第六話 口開け

 その夜、蝙蝠座の朝の部に来た客で、夜の裏芝居への《巡りの木戸》をくぐらないものは、いなかった。

 それどころか、夜の部の新芝居だけを目当てにやってきた客も多く、売り店の寿司や酒も、このままではどうやら足りなくなりそうだというので、菊池長兵衛は、慌てて、仕出し屋に若い衆たちを走らせた。

「稲荷寿司でも握り飯でも、なんでもいいから、あるだけ買ってこい!」

 客が腹をへらすぶんには、いっこうにかまったことではないが、この機を逃すようじゃあ、いけない。

(なあに、倍どころか三倍の額にしたって、売り切れ御免だぜ)

 今度は酒が足りなさそうだと手代が言うので、酒屋にも使いを走らせた。

「薦かぶりでも、角樽でもいいから、あるだけ運ばせろ! 枡も忘れるんじゃねえぜ!」

(このあたりに気が回るのが、この菊池長兵衛さまよ……。ほかの座元じゃ、なかなかこうは行くまいぜ)

 いつもの、商人ごかした口ぶりもすっかり忘れ、書き入れに夢中の長兵衛だった。

 短い首を伸ばしたつもりで、ちらりと覗いてみただけでも、小屋全体が、じわじわといっぱいになってくるのがわかる。

 いや、小屋全体に溢れてくる、音と熱気で、わかる。

(いよいよ、の新芝居だ。まあ、またたっぷりと、稼がせてもらうぜよ)

 六ツ刻の鐘が鳴り終わるころに幕開きの予定だったが、少し遅らせた方がいいだろうなと、そう思っているところに、またもや手代がやってきた。

「なんだ。また何か足りねえのかっ!」

「いいえ。蘭堂先生がお見えです」

「ええっ!」

 長兵衛は、驚いた。

 これまで、蘭が初日に現れるなんてことはなかったのだ。

(いったい、どういう風の吹き回しだ)とは思いながらも、腰を屈めて、揉み手で出ていく。

 蘭が、いた。

 タケと言ったか、あの小娘まで、連れている。

「これはこれは、蘭堂先生。お知らせ下されば、籠でも出させましたのに」と、心にもなければ、したこともないことを、ぬけぬけと言ってみるのも、いまや余裕。

「お天気で、よござんしたね」と、澄ました顔の、蘭。

「ええ、おかげさまでございます」

「稽古の具合は、いかが」

「ええ、ええ。そりゃあ、もう。今度の『色若衆十人備南』、最高の台本でございますゆえ」

 何の??稽古など、ろくに要らない、若衆の、がやがや芝居。

 もっとも、そこのところをわかって書いて寄こす蘭を、今日ばかりは拝んでもいい。

「ケレンはどうですの」

「ええ、ええ。先生がお選びになった親方さんたちが、うまく作ってくださいました。蘭堂先生の絵図通りですよ。初日にうまく動いてくれなくては、この蝙蝠座が、困ってしまいます」

「ところで、表の用心棒達は、ずいぶんとものものしいわね」

「いえいえ、あの、煙玉の一件以来、ああやっているのも、ウチの売りでして。おかげでお客様にも、心やすくしていただけるというわけで……」

 そうだ??あの汚い浪人が、変なじいさんにのされて以来、警護にはさらに、気をつけるようになった。

 あの、当てにならない春海老が集めたガエンどもも追い払い、今度こそ腕の立つのを何人か充てている。

 しかし、なぜか脅し文もふっつり途絶えた今となっては、やつらももう、要らないかもしれない。

 つまり、何も、ぬかりはないのだ。

「まあまあ、とにかく、すぐにお茶を運ばせますので、まずは客間にお通りください。今日は、ごらんの通りの混みようでして、幕開きは、少しばかり遅れそうです。ほどよいころに、大向こうの桟敷にご案内いたしますので……」

 とは言ったものの、正面の桟敷には誰が入っていただろう。

(ややこしい旦那客でなければいいがな……。まあ、今の俺には、怖いものなど、何一つねえのだ)


 玄龍は、小屋の外で渦を巻いている、人の列の中にいた。

 いつものだんだら長着に、浅葱色の袴をつけ、緋色の羽織をかけ、帯には大小をたばさんでいる。

 身の丈六尺の上に、戦国髷を押っ立てているので、近くから見上げているとたちまち首が痛くなってしまうほど、大きい。

 あんのじょう、荒っぽそうなやつらが寄ってきた。

 いつかの浪人よりは、よほどましな身なりだが、その目つきは、河原に群れる、痩せ犬のようだ。

「おい、ちょっと待て」と、声をかけてくるが、知らぬふりを決め込んでいると、「待てと言っているだろう、そこのでかいやつ」と来た。

「私のことかね」

「そうよ。おまえだ。何しに来た」

「ここは芝居小屋だろう。芝居を見物に来たのさ」

「おまえ、何者だ」

「私か……まあ、そうさね。今日は、役者ってところかな」

「なめた口を利きやがる……」と、一人がにじり寄ってくるが、別のやつがそれをおしとどめる。

「ご同僚、まあ、待たれよ……」と言っておいて、玄龍を向き直り、「その腰のものはなんだ」

「なんだと言って……見て判らないか。これは、刀だよ」

「ふざけた野郎め!」と言いざま、三人がぱっと、間合いを取った。

(ああ。きゃつらも、生計のためにやっていることだろうに……私の悪い癖だな)と、玄龍は思わず、笑ってしまう。

「何がおかしいか」

「ことによっては、ただではおかぬぞ」

「ええい。列から、引っ張り抜いてしまえ」

 と、口々にわめき立てるのも、野良犬のよう。

「まあ、落ち着こう。ほかのお客さんが、怖がってしまうじゃないか」

 と、そこへ飛んできたのは、伊藤十藏。

「玄龍どの、どうされたかっ」

「おっ。これは十蔵どの」

「かやつらが、何か」

「いやなに、私のナリが、ちと、うらやましかったのでしょう」

 浪人どもは、思いがけない紋付きの同心に怯んだのか、距離は離れたものの、まだ鋭い目で睨み付けている。

 十蔵はくるりと振り返ると、

「おぬしら、どこの中間か浪人かは知らぬが、この伊藤十藏の前で、けしからぬ狼藉があれば、すて置かぬぞ」と厳しい口調で言いつける。

 列が進み、木戸へ入って行こうとする玄龍に歩み寄った十蔵は、声を潜め、

「玄龍どの、その、お腰のものは……」

「ふふふ。なに、竹光竹光……。奥山で売っている、子供のおもちゃですよ」

 そうではなかろうと、困ったような顔をしている十蔵を後に、玄龍は木戸をくぐり、人混みをかき分けながら小屋に入ると、平土間のうしろ、地面を掘り込んだ切り落としの枠の中へ、その大きな身体を縮こまらせた。


 蘭は大向こうの桟敷から、小屋の中を見下ろしていた。

 それにしても、まあ、蝙蝠座も欲深く、詰めも詰めたり、なんという客の数だ。

 桟敷も土間も、どこもかしこも、隙間無くぎっしりだ。

 これでは誰も、弁当の広げようすらないだろう。

 狭いのをいいことにしてか、隣の男が膝をすりつけて来るのが気持ち悪い。

 思いっきり睨み付けてやった。

(おタケちゃんの側は……)と様子をうかがったが、あちらはひどく太ったおかみさん。

 窮屈なのは仕方ないとして、まずは大丈夫だろう。

 背中から手を回して、華奢な肩を、ぐっと抱き寄せてやった。

 蘭が気にしているのは、平土間だ。

 蓙が敷き詰められ、一見ありふれた土間に見えるが、ここは一尺ほどの上げ底だ。

 そしてその平土間の真ん中には、まるで井戸のように、三尺四方、高さ一尺の木枠が組まれている。

 近くの客は、興味深そうに覗き込んでいるが、暗い奈落のようにしか、見えまい。

 玄龍の姿は、大向こうからは、見えない。

 だが、おそらく自分の真下で、あの大きな身体を縮めているかと思うと、なんだか、可笑しい。


 鐘が鳴り出した。

 あの、ちょっと甲高いのにくぐもったような響きは、吉原の鐘だ、と蘭は思う。

 いくらかせわしなく、捨て鐘が三つ打たれ、そこから一つ、長いのがあって、やがて、その間が、狭まっていく。

 六つ打たれれば、夜見世の口開けだった。

 蘭は、少し懐かしいような、切ないような気持ちで鐘の音を聴いていたが、おタケはもう、いつ幕が開くのか、それしか頭にないらしい。

 頬を紅くさせて、引き幕を見つめ続けている。


 煙二郎は、木戸口で浪人者たちに囲まれ、ぺこぺこしている。

「こら、じじい。その箱は、何だと言うのだ」

「ええ。わっちの女房でございます」

 とは、春海老に教わっていた通りの台詞。

「何っ? じゃあそれは、骨箱だとでも言うのか」

「そうでございます」

「芝居小屋に、骨など持ってくるやつがあるか!」

「前々から、蝙蝠座の芝居を見物させてやるのが、約束でしたが……この冬の寒さで、ぽっくり逝っちまったので」

「コツが芝居を観るものか!」

「まったく、縁起でもねえぜ!」

「いかれたじじいだな」

「帰れ帰れ。どうせ、もう小屋はいっぱいだぜ」

 と、弱い者をいじめることなら、大得意な連中である。

「そこを、なんとか……」と、言いながら、煙二郎はだんだん、焦りはじめた。

 もう、暮六ツの鐘が鳴り終えたのは、耳が数えていた。

「言ってわからねえなら、摘み出すまでよ」と、一人が手をのばした時、それをねじり上げたのは、十蔵だった。

「イテテテテッ」と悲鳴を上げるところを、もう一つねじっておいて、

「言ってもわからないのは、おぬしめらのような者のことだっ!」と一喝しつつ、「さあ、ご老人、行くがよい。もう幕開けでござろうぞ」

「へいっ!」と木戸口へ滑り込み、

(お福よ、すまねえなぁ。俺ぁ勝手に、おめえを殺しちまったよ……)と、心の中で言った時、煙二郎の腹は、据わっていた。


 拍子木が鳴り、幕が引かれる。

 観客は、大喝采。

 板付きで居並ぶ若衆たちのひとりひとりを見て、息を飲む。

 しかしそれも蘭には、顔がきれいなだけが取り柄の、馬鹿が並んでいるだけにしか見えない。

(でも背景は、思いのほか、よく描けているわね……)

 歌がるたを散らした絵が、目に鮮やかだ。

 花道から、振袖や禿らしいものを連れて、中途半端な花魁姿の女形が現れた。

 外八文字を踏んでいるつもりらしいが、これはまるで、なっちゃいない。

(あの格ならば、小さな見世のお職がせいぜいというところかしらん……)

 などと観ているうち、蘭はどんどん楽しくなってきた。

(そうか……忘れるところだった。これは、あたしが書いた芝居なのだっけ……)

 ちらりとタケを見やると、潤んだような目を輝かせていた。

 誰もが花道の花魁道中に気を取られている間に、どこからかひょっこりと、小さなじいさんが現れた。

 胸に白い包みを抱え、よろよろしながら人混みをかき分けていく。

 さんざん人騒がせをしながら、平土間の真ん中にたどり着いたじいさんは、包みを抱いたまま、意外なほどの身の軽さで、ぴょーんと飛んだかと思うと、井戸のような穴の中に消えた。

 まるで、ネズミが巣穴に戻るような動きだった。



「ねぇん。少し風を入れないかい」と、長襦袢をはだけた女郎が言うのへ、

「何を言うんだ。俺は寒がりなんだよ」と、これも同じく長襦袢姿で、布団に寝そべっている男がいる。

「だからって、火鉢をこんなに並べちゃってちゃ、頭がいたくなっちゃうよ」

「へっ。いたくなるほどの、おつむかよ、えぇ? なあ。『品川の客にんべんのあるとなし』たあ、どういう意味だ、えぇ?」と、口ではそう言いながらも、男は上機嫌で、酒を飲み続けている。

「いやなことをいう人だよ。何も侍と坊さんばかりがお客じゃないとは、おまえさんがよく知っているじゃないかさ」

「まあな……。おっ、そうだ! 窓を開けるたあ、いい考えかもしれねえな」

「なんだよ、この人はまた急にさ」

「北の灯りが見えるかと思ってよ」

「やっぱり、いやな人だ。品川の宿でごろごろしながら、北の話なんて、するもんじゃないよう」と、女はしなだれかかる。

「いやいや、今夜の北の灯りは、乙なもんだろうぜ。どかんと上がる、釘花火だ」

「おまえさんの言うことは、まるで何がなんだかわからないよ」

「おめえ、しばらく俺と、旅にでも出ねえか」

「どこへだい」

「京でも大坂でもいいさ」

「そんなことができたら、どんなにいいかねえ」

「俺にまかせときな。おめえごときを足抜けさせるなんて、わけないことよ」

「よく言うよ。……ねえ、あたしにも、一杯ちょうだい」

「もっとこっちへ寄りな。俺が飲ませてやるからよ」



 平土間の穴の底であぐらをかいた煙二郎は、じっとりと汗ばんだ両手にそれぞれ、細紐をしっかりと巻き付けていた。


 舞台の上では、横座りになった花魁に、二枚目がにじり寄って行くところ。

 鳴り物が入って、しばし、ガシャガシャした後で、ピタリと止まる。

 花魁が、手にした煙管をくるりと回し、

「ほんにぃ、ぬしはぁ、不実なおとこ、だわい、ねぇえ?。ヨヨヨ」と、袖に顔を埋め、付け板が、パパンと打たれた時、切り落としの枡の中から飛び出した、大きな男がいた。

 その幅五寸ほどの区切り枠を素早く渡り抜け、花道に飛び乗ったかと思うと、両手を広げた。

 緋色の羽織に赤白のだんだら縞の長着、浅葱色の袴をつけて、裸足である。

 そのナリと、馬鹿に長くおっ立った戦国髷を見て、どんな道化が出て来たことかと、客はみんな、笑いを凍り付かせたまま、膝立ちになる。

 男は、叫んだ。

「さあさあ! ここから、たいへんな見物になるぞ。残念無念、幕はここでお終いだが、こたびの演し物は、後にも先にもないぞう。拙者の口上、よくよく聞かれよっ」

 その声は、そこらのへなちょこ役者より、ずっと大きく太く、潤っていた。

「もぐりで、名だたる、蝙蝠座。あるじも、ひとすじ縄じゃねぇ。長兵衛などとはかりそめの、二つ名を持つ大悪党。中山道は板橋の、宿で鳴らした、あぶらがま。耳から毒汁、とーろとろ。面も背中も、いぼいぼだ。みずかきてのひら、ねーばねば。足を嗅いだら、鼻曲がる。つるつるなのは、頭だけ。

 おいおい! そこの美しいご新造さん、その握りめし、いくらで買わされたか知らないが、まさか、あぶらがまの握った飯じゃあないだろうな! そんなものを食らって、腹をこわしても知らないぜ!」


「おいっ! 誰かっ!! 壊しだ! 芝居壊しだっ!! 野郎を引きずり下ろせっ!!!」と、長兵衛は叫んでいた。


「ややっ。ねぇ、そこのキリっとしたお兄さん。いま、なんか、妙な声が聞こえなかったかい? ん? 聞こえたか。拙者にも聞こえたよ。なんだか、がまがつぶされるような声だったよね。

 来るぞ、来るぞ、来るぞっ! なんか、来るぞっ!

 まっ、行こうか! さーて……

 喧嘩ギセルを振り回し、錆びた長ドス突きつける、あぶらがまには気をつけろ。 背中を見せちゃ、いけないぜ、毒汁あびたらイチコロだーぃ!」


 用部屋から飛び出した若い衆たちは、?然としていたが、腹をかかえて笑い出した。

 そこへ外から、わらわらと入ってきたのが、すでに刀の鯉口を切り、鞘を払った用心棒連中。

 花道の真ん中で、土間を向いて立っていた玄龍は、高く差し上げていた両手を下ろし、柄と鞘に、手をかけた。

 すっと落とした腰を一瞬で割り、長い抜き身と鞘とをぱっと分けたその速さを見て、蘭は、

(あっ)と、思った。(出来る人だったのか……)

 玄龍の刀の切っ先は、まるでぶれたり回されることなく、すっと自然に、立った。

(でも、あれは何よ?)

 用心棒達のそれが、ぎらぎらと鋼色に光っているのに較べると、玄龍の手にあるそれときたら、銀紙でも巻き付けたようにピカピカとしているだけ。

(おもちゃだ……)

 そうと知ってのことか、用心棒の一人が、大きく振りかぶって、舞台側から踏み出した。

(こいつは、弱い!)と蘭が思う間にも、玄龍はその懐に踏み出し、柄で相手の脇腹を突いた。

 打たれた相手が、ぐっと息を詰まらせ、土間に落ちかかるのを、受け止める気かと思っていると、

「おっと、こいつは危ないね」と、刀だけを抜き取って舞台へ放り投げる。

 さいぜんから腰を抜かしたままだった二枚目役が、慌ててよけたところへ、刀は刺さった。

(うしろうしろ!)と蘭が思っているところへ、まさに花道を楽屋側から摺り足でやってきた男は、低い脇構え。

 長いふくらはぎを目がけて、下からさっと払ってきたところを、玄龍は、まるで背中に目があるように、ぽーんと真上に跳んで避け、落ちてきた時には、くるりと向きが変わっていた。

 自分が振り上げた刀の勢いでつんのめってきたやつに、痛そうな頭突きを、ガチンとかます。

 ふらふらと腰砕けになるのから、これまた素早く刀を奪い、

「さあ、もういっちょう」と、舞台に投げ上げる。

 二枚目役者は丸くなって頭を抱えていたが、その必要はなかった。

 前のと揃って、ビーンと舞台に突き刺さったからだ。

(三人目が、強い)というのは、こういう時の、決まりだ。

 するするするっと送り足でやってきた男は、進みながら、切っ先を小さく上げた。

(こういうのが危ない!)と蘭が思った時にも、玄龍は動こうともしないようす。

 あんのじょう、鋭く突いてきた時、蘭も思わず目をつぶりそうになった。

 が、小首をかしげたかたちの玄龍の肩口の空気が、刺されただけ。

(違う! そこからよ!)と思った時、相手の刃筋は下向きに走っていた。

(玄龍さま、死せずとも、鎖骨断ち割られし!)と、蘭はあきらめた。

 が、玄龍は、足の大きさだけ後に動いていた。

 相手の振り下ろした切っ先は、花道に食いついた。

 何か白いものがふらりと動いたのは、玄龍の羽織紐。

「損料屋で借りた羽織の紐を、切られてしまった」と、土間を向いた玄龍がおどけて見せた時、相手の刃先が抜けた。

(危ないっ!)と、思ったが、玄龍は手のひらで、その刀の峰を押さえつけていた。

 相手はびくとも動けず、ただ、う?んとうなっている。

「損料代のカタに、これも頂いて置こう」と、三本目を奪ったまではよかった。

 が、その時、最初に脇腹を打たれたやつが、脇差しの柄に手をかけて足もとに迫っているのに、玄龍は……

(あーっ、ほんとに気づいてないっ!)と思った時、蘭の右手は、隣の助平男の煙草盆から煙管を抜き取り、返す手首で、助平の額をしたたか打ち付けてから、花道の下の土間に向かって振り下ろされていた。

 煙管は吸い口を先に、火皿をまるで矢羽根のようにくるくる回しながら飛んでいき、脇差しざむらいのぼんのくぼに、いちど深々と刺さったように見えて、ぽろりと落ちた。

 そのとき桟敷を見上げた玄龍の、ぽかんと開いた口と円い目を、

(いつまでもお話しの種にしてやろう)と、蘭は、思った。

 玄龍は、三人目から取った刀を手に、舞台へ駆け上がった。

 下手の隅で、玄龍が刀を一振りすると、張っていた綱がぶちんと断たれる音がして、舞台背景、歌がるたの壁が、向こうへ、ユルリバタンと倒れ、外の景色が露わになった。

 天井はギギギと軋みながら左右、二つに割れて、冬の夜空が現れた。

 客達が、わーっと歓声を挙げて空を見上げている間に、玄龍は舞台に刺さった二本の刀を抜き取り、すべて下手のくぼみに放り投げて始末した。

 役者達は舞台の上で背中の壁を失い、ただおろおろするだけ。

 玄龍はその前に??ちょうど花魁の前に、元のように立ちはだかった。

 腰に差していたものが脇差しだけになり、羽織紐がぶらりと垂れ下がっているところだけが、違う。

 胸を膨らませて大きく息を吸い込み、ふたたび、声を張り上げる。

「さあ聞け、さあ聞け!

 素敵な芝居と口上と、ちったあ派手なヤットウと、きれいきれいな冬の夜空をお目にかけたが、やあやあ、見せ物はまだ、終わっていないよ。

 むしろここからが、本番だ!

 拙者の言うことを、ようく聞いてくれ。

 桟敷のみなさんは、どうぞそのままそのまま。

 土間にいらしたみなさんは、今から舞台に乗っかって、そのまま小屋の外に出ろ。

 ちょっとは冷える夜だけど、足袋はだしは我慢しておくれ。

 ちょっとだけなら、好きな役者に、ぴとぴと触ってもかまわない。

 さあさあ! さあさあ!

 外に出た、外に出た。

 ただし、決して慌てるな。踏んだり蹴ったりしたものは、拙者が容赦しませんぞ。

 慌てず騒がず、舞台を越えて、外に出るのだ!

 さあさあ! さあさあ!」


 きょとんとしていた客たちだったが、これも新しい趣向のうちかと、初めはおずおず、やがて我先にと、舞台へ上がり、表へ出た。

 歌がるたの舞台絵を踏んでいるものもいれば、土の上で足踏みしているものもいた。

 ただ、一様に、次に起こる何かを、心底、待っているようす。


「慌てるな、慌てるな。踏んだり蹴ったりは御法度だ。拙者が容赦しませんぞ。

 さあ、出た出た。

 さあ、さあ、さあ、さあ!」


 やがて、平土間にも切り落としにも人はいなくなり、舞台には、玄龍だけが残った。

「おうい、煙二郎さん聞こえるかい。聞こえたなら、頭を見せておくれよ」


 井戸の中から、白髪混じりの頭が、ぴょこんと出た。

「そろそろ、やろうか」という玄龍の声に、いちどこっくりと頷いて、また引っ込む。

 次の瞬間、ちゅどーんという地響きとともに、舞台正面下の土間が筵ごと膨れあがり、光の玉が、尾を引きながら、真上に上っていった。

 ぴゅ?うぅと尻下がりな音を立てて上りきった玉は、やがて大輪の花を咲かせた、かと思うと、ドーン、パリパリパリ……


「わあっ、花火だ!」

「信じられないねっ!」

「冬の花火だってさ!」

 と、人々が口々に言う間にも、今度は土間の後ろ手、次には下手、そして上手と、続けざまに上がる。

 玄龍が舞台を下手に走り、花道を引き返してくるのを、蘭は見た。

 胸の内で、いくつも数えないうちに、桟敷の後の立ち見席をかき分けている玄龍の姿があった。

「ややっ! さっきの男!」

「いよっ! 日本一」などと声をかけられながら、一散に向かってくるのがわかる。

 その大きな手で、煙管を取られた助平男と蘭の間に、むりやり隙間を作って割り込んできてくれるのが、うれしい。

「お蘭どの……」と言ったきり、顔をくしゃくしゃにして笑っている。「私はどうも、これを着ると、調子に乗りすぎる癖があるようだね」と、だんだら着物をつまみながら言う口調は、すでにいつもの玄龍だった。


 その夜の花火が、すでにいったいいくつ上がったのか、数え切れたものはいなかったろう。

 つまりは無量大数だ。

 身体中を包み込むような爆音が止み、あたりは妙に静かになった。

 硝煙の霧が晴れてみると、もとの平土間はもうずたずたで、土がむきだしだった。

 その真ん中に、ちょこなんとあぐらをかいている男、虹色煙二郎。

 真後ろからだとよく見えないが、あの白い風呂敷包みは、どうやらまだそのま。

 玄龍は大きな手のひらで口もとを囲い、

「いよっ! 待ってましたっ!」と声を張り上げた。

 天井が割れているので、その声はどこに跳ね返ることもなく、空へ抜けていくようだったが、それでも花火の音ほどにも大きく聞こえた。

 立ち去ろうとする者は、誰もいなかった。

 煙二郎は、股の間の包みを丁寧に解いた。

 出て来たのは、桐の箱。

 誰もが息を飲んで、見守った。

 煙二郎が懐から取り出したのは、懐炉らしい。

 桐の箱から、ネズミのシッポのように延びている導火線の端っこをつまんで、煙二郎は、懐炉の火に突っ込んだ。

 次の瞬間、導火線の先は、線香花火のように、チリチリと燃えだした。

 ぐっと一呼吸、何かを確認したかと思うと、煙二郎は、やってきたときと同じように、すばしっこく、どこかへ消えた。

 線香花火のようなチリチリもまた、美しかったが、それが桐の箱に触れたか触れないかと思った途端、箱の蓋が破れ、まぶしいほどの白い光りが大きな球になって飛び出し、爆音が響いた。

 光の玉は、渦巻く青白い尾を引き、甲高い音を引っ張りながら、これまでの、どの花火よりも、速く、真っ直ぐ、天空へ上っていった。

 ぴゅ?うぅっという音が尻下がりに消え、光も、消えてしまった……と、誰もが思った次の刹那、とてつもなく高い場所で、虹色の真ん丸な大輪が、咲いた。

 虹色が次々と色を変えながら、めくれ、めくれたとき、空をカチ割るような轟音が響いた。

「虹色屋?っ!」と叫んだ玄龍の声も、もちろん花火に負けないほど大きかった。

 降り注ぐ色とりどりの光は、見上げていた者をみな、空に吸い込むようだった。

 しばらくの間、誰もがほうけていた。

 明らかに、泣いている者もいた。

 そして、やがて……高い空から、何かが、たくさん、ひらひらと降ってきた。

「雪か?」

「馬鹿言ってんじゃねえ!」

「じゃあ、花火のかけら?」

「ちがわい!」

 両手で紋白蝶でも捕まえようとするように、誰も彼もが踊っているような仕草を繰り返した。

 地面に落ちたのを、要領よく拾う者もいた。

 何事かが刷られた一寸四方の真っ白い紙切れが、後から後から降ってきて、それはしばらく、止むことなく続いた。



 さらし木綿を、間違った向きに引き裂こうとしたような音が、品川の宿に、次々と響き渡った。

 女たちの悲鳴だった。

 土まんじゅうの墓から蘇った屍のようなものが、手首から先が折れ曲がった両の腕を前に突きだしたまま、宿の目抜き通りを、右へ左へととりとめもなく揺れながら、前にのめり続けるように歩いていた。

 頭があってもおかしくないところには、でっかいヤツガシライモのようなものが載っていて、腐った汁を滲ませていた。

 経帷子のかわりに女物らしき長襦袢を絡みつかせている、ひょろ長い屍のようなそれは、腹を壊した野良犬のように呻き、何か汚くて臭いものを、身体のあちこちから、じるじると、いつまでも、垂れ流し続けていた。

 とにかくそれは、何かの《ような》としか言いようがない、ような、何かだった。

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