのです」
重い沈黙が三人のあいだを充たしていった。
ユーリとテオは、どちらも唇を結んだまま、ナシムの言葉にじっと耳を傾けている。
ややって、ナシムは一語一語、重い塊を吐くように願いを口にした。
「ユーリさん、無理は承知でお願いします。どうか私のチームメイトとして、いっしょにフェアバンディ航空祭に参加していただけませんか――――」
***
陽が傾いてから、薄闇が飛行場を包むまでそう長くはかからなかった。
いま、電灯に照らされた格納庫に整然と並ぶのは、
CaZ-175E-7”サラマンドラ”――。
GA-35/M44”ファーブニル”――。
どちらも
かつて戦場の空に君臨した人造の竜たちは、終戦から五年あまりの歳月を経てなお色褪せぬ輝きを放っている。
二機がまとう研ぎ澄まされた刃物のような凄気は、現役の戦闘機ならではのものだ。
戦闘機にとっての現役とは、なにも実際に敵機と銃火を交えるばかりではない。
機関砲を取り外し、二度と爆弾や魚雷を積むことはなくても、目的をもって飛び続けているかぎり、その切れ味が鈍ることはないのである。
サラマンドラのコクピットで電気系統の動作確認を行っていたユーリは、ひととおりチェックを終えたところで、機体から降りた。
そのままファーブニルに近づくと、主脚のあたりでもぞもぞと動いていた黒い影にむかって声をかける。
「そっちはどうだ、テオ?」
「大丈夫……って言いたいとこだけど、僕もグレースアリシア製の機体をいじるのは初めてだから、慣れるまではちょっと大変かも。やっぱりカールシュタット・ザウアーで作られた機体とはあちこち勝手が違うからさ」
作業着に飛び散ったオイルを気にも留めず、テオはふっとため息をつく。
「でも、心配しないで。まだ時間もあるし、本番までにはなんとかしてみせるよ」
先ほどからテオが取り組んでいたのは、ファーブニルへの発煙装置の設置だ。
正確には、機体の外板をいったん取り外し、
発煙装置の構造そのものはさほど複雑なものではない。発煙油もありふれた
飛行場にある工作機械と資材を用いれば、一両日中にはサラマンドラとファーブニルに搭載出来るはずだった。
テオはちらとユーリの顔を見やると、にっと相好を崩す。
「それにしても、ちょっと驚いちゃったな」
「なにがだ?」
「ユーリが今回の仕事を引き受けたことさ。僕はてっきり断るものだとばっかり思ってたんだよ。”俺は曲芸師じゃない”――とかなんとか言ってさ?」
いたずらっぽく言ったテオに、ユーリはあくまでそっけなく応じる。
「奴の金払いがよかったからだ。それ以外の理由はない」
ナシムが二人に提示した報酬は、たしかに一度の仕事としては破格のものだった。
すくなくともむこう一年は
しかも、結果の如何を問わずに満額を支払うというのだから、会社としてはこれ以上ない上客といえた。
異例の依頼とはいえ、いったん仕事を請けたからには失敗は許されない。
フェアバンティ航空祭までの二週間のあいだ、ナシムは大使館での公務をこなしながら可能なかぎり飛行場に足を運び、ユーリと曲技飛行の練習に励むことになる。
「あの男は報酬を支払い、俺たちはその分だけ働く。顧客との契約はそういうものだ。それ以上でもそれ以下でもない……」
「とかなんとか言って、本当は王子様に力を貸してあげたくなったんでしょ」
「なぜそう思った?」
「僕たちが何年いっしょにいると思ってるのさ。ユーリの考えてることくらいお見通しだよ――」
テオが得意げに言ったのと、格納庫の入り口のあたりで足音が生じたのは同時だった。
二人の視線の先には、バラトリア空軍の白い
むろん、ナシムの持ち物ではない。なにかと汚れやすい飛行場に純白の制服では都合が悪かろうと、ユーリが予備の作業服を貸し与えたのだ。
「二人とも、お疲れさまです。夕食の準備が出来ましたよ!」
ナシムに誘われるまま、ユーリとテオは食堂に足を運ぶ。
自分には整備の手伝いは出来そうにないからと、ナシムはみずから食事の用意を申し出たのである。
そんなことはしなくていいと言う二人の制止をなかば無視して、貴公子はさっさとキッチンに入っていったのだった。
食堂の扉を開けたとたん、テオはおもわず「あっ」と声を上げていた。
テーブルの上では、香ばしい焼き目がついた丸鶏があたたかな湯気をくゆらせている。
およそ飾り気のない食堂にあって、高級レストラン顔負けの豪勢な料理はひときわ目立つ。
飛行場のキッチンに常備されている食材はさほど多くはない。
テオがいつも街で買い込んでくる豆の缶詰と燻製のベーコン、チーズ、そして日持ちがする堅焼きパンといった品々だ。
ふだんは炊事担当のユーリがそれらの食材を適当に組み合わせ、肉と豆のスープにパン、飽きが来ないようにときどき大麦と豆の粥といった質素な献立で日々をやりくりしてきたのである。
それにしても、冷蔵庫もないというのに、丸鶏などいったいどこから調達してきたのか――。
てきぱきと配膳をこなしながら、ナシムは問わずがたりに料理の説明をしていく。
「野鳥は飛行場の裏の山で獲ってきたものです。内臓をくり抜いたところに臭み消しの野草を詰めて、山葡萄のソースでロースト風に仕立ててみました。お口に合えばいいのですが――」
しばらく恍惚と料理を見つめていたテオは、はっと我に返ったようにナシムに問いかける。
「すごい!! でも、王子様なのにいったいどこでこんなすごい料理を?」
「狩りは王族の嗜みですから。それに十歳のときから軍学校でしごかれたおかげで、炊事や洗濯もひととおりこなせるようになりました」
どうもおかしなことになった――。
心中でつぶやきながら、ユーリは皿に取り分けられた肉を口に運ぶ。
香草のかおりと山葡萄の酸味が野鳥の臭みを打ち消している。火の入れ方と塩加減も申し分ない。
たしかにうまい――が、しかし、これはどうにもまずい。
このさき、テオにこういうものを期待されると、炊事担当としてはだいぶ困ったことになる……。
ユーリは肉を嚥下しながら、ナシムとテオに気取られぬようにわずかに片眉を寄せた。
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