第七話 後日譚
春分の節気のある朝、五ツの鐘も鳴り終わってしばらくのころ。
西浅草、東本願寺の境内に、ぽつねんと佇んでいるのは、虹色煙二郎だ。
手甲脚半に尻端折りの旅姿。
菅笠は脱いで抱えているが、振り分け荷物はしょったまま。
羽織の裾をはためかせて駆けてきたのは、伊藤十藏である。
若い顔が、美しく上気している。
「おはようござる。待たせてしまいましたか」
「いいえ、滅相もございません」
十蔵が煙二郎から、この日の朝に本願寺で別れをしたいとの文を受け取ったのは、一昨日のことである。
本願寺に、深い意味はない。
なんの、与力同心屋敷の、隣である。
「その様子、いまからの出立と見ましたが」
「へえ。その通りでございます」
「今日は、どの宿まで行かれるつもりですか」
「こんなジジイですから、川崎まででも行かれればと……」
「ははっ。何を申されるか。あの逃げ足の速さなら、小田原までも一足飛びであろうよ」
煙二郎は、首をすくめるばかり。
あの夜、江戸中を虹色花火で驚かせた後、煙二郎は、同心以下、岡っ引きらの追っ手をも逃れ、いずれへともなく雲隠れしていたのである。
やたらと速い舟が、江戸の空を染め上げた花火の余韻もあるでなし、大川を下り、どこかの堀に紛れたという調べも、もはや、十蔵の腹のうちにだけあること。
煙二郎が、ふたたび姿を現したしたのは、三日後の朝だった。
香川幻龍に伴われて、与力同心屋敷に出頭したのだった。
「玄龍どのの取りなしがなければ、市中での花火など、打ち首ものだ……いや……もう、何も申すまい。……道中、くれぐれも気をつけて行かれよ」
「ありがたいことでございます。伊藤さまにはもう、なんとお礼とお詫びを申し上げてよいのやら」
「今さら何を申されるか。礼なら、玄龍どのに……あっ、むろん、挨拶はしてこられたのであろうな」
「へい、へい。つい先に、森下町の療養所へ伺ってきたところでございます」などと言っている煙二郎の長屋が、三日も前にきれいさっぱり引き払われていたことを、十蔵は、知っている。
(まあ……いいさ)
「ところで、もう、江戸へ、戻るつもりはないのでござるか」
「まあ、しばらくは女房の郷で、仲良く、野良でもしようかと」
「ほう。煙二郎どのの妻は、どちらにおられるのだ?」
「あ、あわわ……」と口を抑えた煙二郎は、天を指さし、「あっちの方でございます」
◆
「どいた、どいた、どいた、どいた?」と、政次は、天秤棒も持っていないくせに、初鰹でも運んでいるような威勢である。
それでも素直に人々は道を開けてくれる??というのも、下手をすると、この若いやつが「玄龍先生のご用だぜっ!」と暴れだすのを知っているからだ。
なんの、
「どいたどいた」と喚いてみても、堀の舟から梯子を上がって、女の足でも五歩の距離??じっさい、この日の政次のだいじな運びものは、蘭とタケ。
ことによったら??いや、ことによるまでもなく、高価くて大切なものである。
「先生! 岩吉っつあん! お蘭さんとおタケちゃんの、ご到着だよっ!」
いつのまにか《ちゃん》になっているのも、わけがない、わけでもない。
「やあ。お待ちしていました」という玄龍は、いつも通りの笑顔ながらも、いささか困惑の様子。
「遅くなりまして、申し訳ございませんでしたわ」と蘭。
政次が、割り込み、
「あいつですよ! 佐助の野郎の舟の扱いときたら、もう、陸から見ていても、もどかしいって、ありゃしねえ」
「まああれじゃあ、仕方ないわよ」という蘭の目の先を追えば、猪牙舟や箱舟が、大川までだーっと数珠つながりだ。
蘭は、タケと等しく、重そうな風呂敷包みを抱えている。
「おい、政次よ!」と、怖い声を出したのは、岩吉だ。「てめえ、やいやいと大声を出してるくれえなら、お嬢さん方の荷物でも持たねえか!」
「あっ、いけねえ!」
あの夜、虹色花火から巻き散れた一寸四方の白い紙は、《割符》だった。
そこには、小さな文字で、こう刷られていただけだなのだ??
『コノ カフ モチテ フカガハ モリシタ ゲンリユウ オトナハレヨ ・ アブラガマ アクギヤウ ザンマイ ヨミウリ モレナク シンテイ』
ところがあの翌日、実のところまだ、その《よみうり》が刷り上がってもいないうちから、診療所は長蛇の列になった。
小橋を渡って来た人による路地の混雑はもちろん、堀もたちまち一杯になった。
やっと取れたお茶の休みに、玄龍が、
「いったいどんな技を使って、煙二郎さんは、花火の中に、あれだけの数の割符を入れのだろうなあ」とつぶやいたのが、もう十日前のことだが、行列はまだ、途切れることもない。
《よみうり》を書いたのは、蘭だ。
ここにまた器用に醜いガマの絵があるというので、人気になったわけ。
「お蘭どの、まずはお茶……いや、せめて白湯でも飲んでください」
「玄龍さまこそ、まるでおやすみになっていないのでしょう?」
今日が、実は、三回目の《よみうり》の、搬入である。
「お蘭どの、実のところ、これまで何枚持ってきなさった」
「今日の分で、ちょうど、万部あまりとなるでしょう」
「万部か……。あんなやつのために《落陽の紙価を高める》のも、いかがなものでしょうかな」
「そうですよ。次からは、楽しい話にしてまいります」
「そうですね、お蘭どの。そうだ……《梅の見どころ》などはいかがかだろうか」
「なにをおっしゃいますか、玄龍さま……梅はもう終わりましたよ
「これはまったく、煙二郎さんに、やられましたなあ……」
このとき、虹色煙二郎は、川崎宿の手前で、大きなくしゃみをしていた。
そしてまた、政次がタケを《おタケちゃん》などと親しげに呼んだのは、この日が初めてである。
《おわり》
玄龍先生奔走譚 呂句郎 @AMAMI_ROKUROU
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