サラマンドラ航空郵便社Ⅱ

ささはらゆき

第一話:空の花束、王子の恋文

空の花束、王子の恋文(一)

 夏の太陽が海面うなもを銀色に輝かせていた。

 陸地をとおく離れた洋上には、潮風のほかに音もなく、空と海のふたつの蒼が見渡すかぎりを占めている。

 

 あざやかな紺青色コバルトブルーの機体が薄雲を裂いて飛んでいく。

 液冷発動機エンジン搭載機ならではのスマートな機首と、ゆるやかなW字を描く逆ガル型の主翼。

 大柄でありながら、徹底的に贅肉を削ぎ落とされたしなやかな姿形プロポーションは、戦うために生み出された機械であることを無言のうちに物語っている。

 

 CaZ-175E-7”サラマンドラ”。

 先の大戦において最強の名をほしいままにした、大竜公国グロース・ドラッフェンラント空軍がほこる重戦闘機。

 三千馬力のすさまじいパワーを宿したアルモドバルALD-X24T Mk.Ⅲ液冷X型二十四気筒発動機エンジン――”竜の心臓”が打ち鳴らす爆音を轟かせながら、サラマンドラはあくまで優雅に飛翔する。

 まるで万古のむかし、天地が開闢したその瞬間から変わらずにそこに存在していたような悠然たる佇まい。

 終戦から六年を経てなお他の戦闘機を寄せつけない美しい火竜は、雄大な空と海のあいだに息づくもうひとつの蒼にほかならなかった。

 

 風防キャノピーの外に広がる景色を見つめていたユーリは、ふと正面の計器盤に視線を落とす。

 パッサカリアまでの配達を終えた帰路である。

 さいわいパッサカリア空・海軍の哨戒網に引っかかることもなく、往復ともに戦闘を避けることが出来た。

 かすかに揺れ動いている燃量計フューエル・メーターの針は、機内タンクにまだ半分以上のガソリンが残っていることを示している。

 せわしなく上昇・下降や急旋回をおこなう空中戦は、いきおい大量の燃料を消費する。

 裏を返せば、戦闘に巻き込まれさえしなければ、サラマンドラは二千キロ以上の距離を無補給で飛行することが可能なのだ。

 

(マドリガーレの領海に入ったか……)


 彼方に広がる海岸線に視線を移して、ユーリは心中で呟く。

 先ほどからユーリの目交まなかいを流れていく白茶けた断崖は、見慣れたマドリガーレのそれだ。

 実情はポラリアの属国とはいえ、建前の上ではパッサカリアとマドリガーレはれっきとした主権国家である。

 いったんマドリガーレの領海内に入りさえすれば、もはやパッサカリア空・海軍の追撃は及ばない。

 領空侵犯機を深追いするあまり、みずからも領空侵犯機となるような愚は、正規軍のパイロットであれば絶対に犯さないのだ。


 このまま海岸線に沿って飛びつづければ、サラマンドラはあと一時間たらずで飛行場に帰還出来る。

 もっとも、それはの話だ。

 数多の戦いに鍛えられた竜騎士ドラッフェンリッターの目は、雲の切れ間に機影を認めていた。

 

「――――」


 サラマンドラは機体をおおきく傾がせながら急上昇。

 敵の正体を見極めるよりも早く回避行動を取ったのは、パイロットとしての本能的な動作だった。

 相対高度は敵のほうが高い。空戦において、彼我の位置取りはそのまま勝敗に直結する重要な要素だ。

 それに、相手がこのままサラマンドラを追いかけるつもりなら、おのずと正体は知れるのである。

 

 はたして、敵機もサラマンドラを追って上昇を開始した。

 高度六千メートルを超えたところで、両機は付かず離れずの距離を保ったまま水平飛行に入る。

 風防キャノピーごしに明灰白色グレーホワイトの機体がちらつく。

 その姿をはっきりと認めたとたん、ユーリは訝しげに眉根を寄せていた。

 

 無骨なポラリア軍機とは似ても似つかない、機首から尾翼までなめらかに繋がった流麗な輪郭シルエット

 後縁にむかってゆるやかな逆三角形を形作る幅広のテーパー翼、フェアリング周りに整然と配置された竜の鱗を思わせる単排気管エグゾーストパイプ……。

 細部は違えど、サラマンドラと同様、かつて大竜公国で開発された戦闘機の特徴が随所に表れている。

 

(ファーブニル――)


 GA-35”ファーブニル”。

 戦時中の一九四一年、海軍の要求によってグレースアリシア社が開発した艦上戦闘機である。

 若くして世を去った天才設計者ローデリヒ・マクスウェルの手になる同機は、大竜公国のとしてつとに名高い。

 最優秀とは、ファーブニルのすぐれた生産性と整備の容易さ、空母での過酷な運用をものともしない耐久性を評したものだが、むろんそれだけの機体ではない。

 一九四三年の末にサラマンドラがロールアウトするまでは、まちがいなくファーブニルは大竜公国におけるでもあったのだ。

 

 数次の改良を経て、終戦まで海軍航空隊の主力機として活躍しつづけたファーブニルだが、現存する機体はきわめてすくない。

 アードラー大陸に進駐したポラリア軍によって、飛行可能な機体の大半がスクラップとして処分されたためだ。

 戦後まもなく始まった各国の再軍備計画においても、おなじグレースアリシア社製のGA-41”リザード”が主力機として抜擢されたのとは対照的に、ファーブニルの存在は徹底的に黙殺された。

 一説には敗戦国が強力な戦闘機を保有することをよしとしないポラリア政府の意向とも言われるが、真相はいまなお謎に包まれている。

 現在はパッサカリア海軍でごく少数が艦載機として運用されているが、これが唯一の配備例であった。

 

(……パッサカリア海軍の機体がここまで追ってきたのか?)


 常識的には考えにくいことだ。

 戦闘機部隊は通常なら三機から四機、最低でも二機編隊を組んで行動するのがセオリーであるにもかかわらず、単機で飛行しているのも奇妙だった。

 しかし、現にファーブニルはそこにいる。幻などではない。

 

 そうするあいだにも、ファーブニルとサラマンドラの距離は着実に近づきつつある。

 二種類の異なる爆音はまじりあい、それでいてけっして融け合うことはない。

 どちらもアルモドバル官立工廠製の過給器スーパーチャージャー付き発動機エンジン

 ただし、サラマンドラが冷却手段として高効率かつコンパクトな液冷方式を採用したのに対して、ファーブニルは信頼性に重きをおいた空冷方式である。

 基本的に陸上で運用される空軍機とはちがい、艦載機の戦場は洋上だ。見渡すかぎりの海の上では、機材のトラブルはまさしく死活問題となる。

 性能を犠牲にしても確実な作動性を重視する――それは、海軍のあらゆる艦載機に通底する設計思想だった。

 

 刹那、蒼空に甲高い排気音エグゾーストノートがこだました。

 ファーブナルは排気管から炎を吐き出しながら急加速。明灰白色の機体に陽光をきらめかせ、猛然とサラマンドラの上方に出る。

 息を潜めてそのときを待っていたもう一匹の竜は、ついにその牙を剥いたのだ。

 

 ユーリはとっさにフットペダルを踏み込み、操縦桿を横に倒す。

 サラマンドラに内蔵された油圧による操縦補助システム――”竜の血ドラッフェンブルート”は、人間の腕力をはるかに超えた力で動翼を駆動させることが出来る。

 強大な機械力に突き動かされた蒼い巨体は、おどろくべき俊敏さで躍動する。

 ファーブニルとサラマンドラはたえまなく位置を入れ替えながら、空に描いた二条の白い航跡を絡ませていく。

 

 ファーブニルの最大の武器は、その卓越した空戦性能である。

 軽量で剛性の高い機体と、二千馬力級の倒立V型発動機エンジンの組み合わせは、ファーブニルにあらゆる戦闘機のなかでも一頭地を抜く運動性を与えた。

 最終生産型の四四型モデル44ともなれば、その推力重量比パワーウエイトレシオはサラマンドラをもしのぐほどなのだ。

 大戦後期、ポラリアが送り込む新型機に苦戦を強いられながら、高度四千メートル以下での格闘戦ドッグファイトは依然としてファーブニルの独擅場だったのである。

 

(奴の十八番に付き合ってやる義理はない――)


 雲塊に突っ込んだ直後、ユーリはすばやく操作に移っていた。

 空燃比を最高濃度リッチに切り替え、スロットルを緊急出力に入れる。

 回転速度計タコメータの針がするどくはね上がり、レッドゾーンを叩く。ブーストゲージと燃料流量計も同様だ。

 いま、三千馬力を秘めた”竜の心臓”は、そのおそるべき力のすべてを解き放とうとしている。

 地鳴りのような雄叫びを上げてサラマンドラが加速していく。

 

 直後、すさまじい加速度によって、ユーリの身体はシートに押し付けられていた。

 巨人の手に内臓をわしづかみにされたような感覚は、サラマンドラの全開加速時ならではのものだ。

 一般人は言うに及ばず、訓練を受けた戦闘機パイロットであっても、たまらずに音を上げるほどであった。

 ユーリはぐっと歯を食いしばり、薄緑色の燐光をはなつ光学照準器を睨めつける。


 サラマンドラはほとんど竿立ちになるような格好で急上昇。

 雲海ははるか眼下に遠ざかり、空の色はいっそう濃さを増していく。

 操縦桿を戻しつつ、ユーリはすばやく高度計に目を落とす。高度はおよそ一万二千メートル。

 ほんのすこし前までしつこく追いすがっていたファーブニルの姿は、もはやどこにも見当たらない。

 空冷式発動機は、高度が上がるにつれて出力が低下していく欠点をもつ。

 性能を十全に発揮できる飛行領域フライトエンベロープは、液冷式の発動機を積んだサラマンドラのほうが広いのである。

 

 ユーリはふっと安堵の息を吐きかけて、そのまま身体をこわばらせた。

 サラマンドラとはべつの爆音が風防ガラスを震わせている――気のせいなどではない。

 空冷発動機エンジンの甲高い音がすこしずつ近づいてくる。

 

「――――!!」


 ユーリは迷わずに操縦桿を倒していた。

 サラマンドラが機体を横転させたのと、ファーブニルが下方から突っ込んできたのは、ほとんど同時だった。

 ファーブニルは緩降下で速度を稼いだあと、一気に上昇に転じたのだ。

 並の戦闘機であれば空中分解しかねない危険な挙動。軽く頑丈なファーブニルでなければ、およそ不可能な芸当だった。

 どうやら発動機エンジンそのものも高高度対応型に改修されているらしく、ファーブニルにパワーダウンの兆候はみられない。

 

 ぎりぎりの間隙で交差した二機は、おおきく弧を描きながらふたたび接近していく。

 明灰白色グレーホワイト紺青色コバルトブルー

 午後の日差しを浴びた二匹の軽合金製の竜は、まるで緻密に打ち合わせたみたいに、蒼空のキャンバスに目もあやなコントラストを描き出していく。

 

(なぜ撃ってこない……?)


 急旋回の負荷に耐えながら、ユーリは訝しげにファーブニルを見つめる。

 敵機を射程に捉えたからといって、いたずらに銃弾をばらまくのは素人のすることだ。

 敵味方がめまぐるしく機動マニューバを演じる戦闘機同士の格闘戦ドッグファイトにおいて、火砲の命中率はおどろくほどに低い。

 毎秒数百発もの弾丸を発射する航空機関砲は、そのぶんだけ連射出来る時間も短い。

 考えなしに撃ちまくれば、あっというまに弾は底をつき、戦闘機はただのと化してしまうのである。

 それゆえ、あるていど実戦慣れしたパイロットであれば、必中を確信するまではけっして発射ボタンを押すことはない。

 

 ファーブニルのパイロットは、その意味ではまさしくベテランの風格がある。

 パワーにすぐれるサラマンドラに追いすがる技術、愛機の長所と短所を知りぬいた巧みな機体さばき……。

 かつて存在した空軍ルフトヴァッフェの最精鋭――六○六ロクマルロク戦闘航空団ヤークトゲシュバーターのメンバーと較べても、なんら遜色のない水準にあると言っていい。

 

 しかし――と、ユーリはなおも不審の目を向ける。

 ファーブニルの挙動は、それだけでは説明のつかない違和感をまとっている。

 違和感の正体を見極めるより早く、ファーブニルが動いた。

 おおきくを描くように蛇行しつつ、サラマンドラの後方を占位しようというのだ。

 ユーリはスロットルをいったん絞り、操縦桿を傾けながら、フットペダルを踏み込む。

 水平尾翼の昇降舵エレベーターと、左右の自動空戦フラップが連動し、サラマンドラはすばやく機体を反転させる。

 背面降下に入ったのを見計らって、ふたたびスロットルを全開。

 すさまじい轟音を吐き出したサラマンドラは、そのままパワーダイブに入る。ほとんど垂直にちかい急降下。

 空の蒼と入れ替わりに、おだやかに波打つ海面がユーリの目交を埋めていく。

 速度はゆうに八百キロを超えている。

 ファーブニルも負けじと急降下に移るが、サラマンドラにはとても追いつけない。


 高度五千メートルを切った。

 サラマンドラの前方には、巨大な壁のように大海原が広がっている。

 ユーリはスロットルを絞る。操縦桿をぐっと手前に引き、機首を上げる。

 他の戦闘機ならリベットが吹き飛び、外板が波打つほどのすさまじい負荷にも、サラマンドラは耐えきった。

 

 しかし、どれだけ機体が頑丈でも、人間が耐えられなければ意味がない。

 脳に流れこむ血液が減少したことで、ユーリの視界はみるまに色を失い、視野が急激に狭まっていく。

 遠のいていく意識のなかで、ユーリの操作はあくまで正確だった。

 やがて機体が水平に近づいたのを見計らって、両翼のフラップをフル・ダウン。

 重力のくびきなどなきがごとく、サラマンドラの大柄な機体がふわりと宙空で静止した。

 速度計の針はかぎりなくゼロに近づいている。

 飛行中の失速ストール――パイロットにとって絶対に避けねばならない状況に、ユーリはあえてサラマンドラを導いたのだった。

 むろん、それも考えがあってのことだ。

 

 顔を上げれば、すさまじい速度で突っ込んでくるファーブニルがみえた。

 おそらく必死で追っていた標的サラマンドラに生じた変化に面食らったのだろう。

 急減速に入るが、もう遅い。

 ファーブニルとサラマンドラが空中で交差する。

 オーバーシュート――背後を取ったはずの敵機を追い抜いてしまうのは、空戦における典型的なミスだ。

 そして、あえて敵に後ろを取らせることでオーバーシュートを誘うのは、実戦経験ゆたかなエースパイロットの常套手段でもある。

 ファーブニルのパイロットは、ユーリの仕掛けた罠にまんまと引っかかったのだった。

 

 すれ違った瞬間、ユーリの目はファーブニルの機体を捉えていた。

 垂直尾翼に描かれた国籍識別標インシグニアは、パッサカリアのものではない。

 深緋色エカルラートで縁取られた白抜きのシルエットが象るのは、まさしく”四枚の羽をもつ雄ライオン”。

 それはかつての大竜公国の同盟国であり、国外でファーブニルを採用した唯一の国の国章にほかならなかった。

 

 無線機からノイズ混じりの音声が流れたのはそのときだった。


「……私の完敗です。操縦には自信がありましたが、どうやらあなたのほうが何枚も上手うわてだったようだ」


 若い男の声だ。

 ユーリよりもいくつか歳下だろう。溌溂としたさわやかな声音には、どこか少年のような響きさえある。


「なぜこんな真似をした?」

「世界最強の重戦闘機サラマンドラ、そして名高い竜騎士ドラッフェンリッターと一度手合わせしてみかった……と言っては、怒られてしまうかもしれませんね」

「よく言う。おたがい機銃を積んでいない機体では、腕試しにもならないだろう」

「さすがですね。そこまでお見通しだったとは――――」


 驚嘆を隠しもせずに答えたあと、男は咳払いをひとつして、朗々と名乗りを上げる。


「ごあいさつが遅れました。私はナシム・アズラキヤーヴ。バラトリア王国の第三王子です」

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