第四話 脅し文

 狭い裏庭で焚き付けを割っている岩吉に、《勉強部屋》の小窓を開けた玄龍が、声をかけた。

「精が出るねえ、岩吉っつあん」

「あ、うるさすぎやしたか」

「いいや、まるで。むしろ、いい音さ」

「じき、済んでしまいやすんで」

「そうかい。じゃあ、それが済んだら、ひと稼ぎに行こうよ」

「ひと稼ぎ……」

「ああ、こんな陽気だものさ」

「へい」とは答えたものの、

(ああ。また大道の辻売りかよ)と思うと、ちょっと泣けてくる。

「支度は自分でしておくよ」と言ったきり、玄龍は窓を閉めた。

 岩吉は、それからまた二三度、鉈を振り下ろしたが、

(いや。こうしちゃいられねえんだよな)と思い直し、ひとつところに集めた木っ端に筵をかけて、丸っこい身体で八百屋との狭い隙間を抜ける。

 井戸でさっと手を流し、土間へ入ってみると、玄龍はすでに、板の間に立っていた。

 なんと、大道芸人のだんだら衣裳どころか、押しも押されもせぬ、紋付き羽織袴だ。

「先生……」

「今日は、幟や薬は要らないよ。もっといい稼ぎをするからね。ほら、岩吉っつあんの一張羅も、出しておいた」

 大急ぎで着替えながら、岩吉にはことが飲み込めてきた。

 小橋を一つ渡り、まっすぐ上ると、堅川に突き当たる。

 てっきりいつも通りの早足かと思っていたが、玄龍は二ツ目の橋のたもとあたりを見ている。

「舟ですか」

「うん。徒歩(かち)も身体にはいいが、今日は舟で行こうや」

 岩吉はつっと動き、船着き場を覗く。

 暇そうに首をぐるぐるしているのは、これまた、こないだの佐助だ。

「おい佐助! 舟っ漕ぎが舟漕いでてどうする!」

「るせえやい。舟を漕ぐのがおいらの仕事でい。ももんじい親父め」

「なんだと、この野郎!」

「まあまあ。あいつの舟で行こうじゃないか」と言うなり、玄龍はその大きな身体で、ひらりと土手を下りた。

 佐助が慌てる。

「の、乗るのですかい」

「ああ、たのむよ」と、すでに玄龍が乗り込んだところへ、岩吉が丸っこい身体で、転がるように下りてくる。

「この野郎め」と言いながら、固めた拳にハーッと息をかけたから、佐助は首をすくめる。

「まあ、岩吉っつあん。拳骨は、大事なときに取っておきなよ」と玄龍は笑っている。

「へえ……」と手を引っ込めた岩吉だったが、《大事なときに》というのが気になる。

 命拾いをした佐助が、

「で、どちらへやりやしょう」

「うん、大川を上って、吾妻橋の西の橋詰めまでたのむ」

「へい、合点」と、佐助は土手をひと突きした。

(なるほど)と、岩吉にも別な合点がいった。(先生は、蝙蝠座へ行こうというのだな。そりゃ、たしかに、ひと稼ぎにはちげえねえ。うまくいくといいが)

 大川へ出て艪に持ちかえた佐助は、調子が出て来たものか、

「なるほど、それで先生、見慣れねえナリをしてたんすね。へへっ」

「それぁ、どういう意味だっ」と岩吉。

「いやあ、朝っぱらから北の国でのお遊びとは、先生も、すみにおけねえや。なんなら、山谷の堀に漕ぎ入れますよ」

「おいっ! てめえ、いい加減にしねえと」と岩吉が叱りつけるのを制して、玄龍が、

「うん。その方がいいかもしれないな」

「でしょおっ」

 佐助の艪にも、力こぶが入るのである。

 あっという間に舟は吾妻橋をくぐり抜け、山谷堀の入り口へたどり着いた。

「ここからがおれっちは、速いんだ」と嬉しそうな佐助に、玄龍が、

「やあ。ここでいいよ。ごくろうさん」

「えっ? ここまで来たってのにですかい」

「ほどよいところに付けてくれ」

 佐助は言われた通りに舟を寄せながらも、

「口の堅さじゃ知られたこの佐助をうたがうなんて、水くさい先生だぜ」と、ぶつぶつ言っている。

 それを背中に聞きながら、玄龍と岩吉は土手を上がった。

 互いに顔を見合わせた。

 玄龍はいつになく、引き締まった顔をしている。

 いくらもいかないうちに、猿若町の賑やかな囃子が聞こえてきた。

 蝙蝠座の前では色とりどりの幟が立ち、木戸口にはすでに行列も出来ていたが、

(何かへんだぜ)と岩吉は思った。

 懐手をした汚い浪人風のほか、褌に法被だけで長い棒を持っている、ガエンのようなやつが、三人ほど、鋭い目を向けてくる。

 玄龍が列に付いたので、岩吉もそこに続いた。

「ちょっと待った」と、声をかけてきたのは、浪人風だ。

 ぼさぼさに伸びた頭に、くわえ楊枝。

(こんなにベタなやつも、なかなかいねえな)と岩吉が思っていると、浪人はすすっと玄龍に歩み寄った。

「私に用かね」と玄龍は胸を反らせる。

「おう、そうだ」と、余計なほど凄んでみせる、浪人。

「何用かね」

「何しに来た」

「ここは、芝居小屋ではないのかい」

「おう、そうともよ」

「じゃあきっと、芝居見物なのかもしれないな」

「なのかもしれないな、だとう?」と、浪人がいきり立つ間にも、棒を持ったやつらが間を詰めてくる。

「さ、そこを通してくれよ。もっとも私は、木戸ご免のはずなのだけどね」

「なにっ! あやしい野郎め」

「あやしいのはどっちかな。それに、お武士どの、その楊枝はもう、新しいのに替えた方がいいよ」

「この野郎っ!」と言いながら浪人はさっと身体を半身にして、刀に手をかけた。

 岩吉は、よろけたふりをしながら浪人に倒れ込んで身を寄せた。

 右の手のひらで柄頭をぐっと押し込み、鯉口を切れないようにしておきながら、浪人の痩せ枯れた脇腹に、左の拳を食らわせた。

 ほんの一寸ほどの当て身だったが、手応えがあった。

 浪人は、ぐぐぐと妙な声を立てたきり、その場にくずおれた。

 すべて一瞬のことだ。

「せんせい、どうした!」と、棒の連中が集まってくる。

「俺あ見ていたぜ。あのジジイが、ぶつかってきやがったんでえ」

「なにいっ!」

「いや、履き物がすべっちまって」と岩吉が詫びてみせると、

「このいなかもんめ! こっちへきやがれっ」と、ガエンの一人が手を伸ばした。

 その手が岩吉の肩に届く前に、そっと抑えるかたちで払った玄龍が、

「いや、まてまて。見たところ、そのお武士は、何か急な発作だぞ。でなければこんな爺さんが当たったくらいで、ものも言えなくなるはずがない。猿若町(ここ)にも、医者はいるだろう。おまえたちの《せんせい》だというなら、早く連れて行くほうがいい」

 ガエンどもは互いに顔を見合わせていたが、玄龍の威厳に気押されてか、ぐにゃぐにゃになった浪人者を三人がかりで持ち上げて、荷物のように運んでいった。

(やれやれ)と、思ったところに、騒ぎを見ていたのかそれとも、いま出て来たものか、しゃなりとした役者のような男が立っている。

 浪人が倒れていたあたりの地面を、とろんとした目で、しばし見ていたかと思うと、何事もなかったように歩き出した。

 木戸口には相変わらずの列だから、役者が出て来たとすれば、脇の木戸口に違いない。

(こいつあ、くさいな)と思って見上げると、玄龍も、岩吉を、見ていた。

 岩吉は微かに頭を下げ、きびすを返して、役者風を、追った。


 菊池長兵衛は薄暗い用部屋で、表方の手代から、今朝の入りを聞かされていた。

「本日も満員、札止めです」

 毎日のことだ。

「そうかい」と答えながら、

(もったいねえ話だな。これぁ、朝の部も夜の部も、それぞれ二部仕立てにすりゃ、木戸銭は倍になるってことじゃねえか)と考える。

 そのあたりを相談する相手となれば、春海老くらいしかいないのだが、その春海老は、《見まわり》と称して、朝に夕にと、気まぐれにやってきては、駄法螺を吹いて、小銭をせびっていくばかりだ。

 春海老に渡す小銭など、いまの長兵衛にとってはいくらでもないが、それでも、ちりも積もればなんとやら、だ。

 あれっきり舞台では何も起きないし、あやしい客が紛れ込んだとの話も聞かない。

 そうなってくると、

(何が、警護だ)とも思うのだが、今のところは、春海老の言う通りにしておこうと、長兵衛は決めた。

 と、そこへ手代がまたやってきた。

「お客様がお見えなのですが」

「おやおや、またかい。舞台の客なら大歓迎なのだがね」

 と、商人らしい顔に戻って見せたつもり。

「お役人のようなんで」

「えっ?」と、長兵衛が思わずその重い尻を浮かせかけたところへ、ずかずかと入ってきたのは、紋付き羽織袴の、大男だった。

 長兵衛は、素早く目を走らせる。

(違うぜ。二本差しもなけりゃ、頭だって剃っていねえじゃねえか。しかし……)と、それゆえにこそ、不審な珍客なのだ。

 長兵衛は気を取り直し、

「これはこれは。今朝は、どういったご用件でございましょうかな」

「なに、金をいただきにまいったのですよ」

「金っ?」

「そう。いつぞやのをね。もっと早くまいろうと思っていたのだが」

「いやいや、お待ちなさいませ。いつぞやとは、これまた面妖な。この菊池、おかげさまでごらんの通り、芝居のことにかまけるばかりで、金子を用立てていただくような遊び場へも、ここのところ、とんと……」

「いや、その芝居さ。この蝙蝠座で、火事さわぎがあったろう」

(うっ)と詰まりながらも、長兵衛は、

「火事などとは、人聞きの悪い。あれは、つまり、ただの煙で……」

「その時に、怪我人を手当てして、咳込みの激しい人に薬をやったのは、誰かね」

「ああ……何か、大道芸人のような輩が、ずいぶんと甲斐甲斐しく……」と、答えながら、長兵衛はその背中がなんだかじめっとしてきた。「……そうそう。甲斐甲斐しく、行きずりの善意を見せてくれたものでございました」

「はて。その大道芸人とやらは、蝙蝠座さんに、こうは言いませんでしたか……『この煙玉は、芝居のケレンなのか、そうではないのか』と……」

 長兵衛は、全身がこれ、じるじると油の汗。

(あの大道芸人、面の白塗りこそ剥げかけちゃあいたが、まさにこの男かっ!)

 だが、なんとか取り繕い、

「ああ、ああ。あの時の芸人さんでしたか。ならば、そうと……」

「いや、芸人なんかでは、ないのさ。私は、深川森下町の居を構える医者、香川幻龍と言う」

「これは失礼」と、長兵衛は、しわがれた咳払いをひとつする。

(ややこしいのに、からまれたぜ。まあ、ここはなんとか、追っ払うに限るな)

「して、ご所望の金額とは」と言ってみる。

「うん。ここへの道々、あの日のことを思い出しながら、見積もってきたのだがね……。一人あて、薬代を込みで一分として、四十人は手当てしたから、ざっと十両いただきましょう」

「じゅ、十両とは、これまた!」

「なあに。頭を丸めた、ご立派な十徳姿の偉い先生がたでしたら、倍のところでしょう。私のような若輩が居合わせていたのですから、蝙蝠座さんも果報者ですな」

(この野郎……)と思いながらも長兵衛は、

「あの日は、木戸銭も返し、お見舞い金もお支払いして、まるっと赤字でございました。そこらをご勘案いただいて……そう、五両ではいかがでしょう」

「十両と言ったら、十両。医者の誇りにかけても、私は掛け値をしていないし、あなたも立派な商人なら、払うべきものは、払いなさい」

 長兵衛は、観念した。というより、この玄龍とやらいう医者が、恐ろしくなってきた。

 元からない首をすくめた長兵衛は、座布団の上でずるずると身体を回し、背後の金箱を開けた。

 選り分けた小判を手もとで何度も数え、またずりずりと向き直り、

「十両。お改めくださいませ」

「うん。私は人を疑わないたちでね」と玄龍は裸の小判を内懐に収め、「受取を書きましょうか」

「いいえいいえ」と、長兵衛は両手をびらびらさせ、「そのかわり……」

「そのかわり、何か」

「かようなことは、もうこれっきりということで……」

「まあ、この小屋で、また怪我人が出るようなことがなければ、これっきりに、なるだろうね」と、玄龍は澄ましている。

 長兵衛は、

(もしや……)と、思った。(煙玉も脅し文も、こいつのしわざじゃあ、ねえのかっ?)

 とっさに、

「あのう……お医者さま。やはり、受取を一筆いただいておきましょう。のちのちのことが、ありますので、ね」

「ああ、いいですとも」

 長兵衛は、読むのはできても無筆である。筆など持ったこともない。

 太った手を、びちゃびちゃと叩くと、手代が顔を出す。

「ああ、ここへ、紙と硯を、な……」

 長兵衛がじっと見守る中、玄龍は落ち着いて墨をすり、筆の穂先を整えた。

 すっと浮いた手が動いたかと思うと、後は目にも止まらない速さだった。

 あっという間に一筆を書き終えると、最後に見事な花押を記した。

「これでいかがかな」

 もちろん、あのカナ釘のような脅し文の文字とは、似ても似つかぬもの。

「ええ、けっこうでございます」とは言ったが、

(カナ釘しか書けないヤツにこれは無理だろうが、この達筆らしいものを書けるヤツがカナ釘を書くことはできるわけだ。油断しちゃならねえ……)

「そういえば、表のあの、ごろつきのような連中は、何ですか」

「い、いえ。またこないだのような事件(こと)があっては、お客様にも面目が立たないというわけで……」

「やつらは、何を見張っていたんだい」

「なんというか、その、あやしい者が木戸をくぐるようなことがないようにと」

「そんなお客は、一人も見かけなかったがね。まあ、あんな連中、私はきらいだな」

(そりゃ、きらいだろうさ)と、長兵衛は思う。

「玄龍先生がおきらいでも、わたくしどもは、そうもいかないので」

「へえ、そうかなあ。あんなのが、役に立つのかね。あの汚い侍、さっきも丸腰の小さな爺さんに小突き回されて、すっかりのびていたよ」

「えっ?」

「あれじゃあ、しばらくは使い物にならないだろう。よほど、すぐに診てやろうかと思ったが、集金が先だったのでね。では、ごめんこうむります」と、玄龍は立ち上がる。

(いってえどういうことだっ。江戸でも名うての剣術使いと、命知らずのガエンどもだと春海老は言ったじゃねえか。それが、爺さんにのばされただと!?)

「蝙蝠座さん、どうされた」

「えっ」

「先刻から気にはなっていたのだが、顔色がよほど悪いようですぞ。我々の言葉では《埴土ノ色(へなつちのいろ)》と言いますが、湿った粘土のような、たちの悪い顔色……」

「いえいえ、わたくしはもともと、こういう顔色なのでございます」

「心に泥水のような憂いがあって、それがまるで、はけない。お心当たりは、ありませんか。何ならこの玄龍、せっかくの訪問なので、診てさしあげてもいいが」

「いいえいいえ」

「金のことなら、心配無用だよ」

「そんなことではありまんので」

「ならばいいが……。しからば」

 玄龍が立ち去ったのを見届け、長兵衛は大声で手代を呼んだ。

「おい、表はどうなってるんだ!」と、思わず荒い口調にもなる。

「先に申し上げた通り、もったいないような、札止めでございます」

「そ、そうじゃない。警護のやつらだっ!」

「いまは誰もおりません」

「何っ」

「みなさん打ち揃って、昼餉にでも出かけられたかと。……あっ、そろそろ幕開けでございますゆえ」

 手代はいたちのような身軽さで消えて行き、拍子木が、鳴った。


 岩吉は、あのしゃなりとした役者風の男を、つかず離れずで追っていた。

 猿若町の南の木戸を抜けてから、浅草寺の脇を抜け、境内を通って、門前に出た。

 どこの店に入るというわけでもなく、ぷらぷらと、歩いている。

 玉虫色に光る羽織に、裾のぞろりとした、紫色の柔らかそうな着物。

(あの派手な色を覚えておきゃ、めったなことでは巻かれないぜ)と、岩吉は、思った。

 やがて役者は、川に向かって歩き出した。

 人が勝手に道を空けるのを、あてにしているような歩きぶりだが、そうもいかないようだ。

 女子供にぶつかられては、肩をいからせて大げさに舌打ちをしているが、ちょっとでも強そうなやつが来ると、綿ぼこりか何かのように、ふわっと脇へのけているのが、手に取るようにわかる。

 岩吉は、笑いをかみ殺す。

 そのまま吾妻橋を渡るかと思われた役者だったが、これもまた、思いつきのように右に折れ、駒形への道を、下っていく。

(どっかで飯でも食うのかな)と思いながら、岩吉は、つけていく。

 と、役者は、ふいに路地を折れた。

 どうやらかなり土地鑑があるらしい??というのも、そこは、駒形の渡しへの、抜け道だからである。

 もちろん、それを知らない岩吉ではない。

 一呼吸おいて、後に続いた。

 渡し船はちょうどいっぱいになり、そろそろ船着き場を離れるところだったが、その中にあの役者は、いない。

 と、それより半町ほど下手から、役者が猪牙舟に、乗り込むところだった。

 すぐに出ないところを見ると、舟賃のことで何やらやりあっているようす。

 船着き場の番太が、しきりに取りなしている。

 渡し船はすでに岸を離れ、猪牙舟も出ていった。

 岩吉は、やおら土手から飛び出し、

「おうい、舟はないのかい」と言ってみた。

 番太は、岩吉を一瞥したが、今日ばかりは立派な服装(なり)の岩吉を、地元の者だとでも思ったのか、

「いやあ、旦那。渡しも猪牙も、ちょうど今、出たところでさ」と、言う。

「見ていたよ。あたしも両国あたりまで下りたかったんだが、すんでのところで行かれてしまった」と、旦那風にしてみる。

「いやいや旦那。あんなやつとは、乗り合わなかったのが冥加でさあ」

「どうかしたのかい」

「なに、猿若の役者崩れなんでしょうがね、やたらと値切りやがるんで」

「どこまで行かれたのかい」

「どこまでも何も、こちとら、下りならば新大橋までは百文と、決めがあるところを、永代橋のこっちの、仙台堀までだからどうとか、ぐずぐずと、セコなことをぬかしやがるんです」

「やれやれ。船頭さんもたいへんだ。……ときに、次は来そうかね」

「猪牙のことなら、悪ぃが、そこは、俺にも読めねえんだ」

「そうかい。じゃあ、あたしは、そのへんをまた、ぶらぶらすることにしよう」と言いながら袂を探った岩吉は、一朱銀を探り当てて番太に差し出すと、「これ、少ないがね、さっきの気の毒な船頭さんと、蕎麦でも食いなさい」

「いや、旦那。舟もねえってのに、こりゃ過分な……」

「いいのさ。またいつか、世話になるよ」と、立ち去ろうと見せると、

「あっ、待っておくんなせえ。あいつと蕎麦を食おうにも、旦那のお名前を伺っておかなくちゃ、話になんねえ」

「あたしかい? なに、名乗るほどのものではないけどね。向こう岸の、深川森下町、香川幻龍という……医者さ」

「お医者さま……。森下の、玄龍さま、ですね」

「ああ、そうさ。おまえさんたちの仕事には、怪我や風邪っぴきも、付きものだろう。もしもの時には、いつでもいらっしゃい……」

 言い捨てながら、土手を転げるように下りた岩吉は、心ノ臓が、ばくばくしていた。

(こりゃあ、たまんねえことだな!)と、思うのであった。(うちの先生は、いつでもこんなに、すかーっとした気分なのかい! ああっ! 俺も生まれ変わったら、玄龍先生に、なりてえっ!)

 と、なすことも思いも、この点では、政次といくらも変わらない。

 だが、そうして身悶えばかりも、していられない。

 岩吉は、蔵前を抜けて、両国の広小路へと、走った。

 そもそも何か、今日は縁日でもあったものか、常ならぬ人出だ。

(これあいけねえ)と考えた岩吉は、橋詰めに寄りつくのを避け、裏道を抜けると、土手沿いの道へ出た。

 右手には、ただひたすら、お屋敷の塀で、そして右は、見えそうで見えない、大川だ。

 行き会う者もないまま、新大橋のたもとへ出た。

 両国橋にはくらべようもないほどの橋は、少し怖いようだったが、半ばまで渡った岩吉は、上流を、すがめた。

 すると、見えた。

 やる気のない船頭ゆえか、明らかに、流れのままに漂っていると思われる一艘の猪牙舟の上に、あの玉虫色の羽織が光っている。

(いたぜっ!)と、思った岩吉は、橋の残りを渡りきり、一目散に、仙台堀へ急いだ。

 息を整えて待っていると、ゆらゆらと近づいてくる舟が見える。

(こりゃまた、セコい役者と船頭の、意地の張り合いかよ)と思いながら、待っていると、役者が上がって来た。

 役者は船頭に向かって、何事か捨て台詞を吐いているようだが、聞き取れない。

(思えばこのあたり、佐賀町といえば、政次の住処があるところじゃねえか。あの野郎と、妙なところで会わなければいいが)と思いながら、岩吉は土手の柳の下にうずくまり、煙草を吸っているふりをしていた。

 どちらへ向かうかと思った役者は、堀沿いに、歩く。

 行き着いたところは、寺前の、万年町とやらいう、やたらとわびしい長屋だった。

 役者は、その界隈にはまるで似合わない色の衣裳をひらひらさせながら、裏に入って行く。

 いちばん奥まったところが、目当てらしい。

 渋たれた障子に、墨で《虹》と、あった。

 役者は入って行ったが、そんな場所に落ち着くとは思えなかった。

 あんのじょう、線香が一本燃えるほどの時間より早く、出て来た。

《虹》と書かれた家が何なのか気になるところだったが、今は役者を追うのが先だ。

 また舟にでも乗るのかと思ったが、役者は仙台堀の橋を渡って、北へ歩く。

(ははん。やっこさん、船賃がないんだな)と、岩吉は察した。

 小名木川を渡るときのことだった。

 気を許したわけではないのだが、岩吉は間を詰めすぎていた。

 どういう勘の働きか、くるりと振り返った役者と、目が合ってしまった。いや、正しく言えば、目は合わせていないが、姿を見られてしまった。

 もし、今朝の蝙蝠座での一件を役者が覚えていたら、岩吉を見て、あの時の男だと気づくかもしれない。

(ああ。へたを打っちまった……)と思いながら、岩吉は、おそらくは北に向かうだろう役者を一度見放し、東の道に折れた。

 あたりは海辺大工町と呼ばれる一角で、これもまた、間口の狭い長屋が続いている。

(俺の服装も背格好も、特に目立つものじゃねえ。ぐるっと先回りして、もういちど尾行(つけ)なおすか……。いや……)と、岩吉が短い思案をしているところに、向こうからやってきたのが、天秤棒を担いだ政次。

 まるでこちらに気づいたふうもないところへ、

「おい!」と声をかけた。

「へっ! 岩吉っつあん? どうしたわけで、ここにいるんで? っていうか、その立派なナリは、また……」

「おまえ、いいところに来てくれたぜ」

「だって、ここらあ、おいらの商売どころだもん」

「あのな、商売のものは、あとで俺がぜんぶ買ってやるから、おまえ、頼まれてくれろや」

「わかってる。おいら、岩吉っつあんとここで会ったなんて、誰にも言わないよ。へへへ」

「そんなことじゃねえんだ。これぁ、俺の大事なたのみだから、そう思って聞けよ」

「うん」

 岩吉は、追っていた役者の風体を政次に教えた。

「そいつは、この先の、小名木川の出口をな、川に沿って歩いているはずなんだ。だからおまえ、つかず離れず、そいつを追ってくれ」

「わかった。でも、なんでだい?」

「あとで話すさ」

「そいつは、悪ぃ野郎なのかい」

「ああ、相当にな」と、岩吉は怖い顔をしてみせる。「その悪(あく)は、ぞろりぞろりと歩いてるはずだ。いっぽうおまえは、脚が速いからな」

「それが自慢だい」

「その自慢を、ここはちょっと我慢して、だ。ところどころで、商売でもやってるようなようすをしながら、休み休み、つかず離れずで追うんだぞ」

「わかった」

 いくらか心細かったが、こうするのがこの際は一番だと考えて、岩吉は政次をあてにしてみることにした。

 海辺大工町から療養所へは、五町余りだ。

(政次のやつ、うまくやってくれるといいが)と思いながら、岩吉は、少しばかり悔しい気持ちだった。


 療養所の板の間は、いつにも増して、ぴかぴかだった。

 岩吉が、隅から隅まで二度拭きしたのだ。

 その板の間で岩吉は、玄龍の紋付きや袴をことさら丁寧に、畳んでいる。

「傷も汚れも、どこにもないようですね」

「うん。それなりに、気を使ったからね。岩吉っつあんのはどうだい」

「あっしのも、無事です」

 そう言いながらも、衣紋掛けにかかっているその着物の裾が、かなり埃まみれなのを、玄龍は、すでに見ていた。

「だいぶん、歩いたんだろ」

「いいえ、たいしたこたあ、ございやせん」

 ごつい指のわりに器用な手つきで、畳紙(たとうし)の紐を結び終えた岩吉は、ひざを揃えて端座した。

「岩吉さん、まずは、脚を崩してください。とにかく、今朝のあれは、凄い技でした。私は、感服しました」と頭を下げる玄龍に、

「いいえ。ほんとうに、慣れない足袋に、草履が滑っていけなかったんですよ」

「何をおっしゃるか。私は見ていたよ。あいつの刀の柄を、ぐっと押し込んでおいてから、短い当て身でね」

「いえいえ、お恥ずかしい」

「見せてください」

「え、何を」

「あの拳を、ですよ」

 岩吉は照れながらも、ぐっと拳を作ってみせた。

 中指が、山奥で採れた石のように、ゴツっと飛び出している。

 岩吉は、ほろりと手を解きながら、

「さすがに、佐助や政次には、使いませんので」

「それあそうだ。あれで打たれては、私の出番もなく、やつらは、あの世ゆきだよ」と、玄龍は笑う。

「ときに、先生こそ。お金はしっかり預からせていただきましたが、蝙蝠座では上首尾でしたので?」

「うん。まあまあ、かな。しかし、明らかにおかしかった。あの菊池という男、柄にもなく臆病なやつのようだったが、誰かに脅されているね」

「お上がこわいってえのではないんですかね」

「違うな」

「ではやはり、板橋の筋……」

「しかし、そこのところは岩吉っつあん、見聞きしてくれた通りだろう?」

「へえ。タチの悪い地獄宿の話は、それこそ、むかしばなしのように誰もが知っていやしたが、仲宿一帯が焼けてからというものは、もう《油蟇の長次》などというやつの名前を知るものも、わけ知り顔の、若いちんぴらだけ……いや、あっしの調べが甘かったのかもしれません。面目ねえ」

「いや、岩吉っつあんが言うかぎり、それはその通りなんだろうさ」と、しばし玄龍は考えていたが、「で、岩吉っつあんは、あの役者みたいなのを、追ったんだね」

「ええ。それなんですが……」

 岩吉は、あれからの足取りを、手っ取り早く説明した。

 玄龍は、場所を思い浮かべながらじっと聞いていたが、話が海辺大工町でのことに及んだところで、深くうなずいた。

「じゃあ、そこから先は、政次しだいということだね」

「へい。面目ねえ」

「面目ないことはないさ。よくやってくれたよ」

 と、二人で思案しているところへ、表でがたがたと音がした。

 政次だ。

 表の戸を開けて、鉢巻きに手を当てて腰を屈め、

「ちわ」と言ったまま、黙っている。

「よう、政次」と、玄龍が陽気に声をかける。

 政次は玄龍と岩吉とを、かわるがわる見ながら、なんとも言えない困り顔で、

「え?っと、こんちは、アサリやシジミのご用はありませんか……」

「あるある。ちょうど、深川汁を思いっきり食いたいと思っていたところなんだ。あとの商売がないなら、アサリを、ぜんぶ買わせてもらっていいか」と玄龍が言うと、さっと顔色を変えながらも、

「へい、まいど」とだけ、答えた。

「政次」と玄龍が言う。

「へいっ」と、身をこわばらせる政次。

「明日の朝はシジミ汁にしたいんで、シジミもぜんぶ売ってくれるかい」

「へいっ」とは言ったものの、さすがに何か気味が悪くなったのか、声がうわずっていて、それでいて、岩吉からは目を逸らしている。

「じゃ、今日の商売は、これで、しまいなのかな?」と言いながら玄龍は笑っている。

「おかげさまで……」

「じゃ、こっちへ上がれよ」

「いや、汚ねえ足なんで」

「だったら、井戸で流してこいよ」と玄龍が声をかけると、転げるように外へ出て行った。

「岩吉っつあん」

「へえ……」

「あいつ、あんがい、見どころがありますね」

「でしょうか……」

 玄龍は、何かを思う顔になった。

 戻って来た政次が、相変わらず土間でもじもじしているのを、玄龍は板の間に上げた。

「政次、そこに座りなさい」

「へいっ」と、恐縮している政次である。

「私は、おまえに、ちょっと言いたいことがある」

「えっ」

「これまで、おまえのことを、実は、ただのおっちょこちょいだと、思っていた」

「あっ、いや、それはもう、その通りなんで」

「それが私の思い違いだったということが、ようく、わかった。すまぬ、政次」

「い、いや、やめてくだせぇよ。な、なんのことかはわかんねぇけど、と、とにかく」

 そこへ、岩吉が、

「政次。俺がおめえに、堀端でたのみごとをしたことさ」

「……」

「いつものおめえなら、入って来るなり、ちゃらぽこしゃべりはじめるかと思っていたが、貝のように黙っていたな」

「……」

「そこを先生は、ほめてくだすってるんだ。なあ、政次。ありがとうよ」

「い、いや、岩吉っつあんまで、そんな……」

「もう、安心していいよ」と、玄龍が優しい声をかける。「あれは、私の頼みだったのだ。さぞ疲れたろうな」

「いやぁ、ふだんの商売と同じで、なんでもないことで」

「あとでねぎらうから、見てきたものを話してくれないか」

「へ、へいっ……」

 政次が言うには、役者は岩吉の見立て通り、船蔵の裏を通ってずっと北まで向かったそうである。

 そこから竪川を渡り、両国橋の東詰で一服したのち、橋を西へ渡ったとのこと。

「あの混んだ両国橋を、おまえ、天秤棒かついで……」と岩吉が驚く。

「まぁ、たしかにあそこんとこは、人混みがすごくって、何度か、イヤなやつに、からまれそうにもなりましたが、とにかくあの、派手な野郎を見逃しちゃいけないと思って、ぺこぺこと……」

 両国の人混みを、げんに見てきただけに、岩吉は感心しているようす。

 役者は、まさに岩吉が走り抜けた蔵前の道を、北に進んだという。

「じゃあ、あいつはまた浅草へ、歩いて戻ったってことだな」と、岩吉が決めつけようとするところへ、

「それが、違うんでさ。俺もてっきり、これは駒形から浅草へ向かうんだろうなって。そしたらいよいよ、棒も盤台も邪魔になるだろうから、そのときゃそのときで、うっちゃって置こうと思った時に、野郎、へんな屋敷に入ったんです」

「へんな屋敷たあ、どんな屋敷だ」

「お蔵がいっぱいあるところを抜けて、いくらもいかないところです。あとで聞くと、黒船町と言うらしいんだけど、なんだか真っ黒い塀のある、真っ黒いお屋敷に、自分ちみたいに、すーっと入って行きやがったんで」

 玄龍が、

「岩吉っつあんが、駆けた道ということだね。覚えはあるかい」

「いいえ。面目ねえが、覚えがありやせん」

「ふむ。で、政次。そこからどうしたんだい」

「えっと……あたりは、それなりに、門のないような気やすいうちもあるところだったから、その、黒い屋敷からは目を離さないようにと気をつけながら、『あさりぃ?、しじみぃ?』と呼ばわっていたんです。そんなときに限って、妙にこれが……」

「商売が、繁盛してしまうというわけだね」と、玄龍は笑っている。

「そうなんです。でも、おいらぁ、決してあの黒い塀からは目を離しはしなかったんで」

「で、どうした」

「おいらのような振り売りが、あんまりひとつところにいるのもナニなんで、疲れちゃって一休みのていで、一刻……いや、半刻あまりかなぁ、じっとしていたんですが、何も起きなかった。だから、帰ってきたのです」

「そうか……。手に取るように、よくわかったよ」

「そんなんで、よかったんですかい」

「よいとも。すごい働きだよ。政次……ごくろうさま」と、玄龍は言った。

「い、いや……そんな」と、しきりに照れている政次だったが、「あっ、深川汁でしたねっ! おいら、ひとっ走り、ネギを買ってきます」と、すっ飛んでいこうとした、そこへ、

「お頼みします!」と、戸の外から声を張り上げたのは、伊藤十蔵だった。


 十蔵は、丁寧な挨拶をすると、世間話もそこそこに、切り出した。

「先日、玄龍どののお耳を汚ししてしまった愚痴のあと、いろいろ思うところもありまたので、それがし、昼下がりに、蝙蝠座へ行ってまいりました。まずはあの小屋の、図面を取る必要もありましたので」

「どうでした」

「あの通り、なんとも胡乱(うろん)な男ですが、口ぶりだけは、いんぎんで、とりつくしまもありませぬ。しょうじきなところ、あいつと同じ部屋の空気を吸っているだけでも、心が騒いでしかたないのです……いや、これではまた、愚痴になります」

「十蔵どの。入れ違いでしたな」

「いれちがい?」

「実は私も、今朝、行ってきたのです」

「えっ! なにゆえに、玄龍どのがふたたび、あんなところへ」

「なぁに、集金ですよ。蝙蝠座には、カケがありましたので」

「さようでござったな……。して、それがしが尋ねるのも、失礼ながら……」

「取れました取れました」

「ああ、それはなによりでござった。よかった……」

「十蔵どの、この後のお役目は?」

「あ、いや、いずれ、田原町にはもどらねばなりませんが……」

「うむ……」と玄龍は、宙を仰いで、あごを撫でている。

「一献ならば、よろこんで付き合いましょう……」と、十蔵が言いかけたところに、

「いや、今日ばかりは、そうではないのです。同心としての十蔵どのに、お報せしておくべき話が、少し、あるのですよ」

「なるほど」と、居住まいを正した十蔵に、玄龍は一通りの話をした。

 政次が床屋で聞いてきた、菊池長兵衛の過去の悪い噂。

 岩吉が、板橋で見聞きしてきたこと。

 そして、その日の蝙蝠座と、あやしい役者のような男のこと。

 岩吉の足取りのすべて。

 玄龍が、岩吉を見やると、岩吉は、

「まさにそのとおり」というふうに、声には出さず、深くうなずいた。

 十蔵は、驚いた。

「玄龍どの。しばし待たれよ。この一件、手控えさせていただけませぬか」

「いや。今は、待たれたほうがよいでしょう」

「なぜゆえ、そう申されるのか」

「こう言ってはなんですが、十蔵どのは、与力屋敷にお住まいの身。また、その実直さから、それを面白く思わない、ご同僚もいると聞きました」

「お恥ずかしいところを……」

「いやいや、それは、まったくかまいません。それどころか、そのお人柄を、私も、この岩吉も、つねづね敬っておりますことは、ご存じでしょう」

「では、玄龍どのは、それがしの書き物などが、漏れていると申されるか」

「いかにも」

「……では、どうしたらいいのだろう」

「なに、ここですよ」と、玄龍は自分の胸を突いてみせる。「一件が納まる日が、必ず、来るでしょう。その時まで、納めておくのですな」

 と、そこへ、転がり込むように、政次が戻って来た。

「うっへー、遅くなっちまってすんません。いつもの八百屋が、とむらいだってんで、休んでいやがったので、向こうの八百屋へ行ったんですが……」と言いかけた口をつぐんで、真剣な顔の三人を、見る。

「ああ、ごくろうさん」と声をかける玄龍の声も、先刻とはまるで違う調子。

「お、遅すぎたかな、おいら……」

「そんなことはないよ」

「で、でも……な、なんだか、おっかねえ顔をなさって」

「うん。おまえにやる小遣いの相談をしていたのさ」

「えっ」

「聞かれていると、話しづらいものだよな、岩吉っつあん?」

「ええ。さいですね」

「いや、あ、あの……おいら、江戸味噌を買うのを忘れていたよ!」と、転がり出ようとする政次の背中へ、

「半刻もしたら、必ず戻って来いよ」と、玄龍。

「ネギの泥を、よっく落としてくるんだぞ」と、岩吉。

 十蔵は、しばしあっけに取られていたが、

「あれは……いや、あの人は、よく見る顔ですが、どなたなのですか。もしも玄龍どのの、お弟子ならば、ご挨拶をしなくてはなりませぬ」

「なに、見たとおりのオッチョコチョイですが、あれでなかなか、ひとすじ通ったオッチョコチョイなのです」

 十蔵は、仲間に気も許せない与力同心の屋敷より、この療養所が、よほど、うらやましいと思った。


 万年町の奥まった長屋では、虹色煙二郎が、その仕事の真っ最中である。

 手持ちの中でも、いちばん力の大きな火薬を芯に固め、何枚も何枚も紙を重ねた。

(ここのところの固め方が、大事なんだ)

 爆薬の殻を、どれだけしっかり固めるかで、花火の広がりは、決まってくる。

 そのためには、糊に緩みがあってはいけない。

 だから、なるべく薄くて強いやつで重ねていくのだが、それが乾くには、どうにも仕方のない時間は、かかる。

(それを、あの役者ときたら……)

 初めは商人のナリでやってきたあの男が、役者崩れの、ほとんどやくざのようなやつだとわかったのは、あのあとすぐだった。

 口調も乱暴なら、態度もひどいものだ。

 仕事の進み具合に応じて金をもらう約束になっていたものを、まとまったものを寄越したのは、最初の一度だけ。

(それでもまあ、女房に面目が立ったよ、俺は……)

 その女房には、

「大事な仕事が終わったら、俺も湯治がてらに迎えにいくからよ」と言い含めて、伊豆の故郷へ返してある。

 それにしても、あの男には、職人の仕事というものが、まるでわかっていない。

 二日と空けずに様子を見に来るが、言うのは決まって、

「まだか、まだなのか」だけだ。

 もっとも、爆弾の芯が固まりそうな今となっては、これを、すでに預かっている桐の箱に収め、周りに釘を詰め込むまでだ。

(そう、その釘よ……)

 昔なじみの大工の惣五郎に、わけは聞くなと言って分けてもらった大量の釘が、木箱にぎっしり入っている。

「煙二郎、おまえさん、商売替えでもする気かい」と惣五郎は笑っていたが、煙二郎の背中はいやな冷や汗で、べっとりと濡れたものだった。

(おれは、とんでもねえことを、しちまっているのかもしれねえ)

 なにせ、煙二郎の計算通りなら、ゆうに三丈、八方に、釘が飛び散ることになる。

 何に使うのかまでは聞かなかったのが、せめてものさいわい。

 ただ、《いいこと》に使うためのものではないことは煙二郎にもわかる。

(ああ、ちくしょう! 今夜は酒でも飲んで、寝ちまおう!)と、煙二郎が腰を浮かせかけたところへ、

「もし」と、男の声がした。

 堂々としているが、艶のあるようないい声だ。

 もちろん《あいつ》ではない。

「なんでござんしょう」と、答えながら、煙二郎は仕事道具をがさごそとかき集め、自分のうしろに押しやる。

「開けさせていただきます」と言いながら、相変わらずのガタピシの戸を、開けて姿を現したのは、身の丈が六尺はあるような、若い男。

 商人でないことは、一目でわかったが、侍だろうか?

 いや、それにしては、腰の物がない。

「何のご用で」

「私は、森下町に住む医者、香川玄龍と申します。万年町の二丁目というのは、こちらではありませんか」

「へい。ここらはたしかに、万年町の二丁目でございやす」

「病人が出たと聞いて、来たのですが」

「そりゃまさか!」と、煙二郎は、とっさに答えていた。「このあたりに、お医者を呼べるようなうちなんか、一軒もありゃしません」

「そうか、ヘンだなあ……」と、玄龍は首を傾げていたが、「ややっ。そういうあなたは、ずいぶんと顔色が良くないが……。どれ、脈だけでも取りましょう」と近づいてくる。

「いえいえ、お医者だなんて、とんでもねえことで」

「気になさるな」と言いながら、玄龍は狭い土間からもう床へ上がって来ている。「お仕事柄か、ずいぶん肺をやられている様子だな」

「なんで俺の仕事を……」

「このままでは、正直、長くないぞ」

「えっ!」

 絶句する煙二郎の前で、玄龍は印籠の紐を弛め、中から薬包を取り出した。

 開かれた紙の上には、小さな丸薬が載っている。

「まずはこれを一服しなさい。舌の上でゆっくりと舐めるのです。これも何かの縁だから、薬礼などの心配は無用だ」

 慌てて口に含んだ丸薬は、えらく苦かった。

 顔をしかめる煙二郎を、玄龍はにこにこしながら見ている。

「どうです、苦いでしょう」

「へい。えらく苦いものですね」

「良薬である、証拠だよ。……どうかね、それは、すぐ効く薬のはずなのだがね」

「そういわれると、なんかこう、ぽーっとカラダがあったまって来たような気がします」

「そうかい……それはよかった」と、玄龍は顔をくしゃくしゃにして笑っている。

 煙二郎には、この若い男に、心の芯の硬いところをほぐされるような、安らぎを感じてしまうのが、不思議なことだった。

(こうしてみると、俺ぁ、人らしい人ってのに、ずいぶんと会っていなかったなあ)

 そう思うと、子供みたいに、わんわん泣きだしような気持ちにもなるのだ。

「せんせい……。どうしてわっちのような者に、そう、よくして下さるので……」という煙二郎の問いを無視して、玄龍は、すこし厳かな顔になった。

「煙二郎さん……たばかって、悪かった」

「えっ?」

「さっき飲ませたのはね、実は《嘘吐丸(うそはきがん)》というものなのだ」

「うそはきがん……」

「戦国の世では、忍びが敵方への拷問に使ったという、やや怖い薬なのさ」

「!」

「その薬を飲んだものは、隠し事があると胸につかえが生じてね。何もかもを話してしまわなければ、やがて、喉が詰まって、死んでしまうのだ。……どうかね、この私を信じて、洗いざらいを話してみないか」

 煙二郎のからだは震えだし、目には涙が溢れた。

 飲んだ薬や、胸のつかえというのが怖かったわけではない。

 誰かに、聞いて欲しかったのだ。

 煙二郎は、しばらく、子供のように、わんわん泣いた。


 きーんと晴れ渡った空には、月もないせいで、星がみょうに明るい夜だ。

 同心伊藤十藏は、役目の場所を巡り終え、森下町に向かっていた。

 思い出されるのは、

「ここにしまっておけ」と胸を突いてみせた玄龍の仕草と、岩吉が調べてきたという、板橋のでのこと。

 じつはあれから、折に触れては、少しずつ、十蔵なりの調べをしてきた。

 わずかな額さえ取れず腕をねじ上げられた巾着切りや、旅のあげくに流れてきた者、石川島の寄せ場で何とか仕事を身につけた船大工など、十蔵がこれまでは、正直なところ《くず》のように思っていた連中のところを、次々訪ねた。

 はじめは十蔵を見て、青ざめる者もいたが、何気ない世間話を重ねると、みんなやがて、落ち着きを取り戻した。

 そんな連中から、少しずつ、さりげなく、話を聞き出した。

 あらためて、岩吉の調べの速さと正しさに、驚いた。

(岩吉さんは、いったいどういう人なのだろう)と思う。

 しかし、十蔵なりに、新たに得た話もあった。

 黒船町の屋敷の女主人は、両国広小路で、化粧店を営む紫霧??ここまでは、すぐにわかった。

 しかし、中山道を旅の空にしていたという、あの年取った行商人の話が気になる。

《あの頃の板橋仲宿といえば、そりゃもう、賑やかなところでしてね。それだけに、無宿者もおおぜい巣くっている、ヤバいところだったのですよ。女郎を連れ出した股旅者が、めった斬りにされたなんてこともありましたな。女はそれきり行方知れずで、石神井の川に流されたとも、逃げ延びたとも、そんな噂でしたね……》

 隠れ淫売から逃げ出した女の名前??《飛騨のおみつ》。

(玄龍先生が、まだ起きていらっしゃるとよいが……)

 身を切るような北風が、十蔵の背中を、押してくれた。


「姐さん、いつまで寝ていらっしゃるのですか!」

 階段の途中から呼びかけるタケの声が、今日の蘭には、とりわけかまびすしく聞こえる。

(『朝までしごとをしていたから、お午過ぎまで眠ります』と、ちゃんと書き置きをしておいたのに……)

 あいまいに返事をして、もう一度、頭から布団をかぶろうとした蘭に、タケは、追い打ちをかける。

「お客様がお見えですよ」と言いながら、もう部屋の外まで来ている。

「今日は誰とも、約束はないはずだよ。もう少しほうっておいてちょうだい」

「あの《麗ノ粉》の、玄龍先生ですよ」

「!」

 飛び起きた。

「何かご用があるそうです」

「客間で待っていただいてちょうだい。お茶を急いでね!」

「姐さん、先生がおっしゃいました。え?と……

『しらせもなくおとずれたゆえ、おしたくもおありだろうが、なるたけはやくおめにかかりたい』……なのだそうですよ」

 蘭はとっさに、

(何かあったのだろうか)と思った。

 まずは素早く身繕いをし、鏡に向かう。

(ああ、なんてこと! こんな腫れぼったい目で、玄龍さまにお会いするはめになるとは)

 それでも急いで鬢をくしけずり、白粉を少しはたいて、口もとに紅だけさした。

 階段を駆け下りる。

 客間では、端座した玄龍が、にこにこと笑いながら、

「やあ。あらかじめの便りもない訪問、ひらに、お許しください」と言って、手を突いた。

(なんだ、ニコニコしているじゃないの!)と思いながら、蘭は、

「お急ぎでもないのでしたら、お茶を一服されている間に、も少し調えさせていただきとうございますけれど」

「いや、それがいささか、急な用でしてね」と、玄龍は真顔になった。

「いかがなされたのです?」と、蘭も思わず、前のめりになる。

 玄龍は話し出した。

 蝙蝠座へ行ったこと。そこで見た、役者風の男。その男の足取りと黒船町の屋敷??。

「お蘭どのは、その家をご存じではありませんか?」

「いいえ。両国広小路の『黒船屋』さんなら、もちろん存じておりますけれど」

「では、板橋宿の、おみつという名については……」

「お役に立てず、心苦しく思いますが、なにせ吉原にいた身ですから、そとのことには、うとくて……」

 蘭はもちろん、自分を高く見ているわけではない。

 板橋でも品川でも、どんな宿場でも、苦界の女の境遇には、みなそれなりに、わけがある。

「そうですか……」と玄龍は宙を仰ぎながら、「いや、私はまるで見立て違いをしているのかもしれないな」とつぶやいた。

「玄龍さま、どういうお見立てか、お教え下さるわけにはまいりませんの?」

 蘭の、戯作者としてのこころが動いたのは、本当のところだった。

「うむ。……ある、あわれな女の話なのです。じつにいやな言葉ではあるのですが、お蘭どのは《地獄宿》と言うのをご存じですか」

 蘭は、ぎくりとした。

 知らぬどころではない、吉原でも、口の悪い下品な客などが、もてなしがよくなかった女などに向かって、

『てめえなんざあ、お歯黒どぶの羅生門河岸にまで落ちるなら、まだましなほうだ。宿場の《地獄宿》にでも、百文で売られてしまえ』などと、乱暴な物言いをすることがあると、噂でこそあれ、幾度となく聞いたことがある。

(《地獄宿》……)と、心の中でつぶやいたとき、蘭は、はっとした。

「玄龍さま。さきほどの、板橋の……《飛騨のおみつ》という人ではないのですか」

「ええ、そうです。飛騨の……でしたね」

「あたしはその話を、知っています。古いかわらばんで読みました」

「なんと!……その中身を、おぼえておいでですか」

「あれは、そう……一緒に逃げた男の人が、縁切榎の下で切りさいなまれ、おみつさんは、行方知れず。川にでも流れたのだろうと言われていたものが、飛鳥山のお店の看板娘が、まるで瓜二つだというので、『あれは《飛騨のおみつ》の怨霊だ』などと噂する者たちがいた……と、そのようなことでした」

「それだ!」と玄龍は膝を打った。

「くわしくお話しくださいませ」

「時は、ありますか」

「ええ。夜中までだって、あたしはかまいません」

 蘭は、きっぱりと答えた。


 玄龍は、虹色煙二郎との一件について、蘭に聞かせた。

「袋いっぱいの釘ですって?」と、蘭は驚く。「そんな危ないものを……」

「堀にざらざら棄てさせてもよかったのですが、そうなると、その役者崩れがまた様子を見たときに、煙二郎さんも困るだろうと思ってね」

「玄龍さま、お言葉ですが、呑気すぎるのではありませんか?」

「まあ、そうかもしれないな……」

「お役所の出番でしょう。その、役者崩れというのを捕まえて、キリキリと調べ上げればよいのではないですか?」

 それは、もちろん、玄龍も考えたことだ。

 だが、そうすれば逃げのびるやつが、かならず出る。

 蝙蝠座こと《油蟇の長次》は、せいぜい迷惑づらを決め込むことだろう。

「お蘭どの。ときに、新芝居の進捗はいかがでしょうか」

「あたしの本なら、あと二三日もあれば、書き上がろうかというところ。どうせ、稽古もろくに要らない狂言ですから、そうなればすぐにでも、封切りでしょう」

 と、いささか自嘲的に、蘭は言う。

「舞台の方は」

「他愛もないものですが、元絵は描いて、すでに蝙蝠座さんには届けてあります」

「私に少し、考えがあるのですが……蘭どの、まことに夜までお付き合い願えるだろうか」

「ええ。夜どころか朝までだって、あたしはかまいませんと、申し上げたとおり」

 玄龍は、決めた。

「蘭どの。ここに一枚、紙を出していただけませんか。いちばん大きなやつをです」

 蘭はすぐに、大きな紙と、筆写道具を一式、携えてきた。

 玄龍と蘭は、並んで一枚の紙を覗き込みながら、すぐに没頭した。


 継ぎ足すのも忘れていた火鉢の炭は、すっかり白くなっていた。

 窓の外は、明けかかっている。

 寒い。

 しかし、そんなことはどうでもいいくらい、蘭の頭は冴え渡っていた。

 大の字になって大いびきをかいている玄龍を見下ろしながら、なんともいえず、甘いような、気持ちになった。

 はっと我に返り、押し入れの戸に手をかけたが、思い直した。

 静かに二階に上がり、自分のかけ布団を胸に抱え込んだ。

 そっと降り、玄龍の身体に、やさしくかけてやった。

(香川幻龍さま……なんという不思議な男だろう)

 かたわらには、大きな図面が広がっている。

 二人がかりでの一晩の成果だと思うと、胸が高鳴るような気がする。

 音を立てないように静かに畳み、懐に、しっかりと納めた。

 そして、どれくらいの間だろう、蘭は、玄龍の寝顔を見下ろしていた。

 いつまでも見飽きない、と思った。

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