第35話 恐怖の廊下

 ルフの女神像を見上げたまま立ち尽くす。

日本神話のイザナミノミコトのように、こちらの世界の食べ物を食べたから帰れないのだろうか。そして記憶まで無くなったのか。けれどアラムの場合は戻ってこれ、記憶もある。

「分からない…」

人々が入れ代わり立ち代わりルフ像を見ている。武官が近寄ってきた。

「ずっと立ち止まっていると、他の人が見られないんだ。順路通りに出口へ行って欲しい」

「あ、ごめんなさい」

確かにいつまでも立ち止まっていては邪魔だろう。サージェに待つように言われたが、出口は一つだろうしそちらへ向かおう。

人の後をついて行く。廊下にも人が溢れている。急にトイレに行きたくなった。

近くに立っていた武官にそわそわしながら近づく。

「あの、ちょっとバリナの葉を摘みに行きたいのですけど…」

アラムにかつて教えてもらった表現を使うが、武官は首を傾げる。

アラム少年、伝わらないのだが。もう一度小声で言う。恥ずかしい。

「ナルハッマーム…」

ようやく武官は理解したようで、頭をかく。

「本当は一般人を入れるわけにはいかないんだが…」

混雑して身動きの取れなさそうな廊下を二人で見つめ、顔を見合わせる。

「上官に確認する。少し待てるか?」

漏れそうというわけではないので小さく頷く。

しばらくして上官らしき人物を伴い武官が戻ってきた。持ち物の確認をされる。

「一応もう一度魔力の確認と、名前、住んでいる場所を言ってくれ」

金色の丸い板に指を押し付けると武官が頷く。

「リツと申します。パルマ=スライマーン、という女性の家に住んでいます」

スライマーンという家名に武官が驚いた表情を浮かべる。

トイレに行く事を許可された。

やはりサージェの言った通り彼女にも尊い血が流れているらしい。

助かったような困ったような微妙な心境である。

人気のない廊下を進みトイレへ案内される。曲がりくねっており、正直戻れるか分からない。

「外にいるので、早めに済ませるように」

「すみません、お手数おかけいたします」

待たせるわけにはいかないので、さくっと済ませよう。

手早く用を足し、外へ出るとがらんとした廊下には誰も居なかった。

「え…?」

待っていてくれるのでは無かったのか!

最悪である。他の武官に見つかったら不審者と間違われ捕まるかもしれない。

冷や汗が止まらない。

途方に暮れて立ち尽くしていると、背後から肩に手を置かれる。

「ひゃあぁぁ!」

情けない悲鳴と共に飛び上がった。

後ろから聞こえるケラケラと笑う声に聞き覚えがある。

勢いよく振り返ると、そこには何故かジーンが立っていた。

へらりとした態度、そして赤い髪。紛れもなくカフワの同僚である。

「ジーンさん、どうしてここに?」

ここは立ち入り禁止区域のはず。不審に思い顔をしかめる。この人怒られるどころでは済まないのでは。

「いやー、リツの後ろ姿が見えて。武官に知り合いだって言ったら入れてくれたんだよねー」

いいのか武官、そんなずさんな警備で。

呆れた表情の私にジーンが笑いかける。

「リツは一人?」

「友人と来ていたんですけど…」

サージェが探しているかもしれない。

「急いで戻らないと。武官の人本当に、どこに行っちゃったのよ…」

「何処に行ったんだろうね?俺が来た時はいなかったよ?」

首を傾げ、ジーンが歩き出す。

「ほら、こっちだよ。ついてきて」

迷いなく進む方向はさっきと逆なような気がする。

「ジーンさん、逆なような気が…」

「合ってるよ~」

仕方なしに彼に着いて行く。壁も床も先ほど見た装飾と同じで分かりにくい。

本当に合っているのだろうか。曲がりくねった道を進むにつれてどんどん不安に思う。

本当に、この道を通ったか?

不審者に間違われたら問答無用で捕まってしまうのではないだろうか。

「やっぱり、この道間違えてますって。戻りましょう!」

ジーンの服の端を引っ張り止める。

「あー、やっぱり?何か違うと思ったんだよね~」

へらりと笑うジーンに頭痛がする。捕まったらどうしてくれる。

元来た道を辿り戻り始める。

いつ武官とすれ違うか冷や冷やするが誰もいない。しんと静まり返っているのが返って恐ろしい。

私には許可が下りていたが、それはトイレまでの話である。怒られるだけで済むだろうか。

「本当に道分かるんですか?」

「大丈夫だって、来た道戻るだけだから」

そう言ってさき程道を間違えた男が何を言っているのであろうか。

何とかトイレの前まで戻ってきたようだ。

ほっと息をつく私は目の前の光景に体を固まらせた。

廊下に武官が倒れている。

「え?」

私を案内してくれたあの武官である。

慌てて近寄り、揺さぶる。

「大丈夫ですか!」

反応が無い。死んでいるのだろうか。

冷たい水を浴びせられたような心地になる。

「ジーンさん!武官の人が…!」

どうして良いか分からずに彼に助けを求める。

彼はにこりと笑って首を傾げた。

「息、してるんじゃない?胸動いてるよ」

冷静な声にもう一度武官を確認する。

動いているだろうか?落ち着いてよく確認すると微かに動いているように見える。

眠っているだけだろうか。

ほっとして腰が抜けた。

「本当だ、眠っているだけでした」

ジーンの方を振り返り、その後ろの光景にまたしても動揺する。

今まで往復しても一切見かけなかった武官たちが大勢いたのだ。

だが、動揺したのはそれだけが理由ではない。全員なぜか目の前の武官のように倒れているのだ。

今まで何故見えていなかったのか。異常な光景。

「ジーンさん…後ろ…」

「ん?ああ、おかしいね何で皆寝ているんだろうね~?」

首を傾げくすりと笑うジーン。何故笑う?普段通りのジーンの様子が不思議でならない。

「ねぇリツ、そういえば。随分前にリツの祖国の文字見たんだけどさ」

「えっと…」

確かにカフワで働き始めた頃、日本語で書いたメモを彼に見られた。

しかし何故今その話題を上げたのだろうか。

この異常な事態の中話す内容ではない。

くすくすと笑うジーンの様子が何故かいつもと違って感じた。

何なのだろうかこの感覚は。心臓が嫌な音を立てて脈打つ。

背中がゾクゾクと寒くなる。

ジーンがゆっくりと近づいてくる。にっこりと弧を描く口元。

彼のブルーの瞳は笑っていないのにどこか楽しそうな雰囲気を醸し出している。

恐怖を感じて、慌てて立ち上がり後ずさる。

誰だあれは、ジーンではない。

へらへらと笑っているのに目が怖い。不気味な光を湛えている。

私は女神像があるであろう方向へ走りだした。

「追いかけっこか~、それも楽しいね!」

後ろからケラケラと笑う声が追いかけてきた。

道が分からない。似たようなデザインの壁、床、そして倒れている武官たち。

怖い。

とにかく誰か起きている武官を見つけたい。

この際不審者と間違えられても良い。

廊下が延々と続いている。こんな形の廊下だったのだろうか。覚えていない。

奴隷売買から逃げ出した時の事が思い出された。

どうにか逃げ切りたい。

息が切れ、呼吸が苦しい。角を曲がったとたん目の前に扉が現れた。

通り過ぎるか迷ったが、人を探すために中へ入る。

緑色を基調とした、趣のある部屋だった。

人がいる様子は無いので出て行こうと振り返ると、扉が消えていた。

「何で…?」

恐怖に体が震える。部屋の中を見渡すと、先ほどまで気付かなかった別の扉があるのが見えた。

その扉を開け、中に駆け込む。

「何で…」

青を基調とした部屋。誰も居ない。後ろを振り返るとまたしても扉は消えていた。

同じことを5回繰り返した。

ずっと同じ空間が続いている。意味の分からない状況。

頭の中が真っ白になり、呼吸が乱れる。

恐怖でそのまま座り込んだ。涙で目の前がぼやけ良く見えない。

新しく現れた扉が軋んだ音を立て開いた。

人の足が見える。視線を上にゆっくりと上げていくと青い瞳と目が合った。

そのままジーンに抱きしめられる。

「つかまえた~。俺の勝ちだね」

心底嬉しそうな声に私は絶望した。

「まださっき会話の途中だったよね~。逃げちゃ駄目じゃない?」

「ねぇ、君はどこの人間なのかな?」

「あの文字はどこの国のものでも無かった。母国だと言っていたね」

「ねぇ、リツの事サルディアに連れて行っても良いかな~?俺結構気に入っちゃったんだよね」

独りで延々と耳元で囁き続けるジーンに恐怖が増し、体が硬直する。何故ここでサルディアが出てくるのだろうか。彼はアグダン国の住人では無かったのか。

「ねぇ答えてよ。異世界の住人さ~ん」

心臓が嫌な音を立てて苦しくなる。この世界の者ではない事がばれている。

ジーンは何をしたいのだろう。体が震えた。

「あ、反応したね、やっぱり違う世界から来たんだ。魔煙すら知らなかったって事は、魔法も無い世界なんでしょう?」

一人納得したようにジーンは頷く。

「面白い菓子提案してたもんね、他にはどんな技術があるのか知りたいな~武器とか」

首を横に振る。何も知らない、自分はただの一般人で凡人なのだ。

そんな物作れやしない。

「武器もだけど、暗殺の方法も何か違ったりするのかな?あと毒薬についても知りたいな」

まるで子供がおもちゃを強請る様な口調で話す。

「武器なんて何も、知らない!」

もう解放してほしいと懸命に訴える。

けれどジーンの耳には届かなかったようだ。

「やっぱり、ちょっと計画が狂うけど、今からサルディアに行っちゃおうか」

「本当は色々見届けないといけないんだけど~、リツの方が面白いからな」

聞かせる風でもなく、ぼそぼそと呟く。

着いて来るでしょ?と笑った彼の容姿が変化している事に気づく。

銀色の髪の見知らぬ男。いや、一度どこかで見ているが思い出せない。

眠そうだった瞳は鋭く切れ上がり、青い瞳の色は変わらない。

「あなたは、誰?」

思わず漏れた問いに、ジーンは私の瞳を覗き込む。

「あらら、幻術が解けちゃったか~。夢中になりすぎちゃった。ジーンという男は存在しないよ。大人しく着いてきてくれたら、教えてあげる」

ケラケラと笑った彼は、私の体を持ち上げた。

非常にまずい、話の流れからするとサルディア国に拉致される。

慌てて暴れ、ジーンの腕から飛び降りる。すんなりと腕から逃げられた。

「まだ追いかけっこするの~?俺はもう飽きちゃったんだけどな」

不満を零す彼はこちらに歪んだ笑顔を向けた。

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