第三話 蘭と紫霧

 着いて来たがるタケによく言い含めて、この日、蘭は家を出た。

 若い娘一人を家に置いておくのも心配なので、坂の下の茶店のばあさんによく頼み、家にいてもらうことにしてあった。

 舟の仕立てにも、ぬかりはない。

 この日、蘭は、深川の森下町に、玄龍を訪ねようと、思い立ったのだ。

 本来ならば、あらかじめ、文のひとつも送っておくのが礼儀なのだろうが、なにせ、詳しい居所の、あてがない。

 噂に聞けば、森下と言っても、かなり散っている町だと言うではないか。

 そんなとき、ともかく飛び込んでしまうのが、蘭なのだ。

(行っても判らなければ、戻ってくればいいだけのことだもの)と心を決め、昨日のうちに白山まで足を伸ばして買いもとめた干菓子の包みだけを抱えて、船着き場に下りた。

 なじみの船頭の佐助が、軽くもやった舟の上で、刺し子を着た身体をじぶんで抱きすくめながら流れに揺られていた。蘭の姿を見つけると、鉢巻きに手をやりながらぱっと立ち上がり、舟を一漕ぎ、桟橋に寄せ、手を貸してくれた。

「今日は深川へと聞いてやすが」

「そうよ」

「下る一方なんで、あっていう間にも、着いてしめえやすよ。まあ、蘭堂先生は、うとうとしてておくんなせい」

「まあ。いやなことを言う」

「へへへ」と、佐助は竿を土手にひと突きして、舟を流れに入れながら。「ときに、深川は、どのへんで?」

「じつはあたしも、よくわからないのよ」

「へっ?」

「森下という町」

「ああ。ようく知っているところでござんすよ」

「それは頼りになるわね」

 うららかというにはほど遠いが、それでも風は弱く、日も射してくる。

 どこかから、午時を知らせる鐘が聞こえた。

 やっぱり、蘭はうとうとしてしまった。

 まぶたの裏に、あの、赤白だんだらの服を着て、白塗りの顔に大昔の武者みたいな髷を押っ立てた、玄龍の姿が浮かぶ。

 あの日、ひと通りの治療が終わった後、あの汚いガマのような菊池長兵衛と若い同心との一悶着に気を取られ、タケの帯を直してやっているうちに、いつの間にか、あの男は、猪のようなおやじと、猿のような若僧とともに、姿を消していた。

《深川森下の香川幻龍》というのだけが、手がかりだ。

 いま思えば、あの、十蔵とやらいう若同心を、ちょっと呼び止めればよかったと悔やまれるが、刀にまで手をかけ、引きつった顔で長兵衛を睨み付けていた顔色を見ては、気やすく声をかけるわけにもいかなかった。

 そんなことを考えながら、首がことんと倒れてしまったとき、佐助が、ちょっと遠慮がちに、

「両国橋を、くぐりましたぜ」と言った。

「このへんなの?」

「向こう岸に寄せて、堅川てえ堀を進んで、そっから漕いでいった先が、森下です」

「詳しいんだね」

「まあ、舟の者にとっちゃ、このあたり、みんな地元みたいなもんですからね。ときに蘭堂先生、さしつかえがなけりゃあ、ですが、どちらの宅をお訪ねになりたいんで?」

「《香川玄龍》という、お医者様なのよ」

「へえぇ? 玄龍先生?」

「おまえさん、知ってるのかい?」

「知ってるもなにも。よーく知っていまさ」

「そんなに有名な方なの」

「いや、あれを、有名って言うのかなあ。いや、おれっちも、悪口なんかは言えねえほど、世話にはなってる」

「どういうことなのさ。はっきり言いなさいよ」

「あの先生は、森下ってよりも、深川で……ってこたあ、江戸でいちばんの、貧乏医者でさあ」

「貧乏なの?」

「てか、変わりもんでさ。その日暮らしの貧乏は、川をあっちへ渡りゃ、どいつも同じだが、その日暮らしのお医者なんて、聞かねえもの」

「その日暮らし?」

 という蘭の問いには答えず、佐助はにわかに艪を漕ぐ腕に力を入れた。

「よーし、わかりやした。こっからは、おれっちにまかせてください」

 堅川とやらいう堀の入り口に、巧みに舟を寄せた佐助は、艪を離して竿に持ちかえ、なんだか嬉々として、舟を進めた。

(深川でいちばん貧乏な、その日暮らしの医者……)と、蘭は思う。

「さ、次の細い堀を右へと折れやす。ふつう、舟は抜けないところなんだけど、思いっきり頭を屈めてくださいませんかね。おれっちもそうするから」と言うなり佐助は舟の向きを変え、竿を引き上げて船底に身を屈めた。蘭もそれにならう。

 たしかに、身を起こしていれば頭をぶつけそうなほど小さな橋をくぐり抜ける。

「すぐに、もう一個ありますぜ。お気をつけなすって。つっても、これきりでさ」

 二人して、船底に這いつくばるようにしているうちに、舟はなりゆきで流れ、もう一つの橋をくぐった。

 蘭がやっと頭を上げると、左右は石組みをされた土手。

 冬枯れた柳が立ち並んでいる。

 佐助は棹さして舟を停め、

「玄龍先生の診療所は、この上ですぜ」

「この石垣を、上がるの?」

「いや、それは、おれっちが蘭堂先生のおいどを押し上げたって、無理でさ」と言うなり佐助は、よく通る声で上に向かって、「玄龍先生に、お客様だぜ!」と呼ばわった。「岩吉のおやっさんは、いねえのかよーう!」

 堀の底に竿を突き立てたまま佐助は、蘭を見て、にっこりする。

 やがて、土手の上に現れたのは、あの、太鼓を叩いていた猿のような、そう、政次とかいう若者だ。

「なんでえ、佐助のにいさんかよっ」

「なんでえはねえだろう。おまえこそ、なんでえ。とにかく、早くしろよっ」

 蘭には、何を早くするのか、わからない。

 と、長い梯子が突き出された。

 舟と石垣の間に、下ろされる。

「汚い手だけど、えへへ」と、土手の上から政次が手を伸ばす。

 蘭は菓子包みを胸に抱え、その手をしっかりと、握った。

 梯子を踏みしめて上って見ると、一間あるかないかの、狭い路地。

 表の路に面しているとは言うものの、間口の狭い八百屋と、何を商っているのだかわからない店に挟まれて、それでもいちおうは門構えには、

『玄龍診療所』と、粗末ながらも看板が上がっている。

「ささ、どうぞ」いう政次に促されて入ってみて、蘭は驚いた。

 門は門でも、前庭など、ない。

 一尺にも足りない敷石が三つ、重なり合うようにあって、すぐに、家だ。

「岩吉っつあ?ん、患者さんだよ?う!」と、政次が、そんな要は、決してないほどの大きな声を挙げた。


 奥の《裏庭》にいた岩吉は、表の騒々しさに気づき、その丸っこい身体では、抜けるのもきついほどの、八百屋の壁との急いで出て来た。

 さてはまた、例によってのお礼のお客かと思ったが、《前庭》に佇んでいるしゅっとした女には、見覚えがある。

「岩吉さんね」と、先に呼びかけたのは、蘭だ。「あたしを、覚えていますか?」

「ええ、ええ」と岩吉が答えるのに割り込んで、政次が、

「あっ、あ?っ! あの時、おいらに水を飲ませてくれた、あのご新造さんじぇねえかっ!」と、すっとんきょうな声を出す。

「そうよ。あんたは、政次さんね」

(あああ、こいつはいつだって、おっちょこちょいだ……)と、眉をしかめながら、岩吉は少し、固い気持ちになった。(この女の、正体は、知らねえ……)

「ね、岩吉さん、政次さん、玄龍先生はいらっしゃるのですか?」

「へいっ、いますぜっ!」と、にこにこ顔で答える政次を横目で見ながら、岩吉は、

「いらっしゃるには、いらっしゃるのですが、お勉強中かもしれません」と言う。

 とはいえなんの、さっき、猫の額ほどの《裏庭》を掃いていたとき、玄龍が二畳の勉強部屋で、大いびきをかいて昼寝していたのを、障子の破れ目から、見たばかり。

「お忙しいのかしらね」という蘭に、

「いま、あっしが聞いてめえりやす」と、岩吉は敢えて、もと来た狭い通路から、裏へ回った。

「せんせい……玄龍先生」と、呼ばわってみる。「お目覚めになってください」

 と、ごーっと鳴っていた鼾がぴたりと止まり、

「なんだい。私は起きてるよ」と、何食わぬ声の玄龍。

「表に、お客が来ておりやす」

「ん。そっか。お通ししてください」と、玄龍は、やっと、身を起こす。

「それが、先生、その客というのが、あの日、蝙蝠座にいた、あの女なのです」

「あ?。あの、よく働いてくれた人だな?」

「お通ししても、よろしいので?」

「うん、もちろんだともさ」

 玄龍が、まるで屈託なくそういうのは、岩吉にも判っていた。

 しかしなにせ、あの女は、蝙蝠座にいた、もしかすると女房かもしれない女なのだ。

 ともあれ、岩吉はその丸っこい身体を再び表に運び、

「先生は、お時間を取れるようでやす」と言いつつ、戸を開けた。


 軽く斜めに身を屈めながら、蘭は中へ入る。

 けっして広いとは言えない土間に、蘭が立ち尽くしていると、板の間の向こうに、玄龍が現れた。

「ようこそ、ようこそ」と言っている表情は、表から入ったばかりの蘭には、暗くてよく見えない。だが、その顔に、あの快活な笑いが浮かんでいるだろうことは、声で、判る。

「あらかじめのしらせもなく、きゅうにおとなって、あいすみません」

「ごらんの通りの、粗末なところですが、どうぞお上がりください」と言いかけた玄龍が、「ああっ!」と言ったので、蘭は、はっとした。

「何か……」

「いや、ついさっきまで、子供達がいたもんですからね」

「子供……」

「手習いに来ている近在の子らなんですが、なんせ、足が汚い。お召し物が汚れては困ります」

 と、そこへ政次が、

「せんせい! おいらさっき、ぞうきんをかけたぜ」と、不平そうに言う。

「いいえ、あたくしは、汚れてかまうような着物を着てはおりませんのですよ」と言うなり蘭は、草履を脱いで、板の間に上がった。

 どうしてだか、むしろ、泥でもなんでもついたほうが楽しいような、そんな気がしてくる。

 あらためて座り直し、手を突いた。

 玄龍も向き合う。

「あたくしは、小日向の蘭と申すものでございます」

「お蘭どのか。あの日のお働きには、感服しました。私は、香川幻龍と申す」

「お目にかかるのは、これで二度目……いや、じつを言うと、三度目なのでございます」と言いながら、伏せていた目を挙げると、玄龍は、

「はてな」と、目を丸くして、あごに手をやった。

 その様子が、

(なんともいえず、いいな)と、蘭は、思う。

 軽い菓子箱を差し出し、

「つまらないものですが」と、言う。

「やあ、かたじけない」と玄龍は頭を下げ、「岩吉さん、お土産をいただいたよ。子供達の口がまた肥えてしまうといけないから、隠しておいてください」と笑っている。

「へい」と、岩吉は板の間に上がり、菓子箱を押し戴く。

 蘭には、少しだけ、ピンとくるものがあった。

 先ほどから、少しばかりケンのある目で自分を見ていた岩吉に、玄龍があえて、それが《ほんとに軽い、ただの菓子箱》であることを、知らせようとしているように思えたのだ。

(あたしの、よけいな邪推だろうか)

 そんな蘭の思いにかぶせるように、玄龍は、

「おい政次よ、いま、何刻だ?」

「へい、さっき鳴ったのが、八つの鐘だよ。先生、聞いてなかったのですかい?」

「いやいや。聞いていたけど、数え忘れたのさ。じゃ、もうそろそろ申刻ということだな……」

「不意におじゃまをいたしまして、たいへんご無礼なことでございました」と、蘭が、今さらながら少しばかり、悔いかけたところへ、

「いやいや、無礼なんてことはありませんから、お気に召されるな。ところでどうでしょう、八ツ刻をすぎたお茶もつまらない。お蘭どのに差し支えなければ、一杯やりませんか」

「まあ。でも、療養所に、急患があったら、どうされるのですか」

「いやなに、急患なんていうものは、めったに、ないのです。急な面倒ごとは、いつもですが、ね」と言いながら、玄龍は岩吉を見て、笑う。「岩吉っつあん、お酒のしたくを頼むよ。政次は包丁が上手なのだから、肴をな」

 言いながら玄龍は立ち上がり、奥の廊下へ、手を差しのべている。

(この療養所の奥に、玄龍さんのお部屋が、あるのね)と、蘭はにわかに、ワクワクする思いだ。


 玄龍は、二畳の勉強部屋に、蘭を通した。

 火鉢の向こうのギリギリの隙間に座布団を敷いてやる。

 蘭は、そこへ、きれいに納まる。

 あたりをきょろきょろすることもなく、畳んだ膝の上に手を揃え、火鉢のふちあたりを眺めている。

(元からしつけのいい、女なのだな)と玄龍は思う。

 そして、それとは矛盾することもなく、玄龍は、

(この女、相当な格の花魁、おそらくは太夫だったに違いない)とも悟った。

 玄龍は、医者という仕事柄、郭に入ることはしばしばである。

 が、客として上楼したことは、ない。

 問われてさっと返せるような理由もないのだが、結果、そうである。

(ただし……)と、玄龍は、思う。(私は、どれだけ多くの遊女を見てきただろう……)

 長崎は丸山、京都は島原、そして言うまでもなく、江戸では吉原。

 そんな公許の郭の女たちはまだしも、それよりずっと多く、数え切れないほど多くの、岡場所役人の言葉で言えば《隠れ売女》たちを、見てきただろう。

 からだはともかく、心まで、まるで壊れてしまった女も、多かった。

 いや、むしろ、心を壊してしまった女たちを目の前にしたとき、玄龍は、自分が学び、究めてきたつもりの医術の限界を感じ、歯を食いしばったものだ。

『好きで売り物になる女など、いない』というのが、玄龍の見てきたことだった。

(そのてん……)と、玄龍は思う。(目の前の、この女は、どうだ。立ち居振る舞いもよく、堂々としていて、どこか奥ゆかしい。そして何より、あの蝙蝠座での一件のさいの働きは、今も目に新しい。よほど恵まれているのか……)

 そう思うと、玄龍の顔は、なんとも優しいものになる。

 いつの間にか、火鉢の縁から視線を挙げていた蘭と、思いがけず目が合った。

 たじろぎそうにもなったが、にっこりと笑って見せる。

「酒が、遅いですな」

「いいえ。こちらのお部屋には、たった今お通しされたばかりですわ」

「ああ、そうでしたかね……」

 そう答える玄龍の頭の中では、あまりにも多くのことが、いっしゅんに駆け巡っていたのだ。


 酒が、来た。

 四合ばかりも入ろうかという大きな鉄瓶を捧げ持った岩吉が、それをいちど敷居の脇に置いて、炭を熾してくれた。

 敷から取り上げた湯呑みほどもある杯を、その太い指で二人それぞれに差し出すと、火鉢の五徳の上に鉄瓶を載せ、

「……先生は、熱いのがお好きなので、こうです」と、蘭に向かって、言った。

 蘭が袂を抑え、鉄瓶のつるに手を伸ばそうとするのへ、玄龍が、

「いや、まずはお客様から。さあ……」

「では、お言葉に甘えまして」と蘭は杯を差し出した。

 なみなみと注いでくれた玄龍は、にこにこしている。

「地回りの、いわゆる、くだらぬ酒だが、こうして熱くして飲むとね……」

 蘭はそっと口をつけ、

「いいお味でございます」

 ほんとうにうまいと思った。

 蘭も、タケに命じて、寝酒に一本つけさせることはあったが、たしかに値段ばかりは高いものの、どうにも腰がなく、歯切れのよくない味。

 それにひきかえ、番茶のように熱いこの酒から立ち上る力強い香りと、辛口ぐあいはどうだ。

 はしたないとは思ったが、思わず二口まで含んでから、杯を置いた。

「では。先生にも」

「かたじけない」

 医者にしてはすこし骨張りすぎているような指の長い手で、玄龍は杯をわしづかみにしている。

 蘭も、なみなみ注いでやった。

 肘を張り、くっと傾ける姿と、ぐっと動くその喉仏に、蘭の目は奪われる。

 しばらくそうして、言葉も少なく飲んでいたが、蘭には話があったのだ。

「蝙蝠座さんの件なのでございます」

「うん。あの日の怪我人たちも、おおぜいここを訪ね当ててこられましたが、みな順調なようです」

「そうでしたか。それはよござんした」

「お蘭どのの機敏なお働きに、感謝しています」

 玄龍はかたわらに杯を置くと、すっとお辞儀をした。

「あたくしは、あのお芝居に、責めがあるのです」

「ほう。と、申されるのは」

「蝙蝠座の座元、菊池長兵衛さんのことはご存じでしょう」

「うん。あの日、最後に現れた、そう、ガマのような顔の男ですな」

「もう一年にもなりましょうか、あたくしはあの菊池に乞われて、舞台狂言を書いているのでございます」

 と、そこへ、政次が現れた。

「つまみをお持ちしやしたよ。塩納豆ぽりぽりと小松菜しゃくしゃくの漬物。いま、竈で、鮪のブツを炙っておりやすんで、そっちはもう少々お待ちねがいやす」

 玄龍は政次に向かってうなずいてから、蘭に向き直った。

「お蘭どの。ありていに聞くが、その芝居の中に、煙玉が破裂するケレンがあったと申されるのですか」

「いいえ、決して。あんなことは、あたくしは書いておりません」

「そうですか……」

 と、考え込むようなその仕草を見て、蘭は、玄龍に、すべてを聞いてもらいたい気持ちになった。

「玄龍さま。すこし長いはなしになるのを、お許しくださいますか」

「お蘭どの。差し支えがなければ、私はその、長い話を聞きたいと思っていたところです」


 蘭は、話し出した。

 わけあって吉原にいた自分が、やがてある大見世で太夫を張るようになったこと。

 そこに馴染みになったのが、蔵前の札差、漆屋益兵衛という、初老のお大尽。

 間も置かずに身請けされ、小日向にこぢんまりとした家を構えてもらったのが三年あまり前のことだったが、元から抱えていた心ノ臓の病で、ぽっくりと逝ってしまった。

 月々のかかりは、漆屋の二代目が、遅れることもなく届けてくれる。

 そのうえ、

『いざとなったらこれを出せば、いくらでも用立てさせる』という書状も、漆屋は遺しておいてくれた。

「おかげさまで、妹分のタケと二人、派手なこともなく、暮らしていたのですが、妙なことがありましたのが、一年前、ちょうどいまくらいの時分でしょうか……」

 浅草の菊池長兵衛と名乗る男が、手代を連れて現れ、言うことには、

「お蘭さんのお書きになっているという戯作を、そろそろ頂戴したい」

 これは面妖なことだった。

 たしかに漆屋が亡くなる前から、手慰みに短い戯作を書いてはいた。

 漆屋が喜んでくれる顔を見たさに、いくつも書いた。

「なんのいわれで、それを菊池様にお渡ししなければならないの?」と言った蘭に、菊池は、待っていましたとばかり、半紙一枚ほどの、証文めいたものを取り出す。

「これは、漆屋の旦那様が、てまえに下さった証文ですよ。ほれ、ここにあるとおり、お名前と花押が……」

 差し出された証文を一瞥すると、

『金十両のかたに、小日向の蘭の作を、菊池長兵衛に渡す』とある。

 蘭は笑った。

「どうしてうちの旦那様が、十両ぽっちの金で、おまえ様にこんな証文なんて出すはずがありますか」

「そこはそれ、博打場でのお戯れでもあったのでしょう。胴元からは、いくらでも回してもらえるはずではありましたろうが、どういうわけだか、この菊池の目の前の金を欲しがられましてね。そこで一筆……」

 まるで筋の通らない話だとは思ったが、そんな男がいつまでも座敷にいるのもいやだ。

 蘭は、

「わかりました。ではその十両、ここできっぱり払いますから、これきりにしてくださいな」

「おっと待った。日付を見て下さい。あれから、およそ二年と半年ばかり。しかるべき利息がついております」

「利息をつけて、いくら欲しいの」

「いやあ、金のことなら、漆屋さんに伺った方が話が早いんで。てまえどもがここまで運んだのは、どうしても、お蘭さんの書いたものが欲しいからなんです」と、しつこく食い下がる。

 蘭は、根負けしたわけでもなかったが、とにかくそのガマのような顔と声に閉口して、手稿を渡すことにした。

「ただし、いまここにはありませんよ。明日にでも、お使いをよこしてください」と、言った

 それから蘭は、漆屋の存命中に書いていた短いものをかき集めた。

 ただし、その後少しずつ書き進めていたものは、別にした。

 翌日やってきた小僧が持ち帰った戯作は、誰の手になるものか、なかなかたくみな絵を添えられた黄表紙となり、

『栄華艶柿屋道行唐ノ蘭』などと言う名前で摺られ、江戸ではずいぶん売れたと聞く。


「と言うような次第でございます」

 話し終わった蘭に、玄龍は、熱い酒を注いでやった。

「なるほど、そういうことでありましたか」と答えながら、玄龍は腑に落ちないものも、感じる。

 どうやらそれを、蘭も感じ取っている。

「玄龍さまは、何か考えてらっしゃいますわね」

「うん」

「おっしゃってくださいな」

「それだけいやな男と、どうして今でも組んでいるのかと、さ」

 蘭は、玄龍の目を見た。

「欲でございます」

「欲ですと?」

「ちょっと出かけた際に、あたしもその黄表紙を一冊買いもとめてみたのです。うぬぼれと笑っていただきたいのだけれど、それが、とっても、おもしろかったのよ」

「なるほど」

「あたしは、往来で、笑ってしまいました。笑いながら、涙がでた」

「涙が出るほど、おかしかったのですな」

「いいえ、そうではないの。そこには、まだ郭にいたときのあたしや、旦那の椀飯振る舞いの大騒ぎや、引けて二人になって話したことや、あれやこれやが、滑稽なんだけど……懐かしく懐かしく書かれていてね……それで……」

 言いながら、蘭は曲げた指で目頭を抑えた。

「酔われましたか」

「いいえ。ちょっと炭の粉が上がっただけ」

「これは失礼。どれ、診ましょうか」

 と、玄龍が前屈みになった、そこへ、湯気を上げている鮪のブツを串に刺して焼いたものを、政次が運んできた。

「お待たせしやした……。あっ、先生! 女の人を泣かしちゃいけねえよう」

「馬鹿者っ! そこに置いて、すぐ出て行きなさい」

「そこったって、場所がねえや」

「じゃあ、私があずかる。よこせ」

「お熱いうちにどうぞ。へへへ」

「まったく、あいつは……」とつぶやきながら、玄龍は鮪の皿を捧げて、「一本食いますか」と蘭へ。

「いいえ、今は」

「では」と身をひねり、背後の小さな机の上に置く。「それほどの筆力がおありなら、ほかに版元がいくつでもありそうなものですが」

「そこが、世間知らずというやつなのよ。なにせ、郭でのことしか知らないものだから、耳年増にはなるけれど」

(そうなのだ……)と玄龍は思う。(遊び女(め)たちは、なにもものを知らない。幼いときに売られてきてから見世に閉じ込められ、ほとんどが、そこでその一生を終わる。身請けされて商人の妾や職人の女房になったものは、よほど運がいい。げんにこのお蘭という女も、侍の家で、文武の習い事をある程度には修めてはいても、それでこそ、分のいい版元を探すなどは、思いつきもしなかったろう)

 暗くなりそうな気持ちをふるって、玄龍は、

「武士の商法、ですな」と、言った。

「武士の?」

「お蘭どのには、金の欲があったわけではない。ただ、面白いものが書けるなら、それを人に見聞きさせたくなるのは、自明のことではありませんか。なんの、蝙蝠座に芝居を書いてやったって、上等なものではありませんか。書いて書きまくればいいですよ」

「そういう玄龍どのは」

「私ですか? 私は、う?ん……実は、ここだけの話ですが、江戸でいちばんの貧乏医者と呼ばれているようです」

 蘭は、ぷっと吹き出した。

「それね、船頭さんが、そう言ってました」

「ええっ? どの船頭だろう。丁次かな、それとも寅のやつか……。ま、いい。みんながそう言っているのでしょう」

 二人、声を合わせて、笑った。

「あたしが、お目もじするのが三回目だと申し上げたの、お分かりになりまして?」

「ああ、そうでした。何のなぞなぞだろうと思ったが」

「奥山……」

「あ!」と玄龍は額を抑える。「見られておりましたか」

「見るどころではなく、買いましたもの」

「おお、これはこれは。で、どうです、試しましたか?」

「あたしは、まだ。でも、妹分のタケが、大事に大事に使っているようです。でも、ああして、一つ買うと一つ下さるなんて、あれは武士の商法ではないのかしらね」

「掛け値をしていないもので、たしかにあれでは武士の商法。岩吉によく、叱られております」と、銚子に手を伸ばしたが、もうずいぶん軽い。

「お酒なら、あたしはもう、じゅうぶんでございます。それよりその、政次さんの鮪というのを食べてみたいわ」と、玄龍の背後を見る。

 玄龍は背中に手を回して串の皿を手に取ると、蘭に一本渡し、自分も手に取った。

 医者の目から見ても健康そうな、蘭の小粒な歯が、鮪にかじりつく。

(屈託のない、素直な人だな)と良い気持ちになり、玄龍も、食う。

「ときに、お蘭どの、次の演し物は」

「もう止めようと思っているのです」

「なぜゆえ」

「先ほど申し上げた通りですわ」

「それはもったいない。ぜひおやりになるべきですな」

 蘭が黙っているのは、考えているのか、それとも鮪を噛みしめているのか。

「玄龍さまがそうおっしゃってくれたから、書こうかしら」

「ぜひそうされよ。して、題名は」

「……『いろは和歌集十人備南』というのよ」

「十人の美男若衆が舞台を埋めるわけですな。こりゃいい、ハハハ」

 怒ったわけでもあるまいが、蘭はうつむいて、鮪を齧っている。


 政次が仕立てた舟が、診療所の前で待っていた。

「思いがけずたいへんなご馳走になりました。やがて小日向にも、お運び下さい」と、蘭は丁寧に礼をいった。

「何のもてなしもできませんでしたが、お蘭どのも、ぜひ気楽に、またいつでも」

 玄龍はその大きな手で蘭の手をしっかりと握り、舟への梯子を下りるのを助けてくれた。

「では、失礼いたします」

「お蘭どの」と、玄龍は少し声を潜めたようだった。「蝙蝠座には、少々貸しがあるのでね、私は近々、顔を出してきますよ。……ではお気をつけて」

 蘭はうなずいた。


 もう暗い。

 竿を突く船頭は、一仕事してきたものか、まさかあそこにじっとしてわけもなかろうが、また佐助だった。

「おやまあ、また佐助かい」

「おやまあ、とはご挨拶でさ。で、どうでした? 百聞は一見にしかず、って、そうとうな貧乏っぷりでしたかい?」

「何を言うの。美味しいお酒と肴で、豪儀なおもてなしをしていただきましたよ」

「へぇ……」


 療養所の板の間では、暗い灯りを頼りに、岩吉がまた、《麗ノ粉》の包み紙に印判を捺すのに余念がない。

 そこへ玄龍が、銚子を下げて現れ、

「岩吉っつあん」

「あ、先生。お酒ですね」

「いや、飲み残しが、一合足らずだけど、あるからさ、一杯ずつだけ、やろうよ」

「へい」と言いながら岩吉は、内職仕事を素早く片付ける。

 玄龍はみずから立って土間へ下り、岩吉のためのぐい飲みを持ってくる。

 板の間にあぐらをかき、岩吉になみなみ注いでくれる。

 玄龍は水から手酌で、少し。

「岩吉さんが板橋から戻ってから、ろくにねぎらってもいなかったね」

「いいえ、とんでもねえ。いや、そのことですが、先生。あっしはとんだ思い違いをしておりやした」

「と言うと?」

「今日のあの女、いや、女の人が来たとき、俺ぁてっきり、蝙蝠座の女房が、口止めかなんかを持ってきたのだと、邪推したのです」

「用心深いのいいことさ」

「いや、それだけじゃねえんで。菊池長兵衛が板橋で鳴らしていたってえ頃の、情婦(いろ)かなんかだったのかとさえ」

「だけど、考えが、変わったってわけか」

「おおむね、聞かせていただきました」

「庭は寒かったろう」

「そんなこたあ、どうでもいいんで。あの方は、うぶな人でございますね」

「そうなのさ。どんなに運がよかったというのを差し引いても、苦界上がりで、あんなに身も心もきれいないひとは、珍しい」

 酒が切れた。

「ごちそうさまでございました」

「もうちょっとばかり、冷やでやるかい?」

「いえ、あっしは……。でも、先生が召し上がりたいなら」

「うん、私もじゅうぶんだが、岩吉っつあんが、やりたいなら」

「どうします」

「どうしようか」

 二人は顔を見合わせて笑った。

 こんなとき、岩吉は、心の底から、楽しい。


 両国広小路に店を構える『黒船屋』と言えば、今や江戸でも随一の化粧店(けしょうだな)だ。

 白粉や紅、いい匂いの鬢付け油はもちろん、櫛や簪、袋物などで、揃わないものは、ない。

 ただしその値段を聞いて、いなか者は思わず身を縮めてしまう。

 それくらい、高いのだ。

 だが、やっとの思いで懐紙ひと包みでも買うことができれば、これは嬉しい。

 品物の値段に関わらず、真っ黒に近い江戸紺の地が雲母摺りかなにかできらきら光る包み紙に、丁寧に包んでもらえる。

 黒船屋の包みを抱いて町を歩けば、老いも若きも、男も女も、一日中、鼻高々の、良い気持ちでいられる。

 そんな黒船屋の紋を染め抜いた揃いの紋付きを着た若い衆が七人ほど、女主人の紫霧しむはべっていた。

 部屋の灯りが少しでも暗くなると、機嫌が悪くなる紫霧のこと、そうならないようにと気を配り続けるのが、油の役。

 それから順に、煙管を詰めるもの。酒を注ぐもの。台の物を長い箸で紫霧の口もとに運ぶもの。細い竿の三味線を器用にならすもの。羽織の袖をつっぱらかせて、奴のように踊るもの。そして、いちばん紫霧に近いのが、おはなし役だ。

 小咄めいたものを、囁いたり、求められれば、昔話だって問い聞かせる。

 いつもはぞろりと肩肘をついている春海老がいないので、めいめいが、やっきになって、紫霧の機嫌を取っている。

 が、紫霧の視点は、どことなく、遠い。

 そこに何の仕掛けがあるわけでもないのに、間仕切りのあたりをじっと見たまま、笑いもしない。

 もっとも、いつものように気まぐれに怒り出される方がよほど面倒なので、誰もがかいがいしく働いている。

 紫霧はそんな若衆の動きを目の端で追いながら、やはり一点を見つめている。

 初めはぼーっとしているようだったその目が、やがて何か、らんらんとした光を帯び始めた。

 紫霧は、思い出しているのである。


 飛騨の山中で、紫霧の親父は炭を焼いたり、藁を編んでは、ちょっとした細工物をこしらえたりしていた。

 田畑などはあるはずもなく、家の裏で、わずかな青物と、痩せた芋が取れるだけ。

 両親と三人きょうだいで住む家も、家と言うのにも恥ずかしいような小屋だったが、紫霧はそれを、あたりまえとだと思って育った。

 何の不足を感じたこともない。

(そういえば、にいちゃんは、蛇を捕るのがうまかったね)

 大きいのを捕まえれば、家族大喜びで、ぶつ切りを鍋にぶち込んで、食った。

 ある時、やっと少しまとまった炭や玩具を背負って、親父が里へ下りていった。

 きょうだいで、わくわくしていた。

 親父が里へ下りると、四五日もたたないうちに、わずかの味噌や穀物、梨やみかんなど、山の中では見ることのできない水菓子を背負って帰ってくる。

 中でも紫霧が好きだったのは、匂い袋だった。

 可愛らしい小さな袋の口が、きれいな紐で結わえられていて、嗅ぐと、何とも言えない、いい匂いがした。

 中を開けて見たいと思ったが、親父は、

「そんなことをしたら匂いが逃げてしまうぞ」と、笑ったもんだっけ。

 その時のことは忘れもしない。

 いつもより、少し長旅だなあとみんなが心配になりかけてたところに、ひょっこりと親父が戻ってきた。

 親父は、ひとりではなかった。

 旅支度とはいえ、幼い目にはずいぶんと立派な着物を着た男が、表情の無い目でひょいと腰を屈めた。

 親父の帰りを待ちかねて、家の前に並んでいたきょうだいを、ねめ回すような目で見てから、荷を下ろし、紫霧に渡してくれたのが、棒のついた飴だった。

「おまえら、そこらで遊んでこい。なに、みやげはたんとあるから心配すんな」

 紫霧に手渡された飴を、きょうだいがかわるがわるに舐めた。

 こんなにうまいものがあるのか、と思った。

 日暮れて家に戻ると、客の姿はなく、すでに囲炉裏では鍋が煮え、飯も炊いであった。

 親父が戻った日は、もちろんいつもごちそうだった。

 だがその日、家の中はどことなく、暗い。

 親父とおっかあで喧嘩でもしたのかなと思ったが、そんな様子でもない。

 飯が終わると、親父はきょうだいにみやげを配ってくれたが、とれとは別に、白い紙に包まれたものを、大切そうに取り出した。

 着物だった。

 見たこともない、赤くて綺麗な着物。

「おみつ、立ってごらん」とおっかあに言われて、言うとおりにしたが、まさかそれが自分のものになるとは、思われなかった。

 いつもより、ずっと明るく灯した油皿の下で、紫霧の母は、針仕事をした。

 明け方、夜なべ仕事を終えたおっかあが、紫霧の夜具に潜り込んできた。

 紫霧のからだをぎゅーっと強く抱きしめた。

 その朝、男はまたやってきた。

 今にして思えば、桂庵どころではない、ただの人買いだ。

 紫霧の手を握ると、

「では、行ってきます」と、愛想もなく、家族に言った。

 泣きわめきもしなかったし、怖いとも思わなかった。

 ただ、もしかしたらこの山には、帰って来られないのかもしれないと、思った。

(そこまでは、ありがちな話さね)と紫霧は思い出す。(あれから……さ)

 山を下りたとき九つだった紫霧が、板橋に売られたのは十二の歳だった。

 飛騨でも人に言われぬ苦労をしたが、江戸に向かって行けることが、なんだか嬉しい気持ちだった。

 中山道は峠だらけの道で険しかったが、それでも時々、胸がすーっとするような景色にも出会えた。

 長旅の後で、最後に桂庵が、

「着いたぜ」と示したのが、大きな伎楼の立ち並ぶ一角。

 へえっと目を丸くしていると、桂庵はその家の間をするりと抜けて、路地の奥へといざなった。

 表の見世のような看板は無く、瓦から壁まで真っ黒に塗られた、なんだか気味の悪い家。

「なんていうお店なのですか」

「名前なんかは、ないのさ。もっとも俺たちの商売では、《虫ノ家(むしのや)》と呼んでるがな。さあ、こっちだ」

 引き合わされたのは、立て膝で、太い喧嘩煙管をくわえた男だった。

(ガマだ……)と、紫霧は思った。

「へえ。なかなかのタマじゃねえか。表見世でも売れるくらいだ。ま、うちでどうつとまるかは、これあまた、別だけどな」とガマがいうのへ、桂庵は、

「そうでがしょう。それをこんな値で。元手がかかりやしたよ」

「俺は、欲しいものに出すだけだ。てめえの元手がいくらか、知ったことじゃねえ。どんなアマっこも、拐かしゃ、タダなんだからよ。やってみろや」

「ご冗談を」

「ま、また頼んだぜ」

 その夜、紫霧は、そのガマに手込めにされた。

 それもひどいやり方で。

 泣きながら女郎達の部屋に戻って、隅で小さくなっていると、女たちが口々に声をかけてくれた。

「どこから来たんだい?」「さぞ疲れたろう」「歳はいくつなんだい?」

 と、ありきたりの問いばかりだったが、紫霧は泣きじゃくりながら、答えた。

「可愛そうな子だよ……」と、悲しそうにつぶやいたのは、

(あれは蜻蛉(かげろう)の姐さんだったね)と紫霧は、思い出す。

 翌日からは地獄だった。

《虫ノ家》と呼ばれるその家は、表の見世では肩身の狭くなった遊び人や、ちっともモテなかった連中が、遠慮も会釈もなく上がり込んで来るのだ。

 連中は女たちを、人としてすら扱わなかった。

 叩いたりつねったり、熱くなった煙管の火皿を押しつけるなど、いつものこと。

 腰巻きまで取らされ、素っ裸で踊らされたり、そのまま逆立ちをさせられたり。

 しかし、それもまだまだ、序の口。

 しかし、もっとひどいことが、まかり通っていた。

 口にも出せないようなことをする、そんな下劣な男達の吹きだまりだった。

 紫霧はそれでも、どんなに言われても、《口にも出せないようなこと》を、男たちにはさせなかった。

「おまえらは虫なんだろう? あるじの《油蟇(あぶらがま)の長次》がそう言ったからには、そうに違いねえのによ。けったくそ悪いぜ! 別な女を呼んでこい。でないと帰るぜ」

 そんなときには、後で《油蟇》から、ひどい折檻を受けた。

 そんな頃だ、あの股旅者が現れたのは。

 明るく飲んで、よく笑う客だった。

 妙なことは決してしないし、優しい。

「おまえ、名前はなんてんだい」

「おみつ」

「自分の名前に《お》はちとヘンじゃねえか」と男は笑い、「そんなら俺の名は《お平三(へいざ)》だ。そりゃそうと、ほかの女たちは《黄金(こがね)だとか《蝶》だとか《稲子(いなご)》だなんてのまでいるのによ。さては新入りか」

 平三と名乗った股旅は、どこからどう金を工面してくるものか、よく通ってくれた。

 時おり見せる、素人とは思えない目の光に、まだ心を許せないではいたものの、紫霧はその男が付いてくれている間は、ひととき、かすかに、安らぐことができた。

 ある夜の寝物語で、平三は、

「おみつよ。おめえはあのガマ野郎を、嫌いだよな?」と言った。

 何かの罠かもしれないと、身構えた紫霧だったが、枕の上でうなずいた。

「俺もあの野郎のことは、我慢がならねえのさ。虫酸が走るってのは、よく言ったもんだ」と、平三は仰向けだった身体を起こして、紫霧の耳元に口を寄せ、「おめえ、逃げたくねえか?」

「逃げたいけれど、でも……」

「俺の話をよおく聞け。明後日の、明け六つより前だ。暁のころに、おめえはこの家を抜け出せ」

「どうやって」

「厠の壁に細工がしてある。おめえの力でも、とんと押せば向こうに倒れる。後は、塀伝いに逃げて、文殊院の寺の縁の下で、俺が行くまでじっとしてろ」

「そんなお寺、どこだかわからないよ」

「塀伝いに行くと、柳が植わった通りに出る。そこをとにかくまっすぐ行けばわかる」

「でも……」とためらう紫霧に、平三は、

「文殊院と言やあ、板橋の宿場女郎の、投げ込み寺だぜ。おまえ、ここで死ぬまでこき使われて、穴に投げ込まれたいか?」

(それだけは、いやだ)と紫霧は思った。

「逃げたい」

「ようし。とにかく俺の、言う通りにしろ。いいか、明日何があっても、どんな天気でも、とにかく俺の言う通りにしろ。へっ。お寺の下は、掃除しといてやるよ。なんなら握り飯くらい、置いておく。鼠に引かれてなきゃ、しばらくは辛抱できるさ」

「そんなに遅くなるの?」

「いや、そこは俺もちっと読めない。ただし、必ず行くことだけはたしかだ」

 その翌日、一騒ぎあった。

《油蟇の長次》が、すごい形相で女郎部屋へやってきて、ひとりひとりの顔を睨み付けている。

「おめえらに、何か隠し事があるやつがいるなら、今のうちに吐いちまった方が身のためだぜ」と言いながら、女たちのあご、順繰りに、を太い煙管で持ち上げていく。

 紫霧は、ガマのようなその顔を、キッと見つめ返した。

「何だ、その面あ!」と言うなり、頭を一発ガンとやられ、目から火が出たが、おもわず前にのめった。

(もう明日だ。明日の朝だ。何があったって……)

 暁、紫霧は厠へ立った。

 言われた通り、向こうの壁を押すが、何も起こらない。

 力を込めてもう一度押すが、駄目だ。

(やくざ者に、だまされただけだったのか……)と思いながら、まるで用でも足すような格好でしゃがみ込むと、目の前の桟とその下の羽目板の間から、明けかけた、外の光が、細く見えた。

 紫霧はその戸を、軽く押した。

 と、羽目板は音もなくすーっと向こうへ倒れ、地面が見えた。

 紫霧は夢中でそこをくぐり抜けた。

 久しぶりに吸う外の空気もそこそこに、言われた通りの道をたどり、文殊院の軒下にもぐりこんだ。

 何時間、隠れていただろう。

 いまごろ見世では、大騒ぎに違いない。

 しかし、女郎を追って投げ込み寺を探す奴もいないだろうと、平三も言っていた。

 夕刻から、激しい雨になった。

 心細い気持ちで待っているところに、灯りも持たず、忍んでやってくる男の、旅支度の脚が、見えた。

「おみつ。いるか」

「ここ」

「おう、よく辛抱したな。出てこいよ。さあ、これをかぶりな」と、蓑笠を渡された。「さあこっから、早足だぜ」

「あたしは山育ちだから、大丈夫」と言ったものの、野山を駆け回っていたのは、もう何年も前だ。

 真っ暗な宿場裏の道を、平三は夜目が効くのか、さっさと走っていく。

 追いつくので精一杯だった。

 細い川を渡り、少し行ったところで、平三は足を止めた。

「見ろよ、あれあ、縁切榎ってんだ。あそこをくぐると、どんな悪縁も、すっぱり切れると言うのさ。くぐろうか」

「いやだ」

「なんでだい」

「あたしはあんたについていくよ」

「ねんねみたいなことを言うんじゃねえぜ。おまえ、この宿場からも、あの稼業からも、縁を切りたくねえのかっ」

「でも……」

「なに、切れるのは悪縁だけと言うさ。俺たちにいいご縁があったら、またどっかで会えるよ」

 二人で手を繋いで、榎の下を通った。

「あんたは、どっちへ行くの」

「風の吹くままの根無し草だが、街道筋はしばらく歩けねえな」

「あたしは……」と、紫霧が言いかけた時、平三はさっと身を屈めた。

 どーんとものすごい勢いで、榎の裏の薮につっころばされた。

「隠れろ。いや、逃げろ。この裏の林を突っ切って行けよ。さあ!」

 言われるままに身を隠した。

 男の声がする。

 二人、いや、三人か。

「平三よう。よく会えたぜ。ま、街道には出られねえ、江戸には足を向けられないてめえが、こっちにくるのは、判ってたがな」

「おう。お互いにな」と言うのは平三の声。

「おとぼけは、よしにしようぜ。俺たちゃ一蓮托生なんだ。あのガマの大将も、毛穴じゅうから油をじりじり出しながら、ありったけの追っ手をかけてるだろうよ」

 と、別の声が、

「はじめっから、どこか調子のいい野郎だとは思っていたが、まさかな」

「まあとにかく、金をどこに移したのかだけ言えば、今回だけは許してやる。……どこだ」

「言いたくねえなあ」と、とぼける平三へ、

「だったら、こうだな!」と、抜き打ちの一太刀が浴びせられ、長ドスの柄に手をかけようとしていた平三の、その手首が落ちた。

 絶叫。

「ここらで大声だしても、野良犬が集まるだけだぜ。早く言え」

「なんだか、もっと、言いたくない気持ちなったぜ」と、喘ぎながら言う平三に、「この、どちんぴらめ!」と、もう一太刀が浴びせられた。

 それが、平三の断末魔の絶叫だったということが、紫霧にはわかった。

 なぜなら、その頭は、すでに胴を離れていたからだ。

 紫霧は、涙も出なかった。

 あれから、どこをどう歩いたものか。

 細い川の岸に、小舟がもやわれているのを見つけ、転げ込むように乗り込んだ。

 必死で綱を解いたところで、眠ってしまった。

 深い眠りだった。

 あれからのことは、不思議ななりゆきだ。

 野良仕事をしていた爺さんに拾われたのは、今思えば、王子権現のあたり。

 あったかい芋粥が、沁みた。

「いろいろあったんだべよなあ。おらあ、わけはなんも聞かねえんども、名前が無くっちゃあ、呼びづれえ」

「……《しむ》」

「そうか、《しむ》というのかい。ここでよけりゃ、いつまでだって、いるといいさ」

(虫けらの家の厠から這いずり出してきたあたしは、もう虫じゃない。《しむ》だ!)

 数ヶ月後には、飛鳥山の煮売り屋で、看板娘になっていた。

《お紫霧》目当てでやってくる客が引きも切らず、大繁盛になった。

 これまで見てきた女郎屋の客達にくらべ、遊山で訪れる人たちの、なんという明るさと、屈託のなさよ、と紫霧は思った。

 が、心の中にある、がんとしたものは、その笑顔とは裏腹に少しもほどけることはなかった。

 客のくれる祝儀や、煮売り屋の親父が、たまに機嫌取りにくれる粒銀を、一文二文と数えて、ちくちくと貯えた。

 そうしてあれから……。


 と、そこへ、取り巻きの若衆の一人が、

「春海老さんが、お越しになりました」と言ってきた。

 紫霧が「通せ」と言う前から我が物顔で入ってくる春海老。

 それを怖れるように、若衆達はそそくさと座敷を出ていく。

 最後になった、おはなし役を、

「おい」と呼び止めて、春海老は、「火鉢はあっても、ずいぶんお寒い座敷じゃねえか。紫霧どのを取りまいて、おめえたちは、いってえ何をしていたんだい。さ、早く酒でもつけてこい」と、伝法な口調で言いつけた。

 振り返り、にっと優しげな顔を作って、紫霧ににじり寄る。

「おまえこそ、何をしていたんだい」と、紫霧の機嫌はよくない。

「何をもあるものかい。仰せの通りの、仕込みの手はずさ」

「今度こそ、大丈夫なんだろうね」

「ああ、間違いねえよ。あっと驚き、血も凍る、大芝居さ。これで、あのガマの菊池もおしめえだ」

「あんたのすることは、ややこしくていけないよ」

「へえ、ややこしいと来たか。じゃあ、ややこしくねえと言ったら、何なんだい。腕のいい浪人でも雇って、辻でばっさりやってもらうかい」

「そうは言ってないさ」

「あいにく近頃は、その、腕の立つやつというのが少ないようでね。いや、もしもうまく行ったにしてもだ、あとへ障りがある」

「ひとつ。芝居小屋でのことならいざ知らず、道での殺しとなりゃ、奉行所の張り切りかたも違ってくる。ふたつ……」と春海老が言いかけた時、間仕切りの向こうでこほんと咳払いが聞こえた。

 若衆達が入ってきて膳を整え、素早く出ていく。」

「ふたつ目というのは、なんなんだい」

「金で買われて殺しをやるような浪人は、まあ、やさぐれものだ。そのくせ、根がしつこいと来ている。首尾良く行ったにしても、ゆすりだのたかりだの、あとの祟りが怖いってわけさ」

(根がしつこいやさぐれものだなんて、どの口が言うんだろう)と、紫霧は思う。

 春海老はそれを見透かしたように、もうひとつ、にじり寄る。

 注いだ酒を口に含み、紫霧の首を抱き寄せる。

 今日はとてもそんな気分じゃないと思いながら、こうされると紫霧は、弱いのだ。

 合わせた唇から、ぬるい酒が注ぎ込まれ、それを追うように、春海老の長い舌が、紫霧の口の中いっぱいをかきまわす。

 甘い息が漏れそうになったその時、紫霧ははっとして、思わず春海老を突きのけていた。

「どうした。むせたかい」

「……」

「どうしたって言うんだい、お紫霧……いや、紫霧」

 春海老の身体から、安白粉が、ぷんと、匂ったのである。

「あたしを誰だと思っているんだい」

「なんでえ、にわか雨かあ」

「馬鹿にするんじゃないよっ。これでもあたしは、黒船屋一代の女主人だ。それを、こともあろうに……」

「まあ、待ちなよ。何のことを言ってるのか、俺にはわからねえ」

「往来の四文屋の匂い袋みたいな、みょうちきりんな匂いをさせやがって」

「おっと、そこかあ……。なるほど、俺がどっか、悪ぃところで女郎蜘蛛にでも引っかかったとでもいいてえのかい」

「そうじゃなきゃ、なんなのさ」

 春海老はとぼけた顔で、そっぽを向いて、ちょろちょろと酒を注ぐ。

 時間稼ぎをするときの、この男の癖だ。

 よく、わかっている。

「なあ、紫霧……考えてもみちゃくれないか。俺ぁ、おまえの悲願を叶えようと、どれだけあちこち歩き回ったことか。そりゃあ往来の人混みもかき分けりゃ、へんてこな匂いをさせた女がしなを作ってくる、もっきり屋にだって行くってものさ」

「よく言うよっ」

「わかったわかった。そんだけこの海老ちゃんがあてにならねえと言うなら、それまでの話よ」と言いながら、意地汚くもう一杯注ぎ、「これで俺は、出ていくことにしよう」と、杯を空け、立ち上がってみせるようす。

「どこへ行くんだい」

「どこだっていいさ。それこそ、悪いところへ、刺さり込んだっていいし、な」

「雨だよ」

「黒船屋の女将の、時ならぬ、にわか雨かい」

「外が、さ」

「ああ。冷たいのが、ぽつぽつ来てたからな。それじゃあ、黒船の紋の入った傘の一本でも貸してくれやい。返しにはこられねえかも知れねえが、忘れ形見に、せいぜい大事にするさ」

 春海老は、出ていった。

 紫霧はしばらく脇息にもたれてぐったりしていたが、やがて身を起こし、

「誰かっ!」と言った。

 すぐに若衆が駆けつける。

「春海老を、追いかけてやっとくれ」

「お忘れ物か何かで」

「馬鹿だね! 呼び戻しすのに決まってるじゃないか!」と言いつけながら、

(馬鹿は、あたしだよ)と、紫霧は思った。

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