第五話 赤い薬と青い薬

「あのあたりじゃ、お得意さんが、どっさりできちまいました」と政次が言うのを、玄龍と岩吉は、聞いていた。

「そりゃあ何よりだが、先生のお役目は、果たしてるのか」と、岩吉。

 硬い声だが、いまや心の奥では、政次をすっかり信用している。

「へえ。それです。あの黒い屋敷の主人は、女の人だというんですが、ご近所での評判は、あまりよくないようですね。毎日、揃いの黒い羽織を着た、若い衆を連れてはどこかへ行くのです。大年増だけど、ちょっとばかり、おきれいな人です。いちど、呼び止められまして、おいら、ぎょっとしたけど、とぼけていた。すると、貝を買って下さったんで、勝手口に運び、覗いてみたら、中でくるくる立ち働いているのも、みんな若いやさ男ばっかりで。まあ、へんなお家でした」

「政次。よくそこまで、見てきてくれたな」と、玄龍がねぎらう。

「どこまで行くのか、付いてってみようかとも思ったのだけど……」

「いや、そうしなくてよかったのだよ」と言いながら、玄龍は、板の間に立ち上がった。「どうだろう。岩吉っつあん、また久しぶりに、大道へ出てみようか」

 岩吉は、うなずいた。

 先生の狙いが、なんとなくわかる。その女に、会ってみようというのだろう。

 例の赤白だんだらの衣裳を取り出そうと岩吉が立ち上がったとき、政次が、

「あっ。例のをまたやるんだね。おいらも行くよ」と嬉しそうな声を出す。

「おまえは駄目だ」と岩吉。

「なんでだい」

「棒手振が太鼓叩いてちゃ、おまえのせっかくのお得意さまがびっくりするだろ」

「ああ、そっか」と政次は頭をぽんと叩き、「ちぇ、つまんねえなあ」と口を尖らせた。


 蝙蝠座、菊池長兵衛は、おおいに困惑のていである。

「蘭堂先生、さすがにこれは……」と、手に広げているのは、舞台の大きな絵図。

「今度の芝居は、できるだけ派手にとおっしゃったのは、蝙蝠座さんでしょう。だからこその、ケレンですよ」

「し、しかし、ですな……これは、あまりに大がかりな普請が……」

 と言いながらも、菊池長兵衛が、そのでっぷりした腹の中で、脂じみたソロバン玉を弾いているのが、蘭にはわかる。

「なら、いいのよ。こんなものは、ここで破いたってよいのだし……もしかすると《土竜座》さんや《白鶴》さんなら、よろこんでくれるかしらね」

「おまちください、おまちください。なんとかします、なんとかしますので」

(ここが肝心だ)と、蘭は思う。

「いいかげんな普請では困りますよ。いくら姿を隠しているとはいえ、蘭堂の芝居がこけたとあっては、あたしも悔しいですからね」

「ええ、ちゃんとこの通りに作らせますので……なんとかどうぞ」

「おやまあ。異なことをおっしゃいますね」

「異なこと、とは……」

「図面をよく見てちょうだいな。ここにお名前があるでしょう。普請をお願いするのは、うちでもつね日頃からお世話になっている、惣五郎さんと言ってね、そりゃあ立派な親方ですよ。蝙蝠座さんに『作らせる』などと言われる道理はありません」

「じゃあ、この大工……いや、棟梁さんでなければいけないというわけで?」

「それはそうです。これだけの図面なのだから、そこらの棟梁では、とても無理ね」

「いや……ですが……。そんな偉いお方では、お値段の方もさぞかし……」

「なにをおっしゃるの」蘭はぴしゃりと言った。「言っておきますが、惣五郎親方はね、どこかの、欲の皮がぱんぱんに張ったようなソロバンづくなんかではなくて、真面目一本の職人ですよ。なにも、銘木いっぽん使おうという普請でもなし。まあ、蝙蝠座さんに不平があるなら……」

「いえいえいえいえ。わかりました。わかりましたから、もうそれ以上、おっしゃらないでくださいな」と、ねばねばと揉み手をしながら長兵衛は、「で、台本の方は、いかがなもので……」

「この通り、出来ていますよ。ただし、舞台がしっかり出来てからでないと、お稽古に入りたくないの。それまでは、お渡しできません」

 グググと呻く長兵衛を見下ろしながら、

(ほんとうに、油蟇とは、よく言ったものだわ)と、蘭は思った。


 いつものように、手代や丁稚たちと門を出て、両国へ向かおうとした紫霧は、背後に、びっくりするような胴間声を聞いた。

 振り返ると、諏訪神社の前に幟を立てた大道商人が、大きく両手を広げている。

「さぁて、さてさて、ここなるは、秘薬麗ノ粉でござるよ。そこらや、ちまたの白粉などとは、まるで違うものだ。遠くは天竺由来の抹香と、高麗からの人参と、唐の白檀などなど……」

 派手なだんだら模様の服を着た、背の高い男が張り上げる声は、太い大声ではあるが、ちょっとどこか、潤いがある。

(縁日でもないというのに、珍しいことだね……)

 そう思いながら、紫霧はふと、足を止めた。

「……まあ、ざっと七種の渡来のものに、この、深川森下にしっかと店を構える香川幻龍が、秘伝の調合をほどこした、古今東西、たぐいまれなる美容の薬でござるよ!」

 立ち止まった紫霧に、

「さ、まいりましょう」と手代が促すのへ、

「お待ちよ」と言った。「ちょっと、面白いじゃないか」

 大道の商人は、いましも気づいたようなていで、

「おやおや、そこを行かれようとするご新造さん、少しだけ待たれよ。あなた様には、まるで用がないシロモノかもしれないが、聞くだけ聞いて、お行きなさい」と言いながら、するすると、紫霧の一行に近づいてきた。「おっと。殿方様へは、こちら、《美男糖》でござる。仕事の合間にひと舐めすれば、お肌はすべすべ、お口はとてもいい匂い。男前が、しゅうっと上がるという……こちらは、まあ、お菓子ですがね」

 どういうわけだがわからないが、紫霧は妙におかしみがこみ上げてきて、

「面白いじゃないか。ひとつ買ってやりな」と、丁稚に言いつける。

「ありがとうございます。では、こちらは、ご新造さんへ、《麗ノ粉》の小さな試し包み。決してインチキなものではありませんので、お風呂上がりにでも、お試しあれ」と、押しつけてくる。「いいですか。いいですか。男に塗るものでは、ありませんよ。どうぞ、密かに、密かに……」

 手代が手を伸ばしたのをするりと避けて、大道商人は、紫霧の手を取り、包みを握りこませた。

 にっこりと笑っているが、その目には、ただの商売人とは思えない、不思議な光があった。

「ふん」と言いながらも紫霧は、包みを懐の奥深くに押し込み、きびすを返した。「さ、みんな、行くよっ!」

 きつい声でそう言いながら、

(どこの誰と名乗っていたっけね、あの男。……ま、どうだって、いいれどさ)と、胸のうちで、つぶやいた。


 その日も『黒船屋』は、いつも通りの大繁盛だったが、紫霧はどうにも、商売に気を集めることができなかった。

 八ツ刻には早上がりと決め、あとは番頭によくいいつけ、丁稚一人を連れて、屋敷へ帰ることにした。

 紫霧の、思いがけない早い帰りに、留守居の若い衆はてんてこ舞いだ。

「おまえたちみんな、たるんでいるよっ!」と一喝し、部屋へ下がる。

 もちろん、その刻限に、春海老が屋敷にいるためしは、近頃、まずない。

 いぎたなく寝ていて、日が暮れかかる頃にぞろりと出ていくのだ。

(まったく、どこをどうほうつき歩いているやら)と腹が立つが、問い詰めたところで、決まって、

『蝙蝠の野郎をやっつけるために、俺は苦労をしているんじゃねえか』と言うばかりか、あげくには金の無心だ。

 はっと気づくと、間仕切りのところに、若い衆が手をついていた。

「なんだいっ!」

「もう、夕飯になさいますか」

「こんな刻限から、ご飯を食べるものがあるかいっ!」

 何にでも、いらいらしてしまうのである。

「では……どうされましょう」

「湯に行くに決まっているだろっ。支度をしとくれ。急いでだよっ!」

 帯を解き、脱ぎ散らかすのは、いつものこと。

(着物を畳むだけのやつにまで、こっちは金を払ってるんだ!)

 胸元から、ぽろっと転がり出たのは、あの薬売りがよこした、試し包みとやらいうやつ。

(あの男の目は、なんだったのだろう。にこにこ笑っていながら、妙にきりりと光っていやがった……)

 しかし、あんなちっぽけな試し包みを、小娘のようにワクワクと、開けてみることなど、悔しい。

(そうか。あれだよ。おおかた、あのナントカの粉だとかいうものを、『黒船屋』で扱ってくれという腹だろうさ。ああ、そうだ。それにちがいないや)

 そうと気づくと、なんとも言えず、頭に来た。

 紫霧は、手で拾うのもしゃくな、その試し包みを蹴飛ばした。


 船宿と船宿に挟まれた縄のれんを、あの役者がぞろりとかき分けたのを、玄龍はたしかに、見た。

 万年町の煙二郎のところから、つけてきたのだ。

 一呼吸二呼吸、置いて、入って行った。

「へい、いらっしゃいまし。お好きなところへ」と、元気なおやじが言う。

 なかなか、賑やかな店だ。

 さっと見回すと、春海老は、一番奥の片隅に、一人でいる。

 玄龍は、そっちに背を向けるような具合で、大きな卓に、割り込んだ。

「毎日こう寒くてはたまらないが、この店は暖かいな」と大きな声で、言った。

「まあ、おかげさまで、しじゅう、燗酒をわかしておりますんで」

「商売繁盛、何よりだね。じゃ、俺も、熱いところをもらおうかな」

「へい」とおやじが行きかけるのを呼び止め、

「今日は、地のものじゃなくて、ちょっといい酒にしよう」と言うと、

 聞きとがめたわけでもないだろうが、左右の客が、ちらりと見たのがわかった。

「割り込んだお詫びと言ってはなんだが、よろしければ、付き合いませんか」

「へえ。そりゃよろこんで」と、一人が言うのにかぶせて、

「あったけえのは、旦那の懐じゃあないのですかい」と、もうかなり赤い顔をした男が言う。

「へへへ。ばれたか」と、頭を掻いてみせると、

「ばくちだね?」と、別な男。

「まあな」

「フダですか、それともチョボで?」

「ふっふっふ。さあさ、まあ、一杯と言わず、やってくださいよ」

 玄龍は、先客達にひとしきり振る舞った。

「あ?、たまんねえ。さすが下りものは、ひと味ちがうよ」などと、いける口には、どんどん注いでやりながら、

「しかし、何だなあ。医者と坊主というのは、たちが悪いものだね」

「どうされたというんで?」

「なに、負けても負けても向かってくるから、遊んでやっていれば、こっちは金銀を賭けて勝負をしてるというのに、しまいには、『これでかんべん』だとさ」

 と、懐から、赤と青との包みを取り出して、卓に放り出してみせた。

「これは、何なんで?」

「うむ。これなあ。《イカスコロス》とやらいう、薬なのだとさ。なんでも、この、赤いのを飲めば、女はポッと赤くなり、イイ感じなんだそうだ。男が飲むと、それはそれは、大変なことになるらしいよ」

「へへへっ、面白いねえ。で、その青いのは?」

「そう、こっちが、なあ……。これを飲ませると、男も女も、やがてしゅーっとしぼんで、死んじまうんだという。まあ、死人が出れば、そこは坊主の出番だものな。あいつらめ!」

 そういう玄龍の回りは、もう人だかりだ。

「俺は、赤がいいな」

「なにってやんでい」

「俺はぜったい青だな」

「怖いことを言うやつだねえ」

 などと盛り上がる店の奥で、春海老が一人、横を向いてちびりちびりとやっているのが、目の端に、見えた。

 玄龍は、頬杖をついて、空いた手に杯をぶら下げ、

「まあ、俺には女房もイロもいないから、まるで使い道はないのだけど、赤青これで、一両に充てろと言うんだぜ?」

 先客たちは口々に、

「あ?あ」とあきれたような声をあげ、

「旦那。それは、やられちまったね」

「さすがに一両とは、なあ」などと言っている。

 その時、玄龍は、背後に立つ影を感じた。

「面白いですね。一両なら、それ、私が引き受けますよ」と言うのは、春海老。

 まわりは騒然とする。

「よっ、色男!」

「どっちを使うんだい」

「馬鹿め、どっちもだろうがよ」

 と、皆がわいわい言う中、小判を置いて薬を取り、立ち去ろうとする春海老を、玄龍は呼び止め、

「間違ってはいけませんよ。赤がポッポで、青がシューだからね」

 春海老は、いっしゅん立ち止まったが、そのまま出ていった。

「ああいう色男も、いるところには、いるんだな」と、玄龍。「ともあれ、怪しげな薬が、思いがけない一両に化けて、戻って来たよ。みんな、好きなだけ飲んでくれ」

「わ?い」と、歓声が上がる。

 酒も肴も、次々に運ばれる。

「ところで旦那。失礼とは存じやすが、どちらさまなので」

「俺かい? なに、しがない町医者さ」


 政次は、足踏みしながら自分の身体を抱えて、しきりにこすっていた。

(こりゃあ、みぞれか雪にでもなりそうなあんばいだぜ)

 岩吉に命じられ、今日も紫霧の屋敷の向かいに立っていろと言われたのだ。

「商売してるふりをする必要は、もうねえ。きついだろうが、何時まででも辛抱してくれ」と言って岩吉は、綿の入った上っ張りを貸してくれようとしたのだったが、

「おいら、江戸っ子だい」なんて断ったのが、いまさらながら、悔やまれる。


(こんなことなら、天秤棒を担いで走っているほうが、まだましだよ……)と、泣きたい気持ちになってくる。

 見張れと言われたって、屋敷では、何かが起こる様子もない。


 湯から戻った紫霧は、背筋にぞくぞくと悪寒を感じていた。

(すっかり、湯冷めしちゃったようだ。あの三助が、こすりすぎなんだよ)

 若い衆にいいつけて玉子酒を作らせ、熱いうちに啜ると、早々に布団にもぐりこんだ。

(それにしても……)と思う。

 独り寝の床から、行灯の明かりにぽわぽわ照らされる天井を見ていると、ふっと弱気がさすことがある。

 湯上がりに、鏡に映った自分の身体を見たときも、そうだった。

 思わずはっとした。

 いい感じで熟れていると思っていたつもりだったが、そこに映っていたのは、もう、昔の自分ではなかった。

 湯文字の上にふくらんでいる腰の肉と、張りのへった乳房。

 思わず鏡に毒を吐き、まわりの客を驚かしてしまった。

(ちくしょう……)と思う。

 それもこれも、あの油蟇が悪いのだ。

 娘としていちばんいい時を台無しにしやがったのは、あの野郎なのだ。

 あともう少し。

 あともう少しで、あいつに仕返しをしてやれる。

 それだというのに、春海老のやつは、もういつから戻っていないのか。

 こんどやってきたら、こっぴどく、どやしつけてやる。

 熱のせいだか、玉子酒のせいだか、頭の芯がぐうっと痛くて、眠れない。

 ころん、ころんと、寝返りを打つうち、行灯のそばに落っこちているものを見つけた。

 ごみくずかと思って、また、かっと来かけたが、違った。

 丸っこくて白い包みは、あの大道の薬売りが寄こしたものだ。

 紫霧は腹這いになると、肘で這っていき、包みを手に取った。

 微かに、いい匂いがする。

 抹香と白檀か……商売柄、紫霧には、わかる……これはホンモノだ。

 思わず包みを開きかけたが、手が止まった。

(なんだっけ。この感じ。あたしはこれが、はじめてじゃない。なんだっけ。これは、なんだっけ……)

 他に誰もいない部屋の布団の中で、紫霧は小さく、

「あっ」と言った。

 匂い袋だ??。

 里に下りた父ちゃんが買ってきてくれた、あの匂い袋。

 紐を解いて、中を覗きたがった紫霧??いや、おみつに、

『そんなことをしたら匂いが逃げてしまうぞ』と、父ちゃんに笑われた、あの大好きだった匂い袋。

(あたしは、開けなかった。あの匂い袋を、開けたりはしなかったんだよ。でも、いい匂いなんて、ぜんぶ、消えちゃったじゃないか!)

「こんちくしょう!」と言いながら、紫霧は包みを引き破いた。

 弾みで、何か、厚い紙を破ってしまった。

 小さなアサリの貝殻に塗りつけられた、ひとすくいの練り薬を包んでいたそれは、文だった。

 包みを手渡したときの、あの男の目の光を、思い出した。


 紫霧は、むさぼるように、読んだ。

 男は、医者だと名乗っていたが、むずかしい言葉はひとつも使われていなかった。

 怖い言葉も、ひとつも使われていなかったが、この男がたしかに、紫霧の歩いてきた地獄を知っていることは、わかった。

 これは何かの、罠なのか??。

 そうとは思えなかった。

『私には、あなたの気持ちが、わかるつもりです。

 もしも信じてくれるなら、お屋敷の前に佇んでいる小者に一言、病人が出たとでも伝えて下さい。

 飛騨のおみつどの

         深川森下町 香川幻龍』

 そう、結ばれていた。


 黒い屋敷の木戸が開き、丁稚らしき者が出て来たのを、政次は見た。

(おいでなすったぜ)と、身構える。

 丁稚は、腰を屈めてまっすぐに政次に向かってくると、

「お医者の玄龍様の、お使いは、あなた様ですか」と言った。

「おう、そうだよ」

「先生に、お伝え願います。黒船町で、風邪をこじらせかけている者がいる、と」

「それだけかい」

「そう、お伝えくださいませ」

「わかったよっ!」と言いながら、政次は駆けだした。

(こんだけ立たせておいて、風邪っぴきが一人かよ。おいらが風邪をひいちゃうぜ)

 あんのじょう、みぞれになった。

 政次は、飛ぶように走った。


 床を上げさせた紫霧は、手早く着替えを済ませると、化粧を調えた。

 これでよかったのかどうかは、わからない。

『あなたの気持ちはわかる』とは書いてきたものの、あの男が、味方かどうかなど、まるで、わからない。

 もしかしたら、蝙蝠座の一味かもしれないし、あの春海老が、どこかで下手を打って同心にでも捕まり、余計なことを吐いたのかもしれない。

 ただ、紫霧は、信じてみようと思った。

 誰にも言いたくない本当のところは、人から文を??まともな文をもらったことなど、初めてだったのだ。

 手代はけげんな顔をしていたが、命じて屋敷の門を開けさせた。

 悪寒の取れない身体で、まだ冷え切っている客間に出た。

 雪見障子とは、よくした名前だ。

 開けると、庭にはみぞれが、たまり始めていた。

 門のところに、あの大きな男が、傘もなく立ったのが見えた。

 紫霧は、覚悟を、決めた。


「どうして、傘もささずに、おいでなさったのです」と、紫霧は言った。

「あれは走るのに、邪魔なものですからね。いや、なに、実を言うと、ろくな唐傘もないもので」と、玄龍は、笑った。「座敷を濡らして、申し訳ないですな」

 紫霧は、それには答えず、

「読みましたよ」

「そのおかげで、私はここにいるわけだが……お風邪を召された方が出たというのは、どうやらまことのようですね」

「わかるの?」

「これでも、医者ですからね。……小鼻が、赤いですよ」

「さあ。何が、目当てなのです。お金? それとも、あの薬を、うちの店に置いてほしいというのが望み?」

「ハハハ」と、玄龍は笑った。「たしかに、《黒船屋》さんに卸せば、飛ぶように売れることでしょうな」

「やっぱり、それが狙いかい。いくらでも扱ってあげるから、番頭と話してちょうだいな」

「いやいや。あれをコツコツ売るのは、私の楽しみなのでね……いかな《黒船屋》さんにでも、そう簡単には卸しませんよ」

「あのね……お医者さま、お見立て通り、湯冷めをして熱があるのは、ほんとうなのよ。望みがあるなら、早く言って」

「紫霧どの……いや、おみつさん。私は、これでも、諸国を旅してきましてね。いろんなものを見てきたのだ」

「いろんな、何をさ」

「……地獄を、です」

「わかったようなことを言うね」

「うん。たしかにそうかもしれない。私はいつも、無力だったからね」

「ふっ……お医者の言いそうな……小理屈だ」

「細い芋さえ実らない、日照りの土地も見ました。川の堤が破れて、丸ごと無くなった村も見た」

「それがあたしに、なんの関係があるのかい」

「あるさ……飛騨のおみつも、地獄を見たのだろう?」

「違うね! 冗談じゃないよっ! あたしは地獄を《見た》んじゃない……地獄巡りをしたんだ! 諸国お遊びの、双六みたいな旅を自慢してる、お医者なんかとは、違うんだい!」

 玄龍は、黙って、紫霧の顔を見つめていたが、ひとつ大きく息をつくと、

「苦労したね……おみつさん」と言った。

「なれなれしく呼ぶんじゃないよっ! あたしは紫霧だ。《黒船屋》の紫霧さ!」

「私は飛騨にも行ったことがある」

「それがどうかしたのかい」

「山深い、美しい土地だったなあ」

「そうさ。山ばかりだよ。もっとも、平らなところには、金持ちだけが住んでいるからね。貧乏人は、崖っぷちにへばりつくようにして、暮らしているのさ。いや、ちがうね……暮らしていけるのなら、まだいいさ。一家五人が、ろくに暮らしていくことすら、できなかったんだよ」

「そうか。おみつさんは、五人家族だったのか」

 うまく口車に乗せられたような気がして、紫霧はうろたえた。

「そういや、先生さまは、大道での口上が、上手だったねえ」と、精一杯、いやみを込めて、言った。

「うん。あれでも、だいぶ、稽古をしたのだよ」と、笑いながら、玄龍は、片膝を立てた。

 何事かと、紫霧がうろたえると、玄龍は、立てたすねの袴の裾をまくり上げた。

「なんだい!」

「おみつさん、これが何か、わかるかい?」

「毛ずねじゃないか」

「そうじゃない。ここだよ」と玄龍が示したところには、五分ほど離れて、ポツポツと四つの穴が空いている。

 紫霧にはそれが、何か、わかった。

 蛇の噛み跡だ。

「それがどうしたのさ」

「飛騨での、痛い思い出さ。三、四尺はありそうな、ヤマカガシに喰われたのだ」

「ははっ! 語るに落ちたね、先生。そこまで深く、ヤマカガシに噛まれれば、いちころのはずだよ」

「それが、そうでもないのだ」

「何を言っているんだい」

「山育ちの、おみつさんでも、知らなかったとはなあ。ヤマカガシの毒が、何だか知っているのかい」

「蛇の毒に決まっているじゃないか」

「それが、違うんだ……。ヤマカガシの毒はね、蟇の毒なのさ。蟇を喰ったヤマカガシの顎にだけ、蟇の持っている《強心配糖体》という毒が、溜まるんだ。私は運がよかったんだろう。きっと、わたしに噛みついたやつは、ネズミかなんかを餌にしていたんだろうね」

「……できすぎた話だよ」

「いや、本当のことなんだ……。おみつさん……地獄巡りをしたからって、自分が地獄の鬼になってはいけない」

 玄龍は、立てた膝で一歩進んで、紫霧の両手を取った。

 決して強い力ではなかったのだが、紫霧は、それを、振り切れなかった。

「もう、手遅れなんだよ」

「《手遅れ》というのは、薮医者の得意な台詞でね。私の大嫌いな言葉なんだ」

「ことは、進んでしまっているのさ」

「おみつさんの言うのは、あの役者かやくざかわからない男の、企みのことかね」

「春海老のことを、悪く言うもんじゃないよっ!」

 あんなやつとは思っていても、人から言われれば、腹が立つ。

「そうか……あいつ、春海老というのか……」玄龍は、紫霧の手を離し、真っ直ぐに座り直した。「おみつさん、これから私の言うことを、よく聞きなさい。その男の真心が、はっきりとわかる話だ……」


 煙二郎の手は、かすかに震えている。

 最後の仕上げは、終わった。

 桐箱に蓋をして、細く切った紙で、丁寧に糊付けした。

 春海老に渡されていた、白い大風呂敷で包む。

(あいつが言ってた通り、まるで骨箱だな……)

 それを抱えて、道を行く自分の姿が目に浮かぶが、ぞっとしない。

 いよいよ、明日の宵が、蝙蝠座新芝居の初日だ。

 八ツ刻には、この万年町の、住み慣れた長屋を出る。

 猿若町までは、どこをどう通っても、二里まではないと聞いている。

 どんなに、ゆっくり歩いても、暮れの六ツには着くだろう。

 戻って来られるものかどうか。

 もう、考えても仕方がない。

 せいぜい掃除でも、しておこう。

(俺には今、何の悔いもないぜ……)


 蝙蝠座では菊池長兵衛が、グフグフと笑っている。

 初めこそちょっと、驚かされたが、さすがはあのお蘭の考えたことだ。

 後にも先にも無いような、ごついカラクリが出来上がった。

(しかし、こうして普請が終わってみると、こんな仕掛けは、はなっから俺の頭の中にあったような気がしてくるな……いや、じっさい、あったのだぜ)

 普請をしたのは、愛想のない大工たちだったが、長兵衛の目からみても、仕事は速くて確かなようだった。

 それより何より、覚悟の腹づもりよりも、ずっと安かったのが、こたえられない。

(えれえ親方とやらいうのが、あれだけの数の職人を連れてきて、あれっぽっちの手間賃で仕事したってことは、俺あこれまで、いろんな大工に、ずいぶんボラれてきたのかもしれねえな)

 ともかくも、蘭からは、普請が終わるのと引き替えに、台本を受け取った。

 そうなれば、こっちのもの。

 これがウケなくて、何がウケるというのだ。

 思えば、板橋の宿での、えぐい稼業から足を洗って十年。

 もぐりの小屋とはいえ……いや、もぐりの小屋だったからこそ……今がある。

 我ながら、よくやってきたものだと思う。

 もともと、この興業の道に、よくよくの才があったということだ。

 くされた役人への根回しを怠らず、脅し文にも怯えねえ。

(俺は、自分をほめてやってもよいのじゃねえか。……それあ、いいに違いねえ)


「風邪はまだ、こじれているのかい」と、春海老がにじり寄ってくる。

 紫霧は布団の中で、まんじりともしない。

「もう、だいぶいいようだよ」

「それあ、何よりだな」と、差し入れてくる手が、氷のようだ。「あんたの悲願も、いよいよ明日の夜には、めでたく成就ってわけだしなあ」

「そうだね」

「そうだね、とはこれまた、すげない言い方じゃねえか。ほかに言葉はないのかい」

「ありがとうよ」

「ん。そうこなくっちゃな」と、春海老は、ここでさっと手を引っ込め、「さてと……台詞をいただくだけじゃ、おまんまは食えねえもんな」

 こんなにも下品なやつだったろうかと、紫霧は言葉がつかえるが、そこをなんとかふりしぼって、

「ああ……火鉢の引き出しをごらんよ」

「おう」と、それこそ海老が跳ねるように畳を転がったかと思うと、横座りの様子で、「おい、姐さん……」

「なんだい」

「俺あ、雑煮を祝うのに、餅は二つと決めているんだがなあ」

「両替屋に行かれなかったから、いま、うちにはそれっきゃないのさ。ごめんよ」

 春海老は、いまいましそうに舌打ちをした。

「ま。ねえものは、しょうがねえか、っと……。で、あっちはどうなんだ」

「あっちって、何さ」

「ほら、その……サラサラサラってやつよ」

「……」

「まさか、まだ出来てねえと言うんじゃねえだろうな」

「こんな身体だったもんだからね……」

「それとこれとは、話が別だろうがよっ」

「……こんな身体だったから、書くのがつらかったよ」

「おっ、どこだ。どこにある」

「お仏壇の中」

 海老はまた、跳ねていった。

「なまんだぶ、なまんだぶ……。うん、『梅中屋春海老様』と、これか。おめえ、こんなによい字が書けたんだな……。おっと、しっかりと封がしてあるが、これじゃ、中が見られないじゃねえか」

「そりゃ、封はしてあるさ。だいじな書付だからね」

「だけど、おめえ……これじゃ、中身が……」

「気に入らないなら、持っていなくていいんだよ」

「そうは言っちゃいないが……」

「あたしにもしもがあった時のために、って、おまえさんが言ったんだろ。言われた通りに書いたものさ。ただし……もしもの前に開けてしまったら、役に立たないようになってるから、気をおつけ」

「へっ。なるほどなあ……」と、春海老は腑に落ちないような顔をしていたが、「ま、大切に預かっておくぜ。……そうだ、俺も、だいじな物を忘れるところだった」と言い、懐をまさぐる。

 出て来たのは、赤と青との、小さな包み。

「なんだいそれ」

 紫霧は、泣きだしたいような気になる。

「これあ、あれだ、下谷広小路の漢方薬屋で買いもとめた妙薬さ。なに、おまえが風邪で伏せっているというからな」

「漢方と言うんじゃ、さぞ高かったろう」

「いやいや、それあ、安いものじゃなかったが、これも、紫霧さまを思ってのことよ……」

 紫霧は、枕の上で頭を巡らせて、春海老の顔を見上げた。

「春海老……」

「ん? どうした……」

「……」

「さてさて、お紫霧は、熱があるんだったなあ。そんならこっち……熱冷ましの青だ。さっそく飲むか?」

「ありがとうよ……。お水を汲んでちょうだいな」

「おう、お安いご用だぜ」

 春海老は、水差しから注いだ杯を手に、紫霧の身体を起こして支えた。

「この薬は、きっと……効くよね」

「ああ、効くともさ。さ、こぼさないように含んで、水でようく口の中をすすいで飲み込むのだぜ。これさえあれば……風邪の熱なんざあ……しゅーっとしぼんで、消えちまわあ」

 紫霧は薬を飲み込み、枕に頭を載せ、目を閉じた。

 やがて、ふんと鼻を鳴らす音と、遠ざかっていく足音が、聞こえた。

 紫霧の目尻から、涙が糸を引いて流れ、耳を伝って、枕に落ちた。

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